とあるサイクリストの革命記念日
草薙 健(タケル)
坂を登り切ったその先に。
あなたにとって最高のお祭りは何かと聞けば、フランス人の多くはこう答えるかも知れない。
フランス革命記念日。
七月十四日はフランス人にとって特別で、国中がお祭り騒ぎだ。
パリのシャンゼリゼ大通りでは軍事パレードが華々しく催され、夜になればエッフェル塔から壮大な花火が打ち上げられる。
しかし、フランス人である私――ジャンは、そんな革命記念日に仕事をしていた。フランス人を、いや、世界中の人々を熱狂させるスポーツ史上最大のお祭りに参加しているからだ。
ツール・ド・フランス。
そう、私の仕事はプロロードサイクリストだ。
今走っている場所はフランス南東部、イタリアとの国境にほど近いアルプスの山の中。ラルプデュエズというスキーリゾートとして有名な場所に通じる坂を、集団の先頭に立って懸命に登り、頂上のゴールを目指している。
ものすごい汗だ。異様な暑さを感じた私は、ジャージのファスナーを下ろした。肌を露出させて自分の体を冷やすためだ。
『ジャン、その調子だ!』
監督の指示が無線で入ってくる。
チームの思惑は明確だ。
私の後ろを走っているエース――総合順位で三位につけているコロンビア人のホセをアタックさせ、総合一位の証である
そのために、アシストである私には「ゴールまでもたなくていい。ライバルがアタックできないくらいのハイペースで先頭を引け」との命令が下されている。
友人にもあまり理解されていないのだが、ロードレースは決して個人競技ではない。チームスポーツだ。
ツール・ド・フランス――通称ツールでは一チーム八人で走る。
エースはチームに一人だけ。他の七人は全員エースを支えるアシストだ。
ツールが始まる直前まで、ホセと私はエースの座を巡って争っていた。実力はほぼ同じ。
しかし、チームがエースに選んだのはホセだった。
私は不満だった。
ツールでのエースがフランス人ではない? 冗談じゃない。
それでも、ツールに出るためには仕方がないと私はアシストを受け入れた。
アシストには色んな仕事があるが、私に与えられた仕事は風よけと坂道でのペースメイクである。
風はサイクリストを消耗させる。アシストはエースの風よけになり、エースの体力をできる限り温存させるのだ。
「今日のお前は絶好調じゃないか?」
私の真後ろを走るホセが話しかけてきた。
「あぁ」
私はぶっきらぼうに答える。
ホセの声色からして、彼も絶好調だと思った。この調子なら、栄光の
なにせ、勝負所にもかかわらず、私に話しかけることが出来るほどの余裕があるのだから。
私はちらっと後ろを見やった。
先頭集団は、思ってた以上に人数を減らしていた。
真後ろにはエースのホセ。他のチームメイト達は仕事を終え、集団から全員脱落している。
ホセの後ろには、
こいつらを振り切らない限り、ホセは
「なぁ、ジャン」
「なんだ?」
「お前、今日のステージを獲りたくないのか?」
ステージを獲る。
つまり、ステージ優勝をしたくないのか? とホセは聞いているのだ。
ツールには様々な賞が用意されているが、分かりやすいのが総合優勝とステージ優勝だろう。
二十三日間かけて二十一ステージを争い、全ステージの合計タイムが最も早い選手が総合優勝を飾る。一方のステージ優勝は、文字通りそのステージを一番速く走りきった選手が表彰されるのだ。
私のチームが狙っているのは、ホセの総合優勝ただ一つ。ステージ優勝はもちろん大事だが、チームの首脳陣は総合優勝を獲るためのおまけくらいにしか考えていない。
優勝したいに決まっていると私は心の中で毒づいた。ツールではまだ勝ったことが無いのだ。
「……チームの目標は、お前の総合優勝だ。私はそれをアシストする」
「だが、今日はフランス革命記念日だろ? 主催者がそんな日に勝負所を設定した理由なんて、一つしかないだろ」
ホセの言いたいことは理解している。それこそ、今回のコースが発表されたときから、メディアが散々書き立てたことだ。
フランス革命記念日に、数々の名勝負が繰り広げられたラルプデュエズで、フランス人が優勝する。
なんという甘美な響きだろう。もしこれが達成できればフランスでは英雄だ。
『ジャン、今の話は聞こえたぞ。アタックは厳禁だ。分かってるな?』
「了解……」
私は自分の気持ちを押し殺して、淡々と、だが極めて高い
『いいぞ、ジャン。踏め、踏めぇ!』
しばらくして、先頭集団は三人に絞られた。
先頭は相変わらず私、その後ろにホセ、そして
誇らしかった。
ライバルチームのエースを一人を除いて全員蹴散らした。他のチームに移籍すれば、エースとして迎え入れてくれるだろう。
だが、今の私はアシストだ。チームの駒だ。
チームオーダーに逆らうわけにはいかない。
ラルプデュエズには、二十一のカーブがある。その十四番目まで来た。
通称、『オランダコーナー』。
熱狂的なオランダ人がここに集結することで知られ、今年も人でごった返している。比喩ではなく、手を伸ばせば体に触れることができる距離に人が立っている。
最も厄介なのは、自転車の進路上に人が立っていることだ。
とにかく続く人の列。色とりどりの旗を振り、鳴り物をならし、挙げ句の果てには色のついた煙を焚く輩までいる。
今
常に沿道のファンと接触する危険をはらんでいるが、もちろん止まるわけにはいかない。視界が悪い中、私は坂道を突き進んでいく。
ロードバイクと接触する寸前で、人々が横へと避けていく。さながら、モーゼが海を割るかのように道が現れる。
とにかく走る邪魔だけはしないでくれ――
私は祈りながらオランダコーナーを通過した。
私の限界は近かった。
チームが指定したポイントまで、コーナーは後二つ。そこまでエースを引っ張れば私の仕事は終わる。そこからホセがアタックして、
ここまでは、監督の作戦が見事にはまっている。
『よし、ジャン! あと少しだ!
コーナーを一つ抜けた。あと一つだ。
そのときだった。
「ジャン!」
ホセから叫び声が飛んだ。
何事かと思って後ろを振り返ると、
私は、本能的にアタックしていた。
自分の持てる全ての力を脚に込め、
『ジャン、何をしている! ホセの元へ戻れ!! これは命令だ!!』
無線は聞こえていなかった。一心不乱にペダルを踏んだ。
これはステージ優勝のチャンスだ。
ホセは独力で
私は自由だ。自由になったんだ。
『ジャン! 首になりたいのか!! 返事しろ!!』
体はもう無理だと悲鳴を上げているのに、私はそれでもペダルをこぎ続けた。不思議な高揚感だ。どこまでも行ける気がする。
それこそ、ステージ優勝のみならずこのまま総合優勝だって――
「ジャン!」
ホセがすぐ後ろにいた。他には誰もいない。
「ホセ……!?」
私のアタックについてきたのか!?
一瞬驚いたものの、冷静に考えればついてこれるのは当たり前だと思い直した。今まで体力を温存してきた訳だし、これからアタックする予定だったのだ。
「そう急ぐなよ。もう少し俺のアシストをしてくれてもいいんじゃないか?」
その顔は笑っていた。
「お前がアタックすることによって、
そこで、私はようやく思い出した。
私の総合順位が、三位のホセに続く四位だったことを。
私とあいつのタイム差が普通のアシストみたいに三十分も四十分もついていれば、
しかし、私とあいつのタイム差はたった二十一秒。あいつが私から二十二秒遅れてゴールすると総合順位はひっくり返る。それを防ぐには、
「ジャン。お前は本当に俺のことをよく助けてくれた。だから、一緒に行こう。ゴールラインまで」
「ホセ……」
私は恥ずかしかった。本能とは言え、欲に目がくらんでチームオーダーを無視し、勝手にアタックしてしまったことを後悔した。
そんな私のことを、ホセは庇おうとしてくれている。
これがリーダーシップという奴か。
実力差がほとんど無いのに何故ホセがエースに選ばれたのか、ずっと疑問に思っていた。
それがここにきて氷解した。
私は、人間性で負けていたのだ。
そしてこのとき強く思った。
ホセを総合優勝に導きたい。
ゴールまで残り一キロメートルを示す赤い円筒状のアーチ――フラムルージュの下を二人で通過する。沿道の歓声が、一際大きくなった。
「ジャン、ステージはお前が獲れ」
「え?」
「エースアシストには光が必要だろ?」
まだレース中だと言うのに、私は涙が止まらなかった。
夢にまで見た、ツールでのステージ優勝。それが、フランス革命記念日でしかもラルプデュエズだなんて、まるで絵に描いたようなシナリオだ。
『ホセ、ジャン。ジャージのファスナーを閉め忘れるなよ』
監督の声はまだ怒っていたが、興奮を隠し切れていない。
ゴールラインは目の前だ。
前々から考えていた渾身のガッツポーズを決める。
そして、私はステージ優勝を飾った。
あなたにとって最高のお祭りは何かと聞かれれば、私は間違いなくこう答えるだろう。
それは、七月十四日のあのレースだ――と。
とあるサイクリストの革命記念日 草薙 健(タケル) @takerukusanagi
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