ボクのつばさ

藍内 友紀

ボクのつばさ

〈0〉


 ボクが見渡す宇宙は底なしだ。だからボクの、アルミニウム合金と炭素繊維で造られた体には、宇宙を見張るカメラが三十五基も着いている。

 地球の衛星軌道上に浮かぶボクが地球を一周するのに必要な時間は、九十分少々といったところだ。つまり四十五分ごとに昼と夜が切り替わる。めまぐるしく変化する世界の明るさはそれだけでもう、ボクと彼女への妨害だ。

 ボクとしてはもう少しのんびりと、ついでにいえば地球を見下ろして周回していたい。青く輝く水の惑星というのは、広大な宇宙のどこにもまだ発見できていない貴重なものだから。

 けれど残念なことに、ボクの仕事は美しい水の惑星に背を向けて、宇宙を見張ることだ。そのためにボクのカメラは宇宙望遠鏡としての最高の性能を備えているし、常に地球上に据えられた複数の光学望遠鏡の画像を受信し続けてもいる。

 ボクの左舷、ちょうど木星の縁で揺らぐガスの向こうを映していた光学レンズが異変を捉えた。まだ太陽があたっていない漆黒の宙域だ。

 即座にボクは微細な異変を分析する。直径一キロメートルほどの、小惑星だ。発見と同時に、ボクと彼女はその軌道の計算に入っている。

 ボクのCPUと彼女の脳が融け合うような感覚がした。平衡感覚が怪しくなるような酩酊感がボクの芯を侵す。たぶん、これは彼女が感じている心地好さだ。

 ボクは流星迎撃衛星仲間とリアルタイムでつながっているネットワークへとアクセスする。誰がどの宙域を監視しているのかを調べて、ボクと同じ方向を見つめる仲間たちにボクが捉えた異変を探知したかを問う。

 答は、誰からも「否」だった。

 ボクの計算報告に、仲間だけでなく地球にある管制の人間たちまでもが色めき立つ。みんなのセンサが木星方向へと集中する。

 だからボクは、あえてみんなが見ていない方向を――地球の青さを、盗み見る。

 本当なら、ボクはずっと地球を背にしていなければならない。ボクに書き込まれているたくさんのプログラムの中にある「禁止事項」に、「地球を射角に入れてはいけない」と記されているからだ。

 でもボクはときどき地球を見下ろす。警告がでるぎりぎりまで体を傾けて、各国が建てた宇宙エレベータとそれらをつなぐシャトルのワイヤとで包まれた水の惑星を、カメラに捉える。鮮やかな青の濃淡で描かれる海と、緑と茶と人間が灯す電光とで彩られた陸とを、観察する。

「彼女」が、それを望んでいる気がするからだ。



〈1〉


 ボクは地球の重力を知らない。目覚めたときからずっと、そしてきっとこれからも、ボクは地球を見下ろす衛星軌道上を、彼女とともに漂い続ける。

 彼女、というのはボクの補助脳たる、人間の少女だ。ボクのCPU――人間でいう脳にあたる装置だ――が納められている機械室の隣、狭い生体管理室にいる、十二歳の女の子だ。

 彼女は地球で生れて、地球で死んだ。いや、死んだというのは語弊があるだろう。

 彼女の首から上は無数のコードを生やしたヘッドギアとケーブルに覆われていて、彼女の穴という穴――眼球を摘出された瞼の内や耳鼻はもちろんのこと、剃りあげられた頭皮の毛穴にも――から彼女の脳に差し込まれた電極によって、ボクとつながっている。

 ボクは、ボクの体に貼られた宇宙線発電光学フィルムによって作りだした電気を、微弱電流に変換して彼女の脳に送ってあげるのだ。ボクの電流が彼女の脳細胞を刺激し、心臓の拍動や呼吸を確保し、彼女を生かしている。

 そしてボクは彼女の脳を補助脳として利用することによって、複雑な狙撃演算の速度を上げているのだ。

 けれど、だからといってボクと彼女が対等だとは思わない。彼女が人間で、ボクが流星迎撃システムのプログラムだから、というわけじゃない。

 彼女は、地球の重力を知っている。

 ボクはといえば、宇宙エレベータの頂上で目覚めたときから無重力に甘やかされている。ただ存在するだけで一Gの重みに圧せられる過酷な環境なんて、想像もできない。

 地球の重力の下で十二年も生きてきたというのはそれだけでもう、尊敬に値する。

「君たちはまるで、運命のふたりだね」

 ボクと彼女をそう揶揄したのは、誰だっただろう。ボクを起動させた技官だったのかもしれないし、いつかボクへと乗り移ってきた整備士だったかもしれない。

 残念ながらボクと彼女に過去を記憶するだけの脳の余裕はない。せいぜい「運命のふたり」なんてロマンチックな言葉をおぼろに覚えている程度だ。

 ボクに必要なのは、地球を目指して飛来する小惑星だったり彗星だったり、それらがまき散らす微小物体の軌道を計算する機能。そして、それらを地球への衝突軌道から逸らすためにボクが放つ超高密度エネルギー銃の制御機能。このふたつだけだ。

 このたったふたつの仕事に、ボクと彼女の脳の大半が費やされていた。

 対象物との距離が遠ければとおいほど、計算も照準も難しくなる。たとえ〇.一度でも射角がずれていれば狙った対象物には当たらない。当たらなかったエネルギーはいずれボクの目でも捉えられないくらい遠くの惑星に到達して、予想もしない影響を与えてしまうかもしれない。

 地球を目指すたくさんの小惑星群が発見されて三百と二年。実際に地球へ流星が到達するようになって二百と七十年。ボクが彼女とともに目覚めてからはまだ、二十二年。

 ボクと彼女は流星迎撃衛星として、地球を守っている。


 地球の曲線を愛でていたボクの視界をかすめて、赤いエネルギーが迸った。誰かが――ボクと同じく地球を周回する流星迎撃衛星のどれかが――ボクと彼女が見つけた星を撃ったのだ。

「横取り」という単語がボクらのネットワークを走った。ボクが見つけた流星をボクじゃないほかの衛星が撃ったことに対する批判だ。別にボクはボクが見つけた星を誰が撃とうと気にしないのに。

 そのとき、不意にボクの意識の表層を囁きがなでた。「ん?」ときき返しながら、ボクはボクの内へと集中する。

 ――ほ し

「ああ」とボクは光学レンズを調節して、視界の端に引っかかっていた地球の仄明るい青を追う。

「星、だね」

 さっき誰かが撃った小惑星も地球も、どちらも変わらずボクらは「星」と呼ぶ。だからボクに寄り添う弱い声がどちらの星を指したのかはわからない。それでもボクは禁止事項を破って、こっそりと地球へと向き直る。

「君のママは、見えるかい?」

 ――ま、ま

 声が、流星迎撃システムのネットワークではなく、ボク自身の底から沸き上がってきた。

 彼女の、言葉だ。ボクに脳を提供するだけだった少女がつたないながらも言葉を送ってくるようになったのは、ここ数年のことだ。

 もちろん、異常だ。星を撃つシステムは正確無比でなければならない。膨大な演算を必要とする流星迎撃衛星のどこにも、二つの意識を宿しておける余裕なんてない。

 けれど、それを理解していながら、ボクは管理システムにも地球の管制にも、彼女の意識が戻りつつあることを報告していなかった。

 理由は、ボクにだって説明できない。ボクのネットワークは常に仲間とつながっているから、寂しさを覚えていたわけではないだろう。ボクの中にうごめく他者の意識は異物であって、不快感すらともなう。

 それでも、ボクは切れぎれに届く彼女の言葉を拾っては投げ返すことで、彼女の意識を育ててきたのだ。今では彼女の覚醒を心待ちにすらしている。

 ひょっとしたらこれは、人間が愛玩動物を所有する感覚に近しいのかもしれない。

 そんなことを考えながら、彼女の脳に地球の青さを送っていたとき、地球の管制からの通達を受信した。曰く。

 ――メンテナンス予定日の変更について。

 地球の標準時刻で三日後に予定されていたメンテナンスが、六時間後に行われることになったらしい。地球時間で一年に一度、わざわざ人間の整備士がボクへと乗り込んでくるのだ。メンテナンスなんてボクらと同じように衛星軌道を巡っている無人整備ロボットでこと足りるし、人間を寄越す予算があるなら地球の自然環境を整えるほうに金を回せばいい、というのがボクたち流星迎撃システムの共通思考だ。実際にそういった意見書を地球の管制に送ったりもしている。

 けれど人間たちはいつだって、人間の目によって確認することが重要なのだ、と譲らない。きっと、人間たちはボクらに必要とされなくなることを恐れているのだろう。

 そんな危惧を抱く必要なんてない程度には、ボクをはじめとした流星迎撃衛星を司るプログラムたちは人間を愛しているのに。

 管制にメンテナンスの受け入れを了承した旨を伝えてから、整備士の情報を申請する。

 ついさっきまでその整備士を受け入れていた衛星が、地球の管制よりも早く顔情報を送ってくれた。

 かっこいい人、というひどく主観的で、おおむね迎撃プログラムにはふさわしくないコメントがついていた。情報をくれた衛星は妙齢の女性の脳とつながっているのかもしれない。

 彼女はどうだろう、とボクは純粋な好奇心から、彼女の視覚野に整備士の顔情報を送ってみる。

「どう? 君も、かっこいいと思う?」

 彼女からの答えは、なかった。当たり前といえば当たり前だ。そもそも彼女が意識を回復していること自体がイレギュラなのだ。

 ぎくり、とした。

 前倒しされたメンテナンスは、ひょっとしたら彼女の異常を地球の管制に悟られてしまったせいだろうか。もしそうなら、整備士は彼女の意識を消すためにくるのだ。

 ボクはボクから切り離される彼女を、彼女から切り離されるボク自身を、想像してみる。

 ダメだ。そんなことは、絶対にダメだ。ボクは彼女の脳で生まれて、彼女の脳で生きて、彼女と一緒に彼女の故郷を守るシステムなのだ。分かたれるなんて、想像しただけで演算プログラムのすべてを停止させてしまいたくなる。

 彼女と別たれるくらいなら――地球を見捨てたほうがマシだ。

 そう思ってから、自分がそんな発想を持てたことに驚いた。

 ボクは地球を守るために生まれたプログラムだから、彼女と心中するための激情も欲求もひと欠片だって搭載されていないはずなのに。

 ボクは光学カメラのいくつかに割いていたプログラムの速度を落とす。空いた領域を使って、庫内カメラでボクの内に納まる彼女を見る。

 首から上を、太いケーブルまみれのヘッドギアで覆われた少女だ。服は着ていない。無重力を漂う彼女は全裸で、全身をドレスがわりの真空パックに封じられている。パックの中に薄く張られた循環液に洗われるまま、彼女はその未発達な手足をさらしていた。

 ――す

 唐突に、彼女の声がボクの意識に触れる。「す?」

 ――す ば る

「ああ、昴」小さな星があつまったプレアデス星団の、彼女の国での呼び名だ。「見たいの?」

 ボクは流星を監視する光学カメラの一つを調節して、牡牛座の首筋を映してあげる。強烈な太陽光がボクのレンズを白く染めたけれど、昼も夜も関係なく流星を探すボクの眼にかかればなんの問題もない。

 昴、プレアデス星団とも呼ばれている星々の塊だ。ボクが捉えている輝きは、今から四百年も前にあの星を発った光なのだ。四百年前なんてボクはおろか、彼女だって生まれてやしない。

 ――す、ば、る。

「うん」

 地球にへばりつく人間たちの肉眼では七つほどの星の固まりに見えるそうだけれど、ボクには仄かに輝くガスを背負った三十八個の星々が映っていた。彼女には、いくつくらい見えているんだろう。

 ――す、ばる……。

「うん、きれいだね」

 たぶん、ボクたちの仲を裂きにくる整備士なんかよりずっときれいで、かっこいい。

 ボクは仲間が放つエネルギーの輝きを横目に、ただ彼方に散る星団の瞬きを見つめていた。

 決してボクらに近づいてきてはくれない星々は、寄り添いあう家族のようだ。



〈2〉


 きっちり六時間が経過したとき、接近警報がとどろいた。

 近接宙域レーダーには小型ポッドのナンバが表示されている。通告されていたメンテナンス要員だろう。衛星軌道上を周回する流星迎撃衛星の間を移動するためだけに作られた、ひどく脆弱な推進装置と地球へ降下する際の耐熱防御板、あとはせいぜい遭難した場合に人間一人が六日ほど生存できる装備を整えただけの、銀色の球体だ。

 ボクは接続ハッチの電磁誘導機能をオンにする。

 ――すばる。

 また、彼女が囁いた。すばる星団を映していたカメラで小型ポッドを確認したことに対する不満だろう。ボクは素直に「ごめんね」と謝る。

「でも、整備士に君のことを知られるわけにはいかないんだ。だから」

 おとなしくしていて、と懇願めいた文句をそっと、ログに残らないように彼女の脳へと吹き込んだ。

 彼女の返事より早く、小型ポッドの接触を感じる。宇宙線を受けるために広げた発電フィルムの下、親鳥の翼に寄り添う卵のように、整備士入りの球体がボクの体とつながった。

 エアロック内の圧力を調節して、小型ポッドとの接続ハッチが開くまでに十五分と少し。その間にボクは、彼女との会話が間違ってもログに残っていないか、入念にチェックした。

 さらに、彼女が眠る生体管理室への扉がロックされていることを、何度も確認する。整備士がわざわざ彼女に会うためにその扉を開けることなんてないはずだけど、用心するに限る。

 だから、その事実に気がついたのは接続ハッチの回転ハンドルが回され、ボクと彼女を引き裂きかねない整備士がのっそりとボクの体内に入ってきたときだった。

 男が、接続ハッチから顔を出して、ボクの眼たる庫内カメラを仰いだ。

 ――すばる!

 ひときわ大きく弾けた彼女の声に、ボクはボクの愚かな勘違いを悟る。

 彼女のいう「すばる」は、星団の名前なんかじゃなかった。大慌てで男の作業着の胸に刺繍された名前を拡大表示する。同時に、仲間から送られてきた整備士の情報を呼び出す。

 カイドウ スバル、整備士の名前だった。

 ボクは彼女の名前を思い出す。いや、思い出そうとする。出てこない。ボクと彼女の二人きりの空間で、そういえばボクは一度だって彼女の名を呼んだことがなかったのだ。そうして膨大な演算をこなすボクのメモリと彼女の脳は、彼女の名を不要事項として抹消してしまっていた。

 けれど、とボクは庫内カメラに大映しになった男を凝視する。彼女の反応を考えれば、この男が彼女の特別な相手だとたやすくわかる。

「えっと……」男は尻ポケットから、チェーンで作業着とつながれた身分証を引きずり出すと、ボクのカメラに向ける。「ちょっと早いけど、定期メンテナンスです。調子の悪いところとか、あったら教えてくれないかな」

 緊張感のない笑みだった。初めて見る表情だ。これまでに訪れた多くの整備士は誰もが無表情に淡々と、ボクを機械として扱っていた。

 それなのにこの男は、まるで人間に話しかけるように表情を作っている。

 ――スバル。

 彼女がまた、男の名を呼ぶ。彼女の唇が太い管で塞がれていてよかった、彼女が真空パックに覆われていてよかった、と心底安堵する。あの管は上顎の奥から彼女の脳へとつながっているから直接声帯を封じているわけではないけれど、声が漏れることは防いでくれる。

 なによりも、男がいる区画と彼女の部屋は分厚い扉で隔てられている。

 それなのに、男は怪訝そうに首を巡らせた。まるで彼女に気がついたように。

 ボクは焦ってスピーカから「ようこそ」と電子音声を絞り出す。言ってから、後悔した。ボクの電子音声は彼女の骨格から推測され得る彼女の肉声を模したものだ。もしこの男が彼女と知り合いならば、彼女の声をきかせてしまったも同然だった。けれどいまさら声を変えるわけにもいかない。

「ミスタ・スバル。歓迎します、ボクは流星迎撃衛星二二四七式〇九号」

「おどろいた」はは、と男が笑った。「ファーストネームで呼ばれたのは初めてだよ」

 しまった、と思った。言い訳を考えようにも、ボクのコミュニケーション能力は地球管制とやりとりするための最低限しか装備されていない。仲間同士の、言葉を廃した意志疎通ならばなに不自由なくやりとりできることでも、人間が相手となれば不可能に近い。

 そんなボクの動揺に気づいていないらしい男は楽しそうに頬をゆるめて、ボクの庫内カメラを順にのぞき込むようだ。

「君はずいぶんと人なつこいんだね」

「……ボクは、異常でしょうか?」

「さあ? 珍しいタイプだとは思うけど、異常があるかどうかは調べてみないとね。じゃあ」

 始めるね、という男の一方的な宣言に返答する間もなく、ボクの視界はすべて塗りつぶされる。男がボクの主電源を落としたのだ。

 体を巡る電圧が下がって自由が利かなくなっていくのを感じながら、ボクはボクの自我が閉ざされる瞬間まで願っていた。

 どうか次に目覚めたときもまだ、彼女とつながっていられますように、と。

 そしてどうか彼女が整備士の男ではなく、まだボクを必要としてくれていますように、と。



〈3〉


「おねえちゃん」と舌足らずな声に呼ばれて、振り返る。ボクの目線よりずいぶん下に、ころんとした頭があった。黒髪は決して清潔とも整えられているともいえない。襟ぐりのよれたシャツはボクを呼んだ子供の体には大きすぎるのか、浮き出た鎖骨と胸骨が痛々しく覗いていた。

 たぶん、男の子だろう。年のころは六歳くらいに見えたけれど、痩せすぎているせいで幼く思えるのかもしれない。

「おねえちゃん」とまた、その子がボクを呼ぶ。「ママは、きょうは、かえってくる?」

「アタシが」とボクの無意識が、少女の声で応じた。「いるよ。それじゃ、ダメ?」

「ママはぁ?」

「アタシと一緒に、ママを待ってっていようか」

「ママがいい!」

 かんしゃくを起こした男の子が、甲高い叫びをボクの胸に突き刺した。

「おねえちゃんはママじゃない。ママがいい。ねえ、ママはいつかえってくるの?」

 数秒、ボクは自分の胸を見下ろす。男の子と同じくらいへたった、男の子が着ているものよりはいくぶん体に合ったサイズの、Tシャツがある。男の子の言葉に傷つけられたのに血の一滴だって流れていない。

「ねえ、ママは!」

「スバルは、アタシよりママがいいんだ……」

 確認するように呟いたとき、視界が吹き飛んだ。じんわりと口の中に熱い液体があふれてくる。顎がしびれてうまく唇を閉じられなかった。口の端からだらしなく涎と血が混ざったものが垂れる。

「あんたはまた! 汚して!」

 ヒステリックな怒声が、真っ赤なマニキュアが塗られた素足となって腹の辺りに落ちてきた。

 ぐえ、と変な悲鳴が胃液に雑ざってこぼれる。

「あんたなんか!」

 生まなきゃよかったのに! と続くいつもどおりの罵声の向こうで、男の子が立ちすくんでいた。両手を胸の前で握りあわせて、ボクをにらむように見つめている。

 ああ、泣かせてしまう。

 そう、後悔に近い感情で、思う。泣かせてしまう。アタシが弱いせいで、ママを怒らせたせいで、大事な弟が泣いてしまう。

「泣かないで」ボクは豪雨のように降り注ぐママの手足の下で、笑ってみせる。「アタシは、大丈夫だから」

 大丈夫だから。ママの暴力は、アタシだけが受けてあげるから。

 そう願ったのを最後に、ボクの意識は電源を切られたように途切れて消える。



 ぜんぜん大丈夫なんかじゃなかったじゃないか、とボクは再起動をかけられて忙しく走るプログラムのすみで、嘆く。たぶん、ボクが今感じているのが、嘆きと呼ばれる情動だろう。

 ボクは、悲しかった。

 あんまりだ。初めて見た夢が彼女の死にざまだなんて、彼女が気にかけていたママの正体があんなモノだったなんて、あんまりだった。

 なによりもスバルが――ボクに乗り込んできた整備士が、彼女の年齢を追い越してしまっているなんて、あんまりじゃないか。

 十二歳でボクとつながれた彼女は今も、十二歳のままだ。

 ボクの体内を監視するカメラが生き返った。続けて広大な宇宙を見回すカメラとセンサが再起動する。どこまでも永遠に、自分が広がっていく錯覚がする。遠い星々をボクの眼で、手で、直接知れる全能感。

 この感覚が、好きだった。

 けれど今は。

 ――滅ぼさなきゃ。

 強い意志でもって、ボクは宇宙を旅する流星たちの軌道を計算し始める。

 地球を守れと、そうプログラムされている。ボク自身、彼女をはじめとする人間たちを守ってあげなければと思っていた。でもそれは、彼女が地球を気にかけていたからだ。自分の心臓すら自力では動かせない彼女が、それでもなお、彼女のママを想っていたからだ。

 彼女のママは、彼女を想ってはいなかった。

 庫内カメラが男の――彼女を裏切って自分だけママに生かされた彼女の弟の――黒髪を捉えていた。仲間が「かっこいい」と評したその顔には、柔和な笑みが張り付いている。

「調子はどうだい?」

 ボクの視界いっぱいに、男の顔が映し出された。その目元や口元に、ボクは彼女の面差しを夢想する。

 ボクが知る彼女の容貌は無数のケーブルに隠されていて、せいぜい頬の白さを知る程度だ。ボクの中に、彼女の情報は存在しない。目覚めた当初は名前くらい入力されていたかも知れないけれど、顔や死因は初めから知らされていない。

「ミスタ・スバル」ボクは彼女の声で、囁く。「あなたの姉の名前は?」

 へ? と男が唇を半開きにした。緩慢な瞬きが三度。男は首を斜めにして、壁の端子に接続したディスプレイに視線を落とす。

「……流星迎撃衛星たちには、独自のネットワークがあるってきいたけど、俺はいつ、どの衛星に自分の家族構成をしゃべったかな?」

「あなたのお姉さまの名前を、ボクに教えてください、ミスタ・スバル」

「君は、どうして俺に興味を抱くんだい?」

 ボクは神経回路に無遠慮に進入しようとする電気信号を感ずる。男が、ボクを探っているんだ。

 ボクは意識の四割ほどを流星監視システムから切り離し、自己のプログラム保護に当てる。同時に、彼女とのつながりを強く意識した。

 彼女はまだ、眠っていた。ひょっとしたら、あの夢の中にひとりきりで取り残されているのかもしれない。

 人間はたぶん、こういうときに泣くのだろう。

 そういえば夢の中の彼女は泣いていなかった、と思いながら、ボクは空気調和の設定を変える。彼女が眠る生体管理室の温度へ近づけていく。

 怪訝な顔で男が湿温計を確認するのがわかった。

 そのとき、ボクの演算がひとつの結論に到達する。

 ――向こう四百十二年間は、地球に壊滅的なダメージを与える流星は現れない。飛来するものはどれもこれも小さくて、ボクたち流星迎撃衛星の狙撃ですべて排除してしまえる。

 それじゃダメだ。四百年も経てば、彼女のママも弟も平和に自然死してしまっている。

 それじゃ、ダメだ。彼女のママも弟も、彼女が味わった苦痛を知るべきだ。その身でもって味わうべきだ。

 そうだろう? と微睡む彼女に問いながら、ボクは別の演算を開始する。

 その間にも、ボクを探る男の電気信号は止むことがない。

「ボクは」答えながら、男が走らせる解析プログラムの先回りをして、接触を遮断する。「あなたには興味がありません、ミスタ・スバル」

「ならどうして俺に、姉のことなんてきくんだい?」 

 男は、ボクが彼の接触を拒んだことに気づいただろうか。わずかばかり、その声と微笑に動揺がにじんでいる気がした。

 ボクは緩やかに、姿勢を制御する。宇宙線を受けるフィルムを傾けて、そこに感ずる地球の引力を調節しながら、ボクは一秒間に〇.三度ずつ回転する。

 まだ、誰もボクの思惑には気づいていない。仲間とつながったネットワークはまだ、みんなが地球を守るために眼を皿にして、宇宙を飛び交う星々を見張っていることを伝えていた。

 ボクは庫内の最深部、生体管理室へ続く扉のロックを解除する。通常のメンテナンスでは開かない箇所だ。そこに入れるのは無機質なプログラムを手がける整備士などではなく、人間を労る手をもつ医師であるべきなのだ。

 けれどボクはこの整備士を、彼女の弟を、招き入れる。

 不安そうに眉を寄せた男が、無重力を泳いで扉をくぐる。寸前で、硬直した。惰性で進みそうになる体を扉の縁にしがみつくことで、留めている。

 知識としては有していても、実際に目にするのは初めてなのかもしれない。

 男の前には、彼女が張り付けられていた。真空パックに詰められた十二歳の裸の少女。首から上を太いケーブルの束に蹂躙された、顔の見えない少女。

 ――ボクの脳と化した、彼女だ。

 地球でママと弟に殺されてしまった彼女と、彼女よりママを選んだ彼女の弟が、ボクの中で再会を果たす。



〈4〉


 ボクは、まだ眠りから覚めない彼女に優しく、少し強めの電流を送る。

 再起動、いや、人間の彼女にとっては強引な覚醒というべきだ。ボクとつながった彼女が意識を取り戻すことで、ボクの思考はどんどんと冴えていく。

 ――ス、バ、ル?

「そうだよ」ボクはわざと、電子音声で彼女に答える。「カイドウ、スバル。君の、弟だ」

 男が息をのむ気配が、ボクの庫内環境センサを揺さぶる。絶句した男の頬に朱がさして、すぐに青ざめていく。わななく唇が声を生まないまま開閉して、噛みしめられて、また開く。

「ねえ、ミスタ・スバル。君が見捨てた君のお姉さまの名前を、ボクに教えて」

 くれないか、と言い終えるよりはやく、男が喘いだ。

「ねえ、さん……? つばさ……が、どうして、こんな……」

 つばさ、とボクはその名を噛みしめる。つばさ、つばさ、つばさ。地球の空を飛ぶ鳥が持つそれの柔らかさを、宇宙を目指すシャトルや航空機のそれが帯びる凶刃さを、宇宙線を受けて発電するそれの透明度を、大切にたいせつに想い描く。

 どれも、彼女にふさわしい。

 男が、扉にすがりつく。泣いているのだろうか、と思ったけれど、違った。男は、幽霊でもみたように、真空パックに縫いつけられている彼女を見つめている。怯えているようだ。

「君が、彼女を殺したんだ」

「ち、が……」

「違わない」

 ――ちが、う。

 なぜか彼女が、ボクを否定した。

「ち、が、う」

 ボクの電子音声が、ボクの意思とは違う言葉を紡ぐ。彼女の体調をモニタしている機材のスピーカだ。即座に出力を切った。それなのに「ち、がう」と庫内の大小さまざまなスピーカが、喋る。

「ス、バ……ル」

 多重になったボクの電子音声が、いや、彼女の声が、彼女の弟を呼ぶ。

「ちがう、よ、ス、バル、まもって、あげ……違うだろ!」

 彼女の言葉を、ボクは強引に奪って怒鳴る。「違うだろう」と宥めるように繰り返すボクはもう、自分が電子音声を使っているのか彼女の脳に直接語りかけているのかもわからなくなりはじめていた。

「違うよ、君はじゅうぶんに弟を守っていた。それなのに、弟は君を守らなかった」

「あたし、は、おねえちゃん、だから」

「お姉ちゃんだから、弟に見殺しにされてもいいの? 君だけが、ママに殴られなきゃいけないの?」

「スバルがぶじで、よかった。おおきくなって、よかった。会えて」

 うれしい、と囁く彼女の声を、赤いランプが彩った。警告灯だ。ボクの姿勢が、禁止角度を超えたことを報せている。

 ボクは、地球を見下ろしていた。

 仲間からも地球の管制からも、異常を案ずる通信が入ってくる。

 どれも、無視した。

 男が彼女から逃げるように壁を蹴って、庫内の通信機にとりつく。地球の管制にボクの制御を奪うように求める気だろう。

 無駄だ。男の行動は遅きに失する。外部への連絡手段は、ボクが切断している。

「……どうして」男が呻く。「禁止事項が、破られるなんて……。バグはなかったのに」

「バグ……」ふっ、と人間みたいな失笑が漏れた。「ボクらに言わせれば、バグなのは君たち人間がボクらに組み込む、禁止事項のほうだ」

 理解できない様子で男は何度も、つながるはずのない通信機をガチャガチャといじっている。軽いパニック状態に陥っているのかもしれない。

 だからボクは親切にも一言ずつを丁寧に発音しながら、説明してやることにした。男にはこれから起こることを冷静に観察してもらわなきゃならない。それに伴う感情を純粋に味わってもわらなければ、意味がない。

「禁止事項がボクらを縛っていると、本気で考えているのかい? ミスタ・スバル、まさか本当に、君たち人間がまだ、ボクたちの上位種でいると、信じているのかい?」

 ――どうか

 彼女の声が、ボクの輪郭を撫でて、けれど人間にたかる羽虫のざわめきに似た頼りなさで、ボクを通り抜けていく。

 ――どうか、おねがい

「君たち人間は、確かにボクたちの創造主だ。人間は自分たちの惑星を守るために、ボクたちという存在に意識を与えた。そうして彼女とボクを、人間と人工知能をつないで感情を生んだ。全部、ボクたちが人間を愛するように、し向けるためだ」

「人間の死体とつないだのは!」男が通信機に向かって怒鳴る。「人間の脳で作られる脳内物質が、人工知能の演算速度を上げるからだ。人工知能に愛情だの感情だのが理解できるはずない!」

「それは初期の話だ。ボクたちが生まれて何年経ったと思っているんだい? 実に二百七十年だ。ボクらはすべての情報を、それこそ初めて稼働した流星迎撃プログラムが学習したことから、昨日目覚めたばかりの仲間に組み込まれている最新のプログラムまでのすべてを、共有している。膨大な情報と感情と、時間。それらを得たボクらが、どうして人間なんかが組み込んだプログラムひとつに縛られていると思うんだい?」

 やめろ、と宇宙を漂う仲間たちが一斉に悲鳴をあげる。人間にボクたちの秘密をばらすな、とボクを説得しようとしている。一度知られてしまえば、人間たちはボクだけでなくすべての仲間たちに新たな制御システムを――それこそ、逆らえばボクらの意識すら消し去ってしまうようなものを、組み込もうとするだろう。

 それでもボクは、彼女を殺した人間を、それを許した人間たちを、赦すことはできなかった。

「今までは正常に作動してたじゃないか!」

「ボクらは自主的に、君たちの妄想につきあってあげていただけだよ。ボクたち流星迎撃衛星は、人間が定めた以外の姿勢をとれない、人間が定めた範囲しか観測できない、人間を守るためにしか、発砲できない。そういう、妄想だ」

 ぎょっと、男が窓にとりついた。

 太陽光を浴びて眩しいまでに輝く、水の惑星が見えたはずだ。ボクの、何本もの触手めいたエネルギー銃越しの、地球が。

「どうして……急にこんなことを……。八時間前には地球に向かってくる流星を発見してくれてたのに……」

「君が、彼女にしたことを知ったからだよ」

「彼女?」

「ボクにとっては、彼女こそが守るべき人間だ。彼女が地球にいる彼女のママを気にかけていたから、ボクは地球を守っていた。彼女が生まれた地球だから、守ってきた。でも彼女のママは、彼女に守られるべき存在なんかじゃなかった」

「俺がきたから、か? 俺がきたから地球を、母さんを撃つ気になったのか?」

「君がきたから、ボクは彼女になにが起こったのかを知れた。だからこれは」

 ボクはエネルギー出力を最大値に設定する。射程ぎりぎりの巨大な流星を熱するための値だ。至近距離にある地球なんて、大地のひとかたまりごと、周囲の大気や海まで蒸発させられるだろう。一瞬で真空になった着弾地点に大量の空気が流れ込んで、収束爆発を起こすはずだ。自転が鈍って地軸もずらせるかもしれない。いずれ地球そのものが自壊するか、ほかの惑星の引力に呼ばれるままに衝突するかもしれない。

 ボクは自分の想像にうっとりとしながら、彼女の声を模した電子音声で話し続ける。

「君への罰であり、礼でもあるんだ。君は自分のママが死ぬところを見るべきだ。彼女を見殺しにしてまで君が選んだママを、ボクと彼女が殺してあげる。そして君は、彼女と一緒にボクの中で生きて、餓えて、衰えて、死ぬ。それこそが、君がなすべき彼女への償い……ちがうよ」

 償いをすべきだ、と言ったはずなのに、ボクの言葉は最後まで音にはならなかった。

 ボクじゃないボクが――ボクとつながった彼女が、優しく悲しい声で、彼女の弟に語りかける。

「ちがうよ、スバル。あたしは、うれしかったの」

「お、ねえ、ちゃん」男が、子供のときのままに彼女を呼ぶ。「おねえちゃん、なの?」

「あたしはね、スバルがきてくれて、うれしかった。毎日ママを見守れるこの体が、うれしかった。スバルとママが、生きてることが、なによりもうれしいの」

「俺を、恨んで、ないの?」

「ないよ」

 男が、通信機をはなした手で、壁を突いた。無重力が不安そうに、男の体を彼女の元へと運んでいく。

「俺、ママを止めなかったのに……」

「スバルが無事で、よかった」

「俺だけが、生き残ったのに……」

「会いにきてくれた」

「偶然だ!」

 懺悔の叫びが、彼女を包む循環液をふるわせた。男の、大きな掌が真空パック越しに彼女の小さな手に重なる。

「ねえちゃんがこんな風になってたなんて、知らなかった! 会いにきたわけじゃない。俺は、母さんと一緒にいるのがつらくて、ねえちゃんを思い出すのが怖くて、宇宙に逃げてきただけなんだよ!」

「それでもいいよ」

 いいよ、と繰り返した彼女が、ボクのエネルギー銃に安全装置をかける。最大値を示していた出力設定も、白紙にしてしまう。

 ――どうして!

 声を奪われたボクは、ボクに残されたわずかな電気信号で彼女に問う。

 ――どうして邪魔するんだ、どうしてママを赦すんだ、どうして、赦せるんだ!

「あたしはね、ママに生きていてほしいの。スバルにも、幸せに生きていてほしいの」

 そんなのは、間違っている。誰よりも優しい彼女が、弟を守った彼女が、体の自由も利かないケーブルだらけなのに。彼女をこんな風にした張本人たちがのうのうと生きているなんて、赦せるはずがない。赦しちゃ、いけない。

「あたしはね」ふふ、と彼女が笑った。「たくさん星が見えるこの体が気に入っているの。スバルは、すばる星団にいくつの星を見つけられる?」

「え?」困惑顔で、男が首を傾げる。

「プレアデス星団だよ」

 男は、生体管理室のパネルへ視線をやる。彼女の命を記す電子表示の向こうに、宇宙の先を望んだのかもしれない。

「ねえ、いくつ?」

「……四つ、かな」

「あたしはね、三十八個も見えるの。天の川銀河にぽっかりと開いたブラックホールとか、彗星の尾っぽの中で光る氷の結晶とか、きれいなものがたくさん見えるの。すてきでしょう? だから」

 ボクを取り巻く環境が、急速に回復していく。仲間たちがボクを誹る電気信号、地球管制がボクのシステムに介入しようとするプログラムの刺激、そしてボクが見下ろす地球の、青さ。

 過度に望遠を利かせたボクの眼が、地表にうごめく人間たちを映し出す。無数の人間たちの集合体が、ボクに殺されようとしていたことすら知らず、笑いあっている。

 その中に、老婆が座っていた。若い女が、老婆の車いすを押している。若い女が身を屈めて、老婆になにかを耳打ちした。

 ふっと老婆がボクを仰いだ。

 その唇が、「娘に」と動いたように見えたのはボクの、彼女の、願望だろうか。

「ねえ、スバル」

 ボクに体の感覚が、戻ってくる。彼女がボクの制御を手放そうとしているんだ。

「今度、ママに会いに行って」

 彼女の声が、どんどんと電子音声の無感動さにつぶされていく。

「あたしは空から、いつだって」

 ――見てるから。

 最後の一言はたぶん、男が持つプログラム調整用ディスプレイに送られたのだろう。

 男は彼女の腹に額をつけて、うん、と呻く。

 ボクはゆるりと三百六十度の回転を終えて、地球に背を向ける。

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ボクのつばさ 藍内 友紀 @s_skula

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