Uの底から愛を込めて
犬怪寅日子
Uの底から愛を込めて
蓋碗で茶を入れる機能はお前にはついていないんだよ、ともう一度言って聞かせたがロボットは聞かなかった。今は右手の指が二つ取れているので、三つで支えなくてはならない。物理的に不可能だろうと計算させてみたが、それも聞かなかった。全くもって有機的な判斷をする。ロボットは機械なのに。
三本の指がぬるりと蓋碗に伸びていく。
「両手でやるのではだめなの?」
ロボットはぎしぎし首を振った。さっき片手で手本を見せてしまったのがいけなかった。仕方ないので放っておくと、ものの5秒で蓋碗は割れた。床に落ちたそれを見て、ロボットはかくかくと首を揺らした。
「お前がやったんだよ。何をそんなに笑うの?」
本当に笑っているかどうかは知らない。ロボットはもう長い間喋っていない。でも、どれくらい前だったのだろう。ロボットが最後に喋りかけてくれたのは。思い出せないという事態は、かなり異質だ。忘れているというのは、それだけで非常な事態だ。それなのに、何も思えない。
ロボットは一欠片ずつ陶器を拾い始めている。割れた場所から花の匂いが立ち昇っているような気がした。花の入った紅茶だったのかもしれない。破片を拾うロボットの汚れた腕が、天上からの光で青と緑に明滅している。
夜が落ちるてくると、どうしてもこの部屋は瞬いてしまう。ガラス張りのドーム型天井が流行ったのはいつのことだったのだろう。230年か、240年か、それくらい前だったような気がする。その頃にはまだ微かに空が見えていたように思う。今では、巨大な高層建築とと、それら同士を繋ぐ鉄の路地で空は埋まっている。ただ、空の路地を歩く夜行機の光はあのころの星よりも圧倒的に美しい。
いや、たかだか200年くらい前じゃ、もうここではすでに星なんて見られなかったかもしれない。昔、という語感だけでつい野っ原のようなものを想像してしまうけれど。
夜行機を見上げていると、自分の重力を見失ったような気がして混乱する。夜行機はローラーで動くので、鉄のある場所ならばどこでも移動出来る。だから足を空へ、頭を地上に向け、全く逆さまに動くものもが多くいる。ずっと見ていると正しい天と地の位置が分からなくなっていく。
よくよく考えれば、機械に頭も足もないのかもしれない。何をもってして頭だというのか不明だ。彼らは電気信号で動くのだから体それ自体が脳といってもいいのではないか。
つまりこの街の空では、無数の脳が人間のために明滅しながら働きまわっているのだ。それにしても、夜に動くというだけで、どうしてあんなにたくさんの美しい光をつけたのだろう。機械は光がなくたってぶつかりはしないのに。
なぜ人間は美しさを求めないと生きていられないのだろう。
りん、りん、と微かな音がして足元を見ると、ロボットが蓋碗の破片と破片を叩き合わせて遊んでいた。拾って片付けるのではなかったのだろうか。
「新しい蓋碗はあるの?」
聞いたが遊びに夢中でロボットは動かなかった。
この首都の中で、ロボットほど人間らしい機械はいないのではないだろうか。機能的にはほとんど壊れているといってもいい。けれど、それくらいにならないと機械は人間に近づけないのかもしれない。人間は機械と一番遠い場所にいるから。
「そのうちに人間なんていなくなるのかも」
かつてはこの街にも――つまりこの国の首都にも――多くの人間たちがいたのだ。あらゆる知と技術と、そうして自由のあるこの街は、人間たちを激しく熱狂させた。国のあらゆる場所から、あるいは外の国からも、この街には人間が集まってきた。しかし、極度に最適化が進んだこの街で、人間たちは夢を失ってしまったらしい。自由は極限を迎えると、人間にとっては新しい枷となった。彼らは地方からこの街に出てきては病み、病むことに飽きて、やがて元いた場所へ戻っていった。
そうやって帰っていく人間たちを、ここで何度見送っただろうか。かつては山の天辺に存在していたこの街は、今では谷の底のようになってしまった。機械たちの楽園に人間が間借りをしているような状態だ。
国の主軸となるこれらの機械を動かしているのはもちろん人間だけれど、それらの人間たちもここには住んでいない。遠くの、緑生え染める大地にいて、首都に残った人間へ指示を送るだけだ。そうして首都に残っているような末端の人間は、自分の受けた指示が何を意味するのかは全く理解していない。
この街にいて病まない人間は端から生きる気力のない者たちなのだ。彼らは自由にも不自由にもさして感慨がなく、よって極度に最適化された生活で何かを失うことがない。人間的でないという理由で、元いた場所へ戻りはしない。なんとなく首都に出てきて、なんとなくそのまま過ごしている。生きるのに仕事が必要だから、意味の分からない指示に従い、ただ実行する。
もっとも、指示というのは大抵、機械が処理をするのを見届ける、というだけのことだ。ここには有事があった際に対応する機械がいて、その機械に有事があった時に対応する機械もいる。それでも人間を置かないと不安になるのが人間なのだ。
陶器のりんりんする音が聞こえなくなった。
「どうしたの? もう飽きたのかい?」
ならば新しい蓋碗を、と言おうとした時、ロボットが珍しく瞬きをした。鉄の瞼がさらりと上から降りて、また上がる。そして空を見上げた。
瞬間、けたたましい音が空から降ってきた。見上げると、空が破裂している。
破裂としか言いようがない。
「あ――」
夜行機が空からいくつも燃え落ちている。天井に鉄くずが降り注ぎ、けたたましい音が降り注いだ。黒煙が広がって、ドームを夜の底の色にしてしまった。微かに、その奥で美しい色がちかちかとしているのが見えるだけで。
こんな景色は初めてだ。一体何が起こったのだろう。
思考がうまく働かない。
こんなことも初めてだ。
「ヒト、ヒト」
めずらしくロボットが声を上げた。ここしばらく聞かなかった声だ。
「お前、まだ喋ることを覚えていたの? どうして今までぼくにだけ喋らせていたんだい?」
その時、また大きな音がして部屋のドアが蹴破られた。蹴って部屋をドアを破る存在は、この街では限られている。
「人間――」
瞳が光っているように見えた。まだ小さな子供に見える。少年というのだろうか。人間も久しぶりに見たので、判斷がつかない。犬歯が見えた。あれは、人間が獣だったときのなごりだ。
「いた! 思考ロボット!」
小さな人間が大きな声を出したので、なぜだか分からないが釈然としない気持ちになった。ロボットはすかさず小さな人間の元へ向かい、脇の下に手を差し込み持ち上げた。
「うお! なんだこの機械! おい、自分で歩けるって」
ロボットに高く持ち上げられ、じたばたとしながら小さい人間はこちらへ向けてまた声を上げた。
「なあ、お前、思考ロボットだろ! なんとかしろよ!」
ずいぶん横柄な言い方だが、それよりも内容が気になった。
「なんとか、というのは?」
「見てただろ。爆発したんだよ。空が!」
「空は爆発しないと思いますよ。何か別のものが壊れたのではないですか。そうだとして、外の人間たちがどうにかすると思われますが」
「ばか!」
「ばか?」
ロボットが小さい人間を持ち上げながら首をかたかた動かした。笑っている。
小さな人間はまたじたばたと手足を動かした。なんという、なんという無駄な動き。
「外の人間と連絡が取れないから言ってるんだろ! シェルターが閉じちゃったから、この地区にいるやつらでどうにかするしかないんだ。お前、思考ロボットだろ? 何かいい案を考えろよ!」
こんなに直情的な人間はここ100年は見ていない。今日は珍しいものばかりを見る。
「では他の人間を連れてきてくれますか。状況の確認を」
「今地区にいる人間は俺だけだ」
「そうですか。では諦めましょう」
「は!? 何言ってんだ」
「私が思考すれば案は出るでしょうが、あなたはそれを実行できないでしょう。外からの状況改善を待つのが最適解です」
「それで助かる保証があんのか!」
「助かりたいのですか?」
「あたりまえだろ!」
そう言って、小さな人間は瞳から雫を零した。ロボットが小さな人間を床に降ろし、その場をうろうろし始めた。がしゃがしゃとうるさく動くので、蓋碗の欠片が踏み潰されて粉々になった。それを見て、またロボットはうろうろと動き回った。
小さな人間は泣きわめいている。
「俺は、この街から出て外で暮らすのが夢なんだ! こんなところで、死にたくない。こんな鉄溜まりの中で死ぬのなんてごめんだ!」
小さな人間の流すものは光って見えたが、夜行機のように色はついていない。そうか。この街はもう人間が夢を見て目指す場所ではなくなってしまたったのだ。それどころか、小さい人間が泣いてしまうほど、出ていかなければならぬ場所になったのだ。人間は今や緑を、土を、星を求めている。自然とその場にあるものを愛している。自然に生まれくるものだけを愛している。もう人間たちは戻ってはこないつもりなのだ。けれど一体、この街をこんな風にしたのは誰だっただろうか。ここを、自分たちの首都を、こんな鉄溜まりにしてしまったのは。
「俺のために何か考えてくれ!」
人間というのはどうしてこんなにも身勝手で、意地汚く、愚かで、忘れやすいのだろう。けれどぼくたちは、それに従うより他はない。
「分かりました。では思考します」
「本当か!」
ぼくたちはみな人間から産まれたから、この瞳を美しく思ってしまう。
その美しさを、身を賭してでも守ってしまう。たとえ捨てられても、愛している。
愛してしまう。
「ありがとう!」
僕は人間の機械だから。
人間のための、機械だから。
Uの底から愛を込めて 犬怪寅日子 @mememorimori
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