このあくなき世界唯一の

吉野奈津希(えのき)

このあくなき世界唯一の



 ——貴方が失った物を、私は取り戻したいのです。なんとしても。




▽▽▽


「アンタさぁ、何が楽しくて生きているの」


 通学中にたまたま同じ電車に乗り合わせた遠野宮アリルが私にそう囁く。

 同じ小学校中学校を卒業し、高校のクラスメイトであって、でも会話をした記憶は全然ない遠野宮アリルは昨今では珍しい悪性促進因子混入者アンチソサイエティパーソンとして認定されていて、本来であればアリルを私は怖がらなくてはいけないのだけど、私は不思議とアリルへ好奇心のような物が湧いていく。


「私からしたら遠野宮さんこと何が楽しくて生きているのかわからないけど」


 売り言葉に買い言葉で返す。アリルは車内だというのに、あっという間に顔を歪めて私の胸ぐらを掴み睨みつけてくる。


「アタシからしたらアンタはもう狂っているんだよ」


 変なことを言う子だな、と私はぼんやりと思いながらそれ以上揉め事を周囲に見せないようにアリルを無視して脳内拡張神経細胞ブレインエクステンションニューロンを起動して電子書籍を起動する。


「テメエ、目をそらしやがったな! アタシから目を!」


 アリルはそれに気づいて私に手をあげる。車内は騒然となって、アリルは駅員に引きずり出されていく。ああ、かわいそうに。


▽▽▽

 

 人類が精神悪性因子を発見することが出来たのは人間が人間に愚かさを塗りたくった21世紀の中で数少ない功績と言えるだろう。

 心に余裕がない人間であればあるほど、たびたび人々の間で(そのエゴに意識的かどうかは別として)語られる「生まれも育ちも貧しいが心の清らかな善人」という存在は減っていく。それは教育学であったり心理学であったり社会学であったり、政治学であったり、と様々な領域で多様な角度から切り込まれたが、研究が進めば進むほどに「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という身も蓋もない現実が真に迫っていく。

 そのようなこの世の地獄の構造に救いを見出したのは一見するとその領域に触れてこなかっただろう脳神経学の分野だった。

 傾向としては確かに貧しい人々の凶行などは存在したが、それではいわゆる富める人、社会的に成功している人が悪事に手を染めてしまうことの説明がつかないと考えたのだ。

 研究の果てに、我らが科学はたどり着いた——すなわち、悪性促進因子について。

 生活が困窮するだけでは人々は凶行に及ばない、それは悪性促進因子を持つ者だけだ。

 そのような発表は人々にある種の救いを与えた。ある意味で悪性促進因子という『内敵』により人が悪に手を染めるのならばそこに対処すれば人々は善性を保ち生活が出来る。

 悪性促進因子に対してのアプローチは慎重に行われた。人々がその治療の果てに、精神の豊かさ、喜怒哀楽すら失ってしまえばそれは現代のロボトミー手術の再来と捉えかねない。

 研究と実験はマウスなどの動物を使ったものから始まり、緩やかに、しかし確かに進んでいった。最終的に自分たちの研究成果に確信を持った研究者は自らにそのアプローチを行った。

 時間経過により自壊するナノマシンを血管へ注射、血流に乗って脳神経へ到達し、悪性促進因子を除去後自壊する。あくまで除去は悪性促進因子に留め、感情等を司る大脳辺緑系は決して傷つけない。同時にナノマシンは脳内拡張神経細胞を構築し、人々がより効率的に学習等を行うためのアプリケーションをインストールする。過去ではデジタル教科書だとか、電子書籍と呼ばれるものだ。自らの脳内でイメージする画像に、書籍を投影し、視界は外世界を見つめながら内世界では読書に興じることが出来る。アリルにはバレてしまったが。

 ナノマシンによる実験は、成功だった。観測されていた悪性促進因子は確かに除去された。それを持って研究はその研究者を離れ、犯罪者の再発防止プログラム等に組み込まれ市政に普及していく。

 今では小学校、中学校、高等学校の入学前にチェックを行い、悪性促進因子の除去を行う。予防接種のようなものだ。自らの内に潜み、発症の危険がある悪という存在への予防。

 私も皆も、それは当然のこととして受け入れた。


 しかし、遠野宮アリルは違った。

 彼女は小学校、中学校ではナノマシンの投与を受けていたが、高等学校ではそれを受けていない。欠席したのだ。とはいえ、小学校中学校で投与を受けているため彼女が大犯罪に手を染める可能性は低いと思われていた。

 そのため、(ナノマシンの投与は設備費用だけでなく人件費なども相応にかかるため)来年度の新入生が入学し、ナノマシンの投与の機会が訪れるまでは遠野宮アリルは観察事項となった。

 彼女は悪性促進因子混入者として人々から奇異の目で見られながら日々を過ごす。


 電車を降りてホームで通り過ぎた駅の方を見つめ、ふと、考える。遠野宮アリルはなぜ私に声をかけてきたのだろう。

 脳内に巡らされた脳内拡張神経細胞のアプリケーションによって悪性促進因子混入者との状況を読み込む。悪性促進因子混入者の行動を監視することが出来る便利なアプリだ。昔はそのようなプライベートが公開されると、人々はデマゴギーに駆られて集団ヒステリーの果てに先手を打って攻撃したようだが、今の時代は皆が悪性促進因子を除去しているため、あくまで自衛のためにだけ利用が出来る。

 アリルはようやく駅員から解放されたようだった。電車に乗り直し、学校へ向かっている。

 どうやら、悪性促進因子持ちとはいえ学校をサボろうとするわけでもないらしい。(あくまで因子持ちというだけで悪を実行するかは元々確定していないのだが)


 私はアリルに興味を持って、行動を少し観察することにする。彼女は授業は真面目に受けていたし、教師との関わりもそれなりに上手くやっているようだった。

 アリルの私への対応は何だったのだろう?

 そう考えてつい実眼でアリルを見てしまい、アリルは私の視線に気づく。

 アリルがつかつかと私の近くに寄ってきて、不意に私の手を取る。


「ちょっと来て」


 クラスの人々は特にアリルに関心がないようであっさり連れ出された私とアリルは屋上で会話することになる。


「さっきは悪かったね。感情的になりすぎた」


 突然のアリルの謝罪にびっくりする。私は悪性促進因子混入者に対しての偏見を持ちすぎているのかもしれないと反省する。


「ちょっとびっくりしたけど大丈夫。なんなら今の方が驚いているけど」

「アタシが謝ったのがそんなに意外?」

「意外だね。絶対私が悪いと確信しているぐらいの勢いだったし」

「アタシはちょっと感情的なだけだよ。因子持ちでも別に犯罪を必ずするわけじゃない。その人なりの理由が積み上がった時に衝動が生じるかどうかなだけで。なんならナノマシンが発見される前の人類はみんな因子持ちなんだから」


 確かに、と関心する。アリルは私が思っていたよりもずっと言語化に長けている人だった。

 たわいもない話が私に妙な心地よさを感じさせる。意外だ。クラスメイトたちが嫌いなわけではないが、私は特別な友人はいなかった。朝に胸ぐらを掴んできた因子持ちとこうも会話が続いていることが不思議だった。


「アリルさんも大変だね。因子持ちだと色々変な目で見られるでしょ」


 そう言うと、アリルは顔を歪める。何か言いたげだけど、少し迷ったそぶりの後、返事をする。


「そうでもないよ。案外みんなリベラルというか、差別心なく接してくれる。アンタみたいな人の方が案外差別心よりかもよ?」

「うーん、そう言われると結構心苦しいなあ」


 確かに私はアリルを因子持ちという色眼鏡で見すぎなのかもしれない。少しだけ反省する。


「まぁいいんじゃない。私はそういうのはそういうので人間らしくて好きだよ。まぁ差別心があってもいいなんて大きな声で言えたことではないかもだけど」


 そうアリルが言って、私の中で何かが動く気がする。

 何かの声がする。

 私の中で、何かが。


▽▽▽

 

 それから私とアリルの交流が始まる。お昼休みや放課後に二人で屋上で話す。内容は授業の話だとか、家での話だとか、たわいもないことばかりだけど、たまにアリルが妙に真剣な顔で哲学めいたことを話す。

 放課後のことだ。アリルが子供の数について話す。


「過去では少子化が進んでいたらしいけど、それって尊厳という観点としてはどうだったんだろうね」

「少子化? ああ、なんかあったらしいね。尊厳って?」


 過去にはそういう時代があった、らしい。今では一つの家庭につき三人や四人は産んでいて、福祉も行き届いているので片親であっても十分な育児が期待出来る。悪性促進因子の除去により、虐待等の悲しい出来事も消えた。今の世の中は人類の繁殖という観点では最高の時代なのかもしれない。


「今ではいないけどさ、子供を作ると自分の生活が破綻しちゃう、とか。相手がいないとか、色々あったわけじゃない。あと、同性が好きな人とかさ」

「ああ、いたらしいね」


 交際を一切しない人、性愛を必要としない人、同性愛は過去にいたらしい、とされている。なぜだか近年は匿名のアンケート等の調査であってもそういった人々は発見されず、過去の時代においてのみ存在した人々と定義され学術的な研究対象となっている。


「あれってさ、うーん、アタシがいうのもアレなんだけど、人類の愛の側面なんだよ」

「愛? 側面?」

「今って効率ばっかになってる。個人の尊厳の部分が完全に機械になっちゃってるよ」


 そう言うアリルの顔は寂しげに見えた。夕暮れに照らされて物憂げなアリルが見える。

 私はアリルの言葉を帰りながら考える。家でご飯を食べている時も、お風呂に入っている時も、寝る前もアリルがそれを話した時の顔と、会話と、アリルとの日常を連想しながら考える。 

 私たちの世界はとても適切で、私は当然のようにやがて恋をして、大人になり、働き、家庭を持つのだと思っていた。雇用は男女関係なく約束されているし、私はそれは素晴らしい社会だと考えている。


 ——アンタさあ、つまんないね。

 ——アンタ、何が楽しくて生きているの。


 アリルの言葉、いや、アリルではない。誰かの言葉が脳裏によぎる。


 私は徐々にちぐはぐになる。

 やがて学校のクラスメイトたちが恋をする。あまり友達のいない私にもその話題は自然と流れてくる。みんな異性に惹かれていく。好みは千差万別で、体の大きい人が好きな人もいれば細い人が好きな人もいて、体育会系だったり文化系だったり、もっと掘り下げていけば語り尽くせないくらいにバリエーションがあった。 

 だけど、私は、それを聞いても夕暮れに照らされるアリルのことだけが浮かんでしまう。

 アリルと通学する。

 アリルと話す。

 アリルと笑う。 

 アリルと過ごす。

 その日常がいつしかとても心地よく思うようになる。かけがえのないもののように思う。

 でも、その終わりは本当にあっさりだ。


「明日、ナノマシンの予防接種だよ」


 アリルが会話の途中で、急な話題転換をする。


「アタシも因子持ちとしての生活は終わり」


 アリルが当然のように言う。私はなぜかとても動揺する。アリルの大切な何かが失われる気がして。


「ちょっとね、アタシ、頑張り続けるのが無理になっちゃった」


 そうアリルが悲しそうに笑った時、私はアリルの内面に欠片も寄り添えていなかったのだと知る。私はアリルと過ごす日々がとても大切に思えていたのに、その日々をアリルと共有出来ていなかったと気づいて心臓が絞められるような気持ちになる。


「どうして、アリル、今までも別に犯罪、おかしてないじゃん。必要ないじゃん」

「でもそうしておいた方が望ましいでしょ」

「どうして……」


 アリルは私の声をきいて、意外そうな顔をする。


「アタシはね、悪であることが疲れたんだよ」

「悪じゃないでしょ。だって、因子持ってるだけで、悪いことなんて」

「違うよ、現在進行形で私の悪性は芽吹いている。この世界で、私は多分、唯一の社会の悪なんだ。アタシはね、効率的で生産的なこの世界で、全く生産的でない、悪なんだよ」 


 アリルはそう言った。


「アタシの中で今でも生産的でない感情が動いている。アタシの中で真実だと感じる心の動きが形となって花開いて、結びつくと必ずこの世界の敵になる。アタシはトリガーを引くだけで簡単に悪を成せるんだよ」

「何を、言っているの」


 私の声を聞いて、アリルは微笑む。ああ、アリルは私と話す時、とても綺麗な笑顔で私を見つめてくれる。他の人が関心を持たない私を、脳内拡張神経細胞(ブレインエクステンションニューロン)を介さず実眼で見つめてくれる。私はアリルから目をそらせない、そらしたく、ない。


「やっぱりね、こう言っても伝わらないってことはアタシの一年はあんまり芳しい成果じゃなかったってことだよ。でもいいの、気にしないでいいの」


 アリルの口調が変わっていく。

 アリルは屋上の扉へ向かっていく。


「私ね、貴方みたいになりたかったの」


 話すアリルが背中をこちらに向けて、遠ざかっていく。


「貴方みたいに、口が悪くて、挑発的で、感情的で、情熱的」


 私はそんな私を知らない。アリルが何を言っているかわからない。私はそんな人間ではない。


「でも、もうだめみたい」


 アリルが振り返る。相も変わらず笑顔で、でもその笑顔にいつものような力はなくて。


「きっと永遠にさようなら。また来週会いましょう」


 そう言って、扉は閉められる。私は何も言えずに屋上に立ち尽くす。時間だけがただ過ぎて、私はアリルのことを追いかけられずその日を終える。


 アリルの言葉がただ私の中に留まり続けている。私は体調を崩して家から出るのが嫌になる。私はナノマシンの摂取を欠席する。私は自分の中で何かが芽吹いているのを知覚する。


 私はそれがアリルの言う唯一の悪であることを自覚する。

 私の中には、既に悪が芽吹いている。かけがえのない、愛おしい、この世界の悪が。


 悪性促進因子は不合理的で、暴力的で、人間の利益を害する可能性のある因子だ。では、悪性促進因子を除去した時に、悪となる可能性のある不合理な感情はどうなる? 記憶は? 思想は?

 私はある仮説に行き当たる。


 悪性促進因子の除去は人格に、記憶に影響を与えないわけではない。

 悪に関係する感情や記憶や思想を全て除去するのだとしたら。

 例えば、社会から求められない、生産性のない渇望があるとしたら。


 アリルが抱えていたのは、それだ。


▽▽▽


 私はいつもの電車の時刻をチェックする。

 アリルと乗ったいつもの電車。

 アリルと出会ったあの日の電車。

 でも、きっとあの日は最初の出会いじゃなかったんだろう。

 私は想像する。あの日、アリルが望んでいたことを。アリルが考えていたことを。アリルに、どう話してあげるのが良かったかということを。

 アタシは想像する。アリルの望みをどうやって叶えようか、アリルにどう関わってあげようか、どう話してあげようか。

 心の中で眠っていた、いや、死んでいた感覚が生きていることを確かめる。

 大丈夫だよ、アリル。もう貴方が演じなくても思い出せるから。

 今のアタシは、確かに悪性促進因子混入者だ。確かに、この世界に唯一の凶悪だ。

 ホームに電車が到着して、アタシは電車に乗り込む。座席に座っているアリルを見つける。

 例え何度繰り返しても、アタシはこの想いを蘇らせ続ける。

 アリルの無感情な顔を見て、アタシが惹かれたアリルでないことに腹を立てて。

 きっと、何度でも貴方と出会い直すために。

 アタシは愛を紡ぐように言葉を紡ぐ。

 アリルに囁く。


「アンタさぁ、何が楽しくて生きているの」


 初めて言うはずのその言葉は、不思議と言い慣れた響きだった。〈了〉

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