第3章 犬は幸福のカタチ
第3章 犬は幸福のカタチ
1
服の裾を噛まれ、ユウは顔をしかめた。〈ヴァカンス〉の中で汗をかこうと、服が汚れようと現実では特に何の問題も起こらないのだが、不快感はある。
「ちょっと、やめて……」
抵抗をすると指や顔をべろべろと舐められた。もはやユウはされるがままになっていた。
「削除に同意してくれませんかね?」
ユウの問いを〈オブジェクト〉は無視をする。聞こえているはずだが、彼はそれどころではないらしい。
「ちょっと、レイ。見てないで助けてよ」
レイはユウから五歩ほど離れたところからこちらを見ている。
「すみませんが、私、犬が苦手なので」
犬。そうこの〈ヴァカンス〉にいるのは犬の〈オブジェクト〉だ。
〈ヴァカンス〉は、どこかの家の庭だ。芝生が生えていて、モービルが一台入るくらいのスペースがある。無機質な四角い一軒家は、都市部によく立っているベーシックなものだ。
犬は犬小屋近くの棒から鎖で繋がれていて、レイのところまではいけない。だが人懐っこい性格らしく、レイにも興味津々だ。
レイが書類を取り出し、読み上げる。
「彼の名前はピット。オスのビーグル犬だそうです」
ピットは茶色い身体の色に、白のぶちが入っていた。
「この家、持ち主のステナさんの家なのかな?」
「さあ。そうかもしれませんし、そうでないのかもしれません」
「目に見えてやる気がないな、レイ」
「犬は苦手なのですよ。小さい頃にやたらと吠えられて、それ以降苦手になりました。削除には同意していないようですし、一旦、戻りましょう」
やる気のないレイはそれだけ言うと、一人ぽんっと消えてしまう。よほど犬が嫌いらしい。
「お前は悪くないよ」
ユウはよだれまみれの手で、ピットの頭を撫でた。ピットは嬉しそうに尻尾を振った。
2
保健所に戻り、持ち主のステナ・フォルビンの息子、ハイル・フォルビンと顔を合わせる。
「お待たせしました。ステナさんの〈オブジェクト〉は削除に同意しませんでした」
「そうですか」
ハイルは父親が死んだばかりだというわりには、しっかりとしていた。悲しみをベールで覆い隠しているというよりは、心底、父親に興味がないといった雰囲気だ。
身に着けている服はどれも一流ブランドと思わしきもので、腕時計はモービル一台が買えてしまうほどの金額だろう。磨かれた革靴にツイードのジャケット。どこから切り取っても人生の成功者という風体だ。
「失礼ですが、ステナさんの奥様は?」
「五年前に他界しています」
「では移植は?」
「私は望みません。消してください」
ハイルはもともとの性格がそうなのか、声音が冷たく感じた。
「あの、どんな〈オブジェクト〉だったのか、気になりませんか?」
おそるおそるとユウが聞くと、ハイルはうんざりしたような顔をした。
「聞いた方がいいんですか、それ? じゃあ、一応、聞きますけど」
「犬がいました。一軒家に犬が。あれはステナさんのご自宅でしょうか?」
微笑みながらレイが言った。
「一軒家? 家族で住んでいた家はマンションです」
「おや、そうでしたか」
「そんなことより、さっさと削除してくださいよ。親父のものなんて、この世に何一つとして残しておきたくないんです」
唾棄すべきものを語るように、ハイルは父親のことを語った。ユウとレイは静かにその姿を見ていた。
ハイルをロビーまで見送り、ユウがほっと息を吐く。ぴりぴりした雰囲気からようやく解放された心地がした。
〈続いて、N地区で起きた銀行強盗未遂についての続報です〉
ロビーに設置されている大型スクリーンに午後のニュースが映し出される。そこに映っていたのは在りし日のステナの映像だった。
ステナは一週間前に銀行強盗を試みた。ピストルも持たず、包丁だけを持ち、機械ばかりの銀行内に入り込んだのだ。鋼鉄をも跳ね返す機械たちに包丁など役に立つはずもない。到底、無謀な試みだった。それだけならば、時代錯誤なお馬鹿な強盗で終わっていただろうけれど、ステナは不憫だった。逃走中に警備用アンドロイドが壁とステナを必要以上に圧迫してしまい、殺してしまったのだ。当然、アンドロイドを製造していた会社は遺族に謝罪し、賠償金を支払った。だが、銀行強盗未遂犯の死を世論が嘆くはずもなく、間抜けな一件として嘲笑の的となった。
「ステナさんは、どうして強盗なんてしたんだろうね」
大昔、まだ銀行の窓口に人間が座っていたころには度々銀行強盗は成功していたらしい。だが、機械化された昨今、そんなことを思いついても実行に移す人がいるとは思えない。
「調べてみましょうか」にこりと笑い、レイが言った。「もしかすると犬の懐柔に繋がるかもしれません」
「ピットに会いたくない言い訳だろ」
ユウが痛いところを突っ込んだが、やはりレイはどこ吹く風という表情で笑っていた。
3
翌日、ユウとレイはステナの自宅へ向かった。ありきたりな白いマンションの二階に夫婦二人で暮らしていたようだ。管理人に家の鍵を開けてもらうこともできたが、中に入る必要はないとレイは辞退した。
「それより、ステナさんがどんな人だったのかを聞きたいのですが」
訊ねられた初老の管理人は白いひげを数度触った。
「静かな人だったよ。挨拶すれば、返してくれるし、普通の人だよ。強盗犯だなんて思えないね」
何も盗めなかったので、正確には強盗未遂犯なのだが、細かいことはいいだろう。
「奥さんが五年前に亡くなっていますよね」
「ええ」
「そのあと、犬を飼ったりしていませんでしたか?」
「犬ぅ? うちはペット禁止だよ。それに今どき、生体の犬なんか飼うもんかね?」
ペットロボットが主流になった今では、生き物を買うにはそれなりのまとまった金額と手続きが必要だ。
「では他に何か知っていることは?」
管理人は腕を組み、何かを思い出そうと頭をひねる。
「奥さんが大病で、治療費がかさんでたってことくらいかね。みんな噂してたよ」
「治療費ですか……」
もしもまだ妻が生きていて治療のためにお金が必要だとしたら、銀行強盗などという馬鹿な真似をしたのも納得がいく。しかし、現実は既に妻は他界し、治療費を支払う必要もない。
「ステナさんがよく利用していた、サイトなどは知りませんか?」
「それならよく〈リアル〉のカフェに行くって言ってたなあ。落ち着くらしいよ」
「そうですか。どうもありがとうございます。ああ、あと最後に。家族仲は良さそうでしたか?」
これには管理人が一瞬顔をしかめた。
「ああ、えっと、息子がいたんだけどねえ、これがまたできる子で。できすぎて、なんていうか周りを見下してくるタイプだったんだよねえ。だから正直、私はその子があんまり好かなかったんだけど……。いや、そういうことじゃなくて、家族仲ね。ひねくれた息子さんがいたけど、両親はべた褒めしていたよ。成績もよくて優等生だってねえ」
レイとユウは管理人に礼を述べてから、保健所に戻った。
「特にこれといった収穫はなしだな」
設置されているコーヒーメーカーでユウは二人分のカフェオレを作った。
「ステナさんは〈リアル〉のカフェによく行っていたそうですね。そこに行けば、よりステナさんに詳しい人と会えるかもしれません」
ユウはレイにカフェオレを手渡した。
「そりゃそうかもしれないけど、〈リアル〉の中にカフェなんて無数にあるぞ。火星大陸だけでも一億はあるね」
連携型の仮想世界〈リアル〉は多くの大企業が参入し、地球よりも広大な大陸と重力や慣性、質量保存の法則にとらわれない自由度を提供している遊び場だ。もちろん遊びだけではなく、ビジネスの根幹やインフラの源として人々の生活を支えている。
「一般人が探すのは苦労するでしょうけれど、我々は狩人。特別なライセンスがあります」
カフェオレを横に置き、レイは〈リアル〉に接続するためのヘルメットのような器具を棚から取り出した。このギア自体は埃をかぶった旧式だが、ちゃんと接続できる。
「さあ、行きましょう」
「俺も接続するの?」
「私、一人では退屈です」
俺は退屈しのぎの道具かよ。
若干の苦みを覚えながらも、ユウもギアをつける。目をつむること数秒で意識が〈リアル〉に繋がった。
そこは巨大な暗闇だった。広いというのは肌で感じる風のせいだろう。どことなく湿っぽく、蝙蝠でも飛んできそうだった。
これは意識だ。ユウの意識がこの何もない空間を生み出している。隣で立っているレイはレイの意識が生み出す別のものを見ているだろう。
「ねえ、レイは何が見えているの?」
「昼さがりの旧フランス式庭園でしょうか。ヴェルサイユ宮殿の庭かもしれません」
「ふらんす? ヴぇ……何?」
「美しい景色ということです」
「いいなあ。俺なんて何にもない空間だよ。つまらないな。早く検索をかけてよ」
検索エンジンを動かせば、この無意識の空間から出られる。レイは頷いた。
「カフェ、ステナ・フォルビン」
天から女性を真似た機械音声が聞こえる。
〈該当者が二十億を超えています〉
「顔検索」
そういってレイは一瞬、目をつむった。瞬きのようなその瞬間、ステナの顔を頭に思い浮かべたのだろう。するとたちまちのうちに、検索エンジンからの返事が来る。
〈該当、三十四件〉
「接続開始」
〈認証〉
気がつけば、二人は古びたカフェの前にいた。カフェの前には透き通った水を湛える湖があり、その奥には緑や青の森が広がっている。耳をすませば、小鳥のさえずりや狼の遠吠えが聞こえてきそうだった。
「入ってみましょうか」
ログハウス風のカフェには〈オープン〉の文字が書かれている看板が下がっている。店のドアを開けると銀鈴が鳴り、数人の客と店員がこちらを見た。緑のエプロンを身に着けた店員は目を丸くした。
「いらっしゃいませ。失礼ですが、どうやってここに?」
「我々、こういう者です」
レイがにこりと笑い狩人であることを証明するIDを見せる。
「狩人さん……」
「ステナ・フォルビンさんの軌跡をたどってここに来ました。我々には〈リアル〉内を顔認証システムで検索し使用履歴を辿ることが許されているのですよ」
「なるほど、そうやってこの店を見つけたんですね」
ユウが口を挟む。
「ここはそんなにも見つけにくいお店なんですか?」
店員はぎこちない笑みを浮かべる。
「ええ。一応、〈リアル〉の隠し大陸と呼ばれる場所に設定しているんです。並みのハッカーではここまでこれませんよ。ああ、もちろん合法ですからね」
慌てて最後の一言を付け足す。
「隠し大陸のことなら、知っていますよ。こうして来るのは初めてですが、愉快な場所ですね」
「あの、ステナ・フォルビンさんはいつものようにここに?」
「決まって奥の席に座っておられましたよ。奥様と一緒に」
「奥様?」
そんなはずはない。ステナの妻は五年前に他界している。きょとんとした顔で店員が言う。
「黒い長髪の美人な方でした。えっ、奥さんじゃないんですか?」
レイが曖昧に微笑むと、店員は興味津々という自らの態度を恥じて、カウンターの奥に引っ込んでいった。席に座り、コーヒーを注文してからレイが口を開いた。
「さて、ユウはこの件、どう思いますか?」
ユウは答えづらそうに返答した。
「不倫じゃないのか? 奥さんが既に亡くなってる場合もそう呼ぶのかはわからないけど。ここは簡単にはたどり着けない隠し大陸なんだろう? 不倫にはぴったりだ」
「あまりよい響きではありませんねえ。ですが、私もそう思ってしまいました」
「順当に考えるなら、妻を亡くした寂しさから不倫。恋に狂い、身も心もボロボロになったころに女が金を要求してきて、そのために無茶な銀行強盗を計画した、とか」
「ありえそうなシナリオで胸がむかむかしてきました。今回の件は犬も関わっていますし、あまり私好みの軌道を描くとは思えません」
「世界が自分中心に回ってると思うなよ、レイ」
「そんな風に思うはずがないじゃないですか。そんな退屈な世界はない」
レイはカップを置き、ひと呼吸する。
「こちらのコーヒーもおいしいですが、やはり私はユウの淹れるカフェオレの方が好ましいですねえ」
4
保健所に戻り、ステナの〈ヴァカンス〉に接続する。ピットはユウの姿を認めると、尻尾を左右に振った。
「よしよし」
レイは相変わらず、後方からこちらを静かにみている。ユウは困ったようにピットに語り掛ける。
「君のご主人様、不倫していたみたいだけど、何か知らないか?」
訊ねたところで何が返ってくるわけでもない。もともと返答を期待していたわけでもないけれど。
「強盗の金、何に使うつもりだったんだろうな。やっぱり不倫相手の女かな?」
「あるいは手切れ金、という可能性もありますね。それだけの大金を一度に要求しているわけですから」
ユウは再びピットを撫でる。
「お前のご主人様、何を考えてたんだー?」
犬は答えない。ただ純朴そうな瞳を輝かせて、こちらを見上げるばかりだった。
〈ヴァカンス〉から戻り、ステナの息子・ハイルと顔を合わせる。ハイルは仕事の合間にここへ来たのか急いでいるようだったし、苛立っているようにも見えた。
「いつになったら〈オブジェクト〉は削除されるんですか?」
とっとと犬を消してくれと言わんばかりの表情だった。冷静にレイが対応する。
「〈オブジェクト〉保護法に基づき、厳正に手筈を整えている段階です」
「たかが犬の〈オブジェクト〉だろ。人格があるわけじゃない」
「どんな〈オブジェクト〉も等しく尊いものです。生き物に命が一つしかないのと同じように」
きっぱりとレイが言い切るので、さすがのハイルも言葉に詰まる。
「ところでその犬、実際に飼われていた犬とは違うのですよね?」
レイは立体映像で浮かび上がったピットを指さす。ハイルは首を横に振った。
「こんな犬、知らない」
「そうですか」
その瞬間、ちらりとレイが笑ったように見えた。次は犬を調べる気だなと、付き合いの長くなってきたユウには手に取るように分かった。
5
ハイルをロビーまで見送った後、レイはユウに〈リアル〉と接続するためのギアをかぶせた。
「なんで俺?」
「私は考えを熟成させる時間がほしいので、あなたはモノ探しをしていてください」
「頼み方が雑な奴だな。ギアを投げつけるぞ」
「まあ、そう言わず。ピットのことを顔認証システムで検索してください。ひっかかるかもしれません」
仕方がないので、言われた通りに検索する。
〈該当なし〉
「え……」
イメージの仕方が悪かったのだろうか。大抵は、たくさん引っ掛かりすぎて困るくらいのものなのだが。
〈該当なし〉
ユウはギアを外し、レイに該当する犬がいなかったことを告げた。
「つまりその犬は現実に存在した犬かもしれないということですね」
「もしくは完全な空想か。だいたい、人ならまだしも、これ以上、犬のことを調べるなんてできるのか?」
レイは考え込むように首をかしげて、床の方を見ながらぶつぶつと呟いている。
「あれだけの狭い〈ヴァカンス〉に〈オブジェクト〉はたったひとつ。あれには間違いなく強い執着があるはず。ではその〈オブジェクト〉はいつ持ち主のステナ・フォルビンにイメージを植えつけたのか。それはやはり……子供時代だ」
閃いたというようにレイは指を鳴らして、きらきらした目でユウを見る。
「そう子供時代の思い出だ。行こう!」
「どこへ!」
「こっちだ!」
「そういう意味じゃない!」
モービルで十分ほど走った場所がレイの目的地だった。そこは十階建ての白いビル。内部も病的に白に拘った構造をしていることから、ここが公共の施設であることはすぐにわかる。
「役所?」
ユウの問いに答えず、レイは受付のアンドロイドに話しかけた。
「ヨゼ・マーダーさんを」
「908e室です」
指示された部屋は本であふれていた。電子書籍ではない。今どきレトロな紙の本だ。
「物好きがやってきたね」
しわがれた声とともにごちゃごちゃした部屋の奥から老婆が現れた。茶色いケープをかぶった老婆はレイの知り合いらしい。
「こんにちはヨゼ。こちらは部下のユウです」
「はじめまして」
「あたしゃ、自己紹介なんてしないよ。時間が惜しいんだ。何の用だい?」
「この地区に住んでいたステナ・フォルビンの子供時代の所在地を知りたいのです」
「顔認証システムで検索すればいいじゃないか」
「彼は〈リアル〉の隠し大陸にアクセスできるだけのハッキング能力をもっていました。公文書も偽造されているかもしれない。でも紙なら、ごまかせない」
たしかにステナの子供時代ならば紙の文書が残っているかもしれない。
「探してほしいってことかい? 報酬は?」
「あなたの知的好奇心を満たすかもしれないお話をしましょうか。ドラゴンと幽霊の話と、あるバンドマンと女の子の話があります」
「それは愉快そうだねえ」
そういうと、ヨゼはいそいそと部屋の中の文書を探し始めた。レイはその辺にあった椅子に座り滔々と話を始める。手伝った方がいいのかとユウは手を動かそうとしたが、すぐに「触るんじゃないよ!」とヨゼから叱責を食らったので、おとなしく床に座った。
三十分ほどしたころ、ヨゼが部屋の奥から戻ってきた。
「あったよ」
「本当ですか?」
「正確にはなかった。けど、私の記憶の中にあった」
「記憶?」
「ヨゼさんはデイ博士のように脳をいくつか持っているのさ。その脳に訊ねていったのでしょう?」
ヨゼは頷いた。
「あんまり見目のいいもんじゃないから別室に隠してるんだけどねえ。四十代のころの私の脳がちゃんと記憶していたよ」
差し出された紙にはステナ・フォルビンの名前と住まいが記されていた。
「孤児院?」
ステナはJ地区の孤児院出身だった。
「行ってみましょう」
すぐさまレイが言った。
「言うと思った」
ユウは肩をすくめた。
6
J地区まではモービルではなく特急列車を使った。ものの三十分で主要駅に到着し、そこからはモービルで二十分ほど走った。
そこにあったのは裏寂しい孤児院だった。教会風の四角い建物で、白い外壁は剥がれかけ、小さな庭があるのが柵越しに見える。
レイがドアベルを鳴らすと人が出てきた。黒い髪の長髪の女性だった。
「こんにちは。どちらさまでしょうか?」
「こういうものです」レイがIDを表示させる。
「狩人さん?」
「ステナ・フォルビンさんをご存じですか?」
「え、ええ」
「先日亡くなられました」
女性はさして驚かなかった。
「知っています。葬儀にも行きましたから」
葬儀に行った?
ユウは少し驚いた。不倫相手の女性が堂々と葬儀に出席できるものだろうか。
「あなたはこの孤児院の院長先生ですか?」
ユウが訊ねると、女性は頷いた。
「アイリと申します。ステナとは家族でした」
「つまりこの孤児院で一緒に育ったと……」
もしかしたら自分はとんでもない勘違いをしていたのかもしれないとユウは気づいた。アイリは不倫相手ではなく、同じ孤児院の兄弟だったのだ。
「あの、よろしかったら中へどうぞ」
アイリに言われるままに中へ入る。廊下の端にいる子供たちが物珍しそうにこちらを見ていた。
「お茶を入れますね」
「お気遣いなく」
ユウがそう言うと、レイが窓の外を指さした。
「庭に犬小屋がありますね」
「ええ。昔、犬を飼っていたので」
「茶と白ぶちのビーグルですか?」
アイリは目を丸くした。
「どうしてそれを?」
「ステナさんの〈オブジェクト〉がそのビーグルだったので」
レイがにこりと笑うと、アイリは鉛を飲み込むような表情をした。
「ステナは本当にこの孤児院の思い出を大事にしていました。それは私も同じです。……お恥ずかしい話ですが、経営が厳しいことをステナに話したのです。そうしたら彼、銀行強盗だなんて馬鹿な真似を……」
「ステナさんはこの孤児院を守ろうとしていたのですね」
「ええ。ですから彼はあんな真似を……。あれは私のせいなんです」
「そんなことはありませんよ。厳しい言い方ですが、ステナさんが他人の財産に手を出そうとしたのは事実ですし、それはいかなる理由をもってしても変えられません。ただその事実の見方を我々は変えられる。そうでしょう?」
アイリは涙をハンカチで押さえながら頷いた。
そうだ。考え方は変えることができる。ただの間抜けな強盗から、小さな孤児院を救おうとした愚かで愛しい小市民に。
「貴重な時間を割いていただきありがとうございました」
アイリに礼を言って、二人は外へ出た。まだ子供たちがこちらを見ていた。あるものは楽しそうに、あるものは不審そうだった。
アイリはステナを家族だといった。ならばステナにとってはここの子供たちもかけがえのない家族なのだとユウは思った。
7
「削除に同意するか?」
問われた犬は、首を傾げた。犬が首をかしげるのは相手の言葉をよく聴くためだという。だとしたらこの行為は狩人の言葉を一言一句、聞き逃さないためのものだろうか。
「こちらに手形を」
ユウが差し出した用紙に犬は自分の肉球で雑に判を押した。サインの代わりだ。
「本当に理解してるのかな?」
不安げにユウが言った。この犬は自分が削除されるという運命を受け入れたのだろうか。
「犬を馬鹿にしてはいけませんよ。彼らは賢い生き物です」
「嫌いなんじゃなかったか?」
「失礼ですね。嫌いと苦手は大きく違いますよ。私は彼らが憎いわけではありません」
「じゃあ、頭でも撫でてやれよ」
レイが顔を引きつらせる。ユウはにやにやと笑い、彼の腕を取り犬の頭へと近づける。ピットは静かに頭を差し出していた。
「よ、よしよし」
ぎこちない手つきだが、たしかに撫でている。すぐさまレイは犬の近くから立ち去り、しげしげと自分の手を見つめる。
「ふわふわとしているものですね」
「ああ、犬はふわふわなんだよ」
息子のハイル氏に何をどこまで伝えるべきか、ユウは悩んだ。けれど、すべてを知ってもらいたいと思った。
「……そうですか」
話を聞き終えたハイルの表情は相変わらず冷たかった。だが、ほんの少しの動揺が見て取れた。
「馬鹿な真似を思いついたものです。俺に相談すればよかったのに」
たしかに、なぜ父親のステナはこの見るからに金持ちそうな息子に頼まなかったのだろうか。
「父親とはそういうものですよ。金の無心なんて子供にできるはずがない」
レイがそう言うと、ハイルは悔いるように唇を噛んだ。
「ところで〈オブジェクト〉はどうしますか? 一応、削除に同意しましたが、移植も考えてみてはいかかでしょうか」
せめてもの形見としてあの犬を引き受けてはくれないだろうかという思いでユウが訊ねた。だがハイルは首を横に振った。
「いえ、そんなに大事な思い出の犬なら、なおさら一緒に逝かせてやりたいので」
そう答えたハイルの顔はどこか憑き物が取れたようだった。
ハイルの言う通り、〈オブジェクト〉ピットは削除された。そして後日、アイリの孤児院に大富豪からの謎の寄付金が届いたという。
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