水に溶けた願い

憂杞

水に溶けた願い

 姉を喪った四年前を、水子みこは昨日のことのように思う。


 月の眩しい夜空の下で、全ての村人が大海の前に集った。幾百ばかりの群衆に見送られながら、白装束をまとった水子は祭司に連れられ歩く。その両足首には鉛の枷が抜かりなく嵌められている。


「水子様、ありがとうございます」「どうか村をお救いください」

 感謝と畏怖の言葉を次々と背に受ける。

 近所で世間話を交わした小母さん。野菜を売ってくれた商店の小父さん。

 対等に接した人達も皆、天上人のように自分を崇めている。姉のおぼろもかつてはこうだったのかと、水子は俯いたままひっそりと嘲った。


 二拝、二拍手、生贄の祝詞。あとは一通りの儀礼を為すのみ。


 儀式の終わりが刻一刻と迫る。村の誰もがその成功を望む中で、密かに企みを胸に秘める少女が一人。

 群衆に紛れたかなは神妙な面持ちで、暗い海を見据え佇む水子を見守っている。



   *   *   *



「やっぱりおかしいよ、生贄だなんて」


 二年前の同月同日、次の生贄が水子に定められた時のこと。叶は虚ろな表情をした水子の前で憤りをあらわにした。


 彼女らの暮らす村には一つの習わしがあった。それこそが四年に一度の晩に祭事を執り行い、一人の娘を生贄として土地神様に捧げるというものである。


 小さな島を領土に持つこの村は、毎年のように嵐に悩まされていた。土地周辺が海に囲われている為、大きな波が立とうものなら一溜まりもないのだ。

 加えて渡航や造船などの技術を持つ村人もおらず、ゆえに村の外とはほとんど関わりを持たない。栄えた他国からすればこの村は地図より存在を知れても、その風土や人民、慣習について詳らかに知る者はないだろう。

 堤防などで土地の守りを固めようにも、村の中のみで採れる石材はほんの僅か。


 そんな中で判明したことが二つ。

 一つは、祝詞を唱えることで四年に一度、龍の姿をした土地神様を呼び出せること。

 もう一つは、成年に満たない女を土地神様に差し出すことで、嵐が少しばかり鎮まることである。


 前者も後者も歴とした事実ではあった。事の発端は今より約四百年前の、ある村娘の過失による水死である。古くから語り継がれている伝承では、遺体はかの土地神様が食らったとされている。そして初めて咆哮が轟いて以降の四年ばかりは、不思議と嵐による被害が減ったのだという。


 それから生贄の儀は絶えず続けられた。

 全ての村人の敬意によって土地神様を呼び出し、全ての村人の総意をもって生贄を殺める。そうして村の平穏は保たれてきた。


「私、絶対に水子ちゃんのこと助けるから」


 村の歴史を深く知ってなお、叶は生贄の儀を否定している。

 村人達に周知されているとおり、彼女は現村長の娘である。


 次の祭事の二年前、生贄は村娘の中から無作為に選ばれるはずだった。

 叶もまた生贄になる可能性を持っていた。にも関わらず僅かな候補の中で五度にわたる選別を免れ、齢十七になる彼女が選ばれることはついに無かった。

 何しろ、その選別を取り仕切るのは他ならぬ村長である。村じゅうでは公平と謳われているくじに細工をし、自分の愛娘のみを保護したのだと噂されている。


 加えて前の生贄には朧が選ばれ、此度の生贄には妹の水子が―—そこで叶の堪忍袋の緒が切れた。


 それゆえに村長の娘が生贄の儀に反対していると、村人達の誰もが知っている。

 しかし娘の一声のみで古くからの習わしは覆せない。叶はそれを悟ると、歴史にまつわる幾冊もの蔵書を読み漁った。実父には目的を伏せつつ、生贄の儀を止める手掛かりを独自に探る為に。


 朧と水子の姉妹とは、生贄だと定められてから親しくしてきた。過度に接触し過ぎないことを父と約束した上で、可能な限り憩いの時間を持つようにした。

 罪滅ぼしの為かもしれない。間接的とはいえ自分が生贄の儀に携わっている為に、無意識に赦しを求めていたかもしれなかった。自分はどのような思いで水子らに慈悲を掛けるのか、叶は自覚する術を持たない。


 ただ、確かなことが一つ。

 罪のない生贄達の背をただ見送ることは、叶にとって我慢ならないということである。


「次の儀式で水子ちゃんが助かったらさ、これから誰かが生贄に選ばれることも無くなると思う。水子ちゃんだけじゃなくて、水子ちゃんや私の友達だって助けられる。死んでしまったお姉さんもきっと報われる。だから、水子ちゃん」


「――分かってるよ、ありがとう」


 水子は心からの笑みを返した。

 叶が真剣に自分を案じていると分かり、何よりも嬉しく思ったからだ。



 その後、水子は早々に家へ帰った。

 戸を開き敷居を跨いだところで、ひしと母に抱き留められた。身じろぎしたが、予想しなかったことではない。間もなく落ち着きを取り戻し、そのまま次の言葉を待つ。


「水子、あなたは凄いわ。村を守ってくれたお姉ちゃんみたいに、立派に務めを果たしてね」


 特別なことは何もなかった。水子はただ運が良かったか、もしくは悪かったに過ぎない。あるいはただ運悪く、良からぬ相手に目を付けられただけのことである。それだけのことで自分を讃える母を、水子は不思議とも滑稽とも思わない。


「水子、今日はご馳走にしよう。何が食べたい?」


 居間からは父が躍り出て、朗らかに話し掛けてくる。


 朧を生贄として喪った夜、泣いて恨み言を吐き合った二人を水子は覚えている。しかし時が流れ、さして激しくない嵐が過ぎ去ってからというもの、次第に彼らの考えは改まっていった。


 娘の前でのみ気丈に振る舞っている、とも考えられるが。

 いずれにせよ今の水子に出来る親孝行は、素直に習わしに従うことの他にありはしない。



 深夜。ひとりとこにつく水子の右手には、朧から自分だけに託された形見が握られていた。

 儀式前夜に渡されたそれは、この村では滅多に採れないシロツメクサの押し花である。


 ――私の分まで幸せになってね。


 朧はそう言って涙を落とした。

 包み込む両腕の力は、ひどく弱々しかった。


 その感覚を、水子は昨日のことのように覚えている。



   *   *   *



 そして、来たる祭事の日。


 水子は白装束の懐に、青色の小さな石を隠し持っている。生贄の身は神聖とされている為、体を調べられたりはしなかった。

 形代石かたしろいしと呼ばれるそれは、叶が儀式を止める為に見つけ出した一つの可能性であった。


「これを礼拝の前に海へ投げ入れて。そうすると石を水子ちゃんだと勘違いして探すから、祝詞を唱えても土地神様が現れなくなる。その後のことは、私に任せて」


 そう叶が助言を授けたのは、今より一月前のことである。

 懸命な調査の末に編み出したこの救出法は、必ず上手くいくという保証は無いに等しかった。そもそも形代石という希少な石の効果自体が、実用例のない言い伝えのみの存在であるからだ。

 しかし他に手掛かりが見つからない以上、試す以外に道はない。叶は村長の隣から儀式を見守りつつ、策の成功を一心に願っていた。


 一方、水子が隠し持っていた物はもう一つあった。それは朧から賜った形見の押し花である。


 ――私の分まで幸せになってね。


 姉の言う「幸せ」の意味を、水子は考えていた。

 幸せとは、自分達にとって何だろうか。それとも「私の分まで」と添えたのならば、姉の思う幸せを自分が成就させるべきだろうか。

 叶はここで自分が助かれば姉も報われると言っていた。彼女の言う通りなのだろうか。自分と未来の生贄達を救うことが出来れば、それが姉の思う幸せに繋がるのだろうか、と。


 水子は四年間、考え続けた。

 ゆえにこれ以上迷うことはなかった。


 水子は、手に持った形代石を背後の砂浜へ投げ棄てた。


 二拝、二拍手、生贄の祝詞。

 高らかな唄声が虚空に響く。


 潮騒が起き、空気が揺れる。夜空に響く村人達の鬨の声。

 やがて土地神様が海より出ずる。大蛇のごとく巨体、空を覆う翼、長い口内と生え揃った牙。薄闇の中でもその輪郭はあらわに映った。

 

 祭司に導かれ、生贄は歩を進める。

 振り返ると、叶が大勢の大人に取り押さえられているのが遠くに見える。

 しかし水子には一つの後悔もなかった。生贄達の未来も、叶の思惑も、村の存亡も、両親も他の大人達も、これから死ぬ自分にとっては全てがどうでも良かった。

 とうに亡くなった者の真意を知る術など誰も持ち得ない。ゆえに水子は姉の遺した言葉のみを信じ、只管ひたすらに自分の幸せのみを追い求めた。


 巨大な鎌首が迫り来る。今この瞬間、水子はこれ以上無い幸福を感じていた。

 自分の願いが成就することを確信し、喜び以外に何の感情も持たなかった。


 徐々に近付きつつある目的地へ、両手を高く掲げてみせた。

 周囲には言い出せなかった最期の囁きこそが、彼女の真に抱き続けてきた唯一の願いであった。


「おねえちゃん、ずうっと会いたかった」


 地を揺さぶる音とともに口が閉じる。

 首をもたげる巨龍の下から、水子はその姿を消していた。

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水に溶けた願い 憂杞 @MgAiYK

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