におい

@Chiriko9b

第1話

「止まれ」


折から雨の両国橋。

江戸から離れて遊山のために、出見世の引きも切らぬ界隈に、香具師の呼び込む声がひびく。ももんじ屋、矢場、鋳掛け屋、入れ歯屋、曲芸、鳥追い……。薄い雲ごしの明かりの下で、雑多な物売りが軒を並べる。味噌を塗ったシシ肉のにおいは、江戸市中にはない向両国ならではのにおいといえよう。

橋を渡れば千代田のお城の「お膝元」ではない。向両国、本所は下総から流れてくる物流の最終集積地であり、人足どもの落とす銭を回収する商店群である。さほど上品な場所でもないが、気安くざっかけない土地柄だ。


破れ笠に頭をねじこんだ商人ていの男が、江戸へ向けて急ぎ足に歩いていた。男に声をかけた影が、ひとつ、ふたつ。いずれも刃物を差しているが、やはり武士とは思われぬ。


「なんの御用でございましょうか」

「ふところの物を改めさせてもらおう」

「改めるとは、また、なんの」

「手向かいせぬがいいぞ、知れておるのだ、その……」

言い指す間に、追手の、これまで無言であったほうが腰刀を鞘ごめに抜いていた。柄頭を笠の男の土手っ腹に押し付けながら、ささやくように話す。

「そのタネをよこせというのだ」


醤油。

ふるくは金山寺味噌のたまりから精製されたと言われ、その存在自体は生まれる以前から皆が知る。だがその味を知るものがどれだけ居ることか。

「高い」のだ。

味噌と比べてその価格は天地に及ぶ。ひとつには、製造管理に高度な専門知識を要すること。衛生管理の概念の薄い当時にあって、発酵食品を安全に作る苦労は想像を絶する。

特殊な訓練を積んだ職人を高額な報酬でつなぎとめ、蔵をたて、秘密のままに作り上げる……。

「豆から金を作る」とまで言われた醤油づくりは、不断の暗闘の連続であった。


「種麹を盗んでどこに持ち込むつもりか、大方見当はつくがな」

「橋の上とはいえ御府内じゃ、切らぬ。切らぬが、渡さねばこのまま抱えて橋から落とすぞ」

「落とさば麹もダメになろう、どのみちおのれの仕事はここでしまいじゃ」


笠の男は転瞬、ふかく沈み込むと、押し付けられた剣柄をはねあげ、帯を持っておのれにひきよせた。

「む」

勢いそのまま、二人の男を並べて付き押す。

面食らった二人を尻めに、川面を破るどぶりという音がした。


「首までは持ち帰れなんだか」

「是非もなし」



川下、二里。

笠を失った男はふところから、脂紙の包みを取り出した。

向両国のももんじ屋はろうそく用途の獣脂を扱うことでも知られていた。






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