雛乃の秘密

未翔完

雛乃の秘密


 がら、がらがらがら。


 少し立て付けが悪くなった玄関の扉を開け、私は実家に帰ってきた。といっても、私が住んでいるマンションと実家の距離は二駅離れている程度。一か月に一度は何かしら理由をつけて帰っているので、特に懐かしいといった感情は無い。

 

「ただいまー」


「あ、雛乃ひなの? おかえりー」


 私が少し大きな声で言うと、リビングの方からお母さんの声がした。 

 毎回実家に来る際には、その前にお母さんに電話しているのであまり驚いた様子はない。落ち着いていて、ふんわりとした声音が返ってくる。


「ふー、今日は電車混んでて困っちゃったよ」


「そう。大変ねー」


 リビングに入り、開口一番いかにも大変そうに手で自分をあおいで見せた。

 しかし、お母さんはテーブルの椅子に座ってテレビを見ている様子。そして、バラエティー番組を見ながら私の言葉に適当な相づちを打った。ほぼ無反応。

 一見すると私に興味を持っていないかのように見えるが、お母さんはいつもこんな調子。捉えどころがないというか……。けど、冷たいわけじゃなくてむしろなごやかで、ほんわかとした人。

 周囲を知らず知らずに癒すことができるお母さんのそんなところにかれて結婚したんだ、ってお父さんが恥ずかしがりながら小さいときに話してくれたこともあったぐらい。


「そういえば、お父さんいないの?」


「お父さんはスーパーにちらし寿司を買いに行ったよー」


 リビングにお父さんの姿が無かったので問いかけたのだが、少し予想外な単語がお母さんの口からは飛び出した。


「ちらし寿司? そりゃまたなんで」


「あら? 雛乃、今日が何の日か知ってるでしょ?」


 今日は3月3日……、あ。合点がってん承知の助。


「ひな祭り、か」


「おーあたりー」


 時折バラエティのお笑い芸人が言ったことに笑いながら、お母さんはこちらを一瞥いちべつすることもなく、某傑作ジブリ映画のパクリをする。


「ひな祭りかー。確か私が小さい頃、やけに盛大にやってたよね。おっきなひな人形を飾って、ちらし寿司なんかもお母さん達だけでつくったりして」


 そう、それは私が小学生ぐらいの時の記憶。記憶すらあまり無い2・3歳ぐらいから続けていたらしいから、単純に中学三年生までの10年以上本格ひな祭りをやっていた計算だ。もう12年以上前のことだというのに、小学生の時の記憶をよく保っているものだと、ちょっとだけ感心する。

 

「そんなこともあったね。今はもう雛乃が大きくなったから、そんなに盛大にはやらなくなっちゃったけど」


 かばんやコートを置いてからソファに座ると、斜め左に見えるテレビに向けられたお母さんの横顔がやけに印象深く思えた。そして私の言葉に答えるお母さんの声音もまた、どこか哀愁あいしゅううれいを含んでいる感じがして、どうも違和感を覚えた。

 私が成長しちゃったせいで、ひな祭りを思いきりできないのが寂しいとか? いや、お母さんはそんな伝統行事系パリピではないだろう。

 純粋に大人になった私の成長に感動しているとか? ……なら、少しは私の方を見てくれてもよさそうなものではないだろうか。

 よく見てみれば、お母さんの視線はテレビの方こそ向いているが、番組を観ているわけではないのだと理解した。まるで何かを思い出しているかのように、どこかを見つめているような感じだった。


「……ねぇ、お母さん。私が小さな頃、どうしてあそこまで盛大にひな祭りをやってくれたの? 普通の家はあんなにしてくれないよ」


 それは自然に口からこぼれ落ちた質問ではなかった。お母さんの態度に関する違和感を、その質問で解消させることができるんじゃないかと考えた結果だ。

 実際、ひな祭りの日に雛あられやちらし寿司は食べても、本格的なひな人形を飾る家っていうのは珍しい。ちらし寿司を両親が作ってくれるというのもそうだ。

 小さな頃はそれが普通だと思っていたけれど、学校の友達との会話でそれが中々無いことなのだと知った。

 ひな祭りは女の子の成長を祝うお祭り、というか伝統行事。一人娘である私を可愛がっていたからだと簡単に推測で納得することはできるけど、どうしても聞いておきたいと思った。


「………。そうね、雛乃にもそろそろ言ってもいい頃かな。もう社会人なんだし。それに、ちょうどひな祭りの日に来てくれたんだから」


 私の質問に対して、お母さんは初めて私の方をしっかりと向いて答えた。何か意味深なことを独り言のように言いながら。

 そして、その後にお母さんはこう釘を刺した。


「けど、今から話すことは絶対にお父さんの前で口に出さないこと。約束できる?」


「……うん、約束する」


 何故なのかと問おうとしたが、それは野暮やぼなことだと気づいてやめる。

 きっと今からお母さんの口から語られることに、その理由も隠されているのだと直感的に思ったから。だから、私は短く約束を交わした。


「じゃあ……どこから話そうかな」


 そんなお母さんらしい、ゆったりとした語りだしから始まったのは、お父さんとお母さんの過去に関する話だった。



 お母さんがお父さんと出会ったのは高校生のときだって、前に話したことがあるでしょ? 今から私が話すのは、その時の話。

 私とお父さんが高校二年生のときに同じクラスになって、少し話すようになった頃。そのときお父さんには、とても年の離れた妹がいたの。

 名前はひな。ひらがなで、ひな。

 夏にお父さんに告白されて付き合い始めた頃、お父さんの家に行ったことがあって、そのときに出会ったの。小さくて可愛い、6歳の女の子。

 お父さんの家には度々たびたび行ったんだけど、その際にはひなちゃんと遊んであげることも多かった。だからひなちゃんとはとても仲良くなって、まるで本物の妹みたいに可愛がっていた思い出がある。

 けど、何回かお父さんの家に行ってひなちゃんと遊んでいると、少しずつ違和感を覚えるようになったの。ひなちゃんは6歳だって聞いたけど、それにしてはあまり言葉を発しないし、話したとしても大抵は単語だけだった。

 気になってお父さんに聞いてみると、お父さんはとても言いづらそうだったけど打ち明けてくれた。



「ひなちゃんは、知的ちてき障害者しょうがいしゃだったの」


「え……」


 私は少しだけ驚きをらした。そんな話はお父さんの口から聞いたことが無かったから。いや、好き好んでする話でもないか。

 そして、お母さんは話を続けた。



 ひなちゃんが障害を持っているということに、私は別段ショックを受けることは無かったの。だって、ひなちゃんはひなちゃんだから。

 他の何者でもなく、私と仲の良い、小さくて可愛い女の子。

 だから、私は全く態度を変えずにひなちゃんと接した。幸いなことに……って言えるかは分からないけど、ひなちゃんの障害は軽度だった。だから病院とか障害者施設に行くことなく、基本的には普通の人と同じだった。

 ひなちゃんといつまでも友達でいられるって、私は思っていたの。



 それから季節は移ろって。

 夏も秋も過ぎ去り、寒さが厳しい2月が始まった頃。

 とんでもないことが起きたの。


「ひなちゃんが、全く喋れなくなってしまった」


「………」 


 お母さんが告げたその言葉は、とても残酷で悲しかった。



 お父さんがお医者さんにひなちゃんを診せたら、こう言われたらしいの。


『障害が悪化してしまって、このままでは社会生活が満足に送れないでしょう。とても言いにくいことではありますが、施設の方に行くべきだと思います』


 お医者さんの言葉の意味を、ひなちゃんは首をかしげるだけで何一つ理解できていなかった。そんな様子を見て、お父さんもその家族も泣き崩れた。


 私もそれを後から聞いて、辛かった。

 どうして、どうしてなんだと、夜ごと涙で枕を濡らした。

 過去の楽観した自分を殴ってやりたかった。

 小さな女の子にそんな重荷を背負わせる運命とやらを叱咤しったしてやりたかった。

 そして、自分には何一つできることがないということが、何よりも悔しかった。


 3月3日。ひなちゃんは施設に入ることになった。

 その施設はお父さんの家から少し離れたところにあったので車で行くことになり、私も同乗させてもらうことができた。

 車の中では、残された時間を惜しむように私は積極的にひなちゃんに話しかけた。ひなちゃんはひらがなやカタカナを書くことはできたので、あまり大きくないホワイトボードを持参して、簡単なコミュニケーションをすることはできた。


 そんな時間もあっという間に過ぎ去って、気づけば施設の門の前にいた。しばらくすると施設の人が来て、お父さんの両親はひなちゃんをその人に預けた。

 「大丈夫だ」「毎週来るからね」と涙を流しながら。

 お父さんに至っては嗚咽おえつを漏らしていたわ。

 私も泣きながらお別れをして、ひなちゃんに背中を見せようとしたそのとき。


 ひなちゃんが、私のセーターの袖を引っ張ったの。

 何だろうと思って振り返ると、ひなちゃんは必死にホワイトボードに文字を書いて私に見せた。そこには、ひなちゃんのたった一つの願いがあった。



「『いつかいっしょにひなまつりしようね』って。

不思議とひなちゃんの声が聞こえた気がした。……その後にお別れになった。

後でお父さんに聞いたら、ひなちゃんは毎年ひな祭りを楽しみにしていたことが分かった。毎年、自分が成長するのを皆から祝われる日だから。

生きることで精一杯だったひなちゃんにとっては唯一の救いだったから。

だから私は絶対に、いつかひなちゃんとひな祭りをするって決めたの。

けど……それは叶わなかった。ひなちゃんは元から体が悪くて、入所して半年もしない内に亡くなってしまったから」

 

「……それが、盛大にひな祭りをやる理由?」


「うん。私はせめてもの罪滅ぼしをしているつもりなんだ。

 子供だった頃の雛乃にひなちゃんを重ねて。小さいまま死んでしまったひなちゃんが、今度こそ大人になれますように。

 そう願って、ひな祭りが雛乃にとって最高のお祭りになるようにしていたの」


 話は終わりだと言うように私から視線を外したお母さんの横顔は、さっきとはまた違う感情を私に抱かせた。


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