第2話 南部菱刺――メキシコ移民〈明治時代 〉
1
1914(日本では大正3)年1月10日未明――
外務省のアメリカ・シカゴ書記生だった馬場称徳(32歳)は、憲政軍を名乗りメキシコ革命の狼煙をあげたパンチョ・ビリャの捕虜となった同朋救出のために、米墨国境のエル・パソを発ち、単身、チワワ市に向かっていた。
おりからの乾期とあって、エル・パソの日本人会が手配してくれた無蓋車で南下する内陸部一帯にはカサカサに乾いた大地が茫々と広がっている。黒々とした焼畑農業のあとが、長引く内戦に荒れたわびしい風景にいっそうの拍車をかけていた。
荒野をかきわけて進む列車は、呆れるほど脱線した。
そのたびに兵士たちが土埃とともに駆け降りて行き、
――ヤイヤイ、ヤイヤイ、ヤーイヤーイ。
ラテンのリズムにのってレールを直すと、ふたたびドヤドヤと乗りこんで来る。
お昼どきになると、アットランダムなところで列車が止まった。驚いたことには沿線の牧場から生きたままの牛を銃剣に刺して担いで来ると、濃い髭づらの口々に陽気な凱歌をあげながら、線路わきの野原で即席バーベキューが始まるのだった。
底抜けに陽気で荒っぽい革命軍の群れに放りこまれた、たったひとりの異国人。
紺サージの細身のスーツに、青と黄色のストライプのネクタイ、漆黒の髪は七三分けで、175センチの長身痩躯からインテリの気を漂わせ、端整な面立ちに東洋の神秘と見られるほほえみを浮かべた馬場称徳は、聡明な光をたたえる眸の奥で、パンチョ・ビリャ将軍との面談のシミュレーションに余念がなかった。
――革命軍に捕らえられた、官軍の日本人捕虜の命が危ない。
切羽詰まった窮状を訴える電報(日に4度打ったこともある)に対するシカゴ
――外交官の職務に立ち帰るべし。日本政府が承認していない革命軍と、わが国の外交官との直接交渉などあり得ない。あくまでというなら私人として自己責任で出向くべし。
落胆していると、今度はあきらかに矛盾する指示が、追加電報で送られてきた。
――ビリャ将軍に会ったら、次のように説得されたし。日露戦争で大国ロシアに勝利した日本贔屓はメキシコ国中に広がっている。万一、その友好国の捕虜に危害を加えたりすれば、日本はもちろん国内での信用を著しく失墜させることになる。
なんだかひどく虫がいい話のような気がしないでもないが、まあ、いいか。
それよりも、当面の課題は、直情型と伝聞するビリャ将軍への対応だった。
*
1810年(日本の文化7年)、イダルゴ神父が「ロドレスの叫び」でスペインからの独立を呼びかけて以来、血で血を洗う内乱をくりかえしてきたメキシコ。
その国で革命が始まった1910(明治43)年は、日本国長野県松本生まれの馬場称徳が外交官になって6年後、南米リオデジャネイロに赴任した年にあたる。
まずは、独裁者のポルフィリオ・ディアスの対抗馬として大統領選に立候補しながら投票日の前日に逮捕されたフランシスコ・マデロが、亡命先のアメリカから「メキシコ国民よ、武器を持って立ち上がれ!」と呼びかけた。
それに呼応して名乗りを挙げたのが、北部チワワ州のパンチョ・ビリャとコアウィラ州のベネスティアーノ・カランサが率いる革命軍、そして、南部モレロス州のエミリアーノ・サパタが率いる農民軍だった。
翌11年、ポルフィリオ・ディアスは失脚したが、メキシコ市に凱旋したフランシスコ・マデロもまた前政権同様にアシエンダ(インディオから取り上げた農場)の既得権を手放そうとしなかったので、エミリアーノ・サパタが反旗を翻した。
しかし、メキシコ市を舞台にした「悲劇の10日間」でフランシスコ・マデロが暗殺されると、漁夫の利よろしく、横合いから出て来て臨時大統領を宣言したのは、アメリカ大使館の
同じころ。
北部メキシコでは、カランサとビリャの革命軍が主導権争いを展開していた。
ディアスやマデロと同じく広大なアシエンダの所有者だったコアウィラ州知事のカランサは、護憲主義を掲げる「グァダルーペ宣言」を発表して、ウェルタ政権の後任を標榜した。
他方、サパタの支持を獲得した貧農出身のビリャは、戦死した兵士たちへの財産の平等な分配、子どもたちのための学校の建築、農場や工場で働く労働者兵の組織化などを旗印に掲げ、カランサ軍と拮抗していた。
*
1914年(大正3年)1月、シカゴ領事館の若き書記生であった馬場称徳に、隣国メキシコの日本人移民救済の命がくだったのは、まさにウェルタ、カランサ、ビリャの3大勢力がしのぎあう内戦の真っ最中だった。
それから半年後に、わずか1年半足らずの歴史を閉じることになるウェルタ政権を早々に承認していた日本政府にとって、当時のカランサ、ビリャのふたつの勢力は反官軍の位置づけになっていた。
一方、常に大国アメリカの脅威にさらされてきたメキシコ人にとって、日清戦争で小さな島国が大国ロシアに勝つという信じがたい快挙を成しとげた日本人は英雄視され、日本人というだけで官軍と革命軍の両軍から引っ張りだこになっていた。
長引く内戦による生活苦からの志願兵はもちろんのこと、道を歩いていただけでいきなり馬に乗せられて戦地へ送りこまれた日本人もいるといった現状から、戦闘での犠牲は言うにおよばず、運わるく捕虜になった日本人の末路が案じられた。
わけても、無学な兵士が多いビリャ軍の凶暴さは目をおおうばかりだった。
実際、荒野の煉瓦塀の前に数十人の捕虜を1列に並べ、目隠しもさせず至近距離から銃殺する場面を称徳自身が目撃しているし、ローカル新聞によれば、戦地からひきあげるビリャ軍は見せしめに敵の戦死者の首を電柱にぶら下げていくという。
また、トンネル内焼殺事件(二百数十名の捕虜を護送中に皆殺し)で、黒こげになった日本製の懐中時計が発見されたので、日本人捕虜の犠牲も推測された……。
さし迫った状況下、単身で革命現場に派遣された馬場称徳が成すべきは、知恵と工夫を総動員させ、渦中にある日本人捕虜を一刻も早く救い出すことだった。
――松方デフレによる国家的財政難や急増する人口対策など、いわば国策で異国へ送りこんだ同朋を、当の国自身が見殺しにするような卑怯は断じて許されない。
科せられた任務の重さに、馬場称徳は武者ぶるいを覚えずにいられなかった。
2
ソンブレロの下で強固な意志を主張する八の字眉。黒い口髭と黄色い歯。猛獣を思わせる双眸には、比類の残忍とも、無類の人好きともつかない光が宿っている。
絶えずチロチロとゆらめく紅鳶色の虹彩は、ときに熱情的なマリアッチ(メキシコの大衆音楽)のリズムを刻み、ときにほの暗く沈静して復活のときを待つ。
いかめしいカーキ色の軍服の上に、赤、白、緑(国旗の3色)のストライプ柄のポンチョをまとったビリャ将軍は、ラテンチックなマチョ(男性主義者)だった。
蛇に睨まれたカエルの心境で覚悟を決めた馬場称徳は、床に両膝をついて日本式に威儀を正すと、大名に拝謁する武士のように平伏しながら、ウェルタ軍の兵士としてビリャ軍に捕えられている日本人の窮状を、せつせつと訴えた。
「親愛なるパンチョ・ビリャ将軍さま。どうかこの弱輩の願いをお聞きとどけください。貴軍に捕らえられているわが同朋は、たまたまのなりゆきからウェルタ軍に入ったというだけで、決して他意はないのです。故国から遠くはなれた異国で内乱に巻きこまれた身を哀れと思し召し、なにとぞ寛容なる将軍さまのご温情を……」
苛立たしげに貧乏ゆすりをしていた将軍が、とつぜん立ち上がった。
カッカッとブーツを鳴らして称徳に近づくと、異国人の目から見れば無様に床に這いつくばった屈辱的な格好(この場面をこっそりローカル新聞記者に撮影され、「日本の土下座外交」として、のちに批判を浴びることになった)のコメカミに、ピタリと銃口を押し当てた。
煙草くさい口から、低い恫喝がもれ出る。
「くだくだしい能書を述べ立てる前に、きさまがほんとうに日本の領事なら、証拠になる信任状を提示せよ」
返答できずにいる称徳に、ビリャ将軍はさらなる咆哮を浴びせかけてきた。
「ワシをだますつもりだったのか。不逞の輩め、さっさと退散するがいい!」
――ビシャッ。
粘つくツバまみれになりながらも、馬場称徳は必死に食い下がる。
「お待ちください。諸般の事情によりたしかにわたしは信任状を持参していませんが、日本の領事である事実にまちがいありません。これだけの大軍を率いるほどの方なら、ウェルタ軍の承認に至った日本政府の事情もご理解いただけるでしょう」
だが、ビリャ将軍はニベもない。
「ええい、黙れ、黙れ! この東洋のしゃべり男がチャラチャラと口から出まかせを言いおって。このワシに、これ以上の非礼をはたらくと、ただではすまぬぞ」
少し口悔しいが、称徳は上司からの追加の電文を使わせてもらうことにした。
「賢明なる将軍さまにおかれては、貴国と日本とが古くから友好関係にあることはご承知と思います。わたしは旧知の友好国からアミゴ(友人)としてやって来ました。わたしの願いをお聞き届けいただければ、信義を重んじる英雄パンチョ・ビリャの名声は、日本とメキシコ両国内においてあまねく知れわたることになるでしょう」
もちろん、そんな甘言にやすやすと靡いてくれる相手ではなかった。
「ふん、笑わせるな! 小さいころから辛酸の限りをなめつくし、いわば百戦錬磨でたたきあげてきたこのワシに、そんな安っぽい煽てが通用すると、きさま、本気で思っておるのか。非礼な! どこの馬の骨とも知れぬ、小生意気な日本人が!」
真っ赤になってわめき散らして、引き金にかけた指にグッと力をこめる。
とそのとき、親日派を自認するメキシコ人通訳が助け舟を出してくれた。
「畏れながら将軍さまに申し上げます。自身がサムライの出身でもあるこの日本の外交官は『義を見てせざるは勇なきなり』というサムライ精神を民衆のために実践された将軍さまを、心からご尊敬申し上げていると、このように申しております」
恐ろしげな目の奥にポツンと点った灯りは、見る見る大きくなった。
「なに、このワシをサムライだというのか。ふうむ、そうかそうか……」
とっさの通訳の機転の思いがけない効果に、称徳は驚愕の目を瞠った。
実際、称徳が生まれた馬場家は、長篠合戦(天正3年=1575=織田信長と徳川家康の連合軍VS武田勝頼軍の戦。連合軍が勝利し、武田家滅亡につながった)において武田勢として戦死した馬場信房を祖とする、れっきとした武家である。
ゆえに、メキシコ人通訳のとりなしは、あながち詭弁ではなかった。
ともあれ、それまでの尊大ぶりがウソのように、にわかにフレンドリーになったビリャ将軍は、称徳の要請に応えて、日本人の生命と財産を守ると約束したうえ、革命軍の占領地内を安全に通行できるように、自著の通行証まで発行してくれた。
ところが、秘書がタイプライターで打った書類に署名するビリャ将軍はオズオズと気恥ずかしな表情を浮かべ、赤らんだ頬には少年のような含羞まで滲ませた。
果たして……無骨な指でギクシャクと記された署名の文字は、いかにも拙い。
――たしかに強面ではあるが、どこか人懐こげな愛嬌がある。日本でいうところの人誑しであろうか。荒くれ兵士どもに父や兄として慕われる状況も納得できる。
無学をさらし、穴があったら入りたいと言わんばかりのビリャ将軍を微笑ましく観察しながら称徳は、行軍中に子どもたちを見かけると、ただちにその地に学校を建てるよう命じたという、革命軍のボスらしからぬエピソードを思い返していた。
ビリャ将軍自ら手配してくれた無蓋車でエル・パソ・ホテルにもどった称徳は、シカゴ領事館の珍田駐米大使と安達在墨公使にあてて、簡潔な電報を打った。
――官軍捕虜解放の件、首尾よく完了。
ベッドに横たわり、つかのまの解放感と達成感にひたりながら窓の外を眺める。
仰ぎ見る米墨国境の満月はトマトのように赤く、テキーラのように潤んでいた。
3
もうひとつの緊急課題は、内乱で生じた在墨日本人の失職問題だった。
米墨国境のエル・パソに隣接する都市シュダット・ファレスには、革命の荒波にさらされた百数十人の日本人が北墨各地から吹き寄せられていたが、その半数は、パンチョ・ビリャ将軍の出身地のチワワ州から避難してきた人たちだった。
当然ながら、暮らしに必要な衣食住のすべてが不足している。
刻一刻窮迫を増す状況を電報で上司に訴えたが埒があかない。
――やれやれ、またしても私人として解決せよということか。
やむなく日本人会と相談した称徳は、シュダット・ファレスの日本人失業者を西海岸に近いカリフォルニア州カレキシコの綿花農場に集団移住させることにした。
閑話休題だが、世界の綿花栽培と綿織物は、インダス文明をその起源とする。
16世紀、長いことインドの特産だった綿製品がヨーロッパに輸出されるようになると、積み出し港のカリカットの名から「キャラコ」と呼ばれるようになった。
17世紀、綿製品はイギリスの東インド会社の主要な輸入品となり、産業革命を牽引する強力な原動力としての役割を果たした。
アメリカでは、18世紀末にイーライ・ホイットニーが綿操り機を発明すると、南部の綿花プランテーションで黒人奴隷を使う大規模な綿花生産が拡大したが、追って北部の工業が発達すると、黒人奴隷制に対する世論の批判が高まった。
北部の産業資本家が声高に唱える保護貿易主義と、南部の綿花農場主たちが堅持する自由貿易主義が鋭く対立した結果、1861年の南北戦争に発展、北部の勝利により黒人奴隷制が禁止されたため、南部の綿花プランテーションは衰退した。
そうした複雑な時代背景をもつ現地に視察に出向き、労働環境や受け入れ態勢を確認した馬場称徳は、革命軍に無用な誤解を招かないよう注意深く用心しながら、シュダット・ファレスの日本人を少しずつ移住させた。
このころ、チワワ州のとなりのソノラ州に400人、コアウィラ州にも700人の日本人が鉱山や炭坑で働いていたが、うわさを聞いてカレキシコへの移住希望者が相次いだので、書記官・馬場称徳が救出した日本人はつごう1,000人にのぼった。
*
ところで。
ひとまず役目を終えた称徳の脳裡で、さかんに渦巻いているものがあった。
――逃げ出す同胞をよそに入殖地に留まってパイオニア移民の初心貫徹をはかる日本人もいると聞く。武士にも通底する不撓不屈の面魂をこの目で見ておきたい。
叱責を覚悟のうえで、シカゴ領事館の珍田駐米大使に電報で打診してみると、
――それはいい心構えなり。後学のためにもぜひ南墨地方を視察されたし。
拍子ぬけするほどアッサリと許可がおりた。
――だろうな、なにしろ二度も私人を強いられたのだから……。
こうして称徳は、米墨国境のエル・パソから約3,000キロ、グアテマラ国境に近いチアパス州ソコヌスコ郡の榎本移民の入殖地へ、馬の背を頼りに出かけて行った。
4
同年4月26日――
馬を急がせ、乾期から雨期への移行期になんとか到着したアカコヤグア村の現況は、最果ての奥地のイメージを完全に裏切るものだった。
道路の両側からジュビア・デ・オロ(花言葉は「印象的な眸」)の並木が太陽の滴のようにゴールデンシャワーを降りこぼす美しい街並みには、商店や工場、住宅がこざっぱりとした軒をつらね、どこからか子どもたちの笑い声も聞こえてくる。
この整然とした街並みが、わずか17年前まで、人の手が入らないジャングルだったとは信じがたい。
しっとりとした潤いと人肌の温もり、暮らしの喜びに満ちた情景は、パサパサに乾いた殺風景な風景を見なれた称徳に新鮮な感動を呼び起こさずにおかなかった。
とつぜん、真っ白なチワワ(チワワ州原産の小犬)が道にとび出してきた。
「ブエナ、待って!」
叫びながら追ってきた漆黒の髪の少女は、称徳を見てギクッと足を止めた。
「ブエナスタルデス!」
スペイン語で話しかけると、
「こ……こんにちは」
紺地に鳥や木、花の模様が華やかに刺繍されたケープを羽織った美しい少女は、ぎこちない日本語で答えた。
上目づかいに見上げてくる眸の動きも日本人によく似ているが、はにかむ表情や仕草に、どこかラテンチックなおもむきも感じられる。
「こんにちは、セニョリータ。照井亮次郎さんのおたくをご存知かな?」
少女はコクンとうなずくと、いま出てきたばかりの家をふりかえった。
「ここが照井さんのおたく? じゃあ、きみは、娘さん?」
「はい……そうです」
声を聞きつけたのか、重厚な木製のドアから40年輩の女性が顔をのぞかせた。
少女と同じ雛型を連想させる中肉中背をポンチョのような白服でおおっている。
やはり日本人に似ているが、少女よりもさらにエキゾチックな趣が感じられた。
「日墨協同会社の照井社長さんのおたくでしょうか?」
日本語で訊くと、女性は困ったように肩をすくめた。
「アブロ・コン・ラ・ファイミリア・テルイ……」
スペイン語のリピートをさえぎった少女は、淡々とした口調で説明した。
「マドレ(母)は日本語がわかりません。スペイン語も少しだけ。でも、パドレ(父)が家にいます。どうぞお入りください」
案内された屋内も、スコールで洗い清められたような街並みと同様、こざっぱり清潔に整えられていた。
明るいリビングの窓際でデスクに向かっていた半白髪の男性がふとふり向いた。
静謐な不動の意思を秘めた風貌から、ひと目で照井亮次郎その人と確信された。
「こんにちわ。わたしはシカゴの日本領事館に所属する書記生で、馬場称徳と申します。北部で革命軍の捕虜になった日本人を救出するために派遣されたのですが、かねてご高名をお聞きしていた先遣隊のみなさんの尊い軌跡をこの目でたしかめておきたくて、とつぜんのご無礼を承知でおうかがいしました」
称徳の素朴なあいさつを聞いた亮次郎は、両手をあげて歓迎してくれた。
「遠い道のりをようこそ……。まことに光栄です。ささ、こちらへどうぞ」
丁重に通された客間には障子や掛け軸、香炉などの日本のインテリアに、派手な多色使いのカーペットや絵画、ワニやカメレオンの置き物を同居させた、なんとも不思議な和墨折衷の、それでいてすこぶる居心地のいいスペースが展開していた。
ミントの香りを放つハーブティを運んできた女性を、亮次郎が紹介してくれた。
「家内のララです。ラカンドン族の女で、ろくにあいさつもできませんが……」
ララは恥ずかしそうに頬を染めた。
――ラカンドン族といえば、たびたびのスペインの侵略から逃れ、森の奥深くに潜伏している少数民族で、男女ともに白木綿のポンチョをまとっているのが特徴。マヤ文明の名残りのパレンケ遺跡やボナンパク遺跡が聖地になっているはず……。
称徳は知識をフル回転させた。
「おまえもこっちへ来なさい」
亮次郎に呼ばれて入ってきたのは、小犬のブエナを抱いたさっきの少女だった。
「娘のハナです。17歳になりますが、5歳から学校へ入れたので、日本語はもちろん、簡単な日本の歴史も学んでいます」
浅黒い頬をゆるませた亮次郎は、いくぶん誇らしげに告げた。
5
「立派な日本人街ですね。正直、ここまでとは思いませんでした」
称徳が率直な感想を述べると、
「いえいえ、なんとか軌道にのりかけたところで、まだまだ課題が山積です」
リーダーの顔にもどった亮次郎は、壁の地図を示しながら説明してくれた。
「現在、日墨協同会社の事業は、当初の入殖地のウィストラ村を中心に、ソコヌスコ郡4か村で行っています。ここアカコヤグア村では、山本浅次郎くんが中心になって
過不足のない事実を的確に語る知的な唇を、称徳は驚愕のまなざしで見つめた。
――強靭な意志に支えられた稀有な実行力は、この人物のどこから生まれるのだろう。比べては申し訳ないが、北部で出会った日本人たちとの差異はどうだろう。
「実にお見事ですね。ふつうなら、目の前の状況を乗り越えるだけで精いっぱいなところ、どこまでも志を貫かれたばかりか、移民団の未来を見据えた壮大な青写真を描いて、自ら率先して牽引していらっしゃる。天晴れ、日本人の鑑ですね」
称徳の賞賛を受けた亮次郎は日本人らしい一皮目のまなじりをわずかに下げた。
だが、かといって、サクセスストーリーの主人公にありがちな高飛車や傲岸不遜とはどこまでも無縁である。
「初心貫徹なんて、そんな立派なものではありません。ただ、この手で鍬を入れて開墾した土地はワシ自身、ワシそのものでしてね、身体だけ逃げ出して分身を置き去りにすることが、どうしてもできなかっただけなんですよ。つまりアレですよ、般若心経が戒める執着がことのほか強かった、そのあかしにほかなりませんよ」
――異国にあっても、故国の御仏の教えを支えとされる日々だったのか。
自虐ユーモアをまじえた冷徹な語り口にも、称徳は他愛なく撃たれていた。
「一旅行者などにはうかがいしれない苦難を克服してこられたのでしょうね」
「いや、ワシはあいにく、苦労を誇る器にはできておりませんで……」
称徳の呼び水に、一度は昂然と胸を張ってみせた亮次郎だったが、やがて、堰をきったように語り出した。
6
「ワシは岩手県花巻の出身でして、厄介叔父の二男坊です。兄夫婦の世話になって肩身狭く暮らしていたところへ三陸大地震が発生して、生家は壊滅的な被害を受けました。ですから、居場所を失った身には、渡りに船の移民話だったのです」
「ヤッカイオジ? 照井さんも武士のご出身ですか?」
「ということは、ひょっとして馬場さん、あなたも?」
初見のふたりに、一気に親しみが通い合う。
「曽祖父は南部藩の足軽でしてね、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わったゆえに、反官軍とみなされて冷や飯を食わされました。もっともご維新で武家社会そのものが崩壊したのですから、結局はどっちについても同じことだったのですが……」
南部藩はもともと勤王だったが、攘夷を掲げる仙台藩の圧力に屈せざるを得ず、津軽藩や出羽秋田藩と行動を共にした結果の悲劇だったと、称徳は承知している。
「ですが、わが藩は徳川さま250年の御代に、76回もの飢饉に見舞われているのです。いわば食えないことには慣れていたのですから、どんなに疎まれようと、たとえ幼い甥や姪にまで邪魔者あつかいされようとも、ときには夏でも寒い土地にしがみついていたら、いまごろは別の人生を歩んでいたかもしれませんね」
ポロッとこぼした亮次郎だったが、思い直したように語調をあらためた。
「ともあれ、たった一度の人生、生きたいように生きてやると自分に言い聞かせ、周囲にも宣言して、桜吹雪が舞う横浜港からアメリカ船の乗客となったのは1897年、日本でいえば明治30年3月24日のことでした」
「いわゆる榎本移民の先駆けでしたね」
称徳が相槌を打つと、亮次郎の頬に、一瞬、複雑なかげが走る。
「正直、その名称は聞くのも辛いですが……。元外務大臣で、当時は日墨拓殖株式会社の社長として日本の海外移民を推進していた榎本武揚氏が募集した契約移民(同社の社員)30名、自由移民(自己資本での入殖)6名、計36名の初のメキシコ移住者が米国への移住者48名とともに『ゲーリック号』に乗ったわけです」
おのずからわきあがる感情を冷静に封じこめ、あくまで事実のみの客観的な説明をと心がける亮次郎の述懐は淡々とつづけられた。
「にぎやかに演奏する楽隊の前で駐日メキシコ公使から激励の祝辞を受けたあと、監督の
なんの外連味もなく亮次郎は打ち明けた。
――おおっ! まさに真の
日本人的な腹芸が不得手な称徳は、目の前の快男子への好感をますます強めた。
「われわれ自身が栽培することになる珈琲なるシロモノを船中で初めて飲んだときは、もうひとつの文明開化のようにぶったまげました。西洋のお茶と聞いていましたが、日本の茶とは似て非なる真っ黒な液体で、初めて嗅ぐ匂いも強烈でしたが、おそるおそる口に含んでみたら、まあ、苦いのなんのって。さすがに海外の飲み物は、日本人の味覚の範疇をはるかに超えていると、妙に関心し合ったものです」
「でしょうね。よくわかります」
それはまさに称徳自身の体験でもあった。
松本の深志中学から外交官を目指して東京外国語学校に進んだとき、同郷の先輩に連れて行ってもらったカフェで飲んだ珈琲の衝撃を、称徳の胃は忘れていない。
「ハワイへ着いたのは出航から10日後のことで、1週間後にはサンフランシスコに到着したのですが、アメリカの港のハイカラぶりには、またまた、ぶったまげました。ワシと同じ契約移民の有馬六太郎は『北米の文明開化の象徴のごとき桟橋をこの目で見て、われわれは心の底からおったまげた。島国日本に留まる同朋諸君、かくも外国は開けているのだ。わが日本帝国も1日も早く開化の域に達せねばならない。これからわれわれが向かう場所は未開の地と聞くが、身体のつづく限り働き開墾し、必ずや文明開化の地と変ずる覚悟である』とノートに記したほどです」
「国の先頭に立ったみなさんの心意気が伝わってきますね」
称徳の賞賛をよそに、亮次郎の声音はトーンダウンした。
「しかし……甘い期待はここまででした。夢と希望、いえ、野望と言いかえたほうがより正確かもしれませんが、とにかく万感の思いを抱いて故国をあとにしたわれわれは、歓待してくれるはずのサンフランシスコで初めての試練にさらされることになったのです。語るも苦痛ですが、乗客のうち日本人と中国人だけが検疫所へ連行されて裸にされ、衣類から裸体に至るまで白い粉を噴きつけられまして……」
容易に状況が推察できる称徳の皮膚にも、鋭い痛みが走った。
称徳自身が検疫を受けた経験はないが、国の先陣を切って諸国へおもむく外交官がいろいろな場面で堪えねばならぬ屈辱を、民間人には味わわせたくなかった。
だが、サンフランシスコでの屈辱をかわきりに、メキシコ移民先遣隊は何十度となく、海外に出た日本人の悲哀を率先して受け留めねばならなかったのだろう。
不透明な膜がかかったような亮次郎の表情が、悲しい事実を物語っていた。
「それからの経緯をお話すれば、どうしても私情や、ときには私憤めいた思いまで混じることになるかもしれませんが、当事者ならではの感懐として、どうかご海容いただければ幸いです」
律儀に断る亮次郎の眉間に、痛ましいほど太い縦じわが盛りあがっている。
羽織袴が似合いそうな和の面立ちは一気に10歳余りも老けこんで見えた。
「どうぞお気づかいなく。わたしは私人としてうかがっただけで、外交官として正式な文書にするつもりはありませんから、忌憚のないところをお聞かせください」
心をこめた称徳のねぎらいに安堵した亮次郎は、ひそかに書きためてきた物語を初めて披露する小説家のように、慎重に、しかし、淀みのない口調で語り始めた。
7
「ばい菌のかたまりのような扱いを受けたあと、4月19日、パナマに向かう『シティー・オブ・ブラー号』に乗り換えたのですが、この船が実にひどかった……。船室も甲板も、どこもかしこもゴミや汚物だらけで、掃除のあとも見えないほど汚れほうだい。不衛生で蒸し暑く、鼻が曲がるほどの臭気におおわれた船中で、全員が疲労と船酔いに苦しみ、早くも出港時の意気の大方は喪失していたのです」
ここで亮次郎は、ふと声を詰まらせた。
「悔やまれてならないのは、36人の団員中で最年少だった山田新太郎くんが船中で精神錯乱状態に陥り、1週間後にようやく到着したメキシコのアカプルコ港で、ついに息絶えてしまったことです。初めての犠牲者に憤り、みんなで監督に『話がちがう!』と詰め寄りましたが、いまさら、どうしようもありませんでした」
赤く潤んだ双眸に盛りあがった涙がパラパラとこぼれ落ちる。
「せめてもの供養に、山田くんはいま、この村の墓地に祀っています。といっても、収める骨の一片もないのですが……」
この美しい村のはずれの墓地の、風雨に打たれて戒名も定かでなくなった卒塔婆が、ぽつんと1基立っている情景が、一瞬、称徳の脳裡をよぎっていった。
気を取り直した亮次郎は、懐旧譚の骨子を語り始めた。
「アカプルコ港でさらに粗末な『バラクタ号』に乗り換え、5月10日、サン・ベニート港(マデロ港)へ到着しました。横浜港を発ってから2か月後のことです」
「5月といえば、雨期が始まったところですね」
称徳の呼び水に、亮次郎の自制心は脆くも消え去った。
「選りにもよって乾期から雨期にきりかわった直後のことで、港とは名ばかり、建物も人影もない浜辺に降ろされたわれわれはただ絶句するしかありませんでした。すぐ目の前に凶暴な牙をむき出しにした大自然が迫っています。なにもかも凌駕せずにおかぬというように蔓延る熱帯原野はまるで緑青色をした巨大な怪物でした。そこに地元民が『空から川が流れてくる』と恐れるスコールが間断なく降ってくるその凄まじさときたら……同じ地球の現実とは、とうてい信じられませんでした」
称徳は無言で相槌を打つしかない。
「シエラ・マドレ山脈から流れ出す濁流が、縦横無尽に暴れまわる惨状に息を呑むわれわれを迎えてくれたのは、広島県出身のハワイ移民(1868年=明治元年=に始まった日本初の集団的海外移民)で、新天地を求めグァテマラを経てメキシコへ移っていた東野倉治さんでした」
とつぜん登場した固有名詞のポジションを説明するため、照井亮次郎は持ち前の怜悧を大いに発揮してくれた。
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メキシコ移民の発端は、フランシスコ・ディアス・コバルビアス隊長率いる観測隊が金星の日面経過観測のために来日した、1874(明治7)年にさかのぼる。
隊員のマヌエル・フェルナンデス氏がのちに政府の勧業省官房長や農商務殖民大臣などの重責を歴任したことが日本初のメキシコ移民送出のキーポイントになる。
1891(明治24)年、榎本武揚(戊辰戦争では幕府の海軍副総裁として函館の五稜郭にたてこもったが、のちに許され、明治政府に重用された)が外務大臣に就任するとラテンアメリカ初の日本公館としてメキシコ市に日本領事館を開設し、同時にハワイに次ぐ殖民の可能性をさぐり始める。
同じ年、榎本武揚の指示でメキシコの太平洋岸5,000キロ(シナロア・コリーマ・ミチョアカン・ゲレーロ・オアハカ・ブエブラの5州)を173日間に渡って馬と鉄道で調査した藤田敏郎は、帰国後、『墨国太平洋岸諸州巡回報告』を提出した。
――後進的な現地農業に日本人による技術改良が加えられれば、画期的な収穫量が期待される。さらに工事中の鉄道が開通して太平洋岸と大西洋岸がつながれば、飛躍的な商工業の発展が見込まれる。
「画期的」と「飛躍的」に鼓舞され、ここに榎本武揚の殖民計画がスタートした。
マウリシオ・ウォルハイム駐日メキシコ公使と、金星観測の縁があるマヌエル・フェルナンデス農商務殖民大臣に殖民候補地の斡旋を依頼すると、非公式ながら「チアパス州ソコヌスコ郡の官有地17,500町歩を珈琲耕作地として払い下げる用意がある」との見解を得た。
だが、実際は肝心の藤田敏郎調査団の足は、グアテマラ国境のチアパス州までは及んでおらず、メキシコ政府の推奨地との重要な齟齬が、のちに致命的なウイークポイントになることを、このときはだれも予測していなかった……と思いたい。
1892(明治25)年、メキシコでは「鉱山法」が改正され、外国人の所有が認められることになった。一方、松方デフレ下の日本では、一攫千金を夢見る海外移民熱が急速に高まった。翌年2月、外務大臣を辞任した榎本武揚は民間の「殖民協会」を組織し、会員の根本正代議士を入殖予定地のチアパス州調査に派遣した。
約50,000万町歩を53日間かけて調査した根本代議士は、その足でメキシコ市におもむき、ディアス大統領やフェルナンデス農商務殖民大臣と入殖の面談をした。
その際、ディアス大統領は自ら地図を示して入殖予定地の状況を説明した。
帰国した根本代議士は、榎本武揚に調査記録『墨国探検紀行』(のち、外国人から得た資料により、移動中の汽車の車中で作成したことが判明する)を提出した。
――入植予定地のチアパス州はかつて小生がおもむいた欧米諸国、日本、清国、アフリカ、天竺の各地にもないほど好条件の土地柄である。現地の人民が「金山」と称する珈琲の年間輸出高は469,034ドル70セントで、輸出額の9割を占める。
1894(明治27)年春の「殖民協会」総会で、1日も早いパイオニア移民の送出を訴える榎本武揚に次いで登壇した根本代議士も、チアパス州への殖民の利について熱弁をふるった。ときを同じくして
この年、アメリカ留学から帰国したばかりの新進気鋭の農学博士・橋口文蔵が、榎本武揚の指示でメキシコ最南端のタバチューラとその周辺20,000町歩を40日間かけて調査し、その足でメキシコ市のフェルナンデス農商務殖民大臣を訪ねた。
その際、フェルナンデス大臣は珈琲苗の植付から収穫までの6年間に必要な費用と収入(18万町歩の入殖により7,000万円の利益を目算)を示して、殖民の成功に向けての協力を約束した。
だが、それはあくまで表向きの話で、実は言語から文化、風俗に至るまで生活のすべてがグアテマラに同化している国境付近の辺地対策に日本人移民を利用したかったメキシコ政府の本音が、のち榎本移民自身によって実証されることになる。
帰国した橋口文蔵は、根本代議士が「世界でも稀れに見る豊饒な土地柄」と推奨するチアパス州ソコヌスコ郡について、概要つぎのように榎本武揚に報告した。
――ソコヌスコ郡一帯は珈琲栽培に適する。なおかつ中央部は米、甘藷、玉蜀黍の栽培に、さらに海岸付近は牧場に適していると思われる。なお、メキシコ政府はすでに、イギリスの殖民会社と当該地域の3分の1を払い下げる契約を結んでいるので、残りの入殖地について、わが国は早急に手を打つ必要がある。
1895(明治28)年、メキシコ市の日本領事館は総領事館に格上げされた。
シンガポールへ転出した藤田敏郎に代わり、室田義文総領事が着任した。
同年、新たに「墨国移住組合」を設立した榎本武揚のもとに横浜のメキシコ領事館のウォルハイム公使から日本人移民用入殖地の売買契約の督促がもたらされた。
1896(明治29)年、日本で「移民保護法」が公布された。
同じ年、榎本武揚の指示でメキシコ市におもむいた根本正代議士と草鹿砥寅二農学士は、室田義文総領事を加えた3人でフェルナンデス農商務殖民大臣と面談し、入殖地売買契約の下交渉を行った。
首尾よく話がまとまり、室田総領事に後事を託しての帰途、根本代議士と草鹿砥農学士は、榎本移民の話を聞きつけてサン・ベニート港で待機していた東野倉治の案内で、チアパス州ソコヌスコ郡エスクイントラ村の入殖予定地におもむいた。
しかし、恐ろしいほどの深緑を青い血のように滴らせる未開のジャングルから、河川の水が轟々と音を立ててあふれ出し、入殖地の境界すら定かでない状況だったので、やむなくふたりは持参した斧で樹木にしるしをつけて仮の境界線とし、念のため、岩の陰に溜まっていたひと握りの土を袋に入れて日本へ持ち帰った。
だが、最初から実施ありきで移民事業を強力に推進させたい榎本武揚への忖度を働かせた両名によって、事業推進の障害となりそうな事実はことごとく隠蔽され、一部の不確かな、都合のいい情報だけが誇大に喧伝されて報告された。
――地質検査の結果、当該地域は驚くべき肥沃の地であることが判明。
期待どおりの報告を受けた榎本武揚は、さらなる躍進のため、新たに「日墨拓殖株式会社」を設立し、メキシコ殖民実施に向けての組織づくりを強化した……。
9
「申し訳ありません、それこそ報告書めいた話を延々とお聞かせしてしまいまして。途中で省こうにも、ひとつとして欠かせない重要な事柄なので、つい……」
ここまでの経緯を語り終えた亮次郎は、話の場面を1897(明治30)年5月10日のサン・ベニート港にもどした。
「こんなところに人が住めるのかと絶望に駆られました。といって、いまさらどうしようもありません。この文言は先刻も使わせていただきましたが、想像を絶する未開の原野に放り出されたわれわれ全員の、うそ偽りのない気持ちだったのです」
「お気づかいは無用です。どうぞお気持ちのままにお話しになってください」
称徳にうながされた亮次郎は、重い脚を引きずるようにして話をつづけた。
「仕方なく、東野倉治さんの案内で港を出発した35人は、はるばる日本から運んできた味噌や醤油を担いで入殖予定地へ向かって歩き出したのですが、疲労と落胆が重なったところへ暑中の行軍だったため、20キロ先のタバチューラに到着したときは、一行のうちの4人が日射病にやられていました」
「……なんともはや」
称徳は相槌に困る。
「やむなく草鹿砥監督はイギリスの測量会社の倉庫を借り、5日間の休養をとってくれました。以降は夜間行軍に切り替え、5月19日にエスクイントラ村に着いたのですが、その瞬間から土器を焼き松明を灯りとする原始生活が始まったのです」
「苦難の旅路もさることながら、文明のあともどりとは……」
「ジャングルから伐り出した樹木を柱にバナナの葉で屋根を葺いて掘立小屋を建てました。現地人に倣ってハンモックを吊ってベッド代わりにし、ホッと安堵したのもつかのま、今度は不慣れな風土に体調をくずす団員が続出してしまったのです」
「泣き面に蜂、ですか……」
「雨期特有の暑熱とスコールをくりかえす気候を目の当たりにし、こんなところで珈琲栽培などできるはずがないと落胆する団員たちに、蚊を媒介にしたマラリアや周辺にウジャウジャいる毒ヘビや毒グモの襲撃が追い打ちをかけ、せっかく建てた掘立小屋はたちまち病棟と化していました。かてて加えて日本からの送金が滞っており、契約移民には給料も支給されないのです。あとから聞けば、資金不足のまま見切り発車した日墨拓殖株式会社の経営自体が危機に瀕していたそうですが……」
国の一翼を担う外交官のハシクレとして、称徳の胸はチクチク痛みつづける。
そんな称徳の胸中を知ってか知らずか、亮次郎は淡々と事実を語りつづけた。
「当然、草鹿砥監督に非難が集中しました。事前調査に訪れたとき日本へ持ち帰り『驚くべき肥沃の土地』と報告した、そのひと握りの土は、この荒れ果てた土地のどこから採取したのか? 問い詰められた監督が苦しまぎれに『ある大きな岩の下から』と答えたので騒動はさらに大きくなりました。そこは広大な入殖地にふたつとない、風の加減で吹き寄せられた枯葉による腐葉土が厚く堆積している、しごく限定的な場所だったのです」
――うわぁ、これはいかん。
称徳は思わず目をつぶった。
海外移民を推進させる榎本武揚の心情に応えたかった気持ちはわからないでもないが、ここまで恣意的な作為は許されるものではない。団員の怒りは当然だった。
「スッタモンダのあげく、入殖から2か月が経過した7月13日未明、7人の団員が脱出して、1,200キロ北方のメキシコ市にある日本帝国公使館へ駆け込みました。着の身着のままでシエラ・マドレ山脈を越え、『メヒコ、メヒコ』と唱えながら」
その一件については、称徳も先輩から聞いて承知していた。
驚いた室田公使はすぐさま日本の榎本武揚に知らせたが、返電はつれなかった。
――勝手に逃亡した者を助ける必要はない。各自、好きにするがいい。
そう言われても、現地を預かる外交官として日本人を見過ごしにはできない。
やむを得ず、7人の移民を私費で宿舎に泊めた室田公使は時間をかけて説得し、3か月後の10月26日、全員を入殖地に送還したはずだった。
「責任を痛感した草鹿砥監督は、新たな入殖地を探そうとしてか、単身、となりのグァテマラ国に出向いてくれたのですが、すげなく入国を拒否されたようでして、われわれが気づいたときは、ひとりで日本へ逃げ帰ったあとでした」
――ますますもって拙いなりゆきではないか。榎本移民にかかわった人たちは、なぜこうまで無責任の環でつながっているのか。大の男のすることとは思えない。
義憤に駆られた称徳の全身を熱い血が駆けめぐった。
10
「故国日本からは見放され、監督には置き去りにされ、踏んだり蹴ったりの団員はいくら開墾してもスコールに流され、あるいは、日照りでカラカラになってしまう入殖地に見切りをつけてメキシコ各地に散って行きました。彼らの多くは鉄道人夫や炭坑夫などになったようです。でも、一部には『ここで投げ出せば、移民の後進が途絶えてしまう。せっかく縁のできた土地を守り抜こう。われわれが真のパイオニア移民になろうではないか』という拙い意見に同調してくれた人もいたのです」
――いよいよ話の核心に入ってきたようだ。
聞き逃すまいと、称徳は全神経を集中させた。
「宮城出身の高橋熊太郎と清野三郎、愛知出身の有馬六太郎、鈴木若次郎、山本浅次郎、それに岩手出身のワシの6人が、アカコヤグア村の
「組合名の由来は、三河と奥州ですね」
「ご拝察のとおりです。互いの出身地の古い呼称にこだわったのは、義を重んじるサムライ精神を貫きたかったからです」
――なるほど、誇り高い南部藩士の心意気を、当地でも活かしたかったわけか。
同じ武士出身の称徳は、素直に納得する。
「組合長は言い出しっぺのワシが引き受けましたが、組合のことはなんでもみんなで話し合い、全員が納得してから実行に移すようにしました。それが功を奏したのでしょう、多福岡農場の醸造所で酒をつくってアカコヤグア村とプエブロ・ヌエボ村に開店した雑貨店で販売し、サンフランシスコから取り寄せた竹細工も販売しました。エスクイントラ村にも雑貨店を開いて、村民相手に日用品を販売しました。高橋熊太郎などは自ら率先してタパチューラ村のドイツ人が経営する薬局に出向いてくれまして、働きながら調剤を学び、給与はすべて組合に送金してくれました。三奥組合が順調な歩みを遂げられたのは、すべて組合員の一致団結のおかげです」
――さすが! 配下の力を喧伝するところ、まさにボスの鑑。
称徳はすっかり照井亮次郎という人物のファンになっていた。
「三奥組合を拡大発展させて殖民信用組合と改称したのは、故国日本でロシアとの戦争が始まった1904(明治37)年のことでした。この年、ワシは初めて国境を越えてグァテマラを訪れました。そこの珈琲園で経営者の手足のように働かされる日本人労働者の悲惨な実態を目の当たりにし大きな衝撃を受けました。無自覚、無意識、無教養ではだめだ。いたずらにインディオとの混血を重ね、無学な現地人化を促進させないためにも、日本人としての教育の必要性を痛感したのです」
――その経験が、のちの学校建設に活かされたのか。
称徳は外交官のあいだでも有名な亮次郎の功績を思い浮かべた。
「その翌年には殖民信用組合を日墨協同会社と改称して、本部をエスクイントラ村に置き、共通言語の必要性を認識していたおりから、日本で初のスペイン語学習書となる『
あくまでも事実を語っているだけだが、語られている内容がすごい。
照井亮次郎の実力を見せつけられた称徳は、完全に気圧されていた。
「グアテマラで目撃した日本人労働者を反面教師にして、日墨協同会社の社員には平等に教育積立金を課しました。それをもとにアカコヤグア村に
――自分からは語らないが、日墨協同会はのちにアカペタウア、アカコヤグア、エスクイントラにも学校を建て、各村に寄贈して住民から感謝されたはず……。
称徳が知識を思い返していると、亮次郎はふと口調をあらためた。
「で、凝りもせず、今年からまた新たな試みにチャレンジしたところなんですよ」
そこで言葉をきって、称徳の出方を待っている。
「さて、なんでしょうか。照井さんのアイディアは想像もつきませんが……」
「いや、大したことではありません。『西班牙語会話篇』の続編の『西日辞典』を編纂中なのです。釜石から呼び寄せた村井二郎が、専任で当たってくれています。完成すれば、メキシコで暮らす日本人のよきバイブルになってくれるでしょう」
――なんと辞書までも! 偉大な人はどこまでも偉大にできているのだ。
称徳はいっそう感銘を深くしたが、なぜか亮次郎の語調は弱々しくなった。
「とはいえ、革命の嵐はこの地ばかり例外として吹き過ぎて行ってはくれません。正直に申しまして、1910年に内乱が勃発してから日墨協同会社の業績は悪化の一途をたどるばかりですし、不肖ワシが生涯を託した希望の
語尾を濁した亮次郎の漆黒の眸が揺らいでいる。
「これまで数多の困難を克服して来られたのですから、今回だってきっと……」
社交辞令的な慰めしか口にできない自分が、称徳は情けなかった。
「ありがとうございます。力のつづく限り、がんばってみます」
「なにもできませんが、一書記生として応援させていただきます」
その夜、勧められるまま照井家に泊めてもらった称徳は、ニンニクや唐辛子をたっぷり効かせたマリネ、タコス、サルサなど、妻のララの得意とする郷土料理を味わいながら、舌がしびれるほどアルコール度の強いテキーラと、ラテンアメリカにあってなおサムライ精神を忘れない日本男子のオトコマエに、思うさま酔った。
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翌日、ララ心尽くしの朝食を賞味したあと、馬車でアカコヤグア村内を案内してもらった称徳は、ブエナを含む照井一家に別れを告げ、シカゴへの帰途についた。
「あの……これ」
別れ際、ハナが手わたしてくれたのは、1メートル四方ほどの1枚の布だった。
真っ白な木綿地に、赤、青、緑、黄色などの色糸で、大名家の家紋のような菱形模様が丹念に刺繍されている。
「ラカンドン族の家内が織った白木綿に南部藩伝統の南部菱刺を施したものです。いささか気恥ずかしいですが、これぞ日墨文化の融合といったところですな。日本へ帰国されるとき、こいつも一緒に連れて行っていただければありがたいです」
照れくさそうに告げる亮次郎の頬には、うっすらと赤味がさしている。
――一緒に連れて行く、か。
のどに熱いかたまりがつきあげてきたので、称徳は慌てて目をそらした。
「夏も寒くて綿が育たない南部藩では、北前船で江戸や大坂から運ばれてくる古着を大切にしました。ほどいて洗い張りし、仕立て直して擦り切れるまで着たあと、細く裂いて木綿糸の縦糸と組ませ、色彩ゆたかな裂織にしてコタツ掛けや仕事着に再生させます。『小豆3粒包める端切れは捨ててはなんね』が祖母の口癖でした」
亮次郎もまた話をそらせる。
捨てても捨てきれない郷愁が、50歳になる日本男児を忍び泣かせている。
センチメンタルになった称徳の脳裡に、深志中学時代の情景がよみがえった。
首を借りていって祈願すると子どもの病が治るという「首貸せ地蔵尊」の真っ白なよだれかけ。
直刀、剣、矛など豪族の埋葬品が出土した、その名も「蟻ケ崎饅頭塚古墳」の、風雨にさらされ、もとの色がわからなくなっていた幟旗。
いつ通っても真っ赤な布が供えられていた姫宮神社は、
ひるがえって、亡き祖母や母はサラサラ音を立てる正絹の着物を着ていたっけ。
博多人形のような従姉とあそんでいるとき、ほの暗い奥座敷の箪笥の引き出しで見つけた布標本には、5センチ四方の小布の横に、絣、縞、無地、筒描、型染、麻、銘仙、縮緬、大島などの達筆な標記が見えて、なぜか幼い胸がドキドキした。
――布片は人生の標本だ。
「馬場さん、どうかされましたか?」
われにかえった称徳は力強く約束した。
「亮次郎さん、たしかにお預かりいたしました。誇り高き南部藩士の子孫によってメキシコへ運ばれ、マヤ文明の末裔であるラカンドン族の白木綿と結ばれ、新しい南部菱刺に生まれ変わったこの布に、かならずや故郷に錦を飾ってもらいます」
「思いがけないご訪問をいただき、ワシも内乱ごときに挫けてはいられぬと思い直しました。後進の
称徳に握手を求めた亮次郎の手は、開拓者のものらしくガッシリと分厚かった。
亮次郎、ララ、ハナ、チワワ犬のブエナ……照井家の全員に見送られた称徳は、総重量30キロもある
米墨国境のエル・パソまで約3,000キロ、領事館のあるアメリカのシカゴは遠く、故国日本はもっと遠いが、外交官を天職と思い決めた馬場称徳の心は軽かった。
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