第13話 別つ

 うつくしきがなせのミコトよ、何処に居られるのですか? こうして綺麗な肉体を得て、貴方の元へ戻って参りました。常闇の黄泉の底より、再び会える時をずっと願っておりました。あの日から片時も、貴方の事を忘れた時はありません。再び貴方の抱擁を、ずっと求めておりました。

 今一度、二人で國を造りましょう。伊邪那岐命様イザナギノミコト……。




 ぱっくりと開いた月の殻から白く細い腕を伸ばし、ひらりひらりと游がせる。

 いとおしき者を、手招くように。繋がりし糸を、ゆるりゆるりと手繰り寄せるように。

 結ばれし糸の先には、あの日世界を別った夫が居る。喩え離れていようと、この糸が切れる筈がない。

 夫婦として契りを交わした時から、二人は一心同体。肉体の器は別々にあっても、心は常に共にある筈。


 ひらりひらり。

 

 イザナミの白い手のひらは、ほんのり発光しながら夜に舞う蝶のように揺れていた。




 伊邪那美命イザナミノミコト




 誰かが名を呼ぶ。知らぬ声だ。

 イザナミは、声に構わずイザナギを求める。




 貴女の夫、伊邪那岐命様は、すでにこの現世うつつよから身を隠されておられます。

 天地あまとち初めて開けし時、高天の原に現れし三柱みはしらと同じ処へ




 イザナミの手が、動きを止めた。


 伊邪那岐命様が、身を隠された……



 黄泉と同じ、常闇を宿した眼が、何を映すでもなく夜の向こうを捉えたまま微かに震えた。乾いて血の気のない唇が、二度、言葉を乗せぬまま動く。

 何故。

 そう云っているようにも見えた。


 身を隠くすは、一人神の成す事。

 先に身を隠された神々は、皆一人神だった。



 

 イザナミの眼の常闇から、光が零れた。

 涙の粒。

 死人しびとのような白い頬を伝い、零れ落ちていく。



 貴方はまた、私を置き去りにするのですか……

 いくら置いすがっても、貴方は行ってしまう。何度でも、何度でも……




 イザナミの涙は、割れて殻となった月の表面に落ちた。

 涙が触れたそこだけが、ぼうっと仄かな閃きを放つ。

 

 開いてしまった黄泉の門。




 帰りましょう、伊邪那美命様。今や貴女は、黄泉津大神ヨモツオオミカミとなられ黄泉を司るお方。

 私が、黄泉の國までお供いたしましょう



 月読命、かぐやは云った。


 月を戻し、通じてしまった門を閉じる事は、夜のす國を司る月読命にしかできぬ術。

 夜に光輝き、この現世に秩序をもたらすは、月。






「……桃太郎」


 

 月を見上げ、静かに立ち尽くしていたかぐやが、桃太郎の名を呼んだ。



「俺は、月に開いた門をあちら側から閉じる。だからお前は、黄泉の者たちが悪さをしないようにこちらから閉じてくれ」



 

 桃太郎は、躊躇した。

 桃太郎としての思考が、かぐやが云わんとしている事を拒んだ。


 本来の己の魂、桃の精として、その理屈は充分に判っていた。かぐやがしようとしている事も、全て。そうしなければ、繋がってしまった双方の秩序は崩れてしまう。

 けれどそれは、二つの世界が再びとこしえに閉じられるという事。

 それは、かぐやとはもう決して会えないという事。


 世界と何かを天秤にかけるわけではない。

 けれど、世界は二人を別つ。


 この想いは、このままかぐやと共に居たところで決して報われるものではない。

 けれど、それでもせめて、一緒に生きていきたいと思った。





「……俺は、かぐやが好きだ」



 震える声で、桃太郎が云った。

 告げるつもりなんてなかった。

 けれど、想いは口をついて言葉となった。



「……桃太郎」


 桃太郎は弾かれたように顔を上げ、かぐやを見た。

 かぐやは酷く優しい眼をしていた。


 いつだって、この眼に惹かれた。幾度も、幾度も。

 漆黒の眼でかぐやは、真っ直ぐに桃太郎を見詰める。


 その眼が、桃太郎の真正面に落ちるように近づいた。

 暖かな息が、頬にかかる。刹那、何かが触れた。




 それが接吻だと気づく頃には、すでに唇は離れた後だった。




「この想いは、きっとまやかしだ。一時いっときのまやかし。いつかきっと消えちまう。白んでいく夜明けの空に溶けて沈む、月の光みたいに」


 


 惚けたように見詰めるばかりの桃太郎に、かぐやは悪戯っぽく笑った。

 その内に含まれた僅かな憂いに気づいた瞬間、桃太郎の眼から涙が溢れた。


 そして、伊邪那美命の悲しみを知った。



 かぐやは今一度微笑むと、桃太郎に背を向けた。

 そして、もう振り向かなかった。


 すうっと伸びるように月を見上げ、佇む。その頭上から、見る間に白い光の筋が降り、かぐやの姿を眩いばかりに包み込んだ。かぐやの形は白い光の内に溶けてゆき、後には何も残らなかった。



 夜の食す國の神、月読命により、門は閉じられる。

 世界はまた、あるべき処におさまる。

 互いに寄り添いながらも、決して共に存在はしない。

 背を向けたまま、悠久に平行していく。それが定め。

 かつて仲睦まじく國を造り上げた夫婦神が袂を別ったその時から、そのように理は結ばれた。


 愛し、結ばれ、惹かれ合いながら、もう決して出会う事はない。




 円を結び、再び輝き夜空を照らす月を見上げ、桃太郎はゆらり両腕を閃かす。

 最後の結びを、丁寧に丁寧に締め上げる。



 もう黄泉が、うつほに通じる事もない。

 




          《終り》

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うつほ草紙 遠堂瑠璃 @ruritoodo

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