帰去来の記

高麗楼*鶏林書笈

帰りなんいざ、故郷へ

 帰(かへ)りなんいざ。田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる。

 既に自ら心を以て形の役(えき)と爲(な)す、奚(なん)ぞ惆悵(ちうちやう)として独り悲しまん。

 

 帰ろう、田園は手入れもせず荒れ放題放題なのに、何故帰らないのか。

 既に心身が疲れきっているのに、今更、宮仕えを辞さずを得ないことを嘆くことはなかろう。


 古人の詩を口ずさんだものの彼自身は、このような気分にはなれなかった。

 部屋に籠もっていては気分が沈むばかりと、彼は散策に出かけた。

 生まれ育った土地ゆえ、遠くに見える山々も道端の草花すら心に馴染む。いつしか子供の頃遊んだ土手についた。

 目の前に見える山に、日はまさに暮れようとしていた。鳥たちは巣に戻ろうと大慌てで飛びいそいでいる。

 幼い時は何も感じなかった風景だが、今は心を動される。

 脳裏に昔日のことが走馬灯のように浮かんできた。

 

 父親から初めて「千字文」を教えられた時、意味など分からず、ただ父親を真似て読み、書物の通りに砂板に書いた。

 やがて文字の意味を覚え文章が解るようになると学ぶことが楽しくなった。多くの書物を読むうちに様々なことを知り、自身のなすべきことを理解した。

 士大夫家に男子として生を受けた自身がすべきことは出仕して王を扶けて国家と民に尽くすことだった。そのためには、まず科挙に合格せねばならなかった。

 猛勉強した彼は数回に及ぶ試験に全て壮元で合格し、新進官僚として朝廷入りした。

 様々な部署で働き、また地方にも赴任して実績を積んでいった。

 この間に結婚し子供も得た彼の人生は順風満帆だった。

 こうしたなか、これまでの実績と学才を見込まれて王世子の師傅に任命された。

 世子は素直で賢かった。彼がかつて父親から教えられたように世子に千字文を教えると、世子は幼い頃の自分のようにたどたどしく読み、一生懸命砂板に書いた。

 そして、かつての自分と同じように学ぶことを好み、多くの書物を読むようになった。分からないことがあると彼に訊くのだった。

 世子が成人する頃、王が突然、世を去ってしまった。

 規程通り世子が玉座に就いた。年若い王は師匠である彼を側近にした。

 彼は身の程をわきまえ、出過ぎることなく王を支えた。

 生真面目な王は善政を敷くべく努力した。

 彼は、こんな王を頼もしく思った。

 だが、不幸にもこれは長く続かなかった。

 最愛の王妃が出産直後に亡くなってしまったのである。

 幸いなことに御子は無事だった。王にとっては初めてだったこの王子を王はたいそう可愛がった。

 王子を心の支えして王は悲しみから抜け出し、以前のように政務に励むようになった。

 真面目な性格ゆえ表には出さなかったが、最愛の人を失った心の隙間はなかなか埋まらなかった。

 ある日、ふとしたことから王は侍女の一人と深い関係になってしまった。そして、この頃から王の政務がおかしくなっていった。実はこの侍女はある大臣に連なる者だったのである。

 まもなく侍女は身籠ったので承恩尚宮となり側室の一人になった。

 子を宿した尚宮に王は溺れていった。今は王の唯一の女人となった尚宮を通じて大臣は権勢を振るうようになった。

 賢いお方なので、そのうち分かるであろうと静観していた彼は、ここに至って遂に王に諫言した。

 以前とは異なり、彼の諫言は王の心に届かなかった。それどころか彼のことを疎んじるようになってしまった。加えて、朝廷内には彼の味方は全くいなかった。

 朝廷に失望した彼は職を辞して生まれ故郷に戻ったのだった。


 周囲が暗くなり始めたので彼は家に戻ることにした。

 小ぶりの門を潜って屋敷内に入ると庭の片隅に妻の姿が見えた。

 声を掛けると、生垣の下に咲いていた菊を摘んでいたとのことだった。

 都育ちの妻はここでの暮らしが気に入ったようだった。

 ここに来たばかりの頃、妻に“ずっとこの地で暮らすことになるかも知れない”と言ったところ “構いません、ここは良いところですので”と笑顔で応えたのだった。

 自室に戻ると彼は机の上に紙を広げ筆を取った。

今宵も王への上書をしたためる。この地に来てから彼は毎日、一日も欠かさず書き、送っている。果たして主上は御目を通して下さるだろうか。

  心遠ければ地自ら偏なり

 いにしえの詩人とは異なり、自分は“心が(世俗から)遠くはなれているので、住む土地も辺鄙なところとなる”という心境にはなれそうもない。

 書を仕上げた彼は苦笑するのだった。



KAC20203


カクヨム・アニバーサリー・チャンピオンシップ 2020


 

 

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帰去来の記 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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