朝雲暮雨
武州人也
武帝が愛した男
すっ、すっ、すっ、すっ、
灯りのついた部屋の中で、天の子たる皇帝は、臣下に命じて
「おお……おお……」
甘い香りのするその煙を吸った皇帝は、俄かに恍惚とした表情を浮かべた。まるで、天にでも昇ってしまいそうな顔である。
中国は漢の時代。後に武帝と呼ばれるようになる七代目皇帝の
特に際立っているのは、北の匈奴を叩いて砂漠の南より駆逐してしまったことである。
漢の五代目皇帝である
「わしの所に廉頗や李牧が将軍として仕えてくれたら、匈奴のことを気に病む必要もないのになあ」
と言った。しかしその発言を聞いた馮唐は、畏れ多くも、
「陛下は廉頗将軍や李牧将軍を手に入れても、十分に使いこなすことはできないでしょう」
と言い、その発言によって怒った文帝は禁中に戻ってしまった。暫くして後に文帝が馮唐を呼び出し、
「何故大勢のいる前でわしに恥をかかせるようなことを言ったのか」
と問いただすと、馮唐はかつて
「陛下の法令は余りにも細かく、恩賞は薄く、処罰は重すぎます」
と諫言した。馮唐が言うのも尤もだ、と感じた文帝は、爵位を奪い懲役刑を課していた魏尚を釈放させ、再び雲中郡の太守に復帰させたのである。
このように、漢にとって、匈奴というのはいつでも悩みの種であった。
この、漢の匈奴に対する政策を一転させたのが、武帝、もとい劉徹である。
愛する
匈奴を打ち破ったことで、劉徹には絶対的な自信が生まれた。先代たちが平伏し続けた匈奴をさんざんに打ち負かしたのだから、驕慢にもなろうものである。それと同時に、死によって自身の得た権威の全てが水泡に帰してしまうことを恐れ始めた。かつての始皇帝が不老不死を求めたように、この劉徹も、神仙思想に傾倒し始めたのである。度々、方士を呼び寄せては、怪しげな仙薬を差し出させ、それを服用するようになった。
すっ、すっ、すっ、すっ、
もう一度、皇帝劉徹は煙を吸い込んだ。甘い香りが鼻孔を
「陛下、如何なさいましたか」
草の匂いと共に、何処か媚びるような声色を聞いて、劉徹は目を覚ました。いつの間にか、草むらの上で寝ていたようである。聞こえてくるのは、何処かで聞き覚えるある男の声であった。
「お目覚めになられたようですね」
「お、お前は……!」
劉徹は跳ね起きて、座っている男の顔を見つめた。
「
韓嫣は、劉徹がまだ
だが、陛下の寵愛厚ければ、妬みを買うのもまた当然である。彼が主上と共に後宮に出入りしていたことに目をつけられてか、皇太后(劉徹の生母)に対して、韓嫣が後宮の女と密通しているという旨の申し立てがなされた。皇太后は韓嫣に賜死を通告した。劉徹は彼を守ろうと庇い立てしたものの、結局死は回避できなかった。
今の韓嫣の顔には、あどけなさが存分に見て取れる、きっと、劉徹と出会って間もない、少年時代の彼の姿であろう。
「会いたかったぞ、韓嫣……」
「
熱っぽい視線を送ってくる韓嫣とは対照的に、劉徹の目は潤み、
それから、劉徹は、彼の死後に起こったことを色々と話した。匈奴討伐のこと、西域のこと、
「とうとう、我々漢は匈奴に打ち勝ったのですね」
「そうだ。我々は国の誇りを取り戻したのだ」
「嬉しゅうございます」
劉徹は、韓嫣の優美な顔をまじまじと眺めた。やはり、この世に並び立つもののない程に美しい。その麗しいことは、衛皇后に勝るとも劣らない。
劉徹の腕が、韓嫣に伸びる。久方ぶりに、劉徹は彼の身体に触れたくなった。
「陛下、申し訳ございません。もう行かねば」
韓嫣は突然、その腕を
「ど、どうした、どこへ行く。わしを置いていくな」
劉徹は慌てて立ち上がり、去っていく韓嫣の肩を掴もうとした。だが、その右手は虚しく空を切った。韓嫣の姿は、霧のようにかき消えてしまった。
劉徹が目を覚ますと、そこは寝台の上であった。
「夢、か……」
夢の中で泰山を見た劉徹は、かつて行った
その日はもう、後宮に行く気もなくしてしまった。劉徹は一人寝をしながら、今は亡き寵臣との思い出を想起した。共に乗馬し疾駆したこと、机を並べて兵法を学んだこと、巧みな弓捌きで彼が仕留めた獲物を持って帰ったこと——在りし日への郷愁に胸を焦がされた劉徹は、寝台の中で一人、
朝雲暮雨 武州人也 @hagachi-hm
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