この景色を君にみせたくて

杜侍音

この景色を君にみせたくて


『オリンピックは一年延期となりました』


 テレビから無情に伝えられた宣告。

 2020年夏に予定されていた東京オリンピック・パラリンピックは来年に延期となったのだ。

 理由は、現在、世界中で猛威を奮っている新型コロナウイルスによるもの。一体いつ終息するのか誰にも分からない。来年のオリンピックも無事開催される保証はない。


 ただ来年に出来たとしても、女子マラソンでオリンピック内定を決めた私にとっては今年じゃないと意味がなかった。

 オリンピック選手として一年後も有効という約束は貰ったが、自分のためではない。


「オリンピック、歩美あゆみが走ってるとこテレビで応援したかったんだけどなー」


 病室に伏す一人の女性がそう言った。彼女の身体には管が何本も体内に挿入されており、強力な薬の副作用で髪の毛も抜けた状態。照れた顔してウィッグを外してくれたあの日、それでも今の髪型はお気に入りと話してくれていた。


「それでも怪我しないようにしたら来年出られるから」

「うん。その時はもちろん応援するよ!」


 彼女の命は残り半年とされていた。



 そして未だに収まることのない自粛ムードはとうとう街中から人を消した。

 どの店も閉まり、最低限の生活必需品しか買えない状態であったが、この夏、私はネットである商品を購入した。


『……これ、どうしたらいいの?』

「そのゴーグルかけてみて」

『え、ドッキリ? ホラーとか流れんの?』

「違うから」


 届いた商品を病室に持っていった時は不思議な顔をされたが、今では冗談じみた疑心暗鬼となっている。

 ただ、その後電話を掛け直して聞こえてきた最初の一声に、持ち前の彼女の明るさがないような気がした。管も前より増えている。

 ゴーグルを自分でかけて、ハンズフリー通話は出来るくらいだから手は動かせるみたいだけど。


『VRだよね、多分。私これ付けるの初めてだけど、こうでいいのかな? うーん? 真っ暗だけど。あ、電源入れてなかった』

「もう」

『ははっ、冗談だよ──ってここは……東京都庁? なんで?』

「私、今から走るから」


 彼女の言葉が止まった。理解しきれてないんだろう。


「そこに映ってるのは、私の視界。そのVRゴーグルと私がかけている360度カメラ付きのメガネとを通じて視覚を共有してる」

『ほぉ……確かに歩美のおでこが見えるー』

「そこは見なくていいから。今から東京マラソンのコースを走るから、私がオリンピックレコードを塗り替えるとこ、見てて」

『なるほどね……でも札幌になるとかって揉めてなかったけ?』

「ならどっちも走る」

『二回走るの!? やるな〜』

「そういうのはいいから……」

『あははー、ごめんごめん……! ちゃんと見て応援する。気をつけてね』


 彼女は優しい声で私を励ました。


『でも非公式だよ?』

「うるさい」

『静かにしてまーす』


 茶化す彼女に私は少し反抗して、腕時計のタイムを測り始めた。


 自粛が続く東京の街。

 観光客はいない。人が集まりそうな店も開いていない。道路規制はされてないが、車もいないから走りやすい。

 それでも、もちろん信号は無視出来ないので、立ち止まってしまう時間は足で取り戻す。


──彼女と出会ったのは、高校の陸上部。

 全国出場は当たり前の強豪校、その中でとびきり長距離が速かったのが彼女、早橋瑠衣はやはし るいだ。


 本当は瑠衣がこの景色を見るはずだった。

 大学時代に出た東京マラソンでは初出場にしながら、女子の日本記録にあと五分まで詰め寄るという好記録を出した。

 生まれながらの整った顔立ちと人当たりのいい性格もあってか、魅せられたメディアはすぐに瑠衣に注目し一躍時の人となった。



『この辺飯田橋だっけ。本当に人がいないなー。みんなお家でゲームしてるのかな』



 瑠衣は日本一、いや世界一にもなれる期待の選手だった。けれども運命はあまりにも残酷だった。

 癌だった。胃から始まったそれは肝臓やリンパ節にも転移してもう手に負えない悪化スピードだったらしい。



『早いよ速いよ! もう浅草だ! ちょっとお参りしてきて』

「何言ってんの」

『もー。それにしてもいいタイムじゃない? 信号が無かったら日本一のペースだよー』



 そんな訳ない。今でも瑠衣が一番早いはず。

 彼女が病気で陸上を去り、一つ席が空いた強化選手に私が繰り上げで入れただけ。

 そこから瑠衣が帰って来ても負けないように、こうしてオリンピック選手に選ばれるくらい頑張って来たのに──彼女はベッドの上から戻ってくることはなかった。


 負けない。瑠衣が届かなかった日本記録に届くように、瑠衣が見ている目の前で記録を更新する。私は足を大きく出し、地を蹴り、その反発で更に前へと進む。止まらない。こんなとこで止まりはしない。いつまでも走る瑠衣の背中を追いかけない、腕を大きく振るい、風を切り、目の前を走る瑠衣の面影を追い越してみせて


『あぶない!!』


 電話越しに聞こえる瑠衣の言葉で、私は急ブレーキをかけた。

 すると脇から自転車が。ぶつかる寸前だった。

 前しか見てなかった私にとって横からの自転車は不意打ちだった。競技中に横槍が入ることはありえない。今の私は走ることに集中しきっていたのだ。

 自転車に乗っていた若者は私に一礼だけして後方に去っていった。


『ちゃんと周りを見て!』


 子供に怒る親のような言葉を瑠衣は本気で口にしていた。


『気をつけてって最初に言ったじゃんか……怪我でもしたらどうするの……?』

「……ごめん」

『歩美が私のために記録を作ろうとしてるのは分かる。でも、そんな私に合わせるために、追い抜くために急いで走らなくていいんだよ。歩美は歩美のペースで走って欲しい。だってその道を走っているのは私じゃなくて歩美なんだから。私の代わりじゃない、歩美が見ている景色を見せて』


 イヤホンには鼻水をすする音が聞こえた。そんな鼻垂れるくらいに瑠衣は泣いてくれているのか。私のことを想って。

 私が彼女を想って今しているように、彼女も私を──


「……分かった。瑠衣、私を見てて」

『もちろん。立ち止まってちゃんと歩美のことを観てるよ』



 私はこうして再び走り出した。強い後押しを受けて。



『東京って人がいない方がいいなぁ』

「どうして?」

『走りやすそう』

「確かに」

『でも観衆は欲しいと思ったな。がんばれーっていう応援が私たちの力になってたからね』

「わかる」

『さっきから返事素っ気なくないー?』

「こっち走ってるんだけど」

『確かにそれはそうでした。あ、皇居今見えたね! あとちょっとだ! がんばれー!』


 そして、東京マラソンのゴールである皇居前に着いたのだった。

 記録は3時間12分15秒。信号待ちや途中『じっくりここ見せて』の要望があったので、相当遅れているけれども、そのロスタイムを抜いたって瑠衣には敵わなかっただろう。


『いい走りだったね。諸君、本番も期待してるよ!』

「偉そうに」

『ふふーん。偉いからねー。でも期待してるのは本当だよ。私は期待を問うために来年も観てるから。だから期待に応えてね。歩美、金メダル取るの私との約束だからね!』

「瑠衣も……」


 汗とふいに流れた涙が混じり合った滴が地面に落ちた。


「生きてね……」


 言葉はこれ以上出なかった。


『生きるよ。今お医者さん大変だからさ、私が自分でどうにかしないと。いや、私にも見てくれて応援してくれる人がいるからさ。私も期待に応えるよ〜。だから泣かないでよ! いきたい、私の願いは沿道で歩美を応援することなんだからさ! その願いを叶えるまで私は死ねないよ』



 そんな瑠衣の願いが叶えられることはなかった。








 1年後。東京オリンピックは紆余曲折あったものの何とか開催された。


 そして、私は彼女との約束を果たすことが出来た。日本記録を更新して金メダルを取ったのだ。

 42.195km走り抜き、表彰台から見る景色は最高に気持ち良かった。でも、ここからの景色を彼女に見せることは出来ない。

 メディアからの容赦ない質問の嵐を切り抜けて、ようやく落ち着いたところに携帯の電話が鳴る。疲労困憊だが、私は迷わず出た。



『もしもし〜! 金メダルおめでとうー!』

「瑠衣、うるさい」

『だって嬉しいだもん! うるさいならボリュームセルフで下げといて』

「応援しに来るんじゃなかったの?」

『いやだって札幌は遠いよー。お財布と相談した結果、今回は見送るということでお祈り申し上げます』

「祈るな」

『でもテレビでバッチリ観てたよ〜。札幌いいとこだね今度観光に行きたいなー』

「見てたの街かよ」


 瑠衣の願い、沿道で私を応援するは叶えられなかった。まぁ、お金さえあれば出来たんだろうけど。向こうもリハビリや通院予定もあったしそう簡単に札幌に来れた訳ではない。

 でも代わりに私の願いは叶った。しかも二つも。


「金メダル持って帰るから」

『楽しみにしてるよ〜。じゃあ帰ってくる日には、晩御飯にジンギスカンを作って待ってるよ!』

「それもう食べた」

『おぉふ。じゃあとりあえず帰って来るの待ってまーす』


 ゴールテープを切った時の景色、表彰台からの景色、家に帰った時に瑠衣が見せる笑顔──どんな景色が見えたのか、帰ったらたくさん彼女に話そう。

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