星花の祈祷師と月湖の妖精

ひゐ(宵々屋)

星花の祈祷師と月湖の妖精

 どうして『欠けた満月の湖』の妖精が一人で踊り続けているのか、知っているかい?

 彼女は、大切な人の志を守り続けているからなんだ。

 ……私は子供の頃に見たことがある。湖の上、月の光に照らされて一人寂しそうに、それでも幸せそうに夜空を見上げ踊る彼女を。

 ああ、けれども、あの湖に近付いてはいけないよ。

 夜空に連れていかれてしまうからね。


 * * *


 昔、昔のその昔。

 『星花の祈祷師』の男が一人いた。彼の仕事は、地上で彷徨う魂を夜空に導くこと。

 夜空は神聖な場所。そこに導かれた魂は星となって、清い冷気に長い時間をかけて綺麗に洗われ、そして来るべき日には流れ星となって地上に戻り、人の魂となる。だから人が死んだらその魂は夜空に昇って星になるものの、様々な想いを抱えていた魂は重くなってしまって、夜空に昇れず地上を彷徨うようになってしまう――その魂を救ってあげるのが『星花の祈祷師』だった。

 かつて『星花の祈祷師』は多くいた。しかしその頃はもう、彼一人だけになっていた。というのも『星花の祈祷師』の仕事は寿命を縮めてしまうし、多くの彷徨える魂を救うために、星の一つを犠牲にしなくていけなかったから。それで『星花の祈祷師』になる者が減り、また迫害されることもあって、ついに彼一人になってしまったのだった。

 それでも彼は最後の『星花の祈祷師』として、自分の寿命と星一つを犠牲にして、彷徨える魂を救い続けていた。

 ……夜になれば、彼は高台の上で星々に祈る。どうか、導きの種になってくれる星はいないか、と。

 応えて星が降りてくる日もあれば、降りてこない日もある。それでも彼は、祈り、呼びかけ続ける。魂の輪廻の楔になってくれる者はいないか、と。

 そうして、応じて彼の前に落ちてくる星があれば、彼は自分自身の魂を削り、鋭い刃物にして、それで星を砕くのだった。

 砕け散った星は、彷徨える魂のための花の種となって辺りに散らばる。種は鳥のように飛び、そして彷徨える魂に根を下ろすのだ。

 根を下ろせばたちまち成長して、魂よりも大きな、光り輝く花を咲かせる――これが、彷徨える魂を慰める花。魂が抱えていた想いを昇華する光。

 花によって想いを昇華された魂は軽くなり、やっと夜空に昇ることができる。そうしてようやく星になり、魂の輪廻に戻ることができる――。

 これが『星花の祈祷師』の役目。星を導く種には、希望や勇気が必要になるために、星の一つを砕かなくてはいけないけれども……『星花の祈祷師』はそうして、自分の魂を削り導きの種を生み出しながら、世界を旅していた。

 彷徨える魂は、そのままにしておくと、魔物になってしまうこともある――時に人に感謝されることもあった。大切な人の魂を救ってくれてありがとう、と。

 けれども、魂一つを確かに砕いているのだ――それ故に、時に人から責められることもあった。想いを抱え星になれない身勝手な魂達のために、星を犠牲にするなんて、と。そしてひどく不気味がられるのだ。

 それでも彼は、救いのための旅を続けた。それが世界で最後の『星花の祈祷師』としての使命だったから。

 自分の魂がぼろぼろになってしまう、その日まで。


 * * *


 ある晩のこと。ついに『星花の祈祷師』は倒れた。自分の魂で星を砕いて、種を辺りに飛び散らせた、その後のことだった。

 彼の魂は、生きるにはもう難しいほどに、ぼろぼろになっていたのだ。

 朝日が昇る前に、この命は尽きる。覚悟した彼は、せめて美しい風景を見ながら死にたいと、なんとか近くの湖まで身体を引き摺っていった。そうしてほとりに座り込んで、満月に輝く湖を見ながら――息を引き取った。

 人にしては短い命だった。しかしその間に彼はいくつもの魂を救い――それ相応の犠牲も出した。

 そしてこの世界から『星花の祈祷師』は、一人もいなくなってしまった。

 ……それで、困ったことが起きた。

 息を引き取って、肉体から離れた『星花の祈祷師』の魂。その魂はひどく重く、夜空に昇ることができなかったのだ。

 重くなってしまったのは、彼が、今までの自分の行為が本当に正しいことだったのか、疑問に思ってしまったためだった。くわえて『星花の祈祷師』がいなくなった世界の未来に憂いを感じたこともあった。

 彼の魂はどんどん重くなって、草地の上から動かなくなってしまった。もう夜空に浮かび上がることはできない。星になることはできない。誰も救ってはくれない。何故なら、魂を救うことのできる『星花の祈祷師』は、もう世界にいないから。

 この魂に残された道は、たった一つだった――魔物になって、人々に退治され、消滅する未来しかなかった。

 魂の輪廻に戻してくれる人は、もういないのだから。外れてしまえば、あとは誰かの手によって消えるほかないのだ。

 ……しかし、彼の魂に小さな手を差し伸べた者が、一人いた。

 それは彼と一緒に旅をしていた、小さな妖精だった。

 彼女は認めなかった――彼の、こんな終わりを。

 旅の間、ずっと見て来たのだ。彼が一生懸命に使命を果たそうとしている姿を。

 そんな彼が好きで、だから一緒にいたのに。

 こんな、終わりになってしまうなんて。

 妖精は彼の魂を救うと決意した。重い魂を両手で抱えれば、薄い羽を大きく羽ばたかせて、夜空へと飛び立ったのだった。

 神聖な夜空へ彼を運べば、きっと彼は救われ、星になれると信じて。

 しかし彼の魂はひどく重く、夜空は遥か彼方、高いところにあった。勢いよく飛べたのは最初の内だけ。夜の闇の中、妖精はやがて失速していった。星が輝く聖域は、まだまだ遠い――小さな妖精が重い魂を持ってそこに到達するなんて、不可能なことだった。

 それでも、宙にしがみつくように彼女が羽ばたいていたのは、単純に「大切な人を救いたい」と、強く願っていたからだった。

 願いは力になる。希望になる。勇気になる。少しずつ、少しずつ、彼女は星達が瞬くその場所へ近づいていった。もう少しだから、と抱えた魂に話しかければ、不思議とさらに力が湧いてきた――それは、彼女の願いと祈りが、彼女自身の力になっているためだった。

 やがて、星の輝く聖域の目前まで、彼女は魂を運んできた。あと少し、これで彼も星になれると、彼女は微笑んだ。微笑めば、また力が湧いてくる。だから大きく羽を動かしたけれども。

 ……凍てつくような風が、小さな彼女をなぶったのだ。

 それは、神聖な夜空を駆け巡る、清めの風。星になった魂を浄化する冷気。

 神聖であるけれども――まだ生きている妖精にとって、その清らかさ、冷たさは、毒と同じだったのだ。

 小さな妖精は、ついに落ちていった。抱きかかえていた魂も、星になることはなく、その重さに従って落ちていった。高い空から、ともに湖に落ちる。そしてこれまた冷たい水の深い闇に沈んで、そのまま浮き上がることができなかったのだった。


 * * *


 あまりにも静かで、普通の人々にとっては日常的で、平和な夜だった。

 『星花の祈祷師』が死んだことや、夜空を目指した妖精が甲斐なく湖の底に沈んでしまったなんて、人間の誰も知らなかったし、見てはいなかった。

 けれども、満月だけは、二人を見ていたのだ。

 『星花の祈祷師』の魂と、彼を救おうとした妖精を見て、満月はあまりの不幸に涙を一滴流した。それは月の欠片でもあって、満月であったはずの月は、ほんのわずか、欠けてしまった。そしてその欠片は湖に落ちて、沈み込んで――妖精に、救いの力を与えたのだった。

 ほどなくして、溺れ死んだかのように姿を現さなかった妖精が、水面上に浮上してきた。その両手で、大切な人の重い魂を抱えて。そして背中にあった薄い羽は、蝶のものに変わって。

 月の色をした、大きな蝶の羽だった。深呼吸をするように動かせば、光り輝く粉が辺りに散った。

 それは、月の力によって得た、魂を導くための新たな種。

 光り輝く粉が、妖精の抱えていた重い魂に宿った。種はすくすくと成長し、ついに大きな花を咲かせた。『星花の祈祷師』の花とは、似ているけれども少し違う花。恐怖や不安、悲しみを昇華し、魂を軽くしていく。

 その花を見つめて、妖精が魂から手を放せば、魂は泡のようにふわりと浮上していった。

 遥か高くにある、神聖な夜空を目指して。

 やがて――星になった。

 見届けて、妖精は微笑みながら、湖の上でふわふわと舞い踊り始めた。すると蝶の羽から、また月色の光り輝く粉が零れて辺りに舞い始める。光り輝く粉は近くの彷徨える魂に宿れば花を咲かせて、次々に魂を夜空へ昇らせていった。

 夜の間、妖精は踊り続けた。たった一人、水面に映る自分と踊るかのように。

 そうして彼女は、大切な人の志を継いだのだった。


 * * *


 今夜も、彼女はあの湖で踊っているのだろうね。

 星になった彼を、見上げながら。

 それは美しい踊りなんだろう。

 ……でも、言った通り、近づいではいけないよ。

 彼女が得た月の力は、あまりにも強すぎるからね。

 人の肉体に結びついている魂にすら、花を咲かせてしまうから。

 ……けれども、怖がらないで。祈るんだ。彷徨える魂達に、希望の花が咲くことを。

 これからもどんな魂も救われて、夜空に昇れることを。星になれることを。


【星花の祈祷師と月湖の妖精 終】

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