第4話 満洲綴錦――鐘の鳴る丘〈昭和時代〉


  

   1

 

 1947(昭和22)年8月10日午後2時――

 国鉄小海線岩村田駅から真っ直ぐ西方に延びる一本道を、土埃カーキ色のリュックを背負ったひとりの男が歩いてくる。


 小柄な肢体は、乾いた大地から立ちのぼる陽炎にあぶられて頼りなげに揺らぎ、となりの御代田町の古刹、真楽寺に伝わる「甲賀三郎伝説」(太郎と二郎、ふたりの兄から妬まれて地の穴に落とされ、地上へ出てから諏訪湖を守る龍になった三郎と、妻の春日姫の悲話)のように、龍になって天に駆け昇ってしまいそうだ。


 涼をとる樹陰も、喉を潤す井戸もない一本道の北方には、穏やかな山容に獰猛な活火山の爪を隠した浅間山が、あるかなきかの白煙を吐いている。


 故郷の上空を何度か旋回した特攻機が1機、少年操縦士の首から純白のマフラーを棚引かせながら真っ赤なマグマがたぎる火口に垂直に突っ込んだのは、ちょうど2年前の夏のことだった。


 雑貨屋、金物屋、下駄屋、駄菓子屋、蕎麦屋、活版印刷会社などが埃っぽい軒を並べる、ささやかな駅前商店街とは逆方向に延びる一本道の果てに、渡来人の痕跡を地名に残す新羅しらぎの集落があある。


 100戸足らずの小集落の入り口付近、前方後円墳のような形の小高い丘の上に藁やトタン、瓦葺き屋根が混在する農村でひときわ威風を放つ三角屋根が佇立しており、遠目にも判読できる大時計と、朝昼晩の時を告げる鐘が設置されている。


 昨春、直線距離にして60キロほど離れた県都の歓楽街から、使われなくなった遊郭の建物が移築された。

 正面に玄関を設けた左右対称、擬洋風建築の木造2階建てに、戦後の混乱の渦中で行き場を失った少年少女のために「鐘の鳴る丘寮」の看板が掲げられた。


 ――とんがり帽子の時計台。


 太古の昔、海を越えて来て当地に住みついた事実を物語るように、頬骨の平らかな面立ち、すっと小刀を引いたような切れ長の目、明るい唐茶色の瞳を持つ新羅の住人は、渡来人のおおらかな気質から風変わりな外来者をそう呼び交わしていた。

 なにを隠そう、その時計台こそ、当編の語り手のワシである。

 

「復員軍人さんかな」

 時計台、つまりワシの真下の2階から一本道を眺めていた清水利志夫が呟いた。

「きっとそうだね」

 大正ロマンの凝った欄干から身を乗り出していた横沢則子が即座に同意すると、涼風が吹き渡る古畳の上で、大の字になって昼寝をしていた数人の少年少女たちもゴソゴソと起き上がって、伽羅色に干からびた一本道に気怠げな視線を放った。


 東京出身の利志夫(12歳)は、福島に学童疎開している間に空襲で両親と兄を失った戦災孤児。松本出身の則子(10歳)は、サイパン島で父親が戦死し、母親の再婚相手に疎まれた家出少女。多少の出入りはあるが、20名前後が共同生活を送る子どもたちは、庇護されるべき年齢にはあまりにも残酷な事情を抱えている。

 

 

   2

 

 終戦から2回目の盂蘭盆会は、一見、何事もなく通過していった。


 いまを去る245年前の元禄16(1703)年、徳川家譜代の内藤正友が武蔵国赤沼藩から移封され、岩村田陣屋(城郭に替わる仕置きの役所)が置かれた。

 そのとき、岩村田藩1万6,000石城下の西方の守りとなるべき新羅の集落は、小諸藩方面から侵入する敵を阻止し、篭絡する目的で、鍵の手や丁字路に整地された。


 江戸時代さながら直角や袋小路の道に添って配置された家々は、13日の迎え盆には門口で稲藁を焚き、まるで人体から取り出したばかりの心臓の蠕動のように、深く浅い瞬きを繰り返す深緋色の燠と儚げに立ち上る白菫色の煙に「ご先祖さま、この煙に乗ってどうぞお越しくださいませ」と唱えた。そして、ご滞在の2日を挟んだ16日の送り盆では「この煙に乗って無事にお帰りください」と唱えるのだ。


 どの家でも1人か2人、あるいは3人か4人、期間限定里帰りのご先祖さまに、つい先頃の戦争で国家に命を奪われた大切な家族が含まれていたが、戦時中の思想統制の呪縛がいまだに効いていて、表立って異を唱える者はだれもいなかった。


 16日の朝、盆提灯とともに盆棚を飾っていた花や果物、饅頭を濁り川(浅間山の溶岩を含んで黄濁しているところからの通り名)の岸に運び、線香を焚いて胡瓜や茄子の馬を濁った川に放ってやると、入れ替わりに上流から秋が運ばれて来た。


 夜、送り盆の線香花火が尽きると、下駄の爪先が冷たくなった。

 日中の猛暑が嘘のように浅間から吹き降ろす風には堅い芯が含まれ、浴衣の下の素肌をチクチクなぶっていく。そそくさと家に取り込まれた人びとは箪笥から長袖を出し、寒がりの年寄りを抱えた家では、早々と炬燵の手配まで始めるのだった。

 

 秋もたけなわとなった9月30日――。

 パイオニアであり施設長でもある伊吹裕也(56歳)の意向で一般家庭のように年中行事を大切にしている「鐘の鳴る丘寮」では、目の底まで真っ青に染まるような快晴の早朝から、月見団子ならぬ月見饅頭マントウの準備に忙しかった。


「気持ちのいい天気だね。今夜はとびっきり見事な満月が拝めそうだね」

 6人の職員中で紅一点の女先生こと館山麻子の明るい口調に釣られたのか、

「先生。オレ、お盆みたいな月が早く見たくて、いまから夜が待ち遠しいです」

「その顔でよく言うよ。あんたなんかどう見たって、月より団子の口だろう?」

「おまえこそ風船みたいな面して。こっそり膨らし粉でも飲んだんじゃねえのか」

「鬼瓦のあんたに言われたくないね。ふん、なにさ。おまえの母ちゃんデベソ」

 手伝いの少年少女たちも、いつになく興奮してはしゃいでいた。


「それにしても、麻子先生が初めて寮の玄関に立ったときは、ぶったまげたもんだったよな」

 調子に乗った利志夫が言い立てると、妹分の則子もすかさず同調する。

「そうそう。ツルッツルの坊主頭でさあ、どう見ても復員オジサンだったもんね」

「オジサンはないぜ、せいぜいオニイサンだろう。だけど、その坊主頭の下から、まさかの女の人の声が飛び出したとき、オレ、本気でぶったまげたぜ」

「そうそう。オイラなんか……」


 ほかの子も加わろうとしたとき、当の麻子がやんわりと釘を刺した。

「はい、おしゃべりはそこまでだよ。さあ、みんな、ご親切な新羅の村の人たちが分けてくださった大切なウドン粉なんだから、心を込めて練ってちょうだい」

「はーい」

 口々に答えた子どもたちは大好きな女先生のために喜々として粉塗れになった。

 

 終戦当時、館山麻子(28歳)は、満洲開拓団東雲しののめ村国民学校の教師をしていた。

 女だてらに義侠心の強かった麻子は、お国のために雄々しく異国に出向く愛国者たちの子弟を応援したいと、自ら志願して満洲(中国の東北部)へ渡ったのだ。


 しかし、まさかのことに電気も水道も敷かれていない当地へ着任してほどなく、満洲開拓団募集のチラシに大文字で踊っていた「王道楽土」や「五族協和」の惹句は、人心を鼓舞するための、嘘八百のまやかしだったことを知ることになった。


 ――日本政府が謳う「開拓」とは、現地の農民の耕作地をただ同然に搾取する、事実上の「侵略」にほかならない。知らぬ間に悪辣な国策に加担させられていた。


 わずかな財産を処分し、出征兵士と同様に、日の丸で送られて祖国を発って来た開拓団員が空恐ろしい欺瞞に気づいても、迎えてくれる故郷はすでになかった。

 松本市郊外に両親が待つ麻子は、そんな人たちを見捨てることはできなかった。


 舞台はある朝とつぜん暗転した。

 1945(昭和20)年8月10日早朝、東雲村開拓団のはるか遠方の道路に、いつになく大量の土煙が濛々と上がり始めたかと思うと、それが終日つづいた。


 それから5日後、日本は戦争に負けた。

 満洲と名付けた東北部では、即座に現地人の報復とソ連軍の侵攻が始まった。

 5日前の不審な土煙は逸早く敗戦を知った関東軍幹部の家族が家財道具を積んで逃げる、その荷車が立てたものだった。開拓団員は無法化した地域に遺棄された。


 出征と同じ扱いの開拓戦士は徴兵の義務を免れる。

 戦争当初の約束がいつの間にか反故にされていた当時、働き盛りの男のすがたがすっかり消えた開拓団に残っているのは、年寄りや女性と子どもたちだけだった。


 つい昨日まで侵略者である日本人の支配下にあった現地の農民たちは、いまこそ積年の恨みを晴らそうと、手に手に武器を持っておそいかかる殺戮集団と化した。

 静かな開拓村に響き渡る、凄まじい怒号と荒々しい破壊音。その背後に迫り来るソ連兵の最前線には、犯罪者の集団が配置されているといううわさだった……。


 いくえにも重なった恐怖に追い立てられ、文字どおり着の身着のままで始まった逃避行の先に待ち受けていたのは、凄絶きわまりない、この世の地獄図絵だった。


 食糧も衣類も赤ん坊の乳も襁褓むつきも、雨露を凌ぐ術もない逃避行で、血を噴いた裸足は、随所で断崖や大河に阻まれた。赤子を背負い、幼児の手を引き、老人を支えながらの道行きは、女たちからしだいに平常心を奪っていった。


 彷徨える悪鬼と化した群れが、子どもらの首を絞めてから互いの胸を刺し合ったことが明らかな集団自決の開拓村を、いくつもいくつも、無感動に通り過ぎた。


 当て所もない逃避行の末、粉雪が舞うころ、ようやく哈爾浜ハルビン収容所にたどり着いたが、食糧も布団もない不衛生な収容所では、水のような血便を迸らせながら死んで行く疫痢が蔓延していた。足の踏み場もない屋内から運び出される遺体は凍った大地に無造作に野積みされ、棒鱈のように硬直したまま春まで放置された。


 いくつかの季節をやり過ごしたころ、ようやく日本へ帰る順番がまわって来た。

 すでに定期便になっていた引揚船「興安丸」に乗って祖国へ。舞鶴港から鉄路を乗り継いで松本の生家に着いたものの、生き別れた教え子たちへの贖罪に苛まれ、供養の気持ちで、かつての教師仲間から聞いた「鐘の鳴る丘寮」を志願した……。

 

 現地人やソ連兵から身を護るため、顔に墨を塗り、頭を丸め、その髪がようやく7分刈りまで伸びた麻子は、中国での凄絶な体験をいっさい語ろうとしなかった。


 ――大人でさえ生き惑う社会のただ中に放り出された少年少女たち。縁あって寄り添った子どもたちと共に学び、働き、泣き、笑い、密度の濃い歳月を共有して、やがては自分の羽で羽ばたけるように、精いっぱいの後押しをしてやりたい。


 麻子にとって「鐘の鳴る丘寮」の寮生は、満洲の教え子の生まれ変わりだった。



 蒸籠せいろから美味しそうな蒸気が上がり始めた。

「麻子先生。具を入れたのも、そっちの入れないのも、どっちも同じ饅頭ですか」

「いい質問だね。満洲ではね、具を入れたのを包子パオズ、入れないのを饅頭と呼んでいたよ」

「そっかあ。どうでもいいけど、どっちもいい匂いだな。オレ夜まで待てないよ」

「ほらね、言わんこっちゃない。あんたはやっぱり月より団子の口でしょうが」


 やれやれ。どうでもいいけど、けんかもまた楽しからずや、といったところか。

 

 

   3

 

 立冬を控えた小春日和の週末は、事情あって離れて暮らす親子の面会日だった。

 この日、親のいる子いない子、いても会いに来てくれない子……明暗はくっきり分かれた。唯一の救いは面会者がいない子どもの方が圧倒的に多いことだった。


 こういう微妙な空気の日は「鐘の鳴る丘寮」の母ちゃんである麻子先生が、いつも以上に寮生から引っ張りだこになるのは、無理からぬ人情の道理だったろう。


 死別にせよ生別にせよ、幼くして親から離され、自分の存在に自信が持てない子どもたちは、拗ねたり甘えたり笑ったり泣いたり怒ったりして職員、とくに女先生の中にある自分への愛情の度合いを、何度でも繰り返して確認せずにいられない。


 あの子への眼差しが、自分へのものよりやわらかい。

 声をかける回数が多い。手をつないだ。頭を撫でた。

 しゃがみこんで、「いい子だね」とささやいていた。


 一緒に歌をうたった。

 こっそり料理の味見をさせた。

 ごはんやおかずの量が不公平だ。

 夜、いつもあの子の隣に布団を敷く。


 ――麻子先生の依怙贔屓えこひいき……。


 日常的なあらゆる場面が、思いがけないほど激しい嫉妬の対象になった。

 

 晩秋の日が西に傾くと、面会の親たちはそそくさと帰り支度を始めた。振り返りもせずに一本道を帰って行く親たちを見送るのは、職員にとって辛い作業だった。


 最後の親を門まで送り、何気なく振り返った麻子は、異様な光景に息を呑んだ。


 剥げかけた弁柄色の塗料が侘しい飾り窓の格子に、爛々と目を光らせた少女たちが檻の中の動物のようにしがみついている。格子越しの薄暗い屋内に透かし見えるすがたが客を引く遊女に重なる。

 大きく見開かれた麻子の目から農作業で日焼けした頬にパラパラと滴が散った。


 ――こんな不条理があっていいわけがない。


 少女たちに手を降り返した麻子は、そのままモンペの足を寮長室に奔らせた。

 ふだんは至っておとなしく自分の意見を述べたことがない麻子が、わたし一歩も引きませんと言わんばかりの形相で直談判にやって来たので、伊吹寮長は驚いた。


「寮長先生、どうかお願いします。なんとかしてやってください」

「どうしたんだ、館山くん。いったい、なにがあったというんだ」

「うちの子どもたちに、あんな真似をさせてもいいんでしょうか」


 寮長にとっては、まさに目から鱗だった。

 男性としての自分の迂闊に恥じ入った伊吹寮長は、翌日、男性職員たちに命じて、無償貸与された建物の、暗い前身を思い出させる窓格子をすべて撤去させた。


 前時代の翳と無言の縛りが鋸の音に乗って秋空に吸いこまれてゆく。

 「鐘の鳴る丘寮」は、少年少女たちのますます大切な家庭になった。

 

 

   4

 

 麻子にとって初めての冬がやって来た。


 中国でも東北部と呼ばれる満洲の冬も苛烈だったが、零下20度近くまで下がる酷寒を、ビョービョーと横殴りに吹き荒れる浅間颪おろしの峻烈さはまた格別だった。


 岩村田駅前から新羅方面へ向かえば、遮るものとてない一本道の初めての風除けとなるとんがり帽子の時計台付き「鐘鳴る丘寮」の住人たちは、天涯孤独の旅人が吹き鳴らす口笛のような電線の音を聞きつつ、遅い春をひたすら待ち侘びていた。


 松本の生家では惜しみなく焚かれる囲炉裏が家族の頬を熱いほど温めてくれた。

 満洲の開拓村では、団員の家はもとより学校や職員住宅にもオンドル(床暖房)が完備されていたので、屋外は酷寒でも屋内では薄着で生活することができた。


 だが、暖房といっても、せいぜい掘り炬燵か火鉢しかない当地では、職員一同も少年少女たちも、ありったけの衣類に慈善団体から贈られた綿入れ半纏ばんてんを重ね着し、首筋や袖口から熱が逃げないように縮こまっているしかなかった。


 頑迷な暗鬱がはびこり出すと、大人も子どももひどく年寄りくさく見え始める。

 封じ込められた若い魂は饅頭のように膨張し、出口を求めて荒れに荒れた。物という物が凍りつくと、生身の人間の身も心もカチカに凍ることを、麻子は知った。

 

 梅、桜、桃、李、杏……虹色や珊瑚色、甚三紅など、とりどりのピンク色をした可憐な樹木の花ばながいちどきに咲く春がやって来ると、あれほど凄まじく吹き荒れていた浅間山の山容は、ずっしり重い冬衣を脱ぎ捨てたように軽やかになった。


 往時の姫君のように縹色はなだいろの裾野を引く山容は悠揚として迫らず、薄い白煙を吐く頂上も、古来、生き暮れた人間たちの命を呑み込んできた事実などなかったかのように、凹凸の少ない平らかな稜線を、白菫色の空に水平に連ねる。


 軒先の氷柱が細くなり、斑雪が消えてせせらぎの水音が聞こえるようになると、冬眠中の熊の穴倉状態だった「鐘の鳴る丘寮」にも自ずから生気がよみがえった。


 一本道の土手でナズナやツクシを摘み、シロツメクサの花で首飾りをつくり、冬の間に傷んだ建物を修理し、寮庭の畑を耕して種を蒔き、モグラの穴に興奮する。

 穏やかな春風に首筋をなぶられながらのひとつひとつが、明るい歓声を呼んだ。


 春彼岸を越えても三寒四温を繰り返していた陽気がようやく安定して来たころ、伊吹寮長の提案で、「鐘の鳴る丘寮」では初めての遠足が催されることになった。


 全職員で相談した結果、行き先は寮から直線距離にして6キロほど東方に聳える閼伽流山あかるさん(標高1,028メートル)と決まった。


 漢字も思いつかないアカルサンとは聞き慣れない名称だが、閼伽とはサンスクリット語(梵語)で「聖なる水」を意味するらしく、この山から閼伽が流れ出すことに由来するとも、あるいは、附近の洞窟「熊の穴」に雛鶏を放ったところ、山内の洞窟から「コケコッコー」と成鳥の鳴き声が聞こえたことに由来するとも……。


 麻子にはイマイチ意味がわからなかったが、中腹の古刹、明泉寺には百体観音が祀られており、鐘楼をくぐり、本堂にお参りしながら登りきった展望台からの眺めは絶景だそうだから、初めての遠足の目的地としてはかなり期待できそうだった。


 果たして、哀歓の起居を共にするうちに本当の家族のようになってきていた職員も少年少女たちも、みんなで指折り数えて待ちわびた当日は、厳冬に耐えたご褒美のように、北方に屹立する浅間山から、はるか南方に尾根を這わせる八ヶ岳まで、大空いっぱいに露草色の布を張り詰めたような、天晴れみごとな快晴だった。


 母親役が板についた麻子は、挿絵の得意な同僚の飯塚友哉(27歳)とともに心を込めて作成した遠足のしおりや歌集(『朧月夜』『春の小川』などの童謡や『リンゴの唄』『東京ブギウギ』など戦後の流行り歌を収録)を用意していた。

 満を持してのぞんだ春の催しを、参加者全員で心ゆくまで楽しんだ。


 心地よく疲れた足を「鐘の鳴る丘寮」へ運んでいた帰路、小さな事件が起きた。


 硫黄島で戦死した夫のあとを追うように母親も病死した諏訪出身の茅野拓馬(8歳)が、一本道の途中でふいに足を止めて、なだめても叱っても動かなくなった。


 野球帽の鍔をグイッと引き、きつく拳を握りしめ、小さな肩を震わせて、乾いた地面を睨みつけていた拓馬少年は、やがて、北方の浅間山に向き直ると、


 ――おかあちゃ~ん、おかあちゃ~ん、おかあちゃ~ん。


 天涯孤独になって以来、溜めに溜めてきた思いの丈を、どっと一気に迸らせた。

 ふだんは無口で、影のようにひっそり生きていた少年の、内臓を吐き出すような大絶叫は、強がってみせていた少年少女たちの心の堰を、呆気なく決壊させた。


「かあちゃ~ん」

「おっかさ~ん」


 夕日に赤々と照らされた一本道を、東から西へ、母恋しの大合唱が奔り抜けた。

 手放しで共感する以外に慰める術を持たない職員たちも、悄然と肩を窄め、堅く握った拳や腰の手拭いで、荒々しく目頭を拭いつづけるばかりだった。


 リーダー格の清水利志夫や妹分の横沢則子を含め、土埃の舞う道に長い影を引いた少年少女の一団が口々に母を呼び、身も砕けよとばかりに泣きじゃくる光景は、あっけらかんと陽光を降らせていた太陽をも曇らせずにおかなかったものと見え、明るく照り返していた人参色の夕景に、一瞬、哀切な翳りが奔ったようだった。


 首を長くして一行の帰りを待ちながら、事の一部始終をつぶさに目撃することになった時計台のワシも、恥ずかしながら秒針を小さく震わせずにいられなかった。

 

 

   5

 

 ところで――


 このころ、ワシが午後5時の鐘を鳴らし始めると、職員も少年少女たちも食堂に集まり、ラジオから流れる連続放送劇の波乱万丈の展開に、固唾を呑んで聴き入るようになった。


 ――菊田一夫作『鐘の鳴る丘』。


 東京空襲で両親を失い、孤児収容所に保護された弟を探し歩いた復員兵が、街頭の靴磨きや花売りで糊口を凌ぐ健気な孤児たちを目の当たりにし、一片の罪もないのに浮浪児呼ばわりされる子どもたちが安心して暮らせる居場所を作りたいと発願する。何万人もの戦災孤児を産んだ時世ならではの、時宜に適った物語だった。


 底抜けの明るさと切なさが背中合わせになった主題歌『とんがり帽子』(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)が流れ出すと、少年少女たちの歌声が響きわたった。


 物語は実話なのか創作なのか……人気に伴い、全国の視聴者の関心が高まった。

 どこからどう伝わったのか、にわかに熱狂的なドラマ愛好者の注目を集め、まことしやかな舞台説が取り沙汰され始めた「鐘の鳴る丘」の少年少女たちも例外ではなかった。


 あるとき、則子が不思議そうな面持ちで麻子先生に訊いた。


「ねえ、先生。このお話は、あたしたちの寮のことなの?」

「どうだろうねえ。作者の菊田一夫先生がお見えになったことはないけど、もしかしたら人づてに『鐘の鳴る丘寮』のことをお聞きになったのかもしれないね。それか、ひょっとしたらわたしたちが知らないあいだに、こっそり取材にお見えになったのかもね。お話が生まれたいきさつを、あれこれ想像してみるのも楽しいよね」


 麻子の返答どおり、大衆演劇作家の菊田一夫が当地を訪れた痕跡はなかったし、全国各地に30近くある同様な施設にも、三角屋根の時計台がないとは限らない。


 なぜか、菊田一夫自身も言明を避けたので、真相はだれにもわからなかったが、NHK連続放送劇『鐘の鳴る丘』の大ファンになった「鐘の鳴る丘寮」の少年少女たちにとって、物語の舞台のモデルの真贋問題は問題にもならなかったようだ。

 

 

   6

 

 実際、菊田一夫という人は、ずいぶんと薄幸な星のもとに生まれついたらしい。

 どういう事情か、生母は一夫を生んだ直後に離縁され、継母となった叔母(生母の妹)と実父に連れられて台湾に渡るが、すぐに運送店主夫妻に養子に出された。


 小学校2年生になった8歳のとき、とつぜん、その養父が死去した。

 それから3年後、11歳になった一夫は、養母の再婚相手に「内地の上級学校に入れてやる」と言い含められ、大阪の薬問屋に奉公に出された。不慣れな丁稚奉公に右往左往しているうちに、半年足らずで、今度は神戸の骨董屋に身売りされた。


 底辺を這いずりまわるような暮らしの中でも向学心を持ちつづけ、時間や費用を工面して夜学の英語学校に通い、ガリ版刷の同人誌に自作の童謡や童話を発表するなど、誇りある人間として生きる強靭な糧を、着々と自らの内部に培っていった。


 17歳のとき、同人誌の文通仲間を頼って上京するが、言葉巧みに騙され、爪に火を点して貯めた金をすべて巻き上げられ、やむなく印刷所の見習い工になった。


 失意の中にあっても文芸への夢は棄てず、20歳のとき、寄食していた詩人のサトー・ハチローの紹介で、浅草六区の諸口十九もろぐちつづや一座の文芸部にもぐり込むが、間もなく一座は解散。中野児童歌舞伎の文芸部員に不安定な職を得た。


 うだつの上がらない東京暮らしに見切りをつけて大阪に移住し、脚本の代筆などで食いつないだが、再び上京し、新カジノ・フォーリーの文芸部員に雇われた。


 だが、またしても解散の憂き目に遭ってプペ・ダンサントに移り、多忙な師のサトー・ハチローに替わり処女作となる『阿呆疑士迷々伝』『メリー・クリスマス』の2作品を連続徹夜で書き上げ、なんとか脚本家としてのデビューを果たした。


 長年の下積み生活からようやく抜け出せたのは28歳のときだった。


 古川ロッパ一座の文芸部員として東京宝塚劇場株式会社へ入社し、『ロッパ若し戦わば』『ロッパ従軍記』『ロッパと兵隊』など、時局を反映した人気の「ロッパもの」を相次いで発表する。一方で、劇作家の北条秀司らとともに海軍報道部員として満洲や広東に従軍した(このときの活動が戦後の戦犯説を生むことになる)。


 1943(昭和18)年、『花咲く港』で独自の中間演劇のスタイルを確立した一夫は、毎月10本から60本の台本を執筆する、売れっ子の脚本家になった。


 戦後、戦犯容疑をかけられた一夫に、進駐して来たCIE(占領軍最高司令部民間情報教育局)から「戦後の浮浪児問題を採りあげたドラマを」と要請があった。


 午後5時15分から30分まで、日本初の15分番組は、昭和22年7月22日午後6時45分に幕を開けた。当初は土曜日と日曜日の週2回だったが、あまりの人気ぶりに、半年後には月曜日から金曜日まで週5回の番組に拡大放送された。


 のちに雑誌に発表された一夫の敗戦日記「昭和21年3月28日」の項で、全国で推定35,000人といわれた戦災孤児に自身の薄幸な生い立ちを色濃く重ねている。


 ――小学校の卒業証書すら持たない自分には「おい」「おまえ」と無条件で呼び合える同窓の友がひとりもいない。いつまでたっても気を許せる親友ができない。学歴のない自分が書く作品には、どこまで行っても世間の偏見が絡みついている。どんなに足掻いても消えない烙印である。


 そう述懐する菊田一夫のたったひとつの趣味は原稿の執筆だった。いつでもどこでも書きたがり、書いてさえいればすべてを忘れ、満ち足りた気持ちでいられた。

 

 

   7

 


 開寮から4年目の1590(昭和25)年6月25日――。


 敗戦後、南北に分断されていた朝鮮半島で、北朝鮮軍が北緯38度線を突破して南下した。アメリカを中心にした16か国の国連軍が韓国を、中国義勇軍が北朝鮮を支持し、朝鮮戦争が始まった。復興半ばだった日本でも、在朝鮮や在日米軍からの物資やサービスの発注(特需)で繊維や鉄鋼業界には思いがけない潤いがもたらされ、恩恵と無縁の庶民から羨望をこめて「糸へん」「金へん」と呼ばれた。


 他国の戦争で漁夫の利を得た格好の、一部業界から放たれる空気で活気づく社会情勢を背景に、さまざまな事情を抱えた少年少女たちの共同生活は、開拓者の伊吹裕也寮長を初め、女先生こと館山麻子、単に「先生」と呼ばれる飯塚友哉ら男性職員たちの結束と義侠心で、ますます揺るぎのないものとして定着しつつあった。


 9月23日未明、寝静まっていた「鐘の鳴る丘寮」は、ズシーンと地底から突き上げるような振動に見舞われた。前年にもたびたび発生し、昭和22年には登山者11名が死亡する大事故に発展していたので、ただちに浅間山の噴火と知れた。


 果たして夜が明けてみると、新羅の集落の屋根も田畑も岩村田駅につづく一本道も、人びとが「溶けない雪」と呼ぶ降灰に塗り込められていた。少し時間を置き、硫黄臭の濃い、ふだんよりも色味の強い濁流を押し流して来た濁り川の水面には、噴火の置き土産である軽石がプカプカと大量に浮かんでいた。形のいい石を選び、入浴時に足裏の手入れにつかうのが、古くからのこの地域の習わしである。

 

 終戦の翌年に開寮して以来、1日も欠かさず、朝昼晩のときを忠実に告げて来たとんがり帽子の時計台、つまり、このワシが鳴らす鐘が取り換えられるという話は、前年の暮れあたりから起こっていたが、11月についに実行の運びとなった。


 世の中も落ち着いて来たから衣替えをというのがその理由だという。取り換え日が近づくにつれ頻繁になって来た外部の訪問者から異口同音に「古い」「汚い」と言われるワシとて、遊郭時代の名残を引き摺っていたいわけでは決してなかった。


 だが、だからといって、さようごもっともでございます、どうぞさっさと取り換えてくださいと即応できるものではないこともわかっていただければ幸いである。


 ともあれ、人間から見れば単なるモノに過ぎないワシの思惑など顧みられるはずもなく、小春日和の穏やかな週末、ついに新たな鐘に交換する催しが行われた。


 ワシなどには想像もつかないほど高価だという鐘の寄贈主、それは、玉川藍子という太ったオバサン。なんでも、コーンパイプとサングラスがトレードマークのマッカーサー元帥(連合国軍最高司令官)による強力な指導のもと、戦後初の衆議院選挙で初登場した39人の女性議員の流れを汲む政治家さんであるらしい。


 聞くだに畏れ多い肩書より、昭和20年3月10日の大空襲によって、それこそ跡形もなくやっつけられたとばかり思い込んでいた東京にも、たいそうな金持ちが生き残っていた。驚愕の事実に、ワシは自分の迂闊を思い知らされる思いだった。


 雲ひとつない空の下、職員一同と少年少女たちの手によって、春先からみんなで心を籠めて丹精してきた藤棚の下に20脚ほどの椅子が配置され、しばらくして、見るからに高級そうな洋服をバリッと着込んだ紳士や淑女連が、質素なりに清潔に身支度を整えた麻子先生の案内でやって来ると、一様に取り澄ました顔を並べた。


 贈呈式が始まった。


 まずは「鐘の鳴る丘寮」を代表して伊吹裕也寮長が丁寧に感謝の辞を述べる。

 ついで来賓から型通りの祝辞があり、いよいよ本日のヒロインの登場である。

 度肝を抜かれるほど真っ赤なツーピースの藍子女史が余裕綽々の面持ちでマイクの前に立つと、伊吹寮長の先導で、ひときわ高らかな拍手が巻き起こった。鷹揚にうなずき返した藍子女史は、いつだって弱者の味方であり、ことのほか福祉に理解が深い政治家である旨を端々に匂わせながら、慈愛に富んだ演説を打ちあげた。


「親愛なる『鐘の鳴る丘寮』の少年少女のみなさん。過去は問題ではありません。現在こそが大事なのです。いまこのときから心を入れ替えてやり直せば、大丈夫、必ずや、日本を背負える立派な大人になれます。このわたくしが保証します」


 ここでたっぷり過ぎるほどの間を持たせた藍子女史は、出席者一同をゆっくりと見渡したあと、やおら感動的な面持ちになり、より効果的な言葉を語り継いだ。


「今日の佳き日のただいまこのときより、僭越ながらこの不肖玉川藍子の愛の鐘が浅間山麓に鳴り響くとき、わたくしは、恵まれない、あなた方の、お母さんです。あなた方はわたくしの息子であり、娘であるのです」


 恵まれない、あなた方の、お母さん……丁寧に一語一語区切って発音するとき、秋の陽光にキラリと光る金縁眼鏡の奥の目が得意げに細められ、同時に括れた二重顎がゆっくりと上下する一瞬を、ワシは見逃さなかった。日頃は冷静沈着なワシの中をいつにない激しい怒りが駆け抜けた。


 ――本人たちを前にして、あまりに不遜ではないか。職員の努力を無視するように、「いまこのときから心を入れ替えてやり直せば」とは無礼にもほどがあろう。


 そのとき、椅子がないので、直接地面に座らされていた少年少女たちの中でいきなり立ち上がったのは、閼伽流山遠足の帰路、浅間山に向かって母の名を連呼した茅野拓馬だった。


「オバサン、恵まれないってなに? だれが、なにに恵まれないの?」


 来賓は揃って目を剥き、職員は一様に慌てた。

 だが、リーダーの利志夫も、サブの則子も、居並ぶ少年少女たちのだれひとりとして拓馬の非礼を諫めようとしなかった。むしろ、正しい答えを追求するかのように、恥辱と忿怒に青くなったり赤くなったりしている藍子女子を見詰めていた。


 これはあとで聞いたことだが、

「いくら親がいないとはいえ、食べ物を盗んだり、集団で徒党を組んで恐喝を働いたりした子どもと同じ部屋で寝るなんて、想像してみただけで恐ろしいこと。寝ているあいだになにをされるかわからないのに、よく平気で眠っていられるわね」

 大真面目な顔でとんでもない質問を放った来賓が、何人かいたという。


 ――自己満足ないしは政治的野心のために「鐘の鳴る丘寮」を利用する。上っ面だけの偽善行為なら、新しい鐘などつけてもらわなくて全然よかったのに……。


 全体は古ぼけたままの建物の一部に木に竹を接いだように、見るからに悪趣味の時計台にされてしまったワシの怒りは、アメリカ仕込みのレース仕様に枯れた藤蔓を、横殴りに吹き荒れる浅間颪がいたぶる季節になっても、まだ治まらなかった。

 

 

   8

 

 屋内に閉じ込められる長い冬は魔物だった。

 外に出られる季節は見て見ぬフリでやり過ごしてきた互いの胸の内が、不必要に透けて見え出すと、ささいなことで諍いが生じやすくなる。


 4キロ余り当方の岩村田小学校や、その手前の中学校へ通う平日はよかったが、問題は少年少女たち全員がどこへも出かけられない週末だった。


 戦死した父親の形見の古鞄を蹴飛ばされたと拓馬が泣き出し、リーダーの利志夫が相手の少年を諫めた日曜日の夕食時、ふだんから利志夫と則子の親密さを不快に思っていた子どもたちの不満が一気に噴出した。配膳係の則子が利志夫の皿に煮物を多く盛ったというのだ。


「ずるいよ、則子。なんでも利志夫にばっかり」

「だいたいからして、いやらしいんだよ、いっつもいつもくっ付いていて」

「このまえだって、ふたりで布団部屋にいてさ、こっちがきまり悪かったぜ」


 それまでおとなしいと思っていた仲間の総攻撃に遭い、真っ赤になってうつむいていた則子が、とつぜん思いもよらない反撃に出たので、食堂内に衝撃が走った。


「ちょっと、あんたたち、仲良しのどこがいけないのさ。第一、あたしたちのことを責めるのはお門ちがいだよ。麻子先生と友哉先生の方が、もっと仲良しじゃないか。なのに、なんであたしたちだけ、そんなに言われなきゃなんないわけ?」


 今度は、則子のはす向かいに座っていた麻子が鬼灯のように赤くなる番だった。

 ほかのテーブルの世話をしていた飯塚友哉は、新羅の住人たちが「お葉漬け」と呼ぶ、漬けたての野沢菜漬けのように青くなった。


「まあまあ、いいじゃないですか。仲良しは万人の幸福の種って、昔から言うでしょう。あれ、ちがった? どこかの本に書いてあったような、ないような……」


 堅く凍りついた空気を、持ち前のおとぼけでゆるめたのは伊吹寮長だった。


「やだな、寮長先生ったら頼りないんだから。しっかりしてくださいよ」

「ほんとほんと。でもさあ、仲がわるいより、いい方がいいのはたしかだよね」

「そうだね。オレたちみんな、家族なんだし」


 年少の子らの無邪気な同意で、降って湧いた騒動は決着となったものの、だれかを想い想われる愛にいつも焦がれている年長の子どもたちの胸には、重苦しいものが沈潜した。

 

 麻子先生が寮長室を訪ねたのは、それから1週間後のことだった。


「折り入ってお願いがあります。わたしに裂織をさせていただけませんか」

「サキオリとは、織物ですか?」

「満洲にいるとき、生徒の母親から手ほどきを受けました。どこかの農家の納屋に眠っている古い織機が1台あれば当寮の子どもたちにも布を織ることができます。時間と労力をかけて1枚の布を創り出す工程は、きっとなにかを育んでくれます。その小さな芽生えは、当寮の集団生活全体に、よい結果をもたらすと思います」


「織物とは意表を突かれましたが、創造への挑戦はたしかに優れた教育になるかもしれません。しかし、この物資不足の時代に、材料の調達はどうするのですか」

「ご心配いりません。裂織に無駄はありません。子どもたちの着古しの襤褸ぼろでいいんです。むしろ多彩な色や柄を織り込んでいくと、思いもかけなかった模様が生まれます。その過程が楽しく、時間をかけて織りあげた達成感はまた格別です」

「なるほど。そういうことですか」


「繊維を何重にも織り込んだ裂織は丈夫で温かいので、野良着にも防寒着にもなります。お世話になっている新羅のみなさんへの恩返しにしてはいかがでしょうか」

「それはいい。よし。麻子先生にお任せしましょう」


 さっそく新羅村長に織機探しを依頼した伊吹寮長は、こういうときに利用させてもらわずになんの人脈ぞとばかりに、日頃からつきあいのある政治家や福祉関係者に広く呼びかけ、襤褸布集めへの協力を募った。


 ほどなく、1軒の農家の納屋で埃まみれになっていた古い織機が見つかった。

 日がな1日トンカラトンカラ機を織っていた現当主の祖母が亡くなってからだれにも顧みられることがなかった織機は、運び込まれた「鐘の鳴る丘寮」の工作室でカランと軽快な音を発し、蘇生の喜びを謳った。


 素材となる襤褸も次々に送られてきた。

 もとは着物、肌着、腰巻、手甲、脚絆、袋物、寝具、風呂敷などに用いられた布が何世代にも渡って引き継がれ、仕立て直され、擦り切れて襤褸になるまで大切にされてきたものである。


 その歳月を想像すると、クタクタに柔らかくなった繊維が愛おしくてならない。

 糸巻。整経(縦糸を作る)。おさ通し。アザリ返し。チキリ巻き。へ掛け(綜絖そうこうを作る)。横糸に遣う襤褸を裂く。機揃え……。下準備が整ったところで、いよいよ織りの作業に入る。


 裂織を志願した則子たち3人の少女に過程を説明しながら、麻子は知っている限りの知識と、自分なりの見解の披露につとめた。彼女たちを取り巻く事情が異なっていれば、それぞれの家庭で母や祖母から聞いたであろう光景を想いながら……。


「むかしは草や木の繊維、少し進化しても麻の衣類しかなかった時代を経て、日本にもインドから綿がもたらされたのはいまから1,100余り前のこと。やわらかで温かい木綿の肌触りに感激した人たちは、過酷な気候や自然の中で生きる辛さをやわらげてくれる繊維に感謝して『小豆3粒を包める端切れはいつか必ず役に立つ』と、擦り切れた古布の小さな断片でも粗末にしないように戒め合ったんですって」


「小豆3粒……。そんなに小さな布まで取っておいたんだね」

「どんな古布にも、それを愛しんだ人の暮らしが、思いが籠もっている。だから、使い古された布ほど、深みのある、なんとも美しい色に仕上がるんだろうね」


「麻子先生。この布を身に着けた人たちが、みんな幸せだったらいいね」

「どんな時代に生まれても人の願いはひとつだったろうね。歴代の人たちの喜びや悲しみ、思いの丈が籠もった古布を裂いて横糸をつくり、縦糸の木綿糸と合わせて新たな布を織りあげる裂織は、その意味で鎮魂の機織りといえるかもしれないね」


 そうこうするうちに、

「こう見えてオレ、手先が器用だから」

 裂織指導の補佐を申し出てきた飯塚友哉と麻子は、気の合う同僚以上の間柄ではなかったことが判明し、にぎやかな空気に釣られて少年たちも様子を見にきた。


 巣食っていた妬心から解放された少年少女の屈託のない笑顔が、薄い冬日が差し込む工作室に、固形石鹸水を削って麦藁で飛ばすシャボン玉のように膨らんだ。


 

 松本の麻子の生家から、父親急逝の電報が届いたのは、初めての試みに悪戦苦闘していた少女たちの裂織が、ようやく軌道に乗り始めた矢先のことだった。


 残された病弱な母親を思えば、ひとり娘の麻子に選択の余地はなかった。慌ただしく荷物をまとめた麻子は、心だけ残していく少年少女たち全員に30センチ四方の布を1枚ずつ手渡した。いずれの布にも色あざやかな花や小鳥が浮き出ている。


「この布はね、綴錦つづれにしきあるいは刻糸こくしともいって、前任地の満洲の伝統的な織物なの。わたしの形見と思ってくれたらうれしいな」


 とつぜんの別れには場ちがいに華やかな布を握り締めた少年少女たちの、わあんわあんという慟哭が寮内に響き渡った。伊吹寮長も男性職員たちも、ひとり残らず肩を震わせ、目を赤くして別れを惜しんだ。


 ワシはといえば……精いっぱいの愛別を込めて、殷々と鐘を鳴らしていた。


 飯塚友哉の自転車の荷台に横座りし、岩村田駅への一本道を遠ざかって行く麻子のうしろ姿がだんだん小さくなり、やがて点になって消えても「鐘の鳴る丘寮」の少年少女たち、伊吹寮長や職員のだれひとりとして屋内に入ろうとしなかった。

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