アイデアライズド・ノスタルジー

悠井すみれ

第1話

 闇の中に石段がそびえている。夜の神社だ。石段はところどころ苔むして欠けてひび割れ、肝試しにも使われることがある。けれど今宵に限っては恐怖を感じることはない。石段の上はうっすらと明るく、賑やかな流行りの歌や人の笑う声も漏れ聞こえる。今日は祭りの夜なのだ。


 石段を上るうちに息は弾み、背は汗ばんでシャツが張り付いていた。蚊に食われた腕を掻きながら、提灯で彩られた鳥居を潜り、視線をさまよわせる。鳥居のすぐ傍には大樹、その影が約束の場所。待つことになるのか、待たされるのか。きょろきょろと首を動かした目の端に、鮮やかな黄色が煌めいた。


 黄色は、浴衣に描かれた向日葵ひまわりの色だ。紺の地に力強く咲いて、夜の境内に夏の陽の明るさを呼び込んでいる。帯は赤で、きっぱりとした色のコントラストが目に眩しい。

 なお眩しいのは、浴衣を纏った少女の笑顔。待ち人を見てぱあっと咲いて、すぐに待たせられたと小さく唇を尖らせる。機嫌を直す言葉を寄越せと、浴衣姿でくるりと回る仕草も軽やかで。自身に注がれる視線を感じたのか、いつしか少女は心からの笑顔を浮かべていた。


 草履の彼女を気遣って、屋台を眺める歩みはごくゆっくりと。とはいえ、ひとつひとつの店先を覗くのに、急ぐ必要があるはずもない。りんご飴、たこ焼き、焼きそば。匂いに誘われるままに買っては分け合う。彼女の口元を見つめれば、薄く色づいているのも見て取れる。甘い香りは、焼きたてのベビーカステラから漂うだけでなく、彼女自身から漂うものだ。特別な祭りの夜に──それに、特別な相手のために? 彼女の装いも特別だった。


 金魚すくいでは、少し力を入れ過ぎた。思い切り腕を振ったら、水飛沫が彼女のたもとに掛かってしまった。向日葵の黄と紺の地の、境がじんわりと水で滲んだ。彼女は、卒なくハンカチを取り出す機会ができたのを、むしろ喜んだようだけど。透明な袋に入れて渡された──二匹の赤い金魚を、目の前に掲げてはしゃいだけれど。


 祭りの最後を締めくくるのは、夜空を彩る大輪の花。次々と打ちあがる花火、その轟音に、彼女の唇は自然とこちらに寄ってくる。空の花と目の前の花と、どちらに注目すべきか迷う間に、夏の夜は過ぎていく。繋いだふたりの手の間で、金魚が翻る。赤い鱗に青や緑の花火が映えた。


      * * *


 頭部デバイスを外された老人は、しきりに目を瞬かせていた。目も眩むような花火の輝きが、まだ眼前にちらついているのかもしれない。デバイスを受け取りながら、彼は老人に微笑みかけた。


「いかがでしたでしょうか」


 関係者から提供された画像・映像資料と、統廃合を繰り返した自治体の記録を辿りかき集めて集めた資料を駆使して作り上げた仮想世界ヴァーチャル・リアリティ。それも、この老人の青春時代のごく限られた瞬間を切り取ったオーダーメイドの。担当者としてクライアントの感想は気になる──というか、感動の声を期待しても良いだろう。だが、彼の自信に反して老人はしきりに首を傾げている。


「花火──あれね」

「はい」

「あんなに暗かったかね。もっと凄くなかったかね」


 皺んだ唇が不満げに尖るのを見て、老人の声に滲む不信を聞いて、彼は絶句した。その間にも、老人のクレームめいたコメントは続いている。


「焼きそばとかもねえ。あんなに不味かったっけ。脂っぽいし、油そのものも傷んでそうで。埃っぽくて──よくあんなのを食べてたもんだねえ」

「それは、あの、当時の記録から再現して──」


 正直に言って、デバッグした彼にとっても屋台の味は大したものではないと思った。しかし、当時の画像、映像、味の流行や流通状況を加味した結果、そうなるしかないと結論付けた。夏祭りというものは雰囲気や気分が重要だという記録もあった。衛生状態や割高感には目を瞑って楽しむのが作法なのだとか。何より老人にとっては輝かしい青春の一ページではないのだろうか。

 花火にしても、そうだ。それは、現代の方が技術は進んでいる。プロジェクションマッピングや、それこそVR技術とのコラボレーションで夜空に描かれる花模様は、七十年前のそれとは比べ物にならない複雑さや華やかさに至っているはず。でも、あの時代のあの夏を指定して再現させたのは、老人の意向でもあっただろうに。

 痴呆を疑う彼の目には気づかず、老人は深々と溜息を吐いた。


「それに──嫁は、あんなに不細工だったかね?」

「健康的な方でした。奥様のお写真から再現した十七歳当時のお姿です。間違いありません」

「うーん……最近の子らは綺麗になったからかねえ。そうかい、あんなもんだったか……」


 釈然としない様子でしきりに首を捻りつつ、老人は目を擦った。


「子供産んで肥えたと思ってたら、最期は骨と皮だもん。忘れるもんなんだねえ」

「…………」


 老人の伴侶は、数年前に病気で亡くなったと聞いている。老人の目が潤んでいるのは、仮想現実にダイブしていた疲れの名残なのだろうと、彼はそう解釈することにしてあえて指摘することはしなかった。老人も何事もなかったかのようにさらりとした態度で総括する。


「ま、思い出が綺麗っていうのは良いことだよね。そりゃ、大した技術だったけどね。思い出には敵わないって分かったよ」

「それは──申し訳、ござ」

「それが分かって、良かったかねえ。ありがとさん」


 頭を下げようとした彼を置いて、老人は立ち上がった。……立ち上がろうとして、付き添っていた女性に支えられた。


「もう、おじいちゃん。VRは終わったんだから。車椅子でしょ」

「ああ、そうだったそうだった。いちいち忘れちまう」

「転んだら大変なんだから。面倒がらないでよ?」


 祖父を車椅子に落ち着かせると、女性はにこりと笑って彼にお辞儀をした。


「祖父が楽しそうで……ありがとうございました。祖母の話、もっと聞いておけば良かったんですけど」

「いえ、とんでもございません」


 孫に車椅子を押されて出ていく時、老人は歌を口ずさんでいた。資料として彼も何度も聞いた、西暦2020年当時の流行歌だ。少なくとも、老人の精神を青春時代に連れて行くことはできただろうか。


 緻密な仮想現実世界も、思い出補正にはまだ勝てないのだ。数十年に渡って胸に抱かれ磨かれた、最高の夜の記憶には。そう思うと、悔しかった。

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