金曜日
金曜日の朝、制服に着替えて部屋を出た。
「永遠?」
そんなおれの姿を見て、母さんが驚いた顔をする。
「あんた学校行く気? しばらく休んでなさいって先生が……」
「べつに行っちゃいけないってわけじゃねぇんだろ?」
「でも夏留先生のこともあったし……」
「もうなんともない」
母さんの制止を押し切って、玄関に向かう。のん気な父さんがいまごろになって、「どうした?」なんてリビングに出てきたけど、振り返らずに外へ出た。
あれから母さんはずっと家にいる。いつもあの担任みたいなおどおどした顔で、おれの顔色をうかがっている。突然ブチ切れた息子に、怯えているんだ。それでも親かよ。父さんも頼りないし、やっぱりうちはなにも変わらない。
学校からは「厳重注意」を受けた。体調不良と言って休んでいるあいだに、担任と北村が家に来て、もう二度といじめはしないと約束させられた。
おれ以外のやつらがどうなったかは知らない。おれはあいつらの名前をひと言も口にしなかったけど、誰が見ても伊藤たちが関わっているのはあきらかだ。
みんなまとめて北村のお説教を食らったのかな。笑える。バカみたいだ。
米倉はどうしているだろう。きっといつもと変わらず、あの廊下側の薄暗い席で、背中を丸めて座っているんだろうな。
でもお前が勇気を出して親にチクったから、お前をいじめるやつはいなくなったよ。よかったじゃん。
ポケットの中でスマホが震えた。スマホの持ち込みは校則で禁止されているけど、そんなのもうどうでもいい。
画面を開くと、伊藤からのメッセージが来ていた。
『北村にチクりやがって。二度と学校来んな。来たら殺す』
どうやらあいつらの中では、おれが北村に仲間の名前を言いつけたってことになっているらしい。
ポケットにスマホを突っ込み、前を向いて歩く。行き先は変えない。おれは学校に行く。
『永遠はまだまだ変われるよ。これからまだ、どんなやつにだってなれる』
もうあんなやつらに怯えて、暗闇の中で過ごすのはやめにするんだ。
学校に着いて靴を履きかえようとしたら、上履きがなかった。こんな小学生みたいな嫌がらせをするのは、あいつらしかいない。
おれは靴のまま廊下を歩いて、教室に向かう。
「永遠!」
そんなおれに声がかかった。
茜だ。黒くてさらさらした髪をなびかせて、おれのそばに駆け寄ってくる。
「それ……どうしたの?」
茜が靴を履いたままの足元を見て言う。
さすが茜だ。細かいことによく気がつく。
「べつに。上履きねーから、このまま来ただけ」
「上履き……ないの?」
茜が顔をしかめる。そんな茜の向こうに溝渕の姿が見えた。溝渕はおれたちを見てにやっと笑って、教室の中に駆け込んでいく。
「じゃ、おれ急ぐから」
「ちょっと待ってよ、永遠! 上履きないってどういうこと?」
伸ばしてきた茜の手を、思いっきり振り払った。
「ついてくんな! お前はおせっかいなんだよ!」
茜の顔がかぁっと赤くなる。おれはそんな茜から顔をそむけて、急いでその場から離れた。
教室に入ると、一番に廊下側の席を見た。米倉はやっぱりそこにいて、おれは少しだけ安心する。
「永遠ぁ」
名前を呼ばれて顔を向けた。おれの机の上に伊藤が座ってこっちを見ている。
「来るなって言っただろ? なんで来るんだよ」
おれはまっすぐ歩いて、伊藤の前で立ち止まる。周りを囲むように仲間が集まってきて、溝渕は今日もヘラヘラと笑っていた。
「どけよ。そこ、おれの席」
「は? お前の席なんかもうねぇよ。どっか悪いんじゃなかったっけ? 学校じゃなくて、病院行ったほうがいいんじゃね?」
周りのやつらが笑っている。そんなやつらの向こうで、蝶子がこっちを見ている。
なんでこっち見るんだよ。見んなって何度も言っただろ?
おれは靴を脱いで、それを伊藤のいる机にバンッと叩きつけた。
「返せよ。おれの上履き」
「ああ、あれな。きったねぇから捨てといてやったよ。お前、もう来ねーと思ったしさ」
こいつらサイテー。だけどそれと同じことを、おれは米倉にしていたんだ。
「永遠、お前さ。宮崎に会いに来たんじゃね?」
突然溝渕がその名前を口にした。伊藤がちょっと首をかしげる。
「宮崎?」
「二組の宮崎茜だよ。さっきこいつ、廊下でしゃべってた」
「あー……でも永遠は、森本が好きなんじゃなかったっけ?」
は? なんでそこで蝶子まで出てくる? こいつら意味わかんねぇし。
「好きなんだろ? 小学生のころから森本ばっか、からかってたもんなぁ、お前」
おれの視界に蝶子が見えた。顔を真っ赤にして、唇をぎゅっと結んで、それでもこっちを見ている。きっとこいつらの声も届いている。
「けど森本と宮崎って、いっつも一緒にいるよな?」
「そうそう。あいつらよくわかんねぇ。なんで幽霊みたいな森本と宮崎が?」
胸の奥で、なにかがカチンとぶつかった。
「森本って『蝶子』って名前なんだろ? どこが蝶なんだよ、似合わねー」
「蝶っていうより蛾じゃね? 蛾!」
「宮崎ってさぁ、森本みたいな蛾を引き立て役にして、いい気分でいるんじゃねぇの?」
「ははっ、女ってこえー」
ぎゃははって下品な笑い声が教室に響く。蝶子はまだこっちを見ている。
おれはそんな蝶子から顔をそむけて、伊藤のことを睨みつけた。
「は? なんだよ、その顔。とっとと消えろよ」
伊藤の手が伸びて、おれの胸元をつかむ。
「お前うぜぇんだよ。いますぐ死ねっ」
目の前から浴びせられる声を聞きながら、握りしめたスマホをポケットから取り出す。
なっちゃん。おれは変わりたいんだ。強くなりたいんだ。
「永遠っ……」
どこかから聞き慣れた声が聞こえる。
「永遠! ダメっ!」
ああ、これは蝶子の声だ。舌足らずで、ガキみたいな、小さいころからずっと聞いていた声。
だけど動きはじめた手は、もう止まらなくて。
「お前が死ねよっ!」
握ったスマホを、伊藤の前で高く上げる。
慌てた伊藤の額をめがけて、それを思いっきり振り下ろす。
ぎゃあって悲鳴のような声が聞こえたけど、逃げ出そうとする伊藤の制服を引っ張って、何度もこの手を振り下ろす。
「と、永遠っ、やめろっ……伊藤が死んじゃうっ……」
溝渕の泣きそうな声が聞こえた。手の中のスマホが、真っ赤に染まっている。
一瞬、国道の上に倒れているバイクと、なっちゃんの姿が浮かんだ。
その現場を見たわけでもないのに、道路を染める赤い色が、鮮やかに頭の中に写し出される。
気づいたらおれの背中に蝶子がしがみついていて、足元に頭を抱えた伊藤が倒れ込んでいた。
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