イェリエルの空が割れても、その波に少女の命を捧げる必要はない。

成井露丸

イェリエルの空が割れても、その波に少女の命を捧げる必要はない。

 空を覆う乱層雲が割れて、一本の光の筋が射し込む。

 それは商業の神デアボラが人々に与える恵みそのものに見えた。

 そこから天使でも降りてきそうだ。


 イェリエルの街に生まれ始めた魔法のような情景を、男は公爵邸二階の窓から苦々しい表情で眺めていた。窓枠に体重を預けるように左肩をつけて、石造りの部屋の中から。

 街並みと共にある日常が、その不自然な空に染められそうで、身震いする。


「異世界の知識をお持ちと噂の『放浪の賢者』――レイン・ルクリア殿も、あの光をご覧になるのは初めてですかな? ――美しいものでしょう?」


 そう背後から声を掛けたのは、上品なローブを身に纏った中年の男性。この街を統治するイェール公爵その人だった。


「えぇ、美しいですね。――こういう情景を実際に見たことはありません。……これが、噂に聞く四年に一度の『イェリエルの空』なんですね?」


 賢者と呼ばれた男――レインは振り返る。

 窓の外の神々しい光に目を細めた公爵は、物憂げでもあった。

 石造りの部屋の中では、もう一人、少女が樫の木で作られた椅子に沈み込んでいる。淡い空色のドレスを身に纏った美しい銀髪の少女だ。


「えぇ、そうです。デアボラの大神殿が担う四年に一度の儀式」

「――四年に一度」

「ええ。この国では四年に一度、商業の神デアボラの祝福が薄れ、人々の活力が失われるのです。店の売上が低下し、生活が困窮する。ですから、主神たる商業の神デアボラに回復を願う儀式を執り行うのです。――それが、今日から始まり、明日の昼過ぎまで続く儀式――『イェリエルの空』なのです」

「神様に商業の賑わいを取り戻すお祈りをする、ということですか? ――そして、その生贄となる少女の魂が必要だと」


 イェール公爵は重々しく頷いた。自らの立場と、父親としての思いを天秤に掛けながら。

 レインは椅子に沈む公爵令嬢アリシアを見遣る。


 二年前にこの街を訪れた時はまだまだ子供っぽかった少女も、随分と女性らしくなっていた。昨夜、自らに「生きたい」と懇願してきた彼女。国の因習に縛られながら、それでも自らの生を求めるその姿を、レインは美しいと思った。


「この国全体から中位以上の神聖術の使い手をかき集めてきて作る大規模神聖術式。……大仰なことです」

「デアボラ教会が行う最大儀式の一つですからな」

「……だから、公爵個人が娘可愛さに中止出来るものでもない、と」


 公爵はレインの隣まで来ると、曖昧に笑った。否定もせず、肯定もせずに。


「アリシアは大切な娘。父親としては、もちろん失いたくはないです。しかし、領民を預かる身としては、この街が、デアボラ神に見放され、衰退していくのは――避けたいのだ 」


 隣で街を見遣るイェール公爵の横顔をレインは伺う。娘を愛おしく思う父親の表情。領民を愛おしく思う領主の表情。

 レインは、その双眸の奥にある願いを、叶えたいと思う。


「だから、私のことを思い出して、……呼ばれたと」

「あぁ、すまない。二年前も世話になった。あの時のことを思い出してね。異世界の知識を持つ放浪の賢者レイン・ルクリア殿ならば、何か知恵を授けてくださるのではないかと。……藁をも掴む思いとは、まさにこの事だ」


 そう言って、公爵は弱々しく笑った。「面目ない」と。


 依頼内容――その公爵の悩みについては、既に聞いていた。

 公爵令嬢アリシア・イェールの命が掛かっていることだったから、レインはいつも以上に本気になって調査してきていた。


 二年前、この街を訪れた時に、彼女にもらった花の冠の恩返し。そう言えば、良いだろうか。椅子に沈み込むアリシアのことを見遣る。

 ひょんな用事でこの街に滞在し、公爵の危機を救ったことがあった。その時のレインは、愛する人を失い、失意の底にあった。

 そんな彼に感謝を述べるように、励ますように、アリシアは花の冠を捧げてくれたのだ。何故だか、あの時、大人気なく涙を流した。

 ――そんなことを思い出す。


「やはり、……領民のために、娘の命を諦めるしかないのだろうか? 領民とて我が子のようなもの。彼らの暮らしが闇に落ちるくらいなら……、私は……」

「その必要はありませんよ」


 確信に満ちた言葉をレインが放つ。弾かれたように公爵は顔を上げた。


「――と、言いますと?」

「そもそも、『イェリエルの空』なんて宗教儀式に経済を動かすだけの力は無い。あっても、神聖術者を始めとした来訪者を呼び寄せて、一時的に消費が増える程度だ。――質の悪い公共事業みたいなものですよ」

「――経済? ――公共事業?」


 公爵は、聞き馴染みのない言葉を連ねるレインに、眉を寄せた。


「この世界に神聖術は存在する。人の体を治癒したり、光を灯したり。……でも、神聖術で、経済は変えられない」

「レイン殿……さっきからおっしゃっている『経済』とは何ですかな?」


 首を傾げる公爵に、レインは口元を緩める。


「経済というのは、人が行き交い、ものを作り、商いをすることで生まれる、国における物流や、街の賑わいそのものです。人々の活動の総体と言ってもいい」

「……なるほど」

「神聖術で、個別の事象や、個人の行動は、ある程度操れるかもしれない。しかし、経済は人々の活動全体で生じます。どんな大規模術式も、現実的には、そのレベルでの影響は与えられない」

「しかし、デアボラ神の恵みであれば、それは、神聖術を超えるのでは?」

「――私は神を信じない」


 悪魔のように目を細めたレインの横で、公爵は驚いたように目を見開いた。


「と、言うと、あまりに過激に聞こえるので、言い直しますと、デアボラ神の御業をお借りせずとも、説明できて、人間だけで乗り越えることが出来るのならば、それに越したことはない、ということでしょうか?」

「なるほど」


 一瞬浮かべた邪悪な表情を引っ込めて柔らかく微笑んだレインに、公爵は納得したように頷いた。


「では、四年に一度の災厄も、神の存在なしに、説明でき、かつ乗り越えられるということですかな?」

「ええ、そういうことです」


 放浪の賢者は一つ息を吸うと、唇を開いた。


「これは、『キチンの波』――ですよ」


 景気循環には様々な周期のものがあるが、その中で最も短いのが『キチンの波』と呼ばれる四〇ヶ月程度を周期とするものである。

 人の経済活動を支配するマクロな挙動には、様々なパターンがある。人間が暮らす限り、否応なく好景気と不景気が繰り返される。それが景気循環である。『キチンの波』と呼ばれる景気循環は、特に、商工業の在庫調整を原因として生じる。

 

 異世界の知識から、レインはその可能性に思い至り、公爵邸に来るまでの間に、過去の文献や、商業ギルドの過去の台帳などに当たり、調査をしてきた。

 その調査結果は、レインの仮説を支持するものだった。

 この世界では四〇ヶ月より、少し長い周期で、景気循環が起きている。そして、景気が不景気の底から立ち上がるタイミングで『イェリエルの空』が行われていたのだ。


 『イェリエルの空』が経済を立て直しているのではない。

 ただ、経済が持ち直すタイミングで『イェリエルの空』が開催されているだけなのだ。


 説明を聞いて公爵は、難しそうな顔をするが、結論を捉えて、口を開く。


「……つまり、アリシアは?」

「ええ、彼女が生贄にならなくても、どっちにしろ景気は回復します。『イェリエルの空』に少女の生贄なんて無くても良いのです。そんなものは、ただの因習ですよ」


 振り返ったレインの視線が、アリシアの瞳にぶつかる。

 顔を上げたイェリエルの少女の表情に、少しずつ柔らかくて人間らしい光が広がった。


 ※ ※ ※ ※


 『イェリエルの空』が終わった次の日、街の外れに旅立つ二人の姿があった。


「まさか、アリシア――君と旅をすることになるなんてね」

「えぇ。外の世界にもずっと出てみたかったから……まるで、夢みたい! ありがとう、レイン」


 公爵令嬢アリシアも今は旅の軽装だ。お忍びの出奔であるから、貴族には見えないようにという配慮もある。


「二年前、私を外の世界に連れていって欲しいってお願いは聞いてくれなかったじゃない。あなたが居なくなって、随分と寂しかったのよ?」


 そう言って悪戯っぽく微笑むアリシア。


「仕方ないじゃないか。あの時は、理由がなかった。今回は理由があった。そういうことだよ」

「ふふっ。あなたが理由を作ってくれたようにさえ見えたけれど?」

「理由はそこにあったのさ。科学的根拠のない因習という形でね――」


 昨日、『イェリエルの空』の儀式は滞りなく執り行われた。

 アリシアの身代わりにと、レインが準備した魔法の人形を使って。

 大神殿の司祭たちは、それをアリシア本人と疑わずに、儀式を執り行い、『イェリエルの空』の成功が民衆へと高らかに宣言されたのだ。

 その開催に、やはり少女の犠牲は必要なかったのだ。


 しかし、『イェリエルの空』が無くても、景気が回復するかどうかは実際のところ分からない。少なくとも、今、出ていって説明して、大神殿が納得するかは分からないのだ。

 だから、レインとイェール公爵はアリシアの身をしばらく隠すことにした。


 民衆と司祭たちが景気の回復を実感した時に、再び姿を表すのだ。

 そして、告げるのだ、『イェリエルの空』に少女の犠牲は必要ないと。

 そして、人々を苦しめる、古い因習を打ち破る。


「レインはどうして旅をしているの?」


 この世界の人々はまだ物事を知らなさすぎる。それゆえに、多くの苦しみや、悲しみがこの世界には溢れている。だから、世界を啓蒙していくこと。それが、自分の使命なのだと思う。――愛する人を不条理の中で失ってからは、特に。


「――そうだな、また、道中で話すよ」

「ま、私は、旅が出来たらそれで満足だから。よろしくね、レイン! 私に、新しい世界を見せて!」


 隣の馬上で、銀髪の少女が柔らかい微笑みを浮かべた。


 イェリエルの空から雲は消え、自然な青空が広がっていた。

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イェリエルの空が割れても、その波に少女の命を捧げる必要はない。 成井露丸 @tsuyumaru_n

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