最高高度の祭り
λμ
フライハイ.TV
マイルハイおじさんこと
彼はいま、アメリカ、カリフォルニア州南東部に広がるコロラド砂漠の、一点にいる。周囲では大勢のスタッフが和気あいあいとした空気で動き回り、撮影の準備をすすめている。
誰がどこから調達したのかわからない気球と、ゴンドラ。マイクロ波送信機がついているというカメラ。命を守る、ずんぐりとした与圧宇宙服――
「……どう考えても配信企画にしちゃやりすぎだろ……」
安岡は我知らずつぶやき、自らの言葉に驚いた。より正確には、その音に。慌てて首を振るも周囲に日本語がわかるスタッフはいなかった。ほっと一息つく。もしメインスタッフのユーキャンフライ――YCFこと
安岡はいま、自身のチャンネル、フライハイ.TVで決まった『最高のお祭り』企画に挑まされようとしていた。内容はすこぶる簡単――いや、バカげている。
「やっぱマイルハイおじさんならではって感じの、最高のお祭りにしたいっスよね!」
目だけはマジの唐本が、遊び半分にそう視聴者に訴えことで、企画内容は決まった。
三月三日、世界最高高度でおこなう
安岡は唐本の人殺しの視線に冷や汗をかきつつ同意した。これまでにも、気流うずまく山岳で飛ばされたり、ヘリからパラシュートなしで蹴り出される『後追いパラシュート』企画だったりと、無茶苦茶なことをやらされてきていた。雲の上での雛祭りなんて楽な部類だと思った。
唐本が準備のためにクラウドファウンディングを始めたと聞いたときも、ずいぶんおおがかりだな、くらいにしか考えていなかった。一年かけて準備が終わらなかったときは、日々の撮影に肝を冷やすばかりで、裏でなにが進行しているのか考える余裕がなかった。
二年経つころには計画の存在そのものを忘れており、三年目。
「みなさん! そしてマイルハイおじさん! 朗報です! あと一年で準備完了です!」
そう唐本が宣言したとき、なにが? としか安岡は思わなかった。撮影が終わってすぐに確認をとったが、人殺しの目で見られると追及できなかった。
そして、今日だ。
「どうしてこうなっちまったかな……」
言葉の通じないスタッフに宇宙服を着させられながら、安岡はつぶやいた。
元々、趣味でハングライダー動画を撮影していただけだった。唐本が近づいてきて、せっかくだから金にしないかと言われ、たしかにハングライダーは金がかかるからと受け入れた。
唐本は顔も声も頭もよく、あっという間に再生数が数十倍にふくれがった。ひとりでやっていたころには考えられなかった収入に、欲が生まれた。いままでにできなかったことができるのだと思うと、映像外でどんなに辛辣な態度をとられても気にならなかった。
命の危機は何度も感じた。殺されると何度も思った。だが死ななかった。死なずにここまでやってきた。やってこれてしまった。
いったい、いくら掛かっているのだろうか。
「うぃ、やっさん、おつかれーい」
急に聞こえてきた唐本の声に、安岡は思わず背筋を伸ばした。
「あ、え、ど、どうも、唐本さん……」
「なになになに? どうしたの? なんかテンション低いじゃん。視聴者ナメてるの?」
言って、唐本が唇を歪めた。目はまったく笑っていない。
安岡は慌てて愛想笑いをつくった。
「ああいえ、大丈夫です」
「ほんとに? まぁダメっつっても乗せるけど」
「ははは……」
「いやマジよ? アホほど金かかってっから、やめるとかねーから。宇宙人撮るくらいの覚悟ででいってこいよ? マジで」
「う、宇宙人って……ははは……」
「もっかい言ったほうがいい感じ?」
「い、いえ。宇宙人を撮る覚悟で! 言ってまいります!」
安岡は大声で言い、敬礼した。撮影が始まったらコミカルに動くクセをつけろと、幾度となく唐本に言われていたのだ。
唐本は満足そうに頷いて、雛祭の段取りを説明した。
内心で、なにが宇宙人だよ、と思いながら、安岡は必死に相槌を打った。話を聞いているアピールだ。もし段取りを忘れたら、空の彼方で宇宙服を脱げなどと言われるかもしれない。宇宙人が見つからないなら、お前が宇宙人になれ、という具合だ。視聴者は増えるかもしれないが、
何事もなく終わりますように。生きて帰れますように。
念じながら、安岡は気球のゴンドラに乗った。上昇は驚くほど早く、また静かだった。被せられた宇宙服のヘルメットが音を遮断しているのだ、と気づいたとき、ゴンドラは雲と同じ高さにに達していた。
安岡は足元が揺らぐような感触をもった。水平線が遠いのだ。スカイダイビングをさせらときは恐怖をおぼえたが、雲と同じ高さともなると自身の実在が曖昧になる。恐怖の先、と言ってもいいだろう。どこでなにをしているのか分からなくなる。
気球はあやふやになっていく安岡を乗せ、粛々と上昇している。ヘルメット内に一瞬ノイズ音が走った。
「安岡さん聞こえてるー?」
「あ、はい。聞こえます」
無線の音が、唐本の声が、応じる安岡自身の日常的な声が、実在の揺らぎを止めた。
「そろそろカメラの前に立っといて」
「いま、どれくらいの高度なんですか」
「あ? 聞いてどうすんの?」
「どうっていうか、なんか、まだ上昇してるんですけど……」
「そりゃそうでしょ。目指せ四万メーターってやつ」
「四万!?」
安岡は思わず声を荒らげた。無線機の向こうで唐本が笑っていた。ナイスリアクションどうもでーす、などと言っている。冗談だろ? と、安岡は思った。
四万メーター。高度四十キロ。半日がかりの上昇になるのではないか。
気球は上昇をつづけている。気球の操作は地上で行われているのだ。降りるのは不可能。
ごくん、と安岡は喉を鳴らした。
「最高の祭りになりまっせー、って、アハハハハ!」
唐本の耳障りな笑い声が、遠くなっていった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
遥か彼方に見える蒼い曲線に、安岡は落ち着きを取り戻していた。
地球は丸く、明るい。
地上にいたときの恐怖はなんだったのだろうか。高すぎて高度感が希薄になっているのか。バイザー越しに見ているから現実感がないのか。
理由はわからないが、安岡は涙を流しそうになった。
美しい。この美しさをみんなと共有しよう。
と、安岡はカメラに向き直る。
「安岡さん、なんかカメラに映ってるってコメントがきてます」
耳元で唐本の声が聞こえた。
「後ろ、なんかいます?」
「後ろ?」
安岡は後ろに首を振った。
ぐぅぅぅぅぅぅ、っと広がる、闇。
なにもいない。いるはずがない。
安岡自身でさえ、宇宙服がなければ血液が沸騰して死んでいるのだ。
ひとつ身震いして安岡はカメラに向き直る。
「ちょっと、やめてくださいよー。怖いじゃないですかぁ」
へらへらと言った、その声に、安岡は喉を鳴らした。震えている。寒さは感じない。異常な高度も恐怖になりえない。闇にしても、蒼い曲線のおかげで美しく思える。
「えー? あ、いる、だってー。ちょっともっかい振り返ってみて。マジ、なんもいない?」
「だから、いるわけないですってー」
「いいからちょっと振り向いてみてよ」
「雛祭やりましょうよ。酸素残量とか――」
「いいから後ろを見ろって」
声が微かに冷えた。視聴者は気づかないだろうが、安岡にはわかる。バイザーに反射する自分の顔の、目が、人殺しの目に見えた。
「はーい、確認しまーす」
内心で冷や汗をかきながらも、へらへらと言い、安岡は振り向いた。
ぐぅぅぅぅぅぅぅっと、広がる、闇。
が、
揺れた。
「あ?」
なにが揺れた? 闇が揺れた。黒が揺れた。
ぐにゃりと黒色が曲がり、ながら、近づいてくる。
「え、なに」
と、発した瞬間、安岡の意識は途切れた。
フライハイ.TVの視聴者が増えていく。カメラの向こうで、モニターの奥で、安岡の宇宙服に纏わりついた黒いなにかが、彼の躰を捻り潰していく。
白い宇宙服を背景にして、黒いなにかが、カメラに迫り、覗き込む。
フライハイ.TV史上、最高の祭りは、唐本の絶叫から始まった。
最高高度の祭り λμ @ramdomyu
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