第6章 誰が為のショコラ

第6章 誰が為のショコラ


 1


甘い匂いが鼻腔をくすぐる。ユウはなんて素敵な〈ヴァカンス〉なんだと、あっという間に心を掴まれてしまった。

「ショコラティエだ! 見ろよ、レイ」

 その〈ヴァカンス〉は中規模のショコラトリーだった。厨房をガラス越しに見ることができて、寡黙そうな男がシェフ帽をかぶり、チョコレートを創っているのがわかる。ショコラティエだろう。

「ユウはチョコレートが好きなのですか?」

 客用のテラス席に座っているレイが訊く。

「ああ。世界で一番好きな食べ物だ。子供っぽいって笑うなよ」

「笑いませんよ。ふふ」

「笑ってるじゃないか!」

「これは馬鹿にした笑いではなく、微笑ましいなという意味の笑いです」

 どちらもたいして違わない気がする。ユウはムッとした気持ちで唇を真一文字に結ぶ。

 それにしても、ここは居心地のいい場所だ。チョコレートの香りが店内に漂っているし、お客が誰もいないのでチョコレートの試食をし放題だ。生前のこの〈ヴァカンス〉の持ち主も、こうしてこの〈ヴァカンス〉を楽しんでいたのだろうか。

 だがチョコレートに舌鼓ばかりうっていられない。本来の仕事をしなければ。

「あのー、こんにちは」

 ユウが厨房に入ろうとすると、ショコラティエはキッとこちらを睨み、つかつかと近寄ってきた。

「……入るな」

 重々しく、威厳ある低い声だった。ショコラティエは俗にいうおじさん体型で、口髭も生えている。なんだか自分にも他人にも厳しそうな人だ。

「……すみません」

 反射的に謝ってしまう。一歩下がり、厨房の外からユウは声をかける。

「あなたの創造主が亡くなったので〈オブジェクト〉の削除に来ました。言っていること、わかりますよね?」

 おじさんショコラティエは相変わらず、泡だて器でボウルの中身をかき混ぜている。

「…………」

「同意されますか……?」

「……しない。私はここでショコラを作る」

「作ると言ったって、食べてくれる人はもういらっしゃらないじゃありませんか」

 レイが何の躊躇いもなくグサリと刺さる言葉を口に出す。ほんの少し、ショコラティエは悲しげな眼をした。ように見えた。目の錯覚だろうか。

「言い方」

 ユウは窘めるが、レイは悪びれもせず何も言わない。もっとも感情を持たないただのコードである〈オブジェクト〉に遠慮などする必要がないのだが。つい肩入れしたくなってしまうほどには、ここのチョコレートは美味しかった。


 2


「〈オブジェクト〉は削除に同意しませんでした」

保健所に戻りレイはそう伝えたが、相手はさして驚いていなかった。

「その場合でも百日経てば削除できるのですよね?」

「はい」

「では、そのようにします」

 てきぱきとした応答をするこの男は、創造主フィン・スワローの秘書だという。

 フィン・スワロー。

 社会主義的な風潮が強いこの地域では珍しい大手モービルメーカーの副社長である。モービルは一社が寡占状態にあるため、実質、この社が全世界のモービルを仕切っている。

「失礼ですが、フィンさんにはお子さんやご家族は?」

「いらっしゃいますが、皆様、葬儀の手続き等で多忙を極めていらっしゃるので、こうして私が〈オブジェクト〉の処理に参った次第です」

 処理、ね。

 冷たい言葉の響きに若干の嫌悪を覚えながら、ユウは涼しい顔をする。

「〈オブジェクト〉が同意するよう、こちらも誘導してみます」

「そうですか」秘書の男は百日後の強制削除でもよさそうな口ぶりだった。「ではよろしくお願いします」

 秘書の男をロビーまで送り、ユウはため息を吐く。

「あんなに素敵な〈オブジェクト〉なら欲しいくらいだよ。いっそ俺の〈ヴァカンス〉にショコラティエの〈オブジェクト〉を創ろうかな」

「それは難しいと思いますよ。私もショコラティエの創ったチョコレートをいただきましたが、あれは芸術的な美味しさです。〈オブジェクト〉のクリエイティビティの限界が創造主によって決まる以上、ユウ自身がよっぽどチョコレート作りがうまくなければなりません」

「わかってる。ただ言ってみただけだよ。……いや、待てよ」

「ふふ。気づきましたか?」

 そうだとすると、世界を牛耳る大企業の副社長がとんでもなくチョコレート作りのうまいおじいさんだったということになるじゃないか。

「もしかしてフィンさんはショコラティエになりたかったのかな?」

「そうかもしれません。どのみち、あのショコラティエと心を交わすためには、もっと詳しく調べる必要がありそうですね」


 3


 フィン・スワローについてよりよく知るには、図書館に行くのが一番手っ取り早いというのがレイの意見だった。二人はモービルで十分ほどの公立図書館を訪れ、ここ数十年のフィン・スワローに関する情報を漁った。

 データアースと呼ばれる球状の検索機に手で触れて、フィンのことをイメージする。様々な情報が球体の上にポップアップで表示された。

「すごい数だな」

「さすがですね」

 目立つのはフィンがもともと技術職畑の出身で次々革新的なモービルを創り出していったという記事だ。そのまま、とんとん拍子に出世して副社長の地位にたどり着いたらしい。

「ショコラティエのことはさっぱり見つかりませんねえ」

 つまらなそうにレイがこぼす。小さなアマチュアチョコレート大会も覗いてみたが、フィンの名前はなかった。もっとも偽名で出場していた可能性も否定できないが。

 それから共通点が何かないかと半日ほど探し回ったが、図書館の情報も底をつきた。

「レイ、なにか思いつかないか?」

「〈リアル〉に接続して情報を募る……いえ、効率が悪すぎますねえ」

「家族に会いたいところだけど、狩人なんて相手にされなさそうだしなあ」

「そうだ。葬式に紛れ込めばいいのですよ」

 妙案だというようにレイが言う。

「ええ……俺たちなんて、入れてくれるかな?」

「大人数で式をするのですし、我々だって事情があって参列するのですから問題ありませんよ」

 そうと決まったら喪服です、といってレイは家に戻ってしまった。仕方なくユウも家に一度戻り、喪服に着替える。端末を操作すると、すぐにフィン・スワロー氏の葬儀の場所が分かった。レイの言う通り、やはり大々的にやるようだ。


 数百人を収容できそうな大きな教会から出てきた人々は、緑の芝生が生えている墓地へとゆっくりと移動していった。

その移動の群れにユウとレイはひっそりと加わる。誰に見とがめられることもなく、すんなりと潜入できた。

「ショコラティエのモデルっぽい人はいないな。ってもこの人数じゃ、全員の顔は確かめられないけど……」

「それは後で〈リアル〉の顔認証システムで調べてみましょう。まあ、私もなんとなくあの人物はフィンさんの空想上のものに思えますが」

「どうしてそう思うんだ?」

「ただの勘ですよ」

 レイは静かに苦笑する。

墓の前についた。穴にぴったりと棺が埋まり、周りを囲む家族たちがさめざめと泣いている。そこへ一台のモービルがやっていきた。モービルから二十代半ばほどの男性が降りてくる。

「タード?」

 家族の一人が驚いたように言う。どうやら彼はタード・スワローというらしい。喪服にしてはファッショナブルすぎる派手な装いに、派手な髪形の男性だった。デザイナー関係の仕事にでもついているのだろうか。

「じいさんが死んだって?」

 タードと呼ばれた男性は焦っている風でも、悲しんでいる風でもなかった。事実を確認するように淡々と訊ねる。

「よくのこのこと顔を出せたものね。裏切り者のくせに」

 呪詛を吐くように誰かが言う。タードは薄く笑った。

「ははっ。裏切り者ね。まるでスパイ映画だ。それより俺も参列させてくれよ」

「遺産目当てで来たんだろう。帰れ!」

「遺産目当てはあんたたちだろ。悲しくもない癖に泣いたりしやがって。じいさんが天国で腹抱えて笑ってらあ」

「帰れ、タード!」

「そうだ! 消えろ!」

 親族からの怒号を交わすようにタードは棺を一瞥すると、乗ってきたモービルに戻っていく。レイがその後を追いかけたので、仕方なしにユウもついていった。

「あの、失礼。我々こういう者ですが」

 タードが振り向く。その眼には驚きの色があった。

「狩人?」

「ええ。スワローさんの〈オブジェクト〉について調べています。よければ少し、お話を伺っても?」

 タードはぼりぼりと頭を無造作にかいた。

「構わねえけど。まあ、乗れよ。なんだか雨が降ってきそうだし、俺の家で話そう」


 4


 タード・スワローは端的に言えばファッションデザイナーで財を成した人物だった。もちろんファッションになど興味がないユウはその名前を知らなかったが、連れてこられたモダンな大豪邸を見れば誰だって彼がデザイン関係で成功した人物だとわかるだろう。

 森の中にあるガラス張りの豪邸の中でタードはひっそりと暮らしているようだ。

「コーヒーと紅茶、どちらがいい?」

「お気になさらずというべきところですが、紅茶でお願いします」

「じゃあ俺も」

「はいよ」

 アールグレイの紅茶が出てきて、タードも席に着く。

「アンドロイドを使用していないのですね」

 興味津々な様子を隠そうともせずレイが言う。

「一人が好きでね。ぺちゃくちゃ喋る人形は好きじゃない」

「なるほど。ところでいきなり失礼かもしれませんが、なぜご親族から〈裏切り者〉などと呼ばれていたのですか?」

「俺がモービルを創らずにファッションで成功したからさ。ようは妬みだ」

「そうですか」

 今度はこっちから質問だ、とタードが手を組む。

「じいさんはどんな〈オブジェクト〉を創ってたんだ?」

「ショコラティエです」ユウが言った。「それはもう格別に美味しいチョコレートを作っていました」

「おかしいな。じいさん、甘い物は嫌いだったはずだけど」

「おや、それは変ですね。あのチョコレートはプロに負けずを取らない味でした。相当な練習と技量を積んだと見えたのですが」

 レイが首をかしげる。

「じゃあ、奥さんや息子さんが好きだったとか?」

「ばあさんと親父……? いや、俺が知る限りはねえな」

「そうですか……」

 レイとユウは顔を見合わせる。一体どういうことなのだろうか。

 あのショコラティエは誰のためにチョコレートを作っているのだろう。


 5


 ユウとレイは保健所に戻り、念のため〈リアル〉の顔認証システムにショコラティエをかけてみた。だが結果はやはり該当ゼロ件だった。

「やっぱり駄目か」

 ユウがため息を吐く。

「あのショコラティエは何者なのでしょうかねえ」

 それを調べるために続いて二人はデイ博士のいる研究所へ向かった。

「おや、これはこれは。どうしましたか?」

 脳だけの存在であるデイ博士は、今日は男性の声をしていた。

「フィン・スワロー氏を知っていますか?」

 レイが問う。

「もちろん。モービルの会社の副社長でしょう?」

「ええ。彼の〈ヴァカンス〉の遍歴を調べてほしいのです。ここ数年で〈オブジェクト〉が変更されていないか」

「いいですよ。……変更は特にありませんね。二十歳のころからこの〈オブジェクト〉を登録しています。ショコラティエ、ですね」

「二十歳?」

 ユウが言った。

たしか図書館で調べた情報と照らし合わせると、その頃ちょうどフィンはモービルの会社に入社している。

「その以前は〈ヴァカンス〉自体をやっていなかったようですね。まあ、五十年以上昔なら、大半の人は〈ヴァカンス〉を持っていないので自然なことだと思いますが」

「なるほど。どうもありがとうございます」

 フィンは八十代で亡くなった。つまり六十年間以上、あの〈オブジェクト〉は変更されていないことになる。

 謎を残したまま保健所へと戻る。すると、ロビーに慌てた顔をしたフィンの秘書の男がいた。

「いた! 狩人さん!」

 急いで秘書の男がこちらに駈けてくる。

「どうしましたか?」

 にこりとレイが微笑む。

「それが大変なんです。遺産が……ないんですよ!」

「はあ……?」

秘書の男は必死の形相で続けた。

「フィンさんの遺言状を確認したら、財産はもうすでに慈善団体に全額寄付したと。それから〈オブジェクト〉を訪れよと書かれていたんです!」

 驚いた。スワロー家の遺産となれば、一生どころか三回ほど人生を遊んで暮らせそうな額になるだろう。それを全て寄付したとは、大した篤志家である。

「人生の最後に善いことをなさったではありませんか」

 無関係なレイは相変わらず胡乱に微笑んでいる。秘書は今にも泣きだしそうだった。

「まさか! フィンさんは生前、一度も寄付なんてしなかった。それなのに人生最後にこんなことを!? ご親族のみなさんは半狂乱ですよ!」

「でしょうねえ」

 他人事のようにレイは笑う。事実、他人事だが。

「〈オブジェクト〉に何か秘密はありませんでしたか?」

 それが本題なのだろう。答えを求めるように秘書の男は縋りついてきた。

「それを今、調べているところですよ。しかしそうですか。遺産の秘密が隠されているかもしれないというわけですか。面白くなってきましたね」

「おもしろ──なんていう人だ!?」

「失礼、言葉が過ぎました。謝罪します。もしまた何かわかったら、こちらから一番に連絡をします」

「ええ。頼みますよ」

「ところで、〈オブジェクト〉について調べるために、ご親族の皆さんに会うことは叶いませんか?」

「え?」

 秘書の男は一瞬固まったが、藁にも縋る思いなのだろう、頷いた。

「わかりました。みなさんは今、フィン氏の館にいます。いらっしゃってください」


 6


 モービルで二時間ほど走った高級住宅街にその館は建っていた。白い石でできた館は、一点の曇りもなく輝いている。主人の死など、まるで意に介していないような威風堂々とした建物だった。

玄関の扉を二台のメイド服を着たアンドロイドが恭しく開き、レイたちは迎え入れられる。

「「ようこそ、スワロー家へ。皆様がリビングルームでお待ちです」」

 案内されたリビングルームには十人ほどの親族がいた。遺産のことで揉めていたのだろう。ある者は取り乱し、ある者は冷めた顔をしていた。

「あなたたちが狩人さん?」

「はい。私はレイ・トルーソー、こちらはユウ・ソンファです」

「はじめまして。私はレイラ。スワロー家の長女です」

 レイラは、五十代くらいのグレイの髪の女性だった。

もう一人、奥の席に座っていた白髪の髭の男性が立つ。

「私はマーティ。長男だ」

 握手を求められたレイは持ち前の笑顔で答える。

「どうもはじめまして」

 もう待っていられないというようにレイラが言う。

「それで〈オブジェクト〉に何か不審な点はあるのかしら?」

「不審、というほどではありませんが、ショコラティエの〈オブジェクト〉が存在していました」

「ショコラティエ? 父さんは甘い物は好きじゃなかったはずだけれど」

「ご家族の皆さんも?」

「まあ、あれば食べるけれど……」とレイラ。

「好物というわけじゃないな」とマーティ。

 レイとユウはアンドロイドに促されて席に着く。

「この顔にも覚えはありませんか?」

 レイは〈ヴァカンス〉から抽出したショコラティエの画像を見せる。二人は首を横に振った。

「知らない人ね」

「知らないな」

 ここでも行き止まりか。ユウは内心、ため息を吐いた。

「でもチョコレートを食べるというのは、父さんの夢だったのかもしれません」

「どういうことですか、レイラさん?」

「大昔、父がまだ子供だった頃、とても貧乏だったらしいのよ」

 スワロー家はフィン一代のおかげで成り上がったといってもいい。そのフィンの幼少期が貧しかったとしても不思議ではない。

「だからチョコレート一つでも貴重品だったみたい」

「戦後間もなかったでしょうしね」レイが続ける。「もしかしたら幼い頃の憧憬を〈オブジェクト〉に込めたのかもしれませんね」

 マーティが咳をする。

「だとしてもそれがなんだというのだね。目下の問題は遺産の行方だ」

 随分と冷たい態度だなとユウは思う。よほど金に目が眩んでいるようだ。

「遺産が相続された慈善団体とはどこだったのですか?」

「貧しい子供を救うための財団法人よ。もっとも昨今、貧しい子供なんているのか、わからないけれど」

 レイラは皮肉めいて言う。たしかに生活水準の高い現代において、救うべき貧しい子供は難病指定された子供くらいだろう。

 そこでふとユウは気づいた。

「もしかしてフィンさんは子供のころ難しい病気にかかっていたのではありませんか?」

 レイラとマーティは顔を見合わせる。親族たちも知らないようだ。図書館での情報は成人してからのデータばかりでフィンの子供のころのことは知れなかった。

「調べてみましょう」

 水を得た魚のようにレイがはしゃいで言う。ユウもなにか取っ掛かりを見つけられたようで晴れやかな気分だった。


 7


 地域にある大病院に赴き、レイはアンドロイドに事情を話した。するとデータベースからフィンのカルテを引っ張り出してくれた。

「こちらです」

電子データがレイとユウの腕輪型端末に転送される。そこには小児白血病の文字があった。

「どんな病気なんだ?」

「簡単に言うと、血液ががん化してしまう病気です。小児がんといった方が一般的かもしれません」

「フィンさんはそこから治療して寛解されたのですね」

「ええ」

「当時を知る方はもう?」

「お亡くなりになられています……いえ、看護師の方が一人、いらっしゃいます。元看護師といった方が正確ですが」

「教えてください。訪ねてみます」

 教えてもらった住所を二人は訪ねた。

美しく整理された箪笥のような白い公営団地の隅、90階の端が彼女・ヘレーの家だった。

「こんにちは、狩人です」

 ユウが挨拶をすると、自動ドアが開き、中から九十歳くらいのおばあさんが出てきた。

「こんにちは。狩人さんが何か用かしら? まだ死んでないのだけれど。今のところ」

 ふふっと口元を和らげて冗談を言う。健康に気を遣っているのか、九十歳とは思えないほど若々しく見える人だった。

「もう覚えてらっしゃらないとは思いますが、フィン・スワローさんという患者さんのお話を聞きたくて参りました」

「フィンくん? 覚えていますよ。私が初めて一人で担当した患者さんだもの。さあ、中に入ってちょうだい」

 玄関先でもよかったのだが、促されるまま、二人は中に入る。どこにでもありそうな2LDKの部屋に、簡易の生活介護ロボットがついている。話し相手にもなるのだろう。

 三人は中央の机を挟んで座った。

「フィンくんがどうかなさったの?」

「つい先日、亡くなられました」

「あらそう……お気の毒に」

「白血病だったそうですね」

「ええ。ちょうど新しい治療方法が確立された頃で、一年くらい入院していたかしら」

「実は──」

 ユウはフィンがその後どのような人生を辿り、大企業の副社長に上り詰め、遺産を家族に譲らなかったことも話をした。聞き終えたヘレーは少し泣きそうな顔をしていた。だが涙を見せなかった。

「そう。病気の子供のために……」

「ご家族は理解に苦しんでいるようですが」とレイ。

「フィンさんはどのような子供だったのですか?」

 ユウが訊いた。

「聡明な子でした。自分のせいで家族が金銭的負担を追っていることを負い目に感じていて、物静かで……。ただときどき癇癪を起すことがあって、それは厄介でした。自分の身体を引っかいたり、友達を傷つけたり、手がつけられなくなることもありました」

「なるほど。遺産を寄付したことについて、ヘレーさんはどう思いますか?」

「意外といったら失礼かもしれないけれど、自分以外のためにお金を使うなんて考えられない子だったと思うわ。まあ、フィンくんが悪いわけじゃなくて貧しさが悪だったのだと思うのだけれど」

 貧しさは悪、か。その言葉の重みをユウは噛み締める。

 大戦後のこの世界では貧富の差はほとんどない。莫大な金持ちは政府から金を徴収されるためだ。ゆえに、大金持ちとして暮らすためには政府高官になるか、政府に気に入られる大企業の幹部になるしかない。だが一般市民は貧しいといっても底が知れるので、そのことについて何とも思っていない。馬車馬のように働き大金を得るか、ほどよく働き自由を得るかの違いだ。

「貴重なお話をありがとうございました」

 にこりとレイが笑う。

 ここでもやはりわかったことは、フィンが遺産を寄付するような人物ではなかったということだけだった。

 しかし、事実としてフィンは遺産を寄付している。彼の心に何かが起きたのだ。


 8


「美味しいですねえ」

 翌日。相変わらず、調査に進展はないが、こうしてフィンの〈ヴァカンス〉を訪れてショコラティエの作ったチョコレートを二人で食べる。

「そういえばこの店のチョコレート、全部甘いよな。ビターとかブラックとかないのかな」

「言われてみればそうですね。甘いのが苦手な方向きの味ではないかもしれません」

「きっとフィンさんにとって、チョコレートは甘い物で、かつ財産の象徴みたいなものだったんだろうな」

「そうでしょうねえ。ここまで拘っているのは、相当な執着心ですよ。けれどこの〈オブジェクト〉は移植させずに訪れろと遺したのは若干、疑問が残りますねえ」

「特定の人が〈ヴァカンス〉を訪れたら仕掛けが作動するとか?」

「デイ博士にスキャンしてもらいましたが、そのようなものはなかったそうです。誰が訪れても、あそこにはショコラトリーがあるだけです」

「そうだ。じゃあ、遺産がどの子供に使われるか、調べてみないか? 難病指定されているこの地域の子供に絞れば見つけるのは難しくないだろう?」

「いいアイディアですね。やってみましょう」

 レイが指をパチンと鳴らし、〈ヴァカンス〉から離脱する。

 保健所の検索機能を使用して、難病の子供を見つけた。名前はイブという女の子のようだ。

「会いに行ってみよう」


 都市部の大学病院を訪れ、イブという女の子にコンタクトを取った。しかし彼女に直接面会することは衛生上の問題から断られた。

「かわりにモニター越しに面会することは可能です。ですが──」

 アンドロイドが言葉を濁す。ユウが訊ねた。

「ですが?」

「イブちゃんは話せる状況ではありません。一日の大半を眠って過ごしています」

「そうですか……」

 ユウとレイは無言でモニターを見つめる。髪の長い女の子がベッドに横たわっている。十歳くらいに見えるが、本当は十六歳なのだという。

「そういえば今更だけど、親御さんの許可なく面会してもいいのか?」

「イブさんにご両親はいません。母親に育てられて、その方もイブさんが寝たきりになった後に亡くなられました」

「父親は?」

 ユウが訊ねる。

「十年前に他界しています」

「死因は?」

 レイが訊ねた。

「モービルの事故死です」

「え……」

 驚くユウに対して、レイはその答えを予期していたかのような反応だった。

「やはりそうですか。フィンさんは自分の会社の責任をこうしたかたちで取ろうとしていたのかもしれませんね」

「そんな」自分の会社の不始末を、自分の財産で償おうとしていたのか。「でもじゃあチョコレートは?」

「子供のころの憧れだったもの。恐らく、イブさんは食事にも制限があるのでは?」

「はい」

「チョコレートは食べられますか?」

「いいえ」

 レイはユウを見る。ユウもようやく理解できた。

「イブのためのショコラティエだったのか」

「正確には、子供のためのショコラティエだったのでしょう。推測でしかありませんが、フィンさんは、会社に入社してすぐ、モービルのもたらす不幸について知って深く傷ついた。当時はまだ道路も完全に歩車分離ができておらず、子供の飛び出し事故が多かったと聞きます。事故に遭った子供たちへの鎮魂歌のような気持ちで、子供が好きなチョコレートをフィンさんは練習していたのではないでしょうか。遺産はもともと寄付するつもりだったのですよ」

「それなら筋が通るな」

 レイがアンドロイドの方に向き直る。

「イブさんが起きているときに、とある人の〈ヴァカンス〉に招いても構いませんか?」

「狩人さんが手続きさえしてくれれば問題ありません」

「ありがとうございます」

 ショコラティエは待っていたのだ。

 主ではなく、チョコレートが大好きな、小さなお客様を。


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