壁のない世界

松竹梅

壁のない世界

静かな夕暮れ。まだ肌寒く、春の恋しい冬の終わりごろのこと。

私は、1人の悪魔と出会った―――。


   ***


どこにでもある普通の街。森のように立ち並ぶ雑居ビルの間には、人がやっと通れるような隙間しかない。泥にまみれたような、茶色く濁った色をしたデブ猫がこちらの様子をいけ好かない目で睨んでくる。排気口から漏れ出る、ゴミと欲望を圧縮した室内の蒸れた空気がそこかしこから漂ってくるせいで、通るだけでも嫌になる。酒を飲んだわけでもないのに、気持ち悪さがずっと胃の周りを駆け巡っているようで落ち着かない。

会社帰り、いつもの通りを抜けながら私は歩いていた。普段からどうしようもないことは承知の上で通っている通りなのには違いないが、今日はどうにも調子が悪いらしい。先日食べたフグでもあたったのだろうか。トイレに行きたいわけではないが、お腹とおしりが何となくむず痒い感じがある。もうすぐ40歳も見えてくる年でそんなことを気にするなと、親に怒られてしまいそうだが。

早く抜けてしまおう、と足を速めたとき、

「きゃっ」

「おっと」

誰かとぶつかり、お互いに倒れこんでしまった。狭い通りとはいえ、ビル同士の間に比べれば幾分余裕がある通り道である。注意していれば通りすがりにぶつかることもないはずだが。

とはいえ謝らないのもしまりが悪い。手近な荷物を拾い上げてぶつかった相手に手を伸ばす。

「大丈夫ですか?」

「ああ、いえすいません。よそ見してしまいまして」

ゆっくりとした動きでありながらどこか品のある佇まい。穏やかな雰囲気の女性だった。大きめのコートを羽織っており、帽子をかぶっているので顔立ちは分からないが、かなりの貴婦人なのではなかろうか。私の手を取り立ち上がると、意外にも私よりも身長が高い。

「ありがとうございます」

「いやこちらこそ失礼を、お荷物拾いますね」

「ああすみません」

彼女の周りにも落ちてしまったものも取り上げ、彼女のものと思われるものを渡す。

「はいどうぞ、では」

「ありがとうございました・・・あら?」

相変わらず幅広のつばで顔の見えない彼女がはと声を上げた。

「この袋、私の持っているものと同じですね」

「え、ああ本当ですね」

自分と彼女が同じ巾着を持っていることに気付いた。

「こんな偶然あるんですね」

「本当に」

「それはどちらで?」

「都内の百貨店で」

妙なところに食いつかれてしまった。早く抜けたい私は話を切り上げようと振り返った。

「ではこれで」

「あら、私もそちらの方向なんですよ。よければご一緒しましょう」

一歩踏み出すと同時に、同じ方向に向かって彼女も横に並んだ。

「その百貨店にはよくお行きになりますの?」

「ときどき」

「先ほど見えた財布や手帳なども随分立派なものをお持ちでしたものね」

「気に入りましたので」

「かなりお高いように見受けられましたが」

「そうでもありません」

かなり細かいことを聞いてくる。怪しい気配に寒気がしてくる。いつまでついてくるのだろうか。進む通りはまだ続いている。

「そのかばんもお高そうですもの」

「どこにでもある仕事用のバッグです」

「コートも立派で整えられて」

「クリーニングに出したばかりなので」

「眼鏡も男前な感じが出てますわね」

「もう少しいいものが欲しかったですがね」

「十分お似合いだと思いますよ」「それはどうも」

彼女はしつこく聞いてくる。そろそろ分かれてもいいころだが、いまだに同じ方向に進んでいる。それにしてもこの通りはこんなに長かっただろうか。

いい加減にしてほしいので手を出す前に、足を止めて彼女に言う。

「どちらまで向かうのですか、よければ案内しますが」

迷っていると思った私は彼女に提案した。そうすれば乗ってくるだろうと。

しかし。

「エルメスのバッグにラルフのコート、プラダのサングラスにブリオーニのセットアップ・・・一体どれだけのお金をくすねたんでしょうねぇ」

辺りの雰囲気が一変した。先ほどまでより一層気持ちの悪い空気が立ち込める。

「なっ・・・?」

「知っていますよぉ、あなたが親分の金をくすねて、目についたものを手当たり次第に買い込んでいることを」

「どういうことだ、私の計画を知っているのか?」

「知っているも何も、私があの親分の仇をうちに来たのですからぁ」

空気が歪み、一気に気持ち悪さが限界に達する。穴という穴から液体が噴き出てくる。

「ううううう」

「さあ、あなたの罪を暴露するのです。あなたはばれていないと思って金庫から少しずつ抜いていたのでしょうけれど、私はいつも見ていましたよぉ。それに百貨店に足繁く通うあなたの姿も」

「なぜ・・・それを・・・」

「ふふふふふふふふふふ」


そのまま歪む空気に引きずられるように、体が解けていく。先ほどまでの雑居ビルが形をなくし、世界と自分の境界がなくなっていく。


   ***


私の罪は見られていた。誰に見られていたのか。今でもわからない。

だが、この世界は歪んでいる。

狭い壁の部屋に押し込められた私は、震えながら罪を憂えた。


何処で誰が見ているか。


誰にもわからない。

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