第4章 せまくてひろい世界のなかで

****

 梅雨が明けた途端、空がぱかっと晴れて、ギラギラした日差しがこれでもかっていうほど降り注いてきた。

 絵の具で塗りつぶしたような真っ青な空には、白いもこもこした羊みたいな雲が、いくつか浮かんでいる。


「あっついね」

「うーん、暑い」

「夏休みまであと何日だっけ?」

「四日だね」

「まだ四日もあるのかぁ……」


 校舎を出て、青い空を見上げる。隣で茜が笑っている。


 もうすぐ夏休みがはじまるけれど、わたしの予定は特にない。おばあちゃんの施設に会いに行くくらいだ。

 茜は進学塾に行きはじめたから、夏休みも夏期講習があって忙しいらしい。週に一度、スイミングスクールにも通いはじめた。


「プールで泳ぎたいなぁ……」


 茜がわたしの隣で、わたしと同じように空を見ながらつぶやいた。週に一度では物足りないのか、茜は最近よく「泳ぎたい」と口にする。

 その代わりに、「死にたい」って言わなくなった。

 どうしてかな。やっぱりなっちゃんのことがあったからかな。


「夏休みになったら泳ぎに行こうよ。昔よく一緒に行ったじゃん、市民プール」

「うん。行こう!」


 空から視線をおろし、茜がわたしを見て嬉しそうに笑う。


 茜はやっぱり美人だな。最近さらにどんどん綺麗になっていく。

 茜、彼氏作らないのかな。好きなひととか、いないのかな。


「ねぇ、茜ってさぁ……」

「あっ」


 歩道橋の階段をのぼり終わったところで、茜が立ち止まる。わたしは言いかけた言葉を呑み込み、茜の視線の先を追いかける。


 歩道橋の真ん中で、手すりにもたれて道路を見下ろしている、Tシャツにジーンズ姿の男の子。


「永遠だ」


 茜が言った。わたしは茜のブラウスをきゅっと引っ張る。


「声かけるのやめなよ。あいつ『ふりょう』だよ」

「えっ、不良?」


 茜が目を丸くしたあと、ぷっと吹き出す。


「なにそれ。全然フツーじゃん」


 たしかに永遠の見た目は普通だ。平日なのに制服を着ていないだけ。


「でもあいつはもう、わたしたちの知ってる永遠じゃないから。声なんかかけちゃダメ!」

「ヘンなチョコ。永遠は永遠だよ」


 くすくす笑いながら、茜は永遠に近づいていく。

 あーもう、やめなって言ってるのに。


 永遠はもうずっと、学校に来ていない。

 なっちゃんが亡くなったあと、親友だったはずの伊藤をスマホでボコボコに殴って怪我させて、それから全然来なくなった。


 すぐ学校に戻ってきた伊藤は、あいかわらず溝渕たちとギャーギャー騒いでいて、ときどき永遠の悪口を言っている。

 わたしはそれを、背中に聞いているだけ。


「永遠くん、学校行かないで、あちこち遊び回ってるみたいよ。この前は夜遅くに警察に補導されて、ご両親が呼び出されたとか。永遠くんのお母さん、永遠くんのためにお仕事辞めたのに、どうしたらいいのかわからないって泣いてたわよ。かわいそうに」


 永遠のことは、聞きたくなくてもうちのお母さんが教えてくれる。我が家の「永遠くん」のイメージはガタ落ちで、完全に「親を泣かせる悪い子」「夜遊びしている不良少年」呼ばわりされていた。


「蝶子ももう、永遠くんと関わっちゃダメよ」

「どうして?」

「どうしてってわかるでしょ? あんたは女の子なんだし」


 お母さんの言葉を思い出しながら、わたしは両手をぎゅっと握る。そんなわたしの前で、茜が永遠の背中をポンッと叩く。


「永遠! なにやってんの? こんなところで」


 茜の声に永遠がゆっくりと振り返る。茶色い髪に夏の日差しが当たって、キラキラしている。

 やっぱりいいなぁ。永遠の髪。

 ぼうっとしていたら、なぜか永遠がわたしを見ていて、慌てて顔をそむけた。


「あそこ」


 永遠がぼそっとつぶやいて、道路のほうを向いて指をさす。


「なにがあったか、思い出したよ」

「えっ」


 茜が永遠の隣に駆け寄って、わたしも急いでその横に並ぶ。

 国道沿いの空き地はまだなにも建っていなくて、ぽっかりと空いたままだった。


「バイク屋があったんだよ。ちっちゃい、中古屋みたいな」


 永遠の声に、わたしと茜は首をかしげる。

 そんなお店あったかな? でもあったかもしれない。

 自分の興味がないものを、わたしたちは見ていなかっただけなのかもしれない。


 反応の薄いわたしたちを見て、永遠が顔をしかめる。


「おいっ、せっかく思い出してやったのに、もっと喜べよ!」

「だってねぇ……」

「なんか微妙……」


 でもわたしたちは、どんな答えを求めていたのだろう。


「まぁいいよ。そうやって興味ないものは、すぐに忘れちゃうんだろ、お前ら」


 永遠は小さくため息をついたあと、すっと空を見上げて言った。


「おれさ、夏休みになったら、ここからいなくなるから」

「え?」


 わたしと茜が、同時に永遠の横顔を見た。


「おれ、田舎のばあちゃんちで暮らすことになったから。ここからずっと遠くの、海のほうの。学校もそっちの中学に転校する」


 なにそれ、聞いてないよ。おしゃべりなうちのお母さんだって、そんなことひと言も言ってなかったよ。


「だからもうこんなところで、ばったりおれに会ったりしないから、安心しろよ」


 永遠の言葉が胸を刺す。ひどい言葉を言っていないのに、わたしの胸をチクチクと刺す。


「どうして……」


 わたしの隣で声がした。


「茜?」


 見ると茜がぽろぽろ涙をこぼしていた。


「どうしてよ……どうしてそんな大事なこと、もっと早く言ってくれなかったのよ」


 茜の涙を見て、永遠もちょっと驚いた顔をしている。


「べつに……大事なことじゃないじゃん」

「大事なことだよ!」


 茜が永遠の腕をぎゅっとつかんで、わたしたちのほうを向かせた。


「わたしは……どんなに町が変わっても、学校でしゃべらなくなっても、わたしたちはずっとここで会えるって信じてた。わたしたちだけは、変わらないって思ってた」


 茜の声が震えている。ぽたぽたと涙が足元に落ちる。


「そんなの……無理だよ」


 永遠がぼそっと口を開く。


「いつまでもずっと変わらないなんて無理だ。お前らおれのことなんか、すぐ忘れるに決まってる」

「忘れないよっ、わたしは!」


 茜が叫ぶように言った。


「わたしはなっちゃんのことも、永遠のことも、絶対忘れないよ!」


 わたしは黙って、そんな茜のことを見ていた。茜の流す、涙を見ていた。

 ひとの涙って、こんなに綺麗なんだなって……


「……勝手にすれば」


 永遠が茜から目をそらす。その瞬間、わたしと目が合う。わたしはつい、口を開いた。


「なっちゃんが言ってた」

「は?」

「『いなくなってもいい人間なんて、この世にはいないんだよ』って」


 これはずっとわたしが、永遠に伝えたかったこと。


「わたしは永遠がいなくなってもいいなんて思ってないし、絶対いなくなって欲しくない。だから遠くに行ってもいいから、死なないで欲しい」


 永遠がじっとわたしを見て、静かに口を開く。


「誰も死ぬなんて、言ってねーし」

「じゃあ死なないでよ! わたしあんたのこと忘れないから! 絶対絶対忘れてやらないから!」


 永遠が黙ってうつむいた。茜は涙を拭いながらそんな永遠を見る。わたしも黙って永遠を見つめる。


「だったら……」


 永遠がゆっくりと顔を上げた。小さいころから、わたしのよく知っている顔。

 見るたびにムカつくのに、いつも追いかけてしまう、くやしい顔。


「勝負しよ」

「え?」


 わたしと茜が同時に言う。そんなわたしたちを見て、永遠がふっと口元をゆるめる。


「おれ、バイクの免許取ったらここに来るから。そんときお前らがおれのこと忘れてたら、おれの勝ち」

「なにそれ。意味わかんない」


 思わずわたしは口を出す。永遠がははっと軽く笑う。


「で、お前らがおれのこと忘れないでここで会えたら、お前らの勝ちな」

「じゃあ永遠が、わたしたちのことを忘れたら?」


 茜の声に、永遠が答える。


「おれは茜のことも蝶子のことも、絶対忘れない」


 そして、なんだか嬉しそうにわたしたちに笑いかける。

 ああ、永遠のこんな笑顔、久しぶりに見た気がする。

 もしかしてわたしは、永遠のこんな顔が見たくて、ずっと追いかけていたのかもしれないな。


「あ、安全運転で来てよ」


 わたしが言ったら、永遠がまた笑った。


「わかってる」


 そして軽く手を上げて、わたしたちに言う。


「じゃ、またな!」


 抜けるような青空の下、永遠が背中を向けて階段を駆けおりていく。


 永遠はわたしに言わなかった。「うぜぇ」も「死ね」も言わなかった。

 その代わりわたしと茜に、「じゃ、またな」って言った。


 茜がずずっと鼻をすすって、また手すりにもたれる。わたしもその隣で、同じように道路を見下ろす。


 片側二車線の、どこまでもまっすぐ続く道。今日も交通量は多くて、車やトラックが規則正しくそれぞれの行き先に向かっていく。

 そしてこの景色を見るたびに、わたしはきっと思い出すだろう。


 ぽっかりと空いた空き地。「死にたい」って言った茜の声。もういなくなってしまったなっちゃん。青空の下で笑った永遠の顔……


「永遠さ……」


 茜がぽつりとつぶやく。


「もしかしてここで待ってたのかな? わたしたちが通りかかるのを」


 わたしは茜の隣で、小さくうなずく。


「そうかもね」


 わたしたちに、いなくなることを伝えるために。


「ねぇ、茜」


 わたしは道路を見ながら、茜に聞く。


「バイクの免許って、何歳で取れるの?」


 茜が前を見たままふふっと笑う。


「十六歳じゃない?」

「あと二年かぁ……」

「すぐだよ」


 わたしはちょっと考えてから、隣を見る。


「ねぇ、あいつほんとに来るかなぁ?」


 茜がおかしそうにくすくす笑って答える。


「来なかったら、会いにいけばいいじゃん。わたしたちが」


 そっか。そうだよね。

 何度もうなずくわたしに、茜がささやく。


「どうする? 二年後、永遠がもっと不良になってたら」

「金髪でピアスあけて、バイク乗り回してるとか?」


 わたしたちは顔を見合わせて、同時に言う。


「似合わなーい!」


 歩道橋の上で、空を見上げて笑い合う。そしてわたしは思うんだ。


 やっぱり永遠は、いまのままでいて欲しい。

 ちょっと茶色い柔らかそうな髪で、ちょっと子どもっぽい顔で笑っていて欲しい。

 そしてそんな永遠に会うとき、茜に隣にいて欲しい。


「わたしたちも、そろそろ帰ろ」


 茜が言った。


「うん。プール、いつ行こうか」

「わたしその前に新しい水着欲しいな」

「あ、わたしも欲しい!」


 わたしがぴんっと手を上げたら、茜が笑った。


「じゃあ今度、一緒に買いに行こう」


 そしてふたり並んで、歩道橋を渡る。


 この狭くて広い世界の中、十四歳のわたしたちは、まだ走り出したばかりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

せまくてひろい世界のなかで 水瀬さら @narumiyu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ