アトラス

λμ

架空の蛙ファーレンハイト

 四年に一度の祝祭を前に、人々は混乱していた。

 ある感染症が、疫病になろうとしていたのだ。その病は感染力が高く、重症化すれば死に至るという。厄介なことに、潜伏期間がおよそ二週間もあり、人によっては症状があらわれない。また重症化しなければ、ただの風邪と変わらない。

 

 明確な治療法は、まだ見つかっていない。


 はじめのうちは、誰しもが、じきに収束するだろうと思っていた。ほんの二週間だ。二週間すべての人が我慢すれば収束するのだと、そう考えていた。

 

 違う、と気づいたのは、感染者の報告があってからだった。

 すべての人々が一日も外に出ずに二週間を過ごすなど不可能だと、数字が知らしめたのだ。

 

 人々は気づいた。

 二週間は長い。十四日。三三六時間。経済活動が停止すれば、どうなるか。

 人々の生活を破綻させるのに十分な時間だった。


 四年に一度の祝祭が迫っていた。特定の場所に、不特定多数の人々が集う祭りだ。スポーツの祭典などと呼ばれ、四年に一度の機会に、一生に一度の思いで参加する。莫大な資産を投じ、数百、数千、数万倍の利益を狙う。


 開催しなければならない。


 祭りを執り行わなくては、病なぞ比べもにならない死者が出る。

 誰かが言った。


「どうしてもっと早く対策に出なかったのか」

 

 ごく単純な理由だと、私は思う。

 人は、急激な変化がなくては分からない生き物だ。苦しみというのは、耐えられなくなるまで気づけない。


 人々はそれを知っている。知っているのにも関わらず、気づかない。

 彼らはしたり顔で語る。

 生きた蛙は水から煮れば逃げ出さない、と。


 誰が言い出したのか覚えていないが、見事に人の有り様を表している、と私は思う。

 彼らは知りもしない蛙を例にとるのだ。

 あたかも蛙が鈍感な生き物であるかのように語り、耳を傾ける側にしても鈍感な蛙に例えられていると気づかない。 


 現実の蛙は水温が上がれば逃げる。私はそれを知っている。人ほど苦しみに強い生き物は他にない。私はそれを知っている。彼らには、苦しみに耐えるための機能があるのだ。


 夢、という。


 理性、と呼んでもいいだろう。思考と呼ぶ者もいるかもしれない。

 私に言わせれば、順応性だ。

 死に至るまで苦しみに耐えるようにする機能である。


 架空の蛙は夢だ。

 誰もたしかめようとせず、よく分かりもしないのに、もっともらしいと首を振る。

 

 架空の蛙が手を叩く。たしかにそうだと頷き合う。


 架空の蛙は目を瞑る。自分が架空の蛙であるなどと、夢にも思わない。


 架空の蛙は気づけない。水温の緩やかな上昇に耐えてしまう。

 

 かつて私の体表に、ファーレンハイトという名の蛙がいた。

 彼は自らの体温を基準に温度という指標を作った。


 一年で、〇.二五度。

 次の年に、また〇.二五度。

 次も、その次も、四年をかけて、一度。


 日々熱を上げる私の体表で、架空の蛙は四年に一度の祝祭を開催するべく奔走する。

 茹で上がる前に気づくだろうか。

 私の病に気づくのだろうか。


 気づいたときには、もう遅い。

 架空の蛙は自ら語る。

 語らいながら茹で上がり、私の病は完治する。


 その日は近い。

 けれど人には遠すぎる。

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アトラス λμ @ramdomyu

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