朝雲暮雨

武州人也

武帝が愛した男

 すっ、すっ、すっ、すっ、

 灯りのついた部屋の中で、天の子たる皇帝は、臣下に命じてさじに盛った薬を炎で炙らせ、その煙を鼻で吸い込んでいた。

「おお……おお……」

 甘い香りのするその煙を吸った皇帝は、俄かに恍惚とした表情を浮かべた。まるで、天にでも昇ってしまいそうな顔である。


 中国は漢の時代。後に武帝と呼ばれるようになる七代目皇帝の劉徹りゅうてつは、歴代の皇帝が成すことのできなかった偉業を達成した。北に軍を向けては内陸アジア最大最強の騎馬民である匈奴きょうどを打ち破り、張騫ちょうけんの派遣によって西域への道を開拓した。また、南に向かってえつ人の国々を服従させ、東に向かって朝鮮を滅ぼし郡を置いた。

 特に際立っているのは、北の匈奴を叩いて砂漠の南より駆逐してしまったことである。高祖劉邦こうそりゅうほう白登山はくとさんの戦いで匈奴の英雄冒頓単于ぼくとつぜんうに敗北したことで、漢は公主(皇帝の娘)を単于の妻として送り、更に毎年貢物を贈るという屈辱的な和議を匈奴との間に結んだのである。それ以来、漢の匈奴に対する土下座外交とも言うべき平伏の姿勢はずっと続けられてきたが、そうした中にあっても、匈奴の部隊が国境を越えて侵入し略奪を働くといったことは止まなかった。

 漢の五代目皇帝である文帝劉恒ぶんていりゅうこうには、このような逸話がある。馮唐ふうとうという家臣との対談の折に、彼の祖父がかつてのちょうの国で官卒将かんそつしょう(兵百人の隊長)を務めており、匈奴と秦の両方を打ち破った名将李牧りぼくと交わりがあったことを知った。文帝はこの馮唐から廉頗れんぱや李牧といった趙の名将たちの話を聞くと、自らの股を打って、

「わしの所に廉頗や李牧が将軍として仕えてくれたら、匈奴のことを気に病む必要もないのになあ」

 と言った。しかしその発言を聞いた馮唐は、畏れ多くも、

「陛下は廉頗将軍や李牧将軍を手に入れても、十分に使いこなすことはできないでしょう」

 と言い、その発言によって怒った文帝は禁中に戻ってしまった。暫くして後に文帝が馮唐を呼び出し、

「何故大勢のいる前でわしに恥をかかせるようなことを言ったのか」

と問いただすと、馮唐はかつて雲中郡うんちゅうぐんの太守(長官)であり、匈奴相手によく戦いながらも法に触れて罰を受けた魏尚ぎしょうという者の処遇をあげつらい、

「陛下の法令は余りにも細かく、恩賞は薄く、処罰は重すぎます」

 と諫言した。馮唐が言うのも尤もだ、と感じた文帝は、爵位を奪い懲役刑を課していた魏尚を釈放させ、再び雲中郡の太守に復帰させたのである。

 このように、漢にとって、匈奴というのはいつでも悩みの種であった。

 この、漢の匈奴に対する政策を一転させたのが、武帝、もとい劉徹である。

 愛するえい皇后の弟である大将軍衛青えいせいと、その甥である驃騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいの獅子奮迅の活躍により、漢軍は匈奴を相手に連戦連勝した。遂に匈奴はゴビ砂漠の南にいられなくなり、寒さの厳しい漠北に逃れざるを得なくなったのであった。

 匈奴を打ち破ったことで、劉徹には絶対的な自信が生まれた。先代たちが平伏し続けた匈奴をさんざんに打ち負かしたのだから、驕慢にもなろうものである。それと同時に、死によって自身の得た権威の全てが水泡に帰してしまうことを恐れ始めた。かつての始皇帝が不老不死を求めたように、この劉徹も、神仙思想に傾倒し始めたのである。度々、方士を呼び寄せては、怪しげな仙薬を差し出させ、それを服用するようになった。


 すっ、すっ、すっ、すっ、

 もう一度、皇帝劉徹は煙を吸い込んだ。甘い香りが鼻孔をくすぐると、体が柔らかい羽毛のようなものに包まれたような、そんな気分になった。同時に、途端に、意識が覚束なくなった。暫くして後に、猛烈な眠気が、劉徹を襲った——


「陛下、如何なさいましたか」

 草の匂いと共に、何処か媚びるような声色を聞いて、劉徹は目を覚ました。いつの間にか、草むらの上で寝ていたようである。聞こえてくるのは、何処かで聞き覚えるある男の声であった。

「お目覚めになられたようですね」

「お、お前は……!」

 劉徹は跳ね起きて、座っている男の顔を見つめた。

韓嫣かんえん……」

 女子おなごのような顔立ちと、右の口元にある黒子ほくろ、見間違うはずもない。劉徹がかつて愛した男、韓嫣である。

 韓嫣は、劉徹がまだ膠東こうとう王であった時代からの学友であった。戦国七雄の韓の王族の血を引くこの男は、後宮の女たちでも敵わない程の麗しい容貌を持ち、加えて夷狄いてきの戦術に詳しく、また武技に秀でており騎射の名人であった。劉徹が皇太子となり、そして皇帝として即位してからも、劉徹はこの美男子を変わらず寵幸し、起き臥しを共にしていた。

 だが、陛下の寵愛厚ければ、妬みを買うのもまた当然である。彼が主上と共に後宮に出入りしていたことに目をつけられてか、皇太后(劉徹の生母)に対して、韓嫣が後宮の女と密通しているという旨の申し立てがなされた。皇太后は韓嫣に賜死を通告した。劉徹は彼を守ろうと庇い立てしたものの、結局死は回避できなかった。

 今の韓嫣の顔には、あどけなさが存分に見て取れる、きっと、劉徹と出会って間もない、少年時代の彼の姿であろう。

「会いたかったぞ、韓嫣……」

小臣わたくしもです。陛下……」

 熱っぽい視線を送ってくる韓嫣とは対照的に、劉徹の目は潤み、戚々せきせきと涙を流し始めた。愛する男と再び出会えたのだ。どうして涙をこらえることができようか。

 それから、劉徹は、彼の死後に起こったことを色々と話した。匈奴討伐のこと、西域のこと、桑弘羊そうこうようの財政政策のこと、越や朝鮮のこと……

「とうとう、我々漢は匈奴に打ち勝ったのですね」

「そうだ。我々は国の誇りを取り戻したのだ」

「嬉しゅうございます」

 劉徹は、韓嫣の優美な顔をまじまじと眺めた。やはり、この世に並び立つもののない程に美しい。その麗しいことは、衛皇后に勝るとも劣らない。

 劉徹の腕が、韓嫣に伸びる。久方ぶりに、劉徹は彼の身体に触れたくなった。

「陛下、申し訳ございません。もう行かねば」

 韓嫣は突然、その腕をかわすようにすっと立ち上がると、主上に背を向け歩き始めた。その向こうには泰山たいざんそびえ立っている。

「ど、どうした、どこへ行く。わしを置いていくな」

 劉徹は慌てて立ち上がり、去っていく韓嫣の肩を掴もうとした。だが、その右手は虚しく空を切った。韓嫣の姿は、霧のようにかき消えてしまった。


 劉徹が目を覚ますと、そこは寝台の上であった。

「夢、か……」

 夢の中で泰山を見た劉徹は、かつて行った封禅ほうぜんの儀のことを想起した。往時に始皇帝が行ったとされる天地の神々の祭祀である。もし、韓嫣が生きてさえいれば、彼を伴って泰山に登り祭祀に臨んだであろう、と、劉徹は思った。

 その日はもう、後宮に行く気もなくしてしまった。劉徹は一人寝をしながら、今は亡き寵臣との思い出を想起した。共に乗馬し疾駆したこと、机を並べて兵法を学んだこと、巧みな弓捌きで彼が仕留めた獲物を持って帰ったこと——在りし日への郷愁に胸を焦がされた劉徹は、寝台の中で一人、哭泣こくきゅうしたのであった。

 

 

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