第5話

 十二年後。

 何度も修繕を繰り返した家屋はすっかり二人の住む家として様変わりしている。

 オリバー・ノアは今年、四十歳になり、ミハエル・レオーノフは四十四歳になる。

「ミハエルさぁん!」

 元気な声がジャムを煮詰めていたミハエルを呼び、窓からひょっこりと顔をのぞかせた。二キロ程先に住む家の娘だ。

 彼女の両親や祖父母には、ここに来て間もない頃に随分と世話になった。

 その頃は新婚だった彼女の父親は、五年ほど前に流行り病で妻を亡くした。仲の良い夫婦だったと記憶している。

 当時まだ幼かった彼女が、明るく活発に育ったのは祖母とや親類の影響も大きいだろう。

「リンゴンベリーを採って来たの!」

 カゴいっぱいの赤いベリーを差し出す彼女を家の中へ招いてお茶へ誘い、焼けたばかりのスコーンと煮詰めているジャムも添えた。

 今日は彼女の父親と、オリバーは猟に出ている。オリバーは雉猟が得意だ。ついでに山に自生する木の実も取って来くる。

 それを、食べる分をのぞいて、ミハエルがスモークにしたものや、ジャムや菓子などにしたものをオリバーが月に数回、彼女の父親や親類らと共に街に売りに行く。最近は彼女の祖母の作る果実酒とミハエルが作る雉や鳩のスモークが一緒に売れる事が多いらしい。

「店でもやってくれたらウチでお酒卸すのにって、残念がってたよ」

 タップリとジャムをぬったスコーンを頬張る彼女は、戦争を知らない。

 戦火から離れた土地だったとはいえ、ひとたび戦争が始まれば、影響はゼロではすまないだろう。

 願わくば、この平和が続いて欲しいと願いながら、ミハエルは祖国にいるキリルを思い出す。

 …十二年。

 オリバーの国の兵が引き揚げてから、数年。

 今夜あたり、オリバーに相談してみよう。




 オリバーと一緒に猟から戻った彼女の父親が、先週、兄と共に行った街の市で聞いたという話しを教えてくれた。

 キリルが稼いでくれた時間は二週間。その後で「行方不明」となったノア中尉は「死んだ」とも「逃げた」とも言われている。

 逃げようにもあの土地で逃げ切れるわけがないと言われたらしいが、本国はオリバーの頑健さを知っている。故に「脱走」と扱われ、逃げ切れていないにしても、遺体を上げようと捜索がかけられていたことは知っている。捜索に来た兵から何度となく村の人に庇われた。それは元来の、軍人としてではない、ミハエルの性格がもたらした人徳だとオリバーは思っている。

 その戦中や終戦直後の脱走兵の捜索も、引き上げと同時に打ち切られていたそうだ。




 いつものようにオリバーの隣に身体を横たえ、寄り添うようにして眠りにつく。

 明かりを消した後、ミハエルがキリルに会いに行くのはまだ危険だろうかとオリバーに聞いた。

 それを聞いたオリバーは少し考えた後で、ある人物に手紙を出してみるからもう少し待とうと答え、その日は眠りについた。

 その数週間後、差出人不明の手紙を受け取った人物が、訝しんでその封を開け、その中に綴られた分厚い便箋の内容に微笑み、やがて吹き出した。

 読み終わると、すぐさま万年筆を手に取り白紙の便箋に筆を走らせ、短い一文を綴った。

 そこに書かれたのはある場所にある店の名前と、日時だった。

 指定された日時は、この人物が筆を取ってからきっかり三カ月後。

 キリルとはあの後も交流が続いており、連絡はとっておくと書かれていた。

 それからさらに数週間。丁寧に封をされて入れられていた封筒には、宛名が書かれていた。漁村であり、農村でもある場所に住む、オリバーとミハエル宛。




 その三カ月後。

 二人は指定された場所に赴き、着いた直後からミハエルが辺りを何度も見渡していた。

「懐かしい?」

 オリバーの問いに、ミハエルは首を振った。

 見覚えのあるものがないわけではないが、懐かしいと言うには様変わりし過ぎている。

 ミハエルの記憶にあるこの町は、三十年近くも前のもの。

 士官学校に入る前だ。この町も当然無傷ではすまなかったのだろう。

 指定された店には、既に二人の人物がいた。

「オリバー、こっちだ!」

「ロバート!」

 店に入った二人を見つけるや否や立ちあがった派手な男がいた。この町で太陽のような金髪と白い三つ揃えのスーツは無駄に目立つ。それが長身となれば尚更だ。

 彼の当時の階級は中佐。オリバーとは子供の頃からの付き合いだ。

 老けたなぁ。ほっとけ。と軽口をたたきながらも抱き合って再会を喜ぶ傍ら、涙を滲ませての再会となったのはキリルとミハエルだ。

 ジャンパーを着ていた少年はパリっとしたスーツを着るようになり、伏せ目がちであった視線も、真っすぐに前を向いている。背も当時より伸びているようだ。

「…キリル、立派になりましたね…」

「…よく…無事で…」

 お互いの再会を喜びながら、食事と共に、積もる現在に繋がる話をする。ロバートはあの後、本国へ戻り、天然ガスや油田などが関わる大規模な事業を興したらしい。凄いなぁと感心するオリバーに「戦争なんかより、ずっと有効に使ってみせる」と茶目っ気たっぷりに、けれども何処か強い意志を思わせる口調で言った。

「それはそうと、少佐」

 ロバートがミハエルに視線を向けると、オリバーがロバートに待ったをかけた。

「ロバート、彼はミーシャ。…ミハエルだ」

「え?…あぁ、そうか!そうだったな」

 何処か嬉しそうに、オリバーの言葉の意味を汲んだロバートが言うと、改めて、とコホンと一つだけ咳払いをしてから、木箱を取り出した。

「これ、ミハエル、あんたのだろう」

「?」

 差し出された木箱を開ける、丁寧に布に包まれたそれを見て、ミハエルは言葉を詰まらせた。

「ミーシャ…?」

 オリバーが箱に収められていたものを覗き込み、やはり、驚きの表情を見せた。

 二客のカップとソーサー。そしてポット。白磁器で金彩の囲いと青いコバルトネットが縁に装飾された、それ。

「せっかく持ってきたんだから、ちゃんと持って帰って使えよ」

 それは、紛れもなく、かつてミハエルが愛用していたもの。王室御用達の工房を視察にいった時、気に入って買ったものだ。なんとなく離れがたくて、赴任先にまで持って行った、二客のセットのもだが、一客は使うことはないだろうと思い込んでいた頃もあった。

 ある日の気まぐれから、オリバーの前に出し、尋問という名の優しい時間には欠かせないものになっていた、それ。

「懐かしいなぁ。これで初めて紅茶を飲んだ日が、私がミーシャと初めて会った日で、恋をした日だ!」

 嬉々として言うオリバーに顔を真っ赤にするミハエルとキリル、「そりゃ、ごちそうさま」と茶化すロバート。

「ミーシャ、帰ったら、絶対にコレを使おう。二人で、この先も、ずっと!」

 恥ずかしさ満点でうな垂れたミハエルが小さく「えぇ」と返しているのに気がついたロバートだったが、これ以上はミハエルが気の毒な気がして、オリバーに「落ち着け」と笑うにとどめた。

 その後でキリルが言い辛そうに言ったのは、当時の王家や貴族に連なる系譜が途絶え、その家屋に住む者が居なくなったということだ。 どうしても、キリルにとっても想い出のあるレオーノフ邸を残そうとし、彼が取った手段は観光用として使うことだった。 キリルは、傾きかけた市税を立てなおす、市政の仕事をしているらしい。

 レオーノフ邸は年季の入った重厚な建物であることは勿論、家具や食器も歴史のあるものだ。

 それを公開することで、取り壊しを回避し、市の財政にとってプラスであると市議会を説得したらしい。

 今、ミハエルが名乗りを上げれば、取り戻せはするかもしれないが、ミハエルにその気はなかった。

 その翌日、オリバーと二人で生まれ育ったレオーノフ邸に足を運んだ。見慣れた外観ではあったが、何故か懐かしさを感じなかった。

 父の部屋、母の部屋、家族で食事をした食堂。

 母が友人達を招いてお茶を開いていたサロン。

 …そして、ミハエルが過ごした部屋。

 使っていた棚や机、愛読した本が並ぶ本棚にすら、手前で立ち入り禁止のロープが張られたその場所。

 庭に出てみると、キリルが門まで回るのを面倒がって、よく乗り越えてきた塀がある。 その手前に蔓装飾の白いテーブルと椅子があり、天気の良い日は、そこでよく本を読んで、キリルを迎えて笑っていた。母が手入れしていた庭。

 …だが、今そこに咲く花は、美しいが別のものだ。

 作り手や家族が季節や花を楽しむというよりも、その時その時の来客を楽しませる花のように感じられた。

 今は、訪れた人間が庭を散策し休む為にベンチが置かれ、ミハエルが愛した、彼の母が作った庭は、もう、そこにはない。

 一抹の寂しさに襲われた時、オリバーがミハエルの手を握った。

 隣に立つオリバーを見ると、「大丈夫だ」と言うように、笑ってみせた。

「…オリバー、貴方は…故郷に帰りたいですか?」

 ミハエルのその問いに、オリバーは静かに首を振る。

「…私が軍に入った時、全て焼けてしまった」

 だからこそ、祖国の為に戦うという、軍の正義を信じていた。

 全てが新しくなった場所に「帰る」という感覚はない。オリバーにとって、そこは最早、「行ってみてもいいと思う場所」ぐらいのものでしかなかった。

 そしてミハエルも、目の前に広がる光景に同じことを思っていた。 生まれた町は様変わりし、育った家は違う場所のように感じる。

 キリルが尽力してくれたことを嬉しく思う反面、何処か他人のものを見ているような自分がいることをミハエルは感じていた。



 


 …ここは、故国だ。


 いや、亡国とも言えるかもしれない。



 漠然と、そう思った。  

「亡くした故郷」そう捉えれば、自分の中で「亡くした」「もの」として、過去の、家族で過ごした国を思うことが出来た。

「無くしたもの」を取り戻すことは出来ても、「亡くしたもの」はもう戻らない。

 …ただ、静かに、想い出の中に眠らせてやりたい。

 だが、それは、想うべきもので、浸るべきものでも、ましてやこれからを過ごすべきものでもない。

 自分の手を握るオリバーの手をそっと握り返し、ミハエルが静かに微笑んで言った。

「帰りましょう、オリバー。ジャムを作らないと」

「…そうだな。ミーシャ、帰ろう」




 故国でも、亡国でもない。


 あの、二人の家に。

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白銀の堅牢 koya @koya_koya

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