三歩進んで二歩戻る

雪車町地蔵@カクヨムコン9特別賞受賞

そしてわたしは、一歩を踏み出した

 必要なのは勇気だった。


「キスをしましょう」


 決死の覚悟で絞り出した言葉は、びっくりするほど震えていて、誰にも受け止められないまま石畳に落ちる。

 それでも、隣を歩いていた幼馴染みの少女の足を止めることは出来た。


 普段からしてチェシャ猫みたいな顔をしている彼女は、いまこのときもひとを食ったような顔で笑っている。

 わたしの覚悟なんて一顧だにしていない、そういう表情。


 心が折れそうになる。

 意気地がくじけそうになる。

 それでも、もういちど言葉にする。

 今度は、もっと丁寧に。


「キスを、してくれませんか……?」


 彼女との関係性に、これまで幼馴染み以上のものはなかった。

 生まれたときからお隣同士で、幼いころは毎日一緒に遊んで。

 でも、ある日突然、彼女はわたしの前からいなくなってしまった。

 彼女が、お父さんの仕事の都合で引っ越したのだと知ったのは、随分後で。

 それが理解できたのだって、中学生になってからだった。


 わたしは運命の理不尽を嘆いた。

 シェイクスピア曰く、ひとは皆役者、世界は舞台とのことだが。だとしたら間違いなく、あのころのわたしは悲劇の主人公だっただろう。

 すくなくとも、自分ではそう思っていた。


 けれど、彼女は突然戻ってきた。

 高校に進学して、一年弱が経ったばかりのころ、転校生という立場でわたしのまえに再び姿を現したのだ。


「アイムバック! 故郷にUターンだぜ!」


 颯爽と笑った彼女は、たいそうな美人に成長していた。

 普通ならば感動的な再会だし、脳内フィルター全開で彼女がお星様のように輝いて見えても不思議ではなかった。

 これがお芝居なら、バラ色の喜劇の始まりである。


 が。

 そのときのわたしはあまりのことに呆然としていたし、続く彼女の言葉で久闊を叙するような雰囲気ではなくなってしまった。


「それで、あんた誰だっけ?」


 ……ひどい。

 今考えても、あのセリフは酷い。

 ニヤニヤ笑いながら、幼馴染みに投げてよいものではない。人格を疑う。


 わたしなど、彼女のことを忘れた日は一度としてない。

 毎日一時間、万が一にも彼女の顔を忘れないように写真とにらめっこをするのが日課だったし。

 寝る前には引っ越し先に向かって五体投地をしていた。

 なんだったら彼女を模した手作りのぬいぐるみとか作って神棚に飾っていた。


「いや、ひくけど? ふつうにひくけど?」


 そんな風に彼女は引き攣った顔で仰るが、わたしだって冗談ぐらい言う。


「冗談に聞こえないんだよなぁ……」


 冗談に聞こえなかったのはこっちのほうだ! と、わたしは大いに憤慨する権利を有していた。

 なぜって彼女はわたしのことをしっかり覚えていたし、ただからかっていただけなのだから。

 けれどもわたしは、確かに傷ついたので。

 本日彼女に、無理矢理デートの約束を取り付けたのである。


 そう、これはデートだ。

 どういう意味合いだろうと構わない。数年ぶりに確かに手にした、彼女とふたりきりの時間だった。


 かけがえのない、最後のチャンスだった。


 ……わたしは知っている。

 彼女がまた、どこかに行ってしまうことを。

 それが、今度は途方もなく遠いことを。


「だから、キスしてください」


 離ればなれになることが決まっているのなら。

 また人生が別たれてしまうのなら。

 わたしはせめて、思い出が欲しかった。


 彼女に、どうしようもないものを。

 今日までわたしが積み上げてきた、手放すことが出来なかった、言葉にもならない積層した想いを刻みつけたかった。

 いっそ傷つけたかった!


 気持ち悪いと思われてもいい。

 これで最後になってもいい。

 そのぐらいの気持ちで、わたしは口づけを願ったのだ。


 だというのに、彼女は相も変わらずニヤニヤ笑いだ。

 こちらのことなどどうでもいいと言わんばかりの、意志を踏みにじる嘲笑的な態度だ。

 なんというか、すごく腹が立つ。

 ……それ以上に、情けなくて涙が出る。


 気がつけば、わたしは愕然と立ち尽くし。

 彼女は笑ったまま、前に進んでいた。


 ああ、また置いて行かれるのだろうと思った。

 視界が熱く滲み、胸が苦しくて仕方がなくて。

 手を伸ばす。躊躇する。その一瞬が、絶望的な隔たりを生む。


 一歩、二歩、三歩。

 もう手の届かない距離まで、彼女との距離が開いて──


「……ふぅ。本当にあんたは、冗談が通じないねぇ」


 くるりと、彼女がきびすを返した。

 反転して、こちらを向いて。

 一歩。

 二歩。


 石畳を、音を立ててわたしに歩み寄って。


「でも、待っているだけのやつなんて、あたしは興味がないかもしれない」


 目の前、彼女の顔。

 なにも変わらない、ずっと忘れたことのないきれいな顔が。

 ギュッと口角を持ち上げて、挑発的に笑って。


「いつまで、そこにいるつもり?」


 ──必要なのは、勇気だった。


 春風が吹く。

 距離はどこまでもゼロになる。

 わたしは。


 もう、待つことをやめた。

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