2月29日
枕木きのこ
2月29日
「四年に一度だけ、彼に会えるの」
進学のために上京し、慣れない都会で一人、絵にかいたような古いアパートでの生活を始めて、二年が経った。
親戚も友達もいない中で始まったその生活で、一番初めに話をしたのが美波さんだった。
隣の部屋に住む彼女は、引っ越しの挨拶に訪れたあか抜けない私を見て、くすくすと笑った。それに怒ることがなかったのは、彼女の笑みには嫌味がなく、朗らかだったからだと思う。
「ごめんね、まるで昔の私を見ているみたいで」
そう言いながら、私の差し出した地元の名産を受け取ると、美波さんは
「これからよろしくね」
弾ける——いや、私の不安を弾く笑顔で言ってくれた。
それから、コンビニ飯ばかり食べる私を慮って手料理を分けてくれたり、時には家に上げて振舞ってくれたり、返せないほどの恩ばかりが募る毎日だった。まるで本当のお姉ちゃんのように私のことを可愛がってくれたし、そう思うことが過信だと考える隙間もないほど、私も彼女のことが好きだった。
だから、ふいに落とされた彼女のその話を、私は大人しく聞いていることしかできなかったのだと思う。
何も返さないでいる私に対して、美波さんは視線を左上に逸らしたあと、
「今年はうるう年だね。うるう年って、なんだかわかる?」
と聞いてきた。
「2月29日がある年ですよね」
「ごめんね、聞き方が悪かった」
素っ頓狂な返事をした私に向けて視線を戻すと、小さく笑う。
「どうして四年に一度うるう年があるのか、考えたことあるかな?」
言われて、そういえば考えたことなどなかった、と思う。それはオリンピックが四年に一度開催されるのと同じで、「そうであるからそう」と思い込んでなあなあに生きてきたからだ。今まで、考えたところで覆ることのないことを考える意味を見出したことはない。
「もともと、一年っていうのは365日じゃないの。本当は、365日と6時間。それが四回巡ると、24時間——ね、一日増えた」
この際、「じゃあなぜ毎年6時間ずつズレるの?」と聞くことはしない。
そんなことを美波さんは詳しく知らないだろうし、さらに詳しくない私にそれ以上かみ砕いた説明をしたところで、理解など得られない。
そんなことよりも、私はこの美波さんのやわらかい声で
「——楓ちゃんにはお世話になったから話しておこうと思って」
お世話になったのはもちろん私のほうだったけれど、それも挟まず、私はじっと彼女の目を見つめた。そうすると彼女は嬉しそうに首を傾いだ。
「毎年6時間ズレているのだとしたら、時間と密接な関係にある空間も少しずつズレていておかしくない——そう思わない?」
それから彼女は、昔話をするね、と言って話をつづけた。
彼女は八年前、まだ高校生の時、この大都会に初めて一人でやってきた。右も左もわからないまま、ネットで知り合った男性と会う約束になっていた。
待ち合わせ場所の代表、渋谷のハチ公前で時間を待ったが、それらしい人は現れず、二時間過ぎてようやく、冗談だったんだ、と気付いた。そのときの落ち込みようと言ったら、「いっそホテルにでも連れ込まれてめちゃくちゃにされたほうがましだったかも」と軽口を叩くほどである。それくらい寂しい思いをした、と。
その男性が
突然目の前に現れた彼は、しゃがみこんでいた美波さんと視線を合わせるように屈みこむと、
「大丈夫?」
と尋ねてきた。
唐突な出来事に身構えてしまったが、却って彼のほうが謝ってきたと言う。
「驚かせるつもりはなかったんだ。——ひとり? 僕もそうなんだ」
ホテルへ引っ張るわけでもなく、ファミレスへ連れて行ってくれるわけでもなく、隣に座り込んだ男のことを、美波さんはもちろん不信がったが、おかげで、より悪質な男性は近寄ってこなかった。
彼は他愛もない話をしばらく続けて、腕時計に視線を向けると、
「ごめん。もうそろそろ行かないといけない」
と言った。
「——お願い、一人にしないで」
立ち上がろうとした彼を止めたのは、袖を取る手ではなく、この、泣きそうな声だったと思う——と、彼女は恥ずかしそうに言った。
すでにこちらの事情を理解していた彼は、ここまでの自分の身勝手を詫びるように、後ろポケットから財布を取り出し、
「わかった。安いホテルになっちゃうけど」
と美波さんを、——ようやく、連れ出した。
もしかしたらこうして何気なく、人は大人になるのかもしれない、と物思いにふけりながら、いつもより細部を気にしてシャワーを浴びて、ひとつ深呼吸——、気合いを入れて部屋に戻ると、——彼はいなかった。
「——正直、よくわからなかった。ここまで来て逃げるなんてことあるのかな、そんなに魅力ないのかなって、ちょっと思いもした。でも、それが私の勘違いだとわかったのは、四年も経ってからだった」
すっかり大学生になって、あれほど恐れていた東京の喧騒にも慣れ、出会うためのやり取りもやめて、順当に大人にもなった彼女がその日渋谷にいたのは、本当にたまたまだった。
当時お気に入りだったアマチュアバンドのライブを観た帰り、そのあと一緒に呑むために友人を待っていた。当たり前に、ハチ公前。
流れる人々はどこか胡乱な表情で彼方を眺めているか、熱心に一直線に携帯を見ているかのどちらかで、美波さんは「あ、今この人殺せるな」「後ろにぴったり歩いても気付かなそうだな」と妄想して時間を弄んでいた。
そうして人々を眺めていたから、見知った顔がその中にいるのに気付いた。
——気付いた瞬間、彼女は駆けだした。
「あの」
声を掛けると、彼は最初自分のことだと思わなかったようで、振り向かなかった。だから肩を強く叩くと、びっくりして「わ!」と声を上げたのだと言う。
「私、——わかりますか?」
「えっと……」
彼は、わかってくれなかった。思い出してくれなかった。
でも、急いでもいなかった。
だから話を聞くうち、ゆっくりと美波さんを思い出した。
彼女はこれまでの四年間を、彼に話した。もうそのときには友人との約束なんて忘れていて、すごく怒られたよ、と笑っている。
「でも、それ以上に価値のある時間だった——」
そうして話をしている中で、彼がこの次元の人ではないと知った。
「四年に一度だけ重なる空間の人——突拍子もなかったし、よく信じたなって今でも思うよ」彼女は顔じゅうにしわを作って笑う。かわいいな、と思った。「でも、私は彼のことを忘れられなかった。そりゃ、一日、それも数時間だけの関係だったけれど、それでも四年経ってからも気付けるくらいには、頭の中に根付いてた。——それってもう、恋じゃない? だから言ったの。好きかもしれないって」
いたずらっぽい表情で、美波さんは言った。彼女が言うなら、そうかもしれない。
あいにくと私は恋のイロハも知らないし、大人の階段も見たことがない。
でも、彼女が言うなら、きっとそうなのだ。
「彼は、まさかねと笑ってた。でも、馬鹿にはしなかった。自分の話のほうが荒唐無稽だってわかってたんだろうね。私もそう思う。だから、四年後、気持ちが変わっていなければ、ここでまた会おうって、約束したの。——それが、今日」
「なんでその話を私に?」
「言ったでしょ、あなたにはお世話になったから」
「そんな、お世話されてたのは私のほうで——」
「違うよ。楓ちゃんは、きっと気付かないだけで、いろいろな人を幸せにできる人なんだよ。こうしてわけわかんない話もちゃんと聞いてくれるしね」彼女の細い唇の、口角が上がる。「昔の私によく似たあなたがいたから、私はここで生活を続けられたんだと思う。あなたの日々の話を聞いて、昔を思い出し続けられたから、彼のことを忘れなかったんだと思う。人は知らないうちに、だれかのお世話をしてるんだよ。きっとそう」
「——行くんですね?」
聞くと、美波さんは少し寂しそうな顔をした。
「これからあの場所に行っても、彼が迎えに来てくれるとは限らない。そういう不安があったから話したくなったって言うのも、正直あるかな。——でも、もし会いに来てくれたら、私は彼のいる場所へ連れて行ってもらうつもり。それが不可能じゃないと言ってた。だから、楓ちゃんともお別れ。私がいなくなってもちゃんと暮らすんだぞ?」
美波さんは、悲しそうに笑った。
私は悲しくなって、目元がじわっと潤んでくるのを感じる。
「泣かない泣かない」と続けた彼女のほうが泣きそうだった。「これじゃ、うるうる年だ」
「つまんないですよ」
悔しい気持ちで、せめて笑って見せると、彼女のやわらかい手が頭に載る。がしゃがしゃと髪を搔き乱される。私の、心もだ。
「それじゃあ、行くね。——ああ、ドキドキしてきた」
「大丈夫ですよ」
立ち上がった彼女を見上げ、言う。
「大丈夫かな?」
「大丈夫です。泣いて帰って来ても、私がいます」
「そりゃ、心強い見送りだ」そう言って、彼女はついに背を向けた。「——じゃあ、行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」
玄関口で靴を履き、深呼吸に肩が上下する彼女の、小さな背中を見つめる。
「行ってきます」
「四年後に」ついに開いた扉へと、吐き出した言葉が吸い込まれていく。「四年後に会いましょう」
「うん、四年後に」
私は、その時の彼女の顔を忘れることはないだろう、と思った。
くしゃくしゃで、笑っているのか泣いているのかもわからないその顔。
きっと大丈夫なんだろうな、と思う。
——彼女に会うのが、四年後であれば幸せだなと、私は思った。
2月29日 枕木きのこ @orange344
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