思い出の狩人

北原小五

第1章 幽霊とドラゴン


第1章 幽霊とドラゴン


 1


 深い緑の山の中にユウ・ソンファは足を踏み入れた。広葉樹林の木々はどれも背が高く千年以上は生きているだろう。

 生きている、か。

 物の例えとしても奇妙な言葉だ。ここにあるものはたしかにどれも本物らしい。けれど本物なんてものはどこにもない。

 黒い髪に茶色い眼。年は二十歳そこそこ。着ているブラックスーツはノリが効いている。ユウは淡々と山を登る。

「スーツで山登りって、頭おかしいんじゃない」

 同行者の金髪碧眼の美丈夫が不平不満を述べる。

「いいじゃん。別に服が汚れるわけでも、汗をかくわけでもないんだから」

「私はハイキングの気分を味わいたいんだよ」

 彼の名前はレイ・トルーソー。ユウと同じく、真っ黒のスーツを着て山を登っている。

しばらく無言で山を登り続けると、ようやく頂上にたどり着いた。頂上にはとても大きな赤色の一枚岩があり、ユウはその一枚岩に近づき、手を触れた。

「あの、すみません」

 その岩にはよく見ると鱗のような綺麗な模様が浮かんでいた。

「起きてー」

 とんとんとユウが鱗のような部分を叩くと、もぞりと一枚岩が動いた。その岩はいくつかにバキリ、バキリと大きな音を立てて割れたかと思うと、首と前脚と後ろ脚と翼が現れた。この巨大な岩の正体は大きなドラゴンだったのだ。

「────」

 赤い鱗のドラゴンの体長は約十メートルあり、その高さから悠々とこちらを見下ろしている。ユウを追いかけ、ようやく頂上に到着したらしいレイが息を切らしながら言った。

「おやおや、この子は人語が話せないみたいだね」

「困ったな」

「とりあえず通り一辺倒な台詞は言ってみたらどうですか? 手続き上、必要ですし」

「あの、すみません。僕たち狩人なんですけど、あなたのサインがほしいんです」

 小うるさいハエを睨むようにドラゴンはこちらをぎろりと睨む。ユウは驚きと怯えで背をのけぞらせながら続けた。

「ど、同意だけでも構いませんが……」

 ドラゴンが大きく口を開ける。炎でも吐くのかと一瞬身構えたが、ただの欠伸だった。それからドラゴンは翼を広げて別の山へと蝶のようにひらりと飛んで行ってしまった。

「どうしよう……」

「どうしましょうねえ」どうでもよさそうにレイが繰り返す。「それにしても、ここは良い〈ヴァカンス〉ですね。子供が創ったにしては自然も豊かで心地がいいです。娯楽が少ないのが逆に良い」

「いいから、真面目に対策を考えてよ」

手伝おうとしないレイをユウが窘める。けれどレイはどこ吹く風という調子で山の上からの絶景を楽しんでいた。


 2


 ユウとレイは保健所で働いている。一昔前まで保健所というのは犬猫の殺処分や、新しい飼い主を見つける活動をしていたという。だが、現在の保健所の仕事は主に〈オブジェクト〉の削除にある。

〈オブジェクト〉、それはそのままモノを指している。仮想現実空間〈ヴァカンス〉の中で作られるモノすべての総称だ。

先ほどの世界でいえば、山や森という世界そのものが〈ヴァカンス〉、その中で生き物のように振舞っていたドラゴンが〈オブジェクト〉である。

「残念ですが、対象の〈オブジェクト〉とは会話ができませんでした」

 保健所内の一室。白いリノリウムの床に、机と椅子だけがあり、窓もない地下の部屋にはユウとレイ、向かいの席には三十代くらいの夫婦が座っていた。

「サイの……息子の〈オブジェクト〉はどのような様子でしたか?」

「赤いドラゴンでした。私たちが〈オブジェクト〉を削除しに来たことを伝えても拒否も動揺もしなかったですね」

 レイがユウの注いだ紅茶を飲み、ふわりと静かに微笑んだ。

「息子さんの〈オブジェクト〉、ご存じありませんでしたか?」

 少しやつれた父親が苦々しく笑う。

「あの子はしょっちゅう〈オブジェクト〉を変える子でしたから、わかりませんでした。ドラゴンか。やっぱり男の子だな……」

「恰好良かったですよ。快適な〈ヴァカンス〉でしたし、頭の賢い子だったのですねえ」

 ユウは足でレイの足の甲を踏む。これ以上喋るなというけん制だった。

 均整の取れた美しい森の〈ヴァカンス〉を創った少年は、もう生きてはいない。

 名前はサイ・コートー、九歳。つい四日前に小児がんで亡くなったという。

「心に区切りをつけるためにも、〈オブジェクト〉を消したいのですが……」

 人の死後も〈ヴァカンス〉はマザーと呼ばれる母胎に残り続ける。その〈ヴァカンス〉の中で暮らす〈オブジェクト〉も同様だ。もちろん〈オブジェクト〉はただのデータであり、生き物ではない。けれど世の中では〈オブジェクト〉をペットのように考えたり、あるいは個人のように捉える人もいて、〈オブジェクト〉を〈ヴァカンス〉の持ち主の許可なく削除、変化、移植させられないように法律で定められている。

 人の情とは不思議なもので人命ではなく、たかだかデータを守るために、実に様々で複雑な法律がある。ゆえに、故人の〈オブジェクト〉を削除するには特別な資格を持った公務員が立ち会う必要がある。その公務員がユウとレイだ。俗にこの仕事に就くものは狩人とも言われる。獲物を見つけ撃ち殺す、そんな仕事と同じ名前をつけられているのだ。

「私は反対です」ふとそんな風に言ったのは、妻だった。充血した目。化粧をしていない青白い肌は荒れている。「サイはまだ〈ヴァカンス〉の中で生きているんです」

 ユウとレイは顔を見合わせて疑問の表情を浮かべる。夫がぎこちなさげに言った。

「やめないか、母さん」

「でも! 本当のことよ! サイは生きてるの!」

 生きている、とは妙な表現であるとユウは再び思う。

〈ヴァカンス〉の中にある〈オブジェクト〉はたとえば、人の生き写しなんかも作れるが、もちろん本人ではないし、生きてもいない。けれど人々は〈オブジェクト〉に対して、たいていは赤子を抱く母親のように強い愛情を抱くものだ。

「詳しくお話を聞いても?」

 興味深げな微笑みを抑えることもせず、レイが訊ねる。食い気味に妻が答えた。

「サイの〈ヴァカンス〉に私も接続してみました。そうしたら奇妙なことが起きたんです。あれは幽霊です。サイの幽霊よ」

 妻は虚空を見つめ、自分を励ますように何度もそう呟いた。子供を亡くした精神的ダメージでおかしくなっているのだ。かわいそうにとユウは思う。だが、レイは違ったようだ。

「おも──不思議な現象ですか。それ、我々で調べてみても構いませんか?」

 今度は夫が意外そうな顔をする。

「しかし、ただの錯覚ですよ」

「〈ヴァカンス〉の中で何か異常があるなら、〈オブジェクト〉にも影響を及ぼしているかもしれません。もともと〈オブジェクト〉から削除の同意を得るためにも、何度かサイくんの〈ヴァカンス〉を訪れる予定でしたし、ついでです」

 にこりと美しい人が笑うと、たいていの人間はころりと騙されてしまうものだ。

「ありがとうございます。信じてくれて……」

 ハンカチで目元を抑えながら、母親が礼を言った。

 レイは別に母親の言うことを全面的に信じたわけではないだろう。ただ保健所の仕事は基本的に単調で、彼は退屈しのぎを日々探しているような男だというだけだ。


 3


 サイの〈ヴァカンス〉に接続し、再び大きな森の中に足を踏み入れる。ドラゴンは近くの開けた場所で羽を休めていた。

「幽霊って見たことあります?」

 レイはにこにことドラゴンに話しかけるが、彼──もしくは彼女はぷいっと顔を向こうにやってしまう。人語を理解しているわけではなさそうだが、ユウやレイを視界に入れたくもないと考えているらしい。それでもレイは続ける。

「サイくんのお母さんが来た時点で察したかもしれませんが、この〈ヴァカンス〉の創造主であり、あなたの持ち主であるサイ・コートーくんは既に亡くなってしまいました。そして我々は彼への追悼の意も込めて〈オブジェクト〉を削除しに来たのですが、サイン、あるいは同意してくれませんか?」

 ドラゴンは無反応だ。

「ダメみたいだな」

「困りましたねえ。人語を理解しない、もしくは削除に応じない〈オブジェクト〉は持ち主の死後百日後に狩人が強制削除できますが、それまであと九十六日あります」

「遺族の気持ちを考えると、早く削除してやりたいけどな。まあ、あの奥さんは別か」

 棺の中に故人の好きだったものを入れるように、人が亡くなった後、すぐに〈オブジェクト〉を削除するのがこの地域の慣例だ。

 ふと、空が暗がりになる。

「なんだろう?」

「どうやらこの〈ヴァカンス〉は日が傾く設定がされているようですね」

 夕焼け色の太陽がぐんぐんと沈んでいき、あっという間に月が出てきた。だがその月の光が妙だった。ちかちかと点滅しているのだ。

「バグかな?」

 基本的に〈ヴァカンス〉はスタンドアローンの空間だ。バグが入り込むことなど滅多にないことだが、なくはない。

「幽霊ですよ」

「え?」

「あの点滅、モールス信号です」

 いうと、レイはポケットからメモとペンを取り出し、点と線を書き始めた。

「解読できるの?」

「子供のころボーイスカウトに入っていましたから、この程度は」

「なんて?」

「『助けて』」

「え……?」

 淡々とレイは続ける。

「『苦しい』『僕は殺された』」

「…………殺されたって?」

 花がパッと咲くように、その場に似つかわしくない笑みをレイは浮かべた。

「さあ、何のことだかさっぱり。ですがこの三つの文章を、月のモールス信号は繰り返していますよ」

「で、でも殺されたって、どういう意味だよ!?」

 ユウは背筋に冷たいものを感じた。幽霊なんて信じていないが、薄気味悪いのは事実だ。

「生前にサイくんがこの〈ヴァカンス〉に仕掛けた悪戯、という可能性もありますね。子供にしてはずいぶんと手の込んだ悪趣味なものですが」

「それにしたって『殺された』なんて文章は変だ。しかもこの悪戯に誰でも気づくとは限らないだろう」

「おっ、遠回しに私の観察眼を褒めてくれるなんて優しいですね」

「別に褒めてはない。無駄なことによく気づくって言っただけだ」

「ふふふっ。ともかく興味がわきました。サイくんのことについて、幽霊のことについて、もう少し調べてみましょう」

「僕たちの仕事は〈オブジェクト〉を削除することだ」

 不服そうにユウが言う。

「もしかしたら幽霊の正体を見つけることが、削除への近道かもしれません。急がば回れ、というではありませんか」

 なんだか乗せられているような気もするが、ドラゴンとの意思疎通ができない以上、できることは限られる。それにユウ自身、幽霊の謎について多少とも興味があった。

「わかったよ」


 4


 翌日、職場の保健所に行くとレイが外出をするためガラスのボードにペンで何やら理屈をこねていた。

「出かけますよ」

「出かけるって、どこに?」

「サイくんがいた病院です。殺されたという幽霊の言葉について、調べてみましょう。まさかご遺族に直接聞くわけにもいきませんしね」

 それはそうだが……。

 ユウがあれこれと考えているうちに、レイはユウの名前の横にも『外出』とペンで書き、地下駐車場へと向かった。駐車場には銀色の移動用モービルが十台ほど並んでおかれている。一番近いモービルに乗り込み、ドアを閉める。観覧車の中のような狭い空間だが、三百六十度ガラス張りなので視界は開けている。運転席にいるロボットに向けてレイが言う。

「病院まで」

『承知いたしました』

 軽やかなエンジン音と共にモービルが動き始め、屋外に出る。屋外はいつも通り、無機質で冷たい白色の世界だった。景観維持のためこの区画の建物はほとんどすべてがコンクリートの上から白いペンキが塗られている。黒い影と白い建物のコントラストが奇妙で、絵画の中の世界を思わせた。

 しばらくして病院に到着した。白亜の宮殿のように立派な、大きな四角い建造物だった。

 レイはモービルから降りると受付に行った。

「どのようなご用件でしょうか?」

 応接用のアンドロイドがにこりと微笑んだ。

「保健所のものです」

 レイは腕輪型端末を操作し自分のIDを光学立体表示させた。そこには狩人の正式名称『Person Responsible for object Handling(〈オブジェクト〉取扱責任者)』と書かれている。同じものをユウも見せた。

「狩人の方が病院に何か……?」

 狩人という俗称は蔑んだ言い方ではない。一般的にも扱われるので、アンドロイドがその名称を口にしてもさほど驚きはない。

「〈ヴァカンス〉の持ち主のことで不都合がおきまして、ここに来ました。サイ・コートーくんを担当していた看護師さんとお話がしたいのですが?」

「お待ちください。……二階の関係者用の食堂にいます。」

 アンドロイドはGPSで位置を探ったのだろう。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 二人は関係者用の食堂の前でも警備用のアンドロイドにあったので、事情を話し、担当の看護師を呼んできてもらった。しばらくして、若くてはつらつとした具合の男性がやってきた。優しそうできっと小児科でも人気者だろうとユウは思った。

「カティラです。あの、何かありましたか?」

「レイです。こちらはユウ。私たちはサイくんの残した〈ヴァカンス〉のことでここに来ました」

 事情が呑み込めないのか、カティラは「はあ」と返事をする。

「サイくんの〈ヴァカンス〉には彼の幽霊が住み着いているようなのです」

「え? そんなこと、ありえない、ですよね?」

 同意を求めるようにカティラはユウの方を見た。

「ええ。ありえません。幽霊がいるというのはあくまでもサイくんのお母さまの言い方です。しかし現にサイくんの〈ヴァカンス〉では奇妙な動きがあります。そのことについて調べに参りました」

 レイが続ける。

「サイくんは小児がんで亡くなったんですよね? 様子がおかしかった等、不審なことはありませんでしたか?」

 カティラは思わずという風に苦笑した。

「そんなのあるわけないじゃないですか。……あ」

「あ?」

 彼は内緒話をするかのように声を潜めた。

「ここだけの話ですよ。どうせすぐマスコミに明らかになるから言っちゃうんですけど、サイくん、新薬の治験に関わってたんです。副作用も辛くて大変なのに弱音も言わなくて……。亡くなったのももしかしたら、副作用が原因なんじゃないかって、今、都会の医大で調べてもらってる最中なんだそうです」

「なるほど。彼の死因に怪しむ点があると」

「あくまで噂なんですけどね。そういえば忘れ物がナースステーションにあったな」

 カティラは廊下の突き当りにあるナースステーションまで行き、赤いドラゴンの玩具を手にした。

「廊下に落ちていたんです。たぶんサイくんのものだと思うのですが、かもしれないというだけで。時間が取れなくて、ご家族に連絡もまだでして……」

「では私たちが渡しに行きましょうか?」意外なことをレイが口にした。「赤いドラゴンは彼の〈オブジェクト〉でした。その玩具も間違いなく、彼のものでしょう」

「本当ですか。ありがとうございます」

「いえ、お気になさらず。お仕事頑張ってくださいね」

 にこりとレイが笑うと礼を述べてからカティラは行ってしまった。

「担当していた患者が亡くなったわりに、あっけらかんとしてるな」

 ユウが言う。母親の腫れて充血した目が痛みを伴って思い出された。

「死に関わるものはその重力に引っ張られないように割り切るべきだと私は思いますが」

「そんなもんか……」

「我々の仕事も同じです。〈ヴァカンス〉は持ち主の脳内のようなもの。であれば〈オブジェクト〉はその核です。核を打ち砕くのですから、礼節を持ちつつも深く悲しむことは避けるべきでしょう」

「深く、悲しむ……」

 ユウはこの仕事についてまだ一月ほどだ。一方で年齢不詳のレイが先輩であることは確かだが、何年この仕事に関わっているのかはわからない。

「悲しんだことあるの?」

 ふと思った疑問を口にする。深い意味はなかった。レイは曖昧に笑った。いつも裏表なく微笑む彼が見せる、初めての表情だった。


 5


 サイ・コートーの家は郊外の森の中にあった。モービルで一時間ほど走り、ぽつんと建つ邸宅を見つける。古めかしい焦げ茶色のレンガが積み上げられていて、植物の蔦が絡まっている。錆ついた門の前についているインターフォンを押すと、母親が出た。

「保健所のものです。これ、サイくんのですよね?」

 ユウが持っていた赤いドラゴンをカメラに見せる。

『ええ、そうです。どこでそれを? ああ、いえ。とにかく中にお入りください』

 ブーっというブザー音の後に両開きの門が開いた。モービルから降りて中に入る。近くで見るとますます大きな家だった。

 出迎えに来たのは家政婦と思わしきエプロンをつけたアンドロイドだった。恭しく玄関扉を開けると、リビングまで案内される。庭がよく見えるリビングにはL字型のソファと、テレビ、ウォーターサーバーなどが置かれている。

「いらっしゃいませ。ティナ、紅茶を」

 ティナと呼ばれたアンドロイドが頭を下げるとダイニングの方へ消えていく。

「これ、どうぞ」

 ユウが赤いドラゴンを手渡すと、母親はまるで小動物を優しく扱うようにそれを手に乗せた。

「ありがとうございます。どこでこれを?」

「病院です。〈オブジェクト〉の件で調べ物をしていて」

 途端に母親の顔つきが変わった。

「幽霊のこと、調べてくださっているんですね。どうですか? なにか、わかりそうですか?」

 縋りついてくるような声に、ユウの胸が痛んだ。いるはずのない幽霊を信じている母親。自分たちは幽霊の不在を証明しようとしているのに、この人はそれに気づいていない。

「今のところは何も」

 にこりと笑い、レイは嘘を吐いた。モールス信号のことは言わないつもりなのだろうか。

「私、感じるんです。たしかに、あの子を感じる……」

 目をつむり、涙をこぼしながら母親は背中を丸めて泣き出した。紅茶を運んできたアンドロイドが、そっとその背中を撫でた。

「ママー! ……お客さん?」

 部屋の扉が開き、入ってきたのは、五歳くらいの女の子だった。

「メイ、勝手に入ってきちゃダメじゃない。ごめんなさい。妹のメイです」

 メイと呼ばれた女の子は猫を抱えていた。大きな白い毛の長い猫は子供に遊ばれて、不機嫌そうな表情をしている。

「ママー、お医者さんごっこしようよ」

 そういってメイは、いくつかの薬の入ったボトルをポケットから取り出した。母親が窘める。

「お客様がいらっしゃるの、ダメよ」

 メイは頬を膨らませる。

「なんで、なんで、なんで、なんでー!」

「この子、まだお兄さんが死んだってこと、理解できてないの」

「このくらいの年齢の子なら、普通のことだと思いますよ」とレイ。

「じゃあ、俺たちと一緒に遊ぼうか? 君の〈ヴァカンス〉によかったら接続させて」

「やったー!」

 きっと両親とも兄の葬儀で忙しくろくに構ってもらえていないのだろう。もちろん両親を責める気にはなれなかったが、妹が寂しい思いをしているのも事実だ。

「ちょっと待ってて」

 メイが別の部屋から工具箱のようなものを持ってくる。これが〈ヴァカンス〉に接続するために必要な道具である。簡単に言うと、この工具箱の中は高性能なコンピューターが入っていて、そこから伸びているヘッドフォンを装着する。音楽が流れてきて、自然と催眠状態になり、人々は〈ヴァカンス〉に招かれるのだ。メイは設定を自分の〈ヴァカンス〉、〈二名のゲストを招待〉に変えて、二人にヘッドフォンを渡した。


 6


 サイの創り上げた〈ヴァカンス〉が壮大な自然環境であったこともあり、妹のメイが創る〈ヴァカンス〉にも多少とも期待をしていたが、メイの〈ヴァカンス〉は年相応のものだった。

「お家だね」レイが微笑む。

「お菓子の家か」

 自慢するようにメイは両手を腰のあたりに持ってくる。

「壁は全部チョコレートなの!」

 壁はチョコレートで天井はクッキー、机は飴で椅子はマシュマロだ。窓から見える外は、ひたすら芝生と林が続いている。空は晴れ渡ってはいるが、鳥の姿は見えない。

「よくできてるね」

「ありがとう。ココア飲む?」

「うん」

「私も欲しいです」

「はーい」

 メイがココアを入れる間、ユウは外の景色を見ていた。画一的な景観がどこまでも続いている。ここが仮想空間なのだとすぐにわかってしまうような有様だ。所詮、五歳児程度の脳ではこれが限界だというだけだが。

そのときふと窓の外が綺麗なターコイズブルーに染まる。よく見ると鱗があった。するするとそれが動いていき、大きな目玉がこちらをぎょろりと見る。驚いたユウは思わず椅子から落ちそうになった。

「な、なに!?」

「ドラゴンだよ」

 何事もなさそうにメイが言う。

「お兄ちゃんが創った〈オブジェクト〉なの。別に私はいらないんだけど、話し相手になるから」

 レイの眉がぴくりと動いた。

「話し相手? こちらの青いドラゴンは喋るのですか?」

「うん」

 レイが立ち上がり、お菓子でできた窓際に近づく。

「こんにちは。狩人のレイ・トルーソーと申します。こちらはユウ」

「こ、こんにちは」

 ドラゴンは地底から響くような低い声で言った。

「狩人がこの〈ヴァカンス〉に何の用だ? 彼女はまだ生きているぞ」

「ただ遊びに来ただけですよ。ああでも、あなたにも少しは関係のあることですからお伝えしましょうか。あなたの創造主であるメイさんのお兄さまが亡くなられました」

 ドラゴンは──ドラゴンに表情というものがあるとするのなら──少し悲し気に目を瞬かせた。

「そうか」

「あなたはサイくんの〈ヴァカンス〉にいる赤いドラゴンのように喋れないわけではないのですね」

「ああ、私は人語を解する」

「サイくんは喋る〈オブジェクト〉を創造できた。なのになぜか自分の〈ヴァカンス〉にはそれを設置しなかった。なぜでしょう?」

「それにはそれなりの理由があるからだろう。無意味なことをする子ではない」

 不思議と青いドラゴンの言葉の節々には哀切と親愛が感じられた。自分の創造主の死を悼んでいるのかもしれなかった。

「『助けて』ってどういう意味だと思う?」

 ユウが訊ねる。青いドラゴンは鼻を鳴らした。

「人間。私はただの〈オブジェクト〉だ。なぜ親身に答える必要が?」

 それはたしかにそうなのだが、何もおとぎ話のドラゴンのように高圧的に振舞わなくてもいいじゃないかとユウは思う。

「ふふふっ。そんな義理はありませんね。大人しく引き下がりましょう、ユウ」

 静かにココアを飲んでいたメイが耐えられないというように声を出す。

「もー! 二人とも、全然ココアを飲んでくれない! もう知らない!」

「ああ、ごめん、ごめん。今、飲むよ」

「いただきますね」

 〈ヴァカンス〉で飲むココアは甘く、喉が少し焼けるような感覚すらあった。何もかもがリアルで、何もかもが仮想の世界。仮想世界と霊界は案外、似たようなものなのかもしれないな、なんてことを思った。



 妹のメイと〈ヴァカンス〉で遊び終え、二人はコートー邸を後にした。モービルに乗り向かう先は保健所かと思いきや、レイは違う場所を入力した。

「研究所?」

「そ、〈ヴァカンス〉の研究所」

 狩人にとっては馴染みのない場所ではないが、なぜレイがそこに行こうとしているのかはユウにはわからなかった。

白い建物が立ち並ぶ都会へ戻り、ピラミッド型の建造物に近づいていく。あれが研究所だ。

仮想空間は大きく分けて二つの種類があるとされている。ひとつはオンラインで楽しむ〈リアル〉という名前の仮想空間だ。地球が丸ごとコピーされている空間で、最近では火星や木星などの宇宙空間も追加された。もうひとつがオフラインで過ごす〈ヴァカンス〉だ。こちらはスタンドアローン、つまりネット空間には繋がりがない。今から行く研究所には仮想空間の中でも〈ヴァカンス〉について調べている。

硬質なガラス扉が狩人のIDを読み込み、開く。銀色の壁がどこまでも続く吹き抜けと、横にずらりと並んだエレベーター。

「十三階に用がある」

「デイ博士ですか?」

「ええ」

 十三階のラボに入る。大きなスクリーンが壁一面に貼られていて、南極の映像をリアルタイムで映し出している。中央には液体の中に入ったむき出しの頭脳がひとつ置かれている。

「デイ博士」

 レイが声をかける。頭脳に繋がっている複数のコードがきらめきだす。

「来客だ。めずらしい」「誰だ?」「ああ、君か」「レイ・トルーソー、ユウ・ソンファ」

 女性や男性、子供や老人の声が四方八方から聞こえてくる。

「こんにちは博士」

 デイ博士の人格は一つではない。多重人格者の天才で、死後自分の頭脳を自ら不気味な液体に漬けて無数のコードを挿した。もちろん、彼は生きてはいない。いないが、頭脳は動いているため、〈ヴァカンス〉は所持しているのだろう。

「また何か調べものかな?」老人の声がささやく。

「サイ・コートーくんの〈オブジェクト〉の履歴が見たいのですが、お願いできますか?」

 そう言いながら、腕時計型の端末を動かし、彼のデータを脳へ送る。

「へえ、小児がんか。かわいそうに」

「赤いドラゴンが〈オブジェクト〉として存在しています。ですが、喋れません」

「うむ。たしかにそのようだね。けれど、昔は話せたようだよ。二年ほど前までは喋れる設定にしてあったようだ」

 持ち主の死後、〈オブジェクト〉は一時的に保健所預かりになる。保健所と提携しているこの研究所の職員、それもルシファー級のクラッキングの腕を持っているデイ博士には、その〈オブジェクト〉のこれまでの履歴が読み取れる。

「喋れたのに、喋れない設定に変えたってこと?」

「成長の逆転。不思議なことをしますね」

「たしかに、こういう例はあまり見ないねえ」のんびりとデイ博士が女性の声で言う。

 どうしてサイは赤いドラゴンから言葉を奪ってしまったのだろうか。もともと〈オブジェクト〉をよく変える子だったようだし、ほんの気まぐれだったのかもしれない。けれど、奇妙な違和感が胸に残った。


 8


 翌日、保健所に父親とメイがやってきた。だが母親の姿はない。妹のメイがユウの姿を見るなり、走ってきた。

「こんにちは!」

 ユウは屈んで、メイと視線を合わせた。

「こんにちは。今日はお母さんいないの?」

「うん……」

 父親は憔悴した様子で、しばらく何も話さなかった。

「ニュースを見ました」レイが言った。「お母さまが逮捕されたそうですね」

「え、ええ……」

 メイがぽかんとしている。何を話しているのかわからないのだろう。嫌な予感がしたユウはアンドロイドにメイの世話を任せ、別室で遊ばせることにした。

無表情のレイが続ける。

「サイくんを殺したのは、お母さまですね?」


 9


「どういうことだよ?」

 一人置いてきぼりにされているユウを放置して、父親が息を吐く。

「……ニュースではまだそこまでは報じていないはずですが……」

「あの家には喘息用の薬が置かれていました。しかしサイくんは喘息を患っていなかったはずです。もしそうなら犬や猫を飼うことはできませんから。猫や犬の毛でも喘息は悪化してしまいますからね。だとしたらあの薬は、サイくんを、殺めるために使ったのではないかと思ったのです」

 そういえば、メイがお医者さんごっこをしようと薬を持ってきていたことを思い出す。あの一瞬でレイは、あの家庭にあるには不自然な薬を見つけたのだろう。

 けれどユウには到底、受け入れられない真実だった。

「……あんなにサイくんのことを大切にしていたのに」

「だからですよ。新薬による副作用はとても辛かったと聞いています。だからこそ、少しずつ薬の中に毒を混ぜて飲ませたのです」

「早く楽にしてあげたくて、ってことか?」

「そうでしょうね」

 父親はうなだれていた。

「おっしゃる通りです。妻は今、警察で取り調べを受けています」

「お父様は薬のことを知らなかったんですか」

「知っていたら、止めました!」

 父親は世も末というように泣き出した。愛する息子を妻が愛情から殺めたのだから仕方がない。

 レイは椅子から立ち上がり、淡々とした調子で言った。

「自殺は、許されることなのかどうかは度々議論に上がることです。私個人としては、そもそも生命について、たかが一個体の人間に何を語ることができるのかと思いますが、それでも度々人々は自死について考える」何を言い出すのかと、ユウと父親がレイの方を見た。彼は言った。「サイくんは自殺したのですよ。ソクラテスのように、わかっていて毒の杯を飲み干したのです」

「どうしてそう言える?」

 ユウが言うと、レイは簡単なことだというように微笑んだ。

「モールス信号ですよ。『苦しい』、『助けて』、『僕は殺された』。あれらは当然、幽霊の仕業などではありません。〈オブジェクト〉──赤いドラゴンの仕業です。彼──面倒なのでここでは彼としますが──彼は人語を話せませんが、おそらく理解はしている。もともとは喋る〈オブジェクト〉であったわけですし、その名残があるはずです」

 なおもレイは続ける。

「サイくんは弱音を吐かなかった。けれど、本当は〈ヴァカンス〉では言葉にしていたのではないでしょうか。本当はドラゴンと会話もしたかった。けれど死後も残る〈オブジェクト〉が自分の話した内容、つまりお母さまの凶行について語りだすとまずい。そう考え、赤いドラゴンから言葉を奪った」

 『苦しい』それはサイが赤いドラゴンに伝えた本音だったのかもしれない。そんな主人を見た赤いドラゴンは、母親を恨み、彼女の悪事を暴こうとした。

「サイくんの死後、母を庇おうとしていた少年の心中を知らない赤いドラゴンは、母親を糾弾するモールス信号を送り続けた。言葉を上手く操れず、断片的になってしまいましたが、我々、狩人は異常に気づくと思ったのかもしれません。もっともその異変に一番初めに気づいたのは我々ではなく、お母さまだったわけですが」

『苦しい』

『助けて』

 サイの母親はどんな思いで息子に毒を盛ったのだろうか。そしてその全てを知りながら、どんな気持ちで息子はその毒を飲んだのだろうか。

 そして

『僕は殺された』

 誰よりも近くで持ち主を見てきた翼竜は、どんな思いでその言葉を紡いだのだろうか。

「幽霊の正体はサイの〈オブジェクト〉だったんですね……」

 しみじみと穏やかに父親が言った。今更、わかったところで何にもならない推理と真実だった。だが、何も知らないよりはましだった。ましだったと思いたい。

「幽霊を見つけてくれて、ありがとうございます。これでようやくちゃんと〈オブジェクト〉を送り出せます」

 苦笑気味に父親が笑う。晴れやかとは言い難い笑顔だった。

「では削除してきます。おそらく今度は同意してくれるでしょうから」

 レイとユウは一礼すると、父親を残し部屋から出た。

「我々の仕事は思い出を消すことです」

 廊下を歩きながらレイがそんなことを口にした。気分が沈んでいるユウに何か言おうとしていたのかもしれないが、励ますのならもっと明るいことを言ってほしかった。

「辛いならやめた方がいい」

 こちらを慮るというよりは、はっきりと突っぱねるような言い方だった。だからか、ユウは反発するように言い返した。

「狩人の仕事は思い出を狩ることだけではないと思う」

 レイが器用に片眉をだけを吊り上げる。

「というと?」

「思い出を見つけることもできる……と思う」

 勢いよく言いだしたわりに、最後は尻すぼみになってしまった。その様子を、レイはくすりと笑った。

「悲しい思い出ですが、たしかに見つけられましたね」

 工具箱にヘッドフォンを接続し、〈ヴァカンス〉に侵入する。

豊かな青い森の中には、赤いドラゴンがこちらを待ち構えていたかのように座っていた。

「あなたが幽霊ですね。喋れない制限がかかっているのに、よく〈ヴァカンス〉の抜け穴を見つけたものです。さて、無事にお母さまは逮捕されました。あなたも思い残すことはないでしょう」

 気高いドラゴンは頷きもせず、ただ静かにこちらをひとたび見たかと思うと突然、轟くような声で咆哮した。〈ヴァカンス〉中にその声が矢のように響き渡る。湖面が揺れて、波紋ができる。

 ドラゴンが削除を了承したのだと、なんとはなしにユウは理解した。やがて、ドラゴンはモザイク状の小さなバグになっていく。そして〈ヴァカンス〉に駐在する修正プログラムによって強制的に削除された。

 ドラゴンの消えた森の中でレイは澄み渡った藍色の空を見ていた。

「思い出を見つけることができたとしても、我々はそれを狩る。狩人です」

「……そうだね。けどいつかこの仕事についてよかったって思えるよ。だって、この仕事が好きだから、大事な役目だと思うからレイは続けてるんだろう?」

 謎多き美しい人はいつものようにふんわりと咲く花のように微笑んだ。

 そうだとも違うとも、彼は言わなかった。


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