イスカンダルの選択

kanegon

イスカンダルの選択


「おい副官、お前は自分の死に場所として、どこを望む? 戦場か? それとも、家の中で家族に看取られて、が良いか?」


 馬上のクタイバ将軍からの唐突な質問に、最近就任したばかりの細身の副官は意図を読み切れずに視線を宙に泳がせた。


「ええと、ダマスカスの故郷もいいですが、どちらかといえば戦場、ですかね?」


 嘘だった。戦場で敵の槍に貫かれて馬から落ちて痛い思いをして死にたくない。だが、クタイバ将軍は立派な顎髭をたくわえ、筋骨隆々たる大男という見た目を裏切らない苛烈な武人だ。家の中で平和に眠りにつく、などといった返答を期待しているとは思えなかった。


 騎馬を並べて進むクタイバ将軍と副官の後ろには、兵士たちがついて来ている。兵士たちに聞かれているからこその見栄もあった。


「そうか……俺も若い頃は戦場こそが自分の生き場所であり死に場所だと思っていた。だが最近は、メルヴの街で家族に看取られて、の方が良いように思えるのだ。あるいはダマスカスの都か」


 痩せた副官は、髭の薄めな顔に気まずそうな表情を浮かべた。忖度が裏目に出た。


「人間は、生まれる場所は選べない。それは、唯一の神がお決めになったことだから、それはそれで享受すべきことだろう。だがな、途中でどういう人生を選ぶか、そしてどういう死に方をするかは、自分で選んで良いのではないかと思うのだ。そして、自分の選択こそが、神の御心にも適うはずなのだ」


「クタイバ将軍は、メルヴで生まれたことがご不満なのですか?」


「俺はメルヴ生まれではないぞ。生まれた場所が不満なのではなく、小さな部族に生まれたことが口惜しいのだ。これが、タミーム族、バクル族、アミド族のような大部族出身だったら、俺は強い後ろ盾を得てもっと早く楽に出世を果たしていたはずだ」


 クタイバは遠い目をした。西暦でいうところの715年現在40代半ばの壮年。小部族出身のため、自分の手勢として信頼して使える兵が少なかった。だからクタイバは純粋に戦士としての実力を示すしか生きる道が無かった。


「思えば遠くへ来たものだ。河口付近の街で生まれて、都のダマスカスで武勲を認められて、ホラサーン地方の総督になってメルヴの街を拠点として、そこから更に二度のサマルカンド攻略、今の前線基地のフェルガナ、と。アム川の北のマー・ワラー・アンナフルの地域を順調に攻略してきたな。懐かしい」


 偉大なる預言者の出現以降、アラブ勢力は軍事的にも急速に各地を征服して支配圏を広げていった。


 だがその過程では当然紆余曲折があった。西暦700年頃のホラサーン地方のアラブ勢力は、タミーム族、バクル族、アミド族といった主要部族が互いに勢力争いの抗争を繰り広げていた。そこを上手くまとめ上げたのがクタイバだった。


 クタイバはバーヒラ族という小部族出身なので、部族間の勢力争いと無関係だったため、中立の立場としてアラブ勢力を再結集させることができた。そういう意味では、その時だけは運にも恵まれた。


 手柄を立てたクタイバを、上司は将軍として取り立ててくれた。更に帝国を統べる最高位である教主もクタイバを認めてくれた。ホラサーンの総督を任された。


 上司と教主は、クタイバに更なる大きな夢を与えてくれた。


「東の果てには唐という大きな国があるらしい。そこまで征服せよ」


 クタイバ将軍もまた、上司と教主の期待に応えようと、ホラサーンの中心都市メルヴで遠征軍を結成し、出発した。


 トハリスタン。アム川を渡った先にあるバイカンド。ブハラ。サマルカンド。ホラズム。そういった地を、弟のアブドラフマーンと協力しながら、精悍な馬蹄で蹂躙して貢納を求めた。


 征服した地からも兵士を徴発しているので、メルヴを出発した時点よりも勢力としては大きくなっている。その代わり、士気や忠誠心などは落ちつつあると報告を受けているのだが、クタイバ将軍としてはあまり実感できずにいた。


「……ところでクタイバ将軍、なぜ私のことを名前ではなく副官と呼ぶのですか?」


「名前を覚えていないからだ」


 剛毛の髭に包まれた口を尖らせるようにして、クタイバ将軍は素っ気なく言った。


「俺は今までの副官の名前を覚えていない。ちゃんと理由があるぞ。副官というのは俺に助言をする立場だ。となると、武勇よりも智恵が回る者が適任ということで副官として就任することになる」


 副官が無言で聞いていた。確かに副官は痩せていて、そこまで力自慢というわけではない。


「俺は将軍になろうが総督になろうが、戦場に出るからには常に先頭に立って敵を切り伏せる戦い方をしてきた。ところが、俺の隣に立たせた副官は、過酷な戦場で生き残れずにすぐに戦死してしまう。頻繁に副官が代わるから名前を覚えられないし、覚えること自体が面倒くさくなってきたのだ」


「え……それは、今までの副官の扱いがひどかったのではありませんか?」


 名前は覚えてくれない。その上、戦場の最前線に常に立たされて、全ての者たちが戦死してしまった。副官として能力を発揮する以前に、何の利点も無い上に命の危険ばかりが高い。


「そう思うならば、お前は副官として早死にせずに生き残ることだな。もちろん、最前線で敵兵を殺して武勲を立てた上で、だぞ。お前の持っているダマスカス鋼の短剣は飾りではないのだろう。そうすれば俺も、お前の名前を覚えることができるだろう」


 そうこうしているうちに、軍は前線拠点のフェルガナの街に戻った。


 そこでは、都のダマスカスからの急ぎの使者がクタイバの戻りを待っていた。


「帝国を統べる指導者であるアル・ワリード教主様が病にて亡くなられて、弟君であらせられるスレイマン様が新教主様になられました」


 使者のもたらした情報は、穏やかではなかった。


「スレイマン新教主様からは、クタイバ将軍へ、都ダマスカスへの一旦の帰還のご命令でございます」


 クタイバは目を細めた。


「弟、か」


 クタイバは小部族出身のため、兄弟で確執などしている場合ではなかったので、理屈では分かっていても感覚的には兄弟喧嘩は飲み込めなかった。しかし情報として、帝国の最高の地位である教主は、兄と弟の関係が良くなかったことを、クタイバも聞き及んでいた。


 兄の旧教主様はクタイバの能力を高く評価し、取り立ててくれた。


 だが弟の新教主は、そのクタイバにダマスカス帰還命令を出した。恐らくは将軍を解任されるだろう。下手すれば冤罪を着せられて処刑されるかもしれない。


 使者が退出した後、クタイバは副官と今後の対応を検討した。


「俺の弟は、今はどこに出征しているのだったかな? 至急連絡を取り合う。今、俺たちの軍が都に戻ったら、征服した地域は一斉に離反してしまうぞ。新教主は軍事に疎いのか、それを分かっていないのだ」


「いけません、クタイバ将軍。教主様の命令を無視して勝手な軍事行動を取ると、それは反乱というふうに見なされてしまいますよ」


「見なすも何も、反乱を起こして独立すると言っているのだ」


「それは、無理があるのではないでしょうか。兵士たちは長い遠征に疲れていて、古参の者たちは故郷のメルヴに帰還したいと望んでいます。兵士たちがクタイバ将軍の命令に従わず、反逆する恐れがあります」


「そりゃ、一部の奴は反発するだろうが、それは想定内だ。そういう奴は斬り捨てて見せしめとすればいい。だから副官、お前は副官としての役割を果たし、戻ったばかりではあるが、次の遠征の準備をせよ。私も、ダマスカスへは戻れない旨の使者を出す」


「かのイスカンダルの大王だって、兵士の望郷の念に負けて反転して戻ったのですよ」


「アレクサンドロス大王だと? 大昔の異教徒ではないか。それを見習ってどうする」


 将軍にそう言われては仕方がないので、副官は言われた通り準備を始めた。


 だが。


 従ったのはクタイバ将軍の出身部族であるバーヒラ族だけだった。


 ここに来て、生まれた場所によって生きる道が制限されて定められてしまった。クタイバの出身部族が弱小であることが裏目に出てしまった。


「大部分の兵士たちは将軍の命令に従わず、メルヴに帰還させろ、と要求しております」


「遠征の時には常に俺が先頭に立って軍を鼓舞した。だから連戦連勝を飾ったのだ。それに兵士たちには略奪も許した。あいつらだって今まで俺の軍にいて、散々いい思いをしてきたじゃないか。それなのに、都合が悪くなったら帰還したいなどと。恩知らずな奴らだ」


「そうですね。私は、将軍にきちんと恩返しをしたいと思います」


 次の瞬間、副官の手には短剣の刃が煌めき、クタイバの腹に吸い込まれた。屈強な将軍といえど、幕舎の執務室内で不意をつかれてはひとたまりもなかった。


「クタイバ将軍は、生まれ故郷やダマスカスの都や家族がいるメルヴを懐かしく思う、と仰っていましたよね。恩返しとして、私がクタイバ将軍をダマスカスの都までお連れいたしますよ」


 クタイバ将軍は、結局己の生まれ場所も死に場所も選べなかった。それでも、懐かしい帝都へは帰還できることとなった。


 首だけであるが。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イスカンダルの選択 kanegon @1234aiueo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ