その花は自ら種を蒔く

悠井すみれ

第1話

 とある国に、美しい男女の姿を取る花があるという。それこそ蕾が綻ぶような華やかな笑み、艶やかな唇、潤んだ目。それらは全て葉や蔓や花弁でできた擬態であって、誘うような手招きも風のそよぎがそう見せるに過ぎないのだ。

 しかし、それでもそのは見る者の心を捕らえて離さない。見た目が麗しいだけでなく、思わず抱きしめた時の樹皮の滑らかさや冷ややかさ、唇を寄せた時の瑞々しさは人肌の心地良さに勝るのだとか。しかも、そのは人に快楽を与えさえする。蜜の甘さや芳しい香りもさることながら、は──人に、とてもしているのだ。花とは、畢竟ひっきょう種を、末裔を増やすためのものだから、人にとってのその行為にも適しているということかもしれない。


 そのは非常に賢い、と評する者もいる。蜜や果実で鳥や蝶や蜂に取り入るよりも、人の心を捕らえた方が容易く繁栄が得られるのだろうから。美しく芳しく咲くを人々は珍重し、遥かな異国からも求める者が後を絶たない。鳥の翼や風の流れに頼るよりもずっとずっと長い距離を、大切に庇護されて旅することができるのだ。



 その男は、馬車の荷台に積んだを示して無造作に言った。


「港まで卸しに行くんです。通っても?」


 は身体の線を露にする服を着せられていた。人間の女なら赤面して身体を隠そうとするところを、おっとりと微笑んで端然と荷台に座っている。意思を感じさせないその微笑は、確かにに特有のものだった。


か。良いだろう」

「どうも」


 街の門を守る衛兵とのやり取りは、形ばかりのもの。衛兵が頷くと、男はすぐにほろを下ろしてを隠すと、馬車を進ませた。


 幌の中から声がしたのは、街が丘陵の向こうに完全に消えてから。周囲に人影がなくなったのをよくよく見計らった頃合いだった。


「人身売買を堂々と見逃すなんて信じられない!」


 ──もとい、生きた人間の少女が、羞恥ではなく憤りによって頬を紅潮させて幌から顔を覗かせていた。身体は幌の内側に隠したままなのは、それこそ恥じらいによるものだろうが。


「でも、上手く行ったでしょう」

「ええ……喜んで良いのか分からないけど」


 男が苦笑しつつ宥めると、少女は渋々ながら、といった様子で頷いた。男の献策を、少女は最初信じようとしなかったのだが。の流通は盛んだから、に扮すれば簡単に門を出ることができる、と。衛兵の不躾な眼差しに、少女が微笑を保ってくれていたのは僥倖だったかもしれない。


 人間にそっくりで美しく芳しく珍しい──そのような都合の良いが、存在するはずないのだ。


 美しいのは整った顔立ちの子供を攫うか買うかしているからで、快楽をもたらすというのはそのようにしつけているからというだけ。蜜の甘みや香りは後から纏わせることもできるし、感情を感じさせない虚ろな笑みは、逃げないように薬を投与されていることに由来する。

 広く流布したの噂は、何のことはない、人身売買の隠れ蓑のために拵えられたものに過ぎないのだ。人をと呼んで簡単に命を売り買いする──それが、この国の実態だった。


「貴女ほどの方がに扮するとは、すぐには思いつかないでしょう。でも、時間の問題だ」

「ええ。一刻も早く安全な場所へ──そうしたら、見ていなさい……!」


 を演じることができたほどに、少女の顔かたちは整っていた。けれど、その表情は生気と知性に満ちて、手折られるだけのか弱い存在ではないとひと目で分かる。この国には非常に貴重な、心から民を案じ正義を奉じる憂国の姫。金色の髪に彩られた頭に、慎まやかな胸の膨らみに、どれほどの知られるべきでない秘密が詰まっているのだろう。


「御意に。──急ぎますから、中で大人しくしていてください」

「分かったわ。お願いします」


 金の頭が幌の中に引っ込んだのを確認してから、男は馬に鞭を入れた。


 勝気なの姫が出奔したという噂は、国を駆け巡るだろう。心ある人の耳にその噂が届けば、国を揺るがす波が起こることもあるはずだ。男が運ぶは強く逞しく、人の手を借りて生き延びるなど良しとしないのだ。むしろ、自ら戦乱と騒動の火種を蒔いて、その中心で凛と咲く──その満開の様が見たいからこそ、男は彼女に力を貸した。

 花が繁栄するのに、甘い蜜や香りが必要とは限らない。美しささえ必須ではない。要は人の心を捕えれば良いのだから。


 男は、火種を抱えた危ういに、心底魅入られてしまっているのだ。

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