夏揚羽
小鳥遊 慧
夏揚羽
あの夏の日。
空の青がいっそ暗く見えるくらいに深かったあの夏の日。
* * * *
その夏、僕は家の近くにある林でほとんどの時を過ごした。
夏休みに入る直前にクラスで昆虫の標本作りが流行った。男子なら誰も彼も、どれだけ多くの昆虫を捕まえられるか、どれだけ美しく完成度の高い標本を作れるか、どれだけ昆虫の名前を知っているかを競い合っていた。僕もその流行につられる様に虫取りを始めたが、どうしても標本を作ることができなかった。殺してしまうのが可哀想だったから。そしてそれ以上に僕は標本のことを昆虫の死骸としか認識できなくて、怖かったから。代わりに僕は、虫を取ってはスケッチをして、その虫を放してやっていた。それで満足だった。しかしそれではどうしても友達と話が合わないので、僕は夏の間中たった一人で、虫取り網とカゴ、鉛筆と色鉛筆を持って、林のなかを走り回っていた。
あの日まで。
* * * *
あの夏の日。
空の青がいっそ暗く見えるくらいに深かったあの夏の日。
僕は蝶を追い掛けて、雑木林のいつもより深いところまで来てしまっていた。光沢のある濃い青い羽を持った小さな蝶。図鑑の記憶を引き出すと、確かミヤマカラスアゲハだったと思う。濃い青から緑にかけての光沢のある線が、黒い羽に引かれている。角度によって色を微妙に変えるのが、凄く綺麗だった。木漏れ日に羽をきらめかせてひらひらと飛んでいく。長々とその蝶だけを見つめて追い掛けてきたので、額からは汗が伝い、喉は乾ききっていた。頼りなく飛ぶ様はすぐに捕まりそうなのに、網を向けるたびにひらり、ひらりとかわされた。
唐突に、雑木林の間から大きく古い洋館が見えた。暗い色の煉瓦の壁には蔦が絡んでおり、陰鬱な印象を受ける。その洋館の庭に、僕が追い掛けていた蝶は吸い込まれるように入っていった。僕も急いで生け垣の下の隙間から這うようにして身体を潜り込ませた。
足が枝に引っかかってしまい身体を抜くのに四苦八苦していると、上のほうから声がかかった。
「これを追いかけて来たのかい?」
一言一言区切る、ゆっくりとした喋り方。
しゃがみこんだまま目を上げると、夏なのに長袖の、堅苦しい服を着込んだ男の人が、僕が追いかけてきた青い蝶を持って立っていた。多分、二十代の後半ぐらい。柔和に微笑んでいるが、彼の手元で逃げようとじたばたとしている蝶の様子がその表情に酷く似合わない。
「ごめんなさい」
いきなり人に見つかってしまって、咄嗟に僕は謝った。
彼は首を振って、気にするなという言葉に代える。
「蝶が、好きなのかい?」
別に虫の中で特別蝶だけが好きということもなかったのだが、僕は頷いておいた。
「じゃあ、いい物を見せてあげるよ。……おいで」
そう言うと、彼はくるりと背を向けて屋敷のほうへと歩き出した。僕が追いかけて来るかどうかなんてまるで興味がないように、振り返りもしない。僕は小走りでそれを追いかけていった。彼は背が高く一歩が大きいので僕は走らないと置いて行かれてしまいそうだった。
屋敷の中は天井が高いために照明が届ききっておらず、薄暗く、少し埃っぽかった。廊下には両側に部屋のドアと、天井近くまで届くような大きな窓が規則正しく並んでいたが、窓が北側に面しているのと、屋敷の周囲の木々が邪魔しているため、日はあまり差し込んでこない。そして、何故か全身にかいた汗がひいてしまうほど肌寒かった。しかし空調はついていないらしい。その証拠に屋敷の中には僕と彼の硬質な靴音以外しなかった。蝉時雨がどこか遠くに聞こえた。まるで、外と内が切り離されたように。
僕は好奇心と、それと同量の置いていかれる恐怖に足を速めた。
彼は一つのドアの前に立ち、こちらを初めて振り返ってにこりと愛想よく笑った。ドアが開け放たれる。部屋の中の窓からさす夏の光に目をすがめた。
「ほら、ここだよ。どうだい?」
そう訊かれても、返事などできなかった。ただ、ポカンと口を広げてその光景に見入ってしまった。
蝶。
窓以外の壁という壁に、何百も所狭しと並べられた蝶。
細い虫ピンで羽を縫いとめられ、この部屋に束縛された蝶。
冷たいガラスのケースに整然と収められた数え切れない蝶。
―――ガラスの棺に収められた、蝶の死骸。
「全部この家に飛んできた蝶なんだよ。ここから向こうの部屋は全部標本室でね。ここは、青系の蝶だね」
部屋をゆっくりと見回しているとあることに気がついた。
「………どうして、同じ種類の蝶が何匹もいるの?」
僕の友達たちは、一回捕まえて標本にした蝶には見向きもしなかったのに、ここには下手したら十数匹も同じ蝶がいる。
「ここに、飛んできてしまったからだよ」
僕は意味が分からずに首を傾げた。
彼は口元に淡く笑みを浮かべたまま僕と視線を合わせるようにしゃがんだ。その目は口ほどには笑わず、ギラギラとした真剣な色を帯びていた。
「蝶は、あちこちの国で死者の魂を運ぶものと考えられたんだ。空中をふわふわと不安定に漂う様子が、不幸な死に方をした魂が彷徨う様子を連想させるだろう? だから、捕まえるんだよ。考えてごらん? 死の使いを捕まえるんだ。死の使いを残らず捕まえていったら、死ぬことはなくなるとは思わないかい?」
僕は今朝から追っていた青い蝶を思い浮かべた。ひらひらと、ふわふわと、頼りなく飛びながら、一路この屋敷に向かって来ていた蝶。話を聞いて、その蝶がまるで彼を迎えに来ていたかのように思えて思わず黙り込んだ。その沈黙を理解できなかったためだと考えたのか、彼は立ち上がった。
「君にはまだ難しかったかな? ここの部屋から奥の部屋は全て標本部屋だから好きに見ていていいよ。私はこれを標本にしてしまってくるよ」
彼はそう右手に持った蝶を掲げ、部屋から出て行った。
彼が出ていってから増した静寂に、耳の奥が痛くなった気がした。
気を取り直してガラスケースに目を落とす。図鑑でしか見たことがなくて、一回実際に見てみたいと思っていた蝶も数多くあった。この部屋を全て見終わると、言われた通り次の部屋に移る。
次の部屋は、黒が主体の蝶だった。そのせいで、さっきと同じ作りの部屋なのに何だか暗い印象を受ける。
「あ、シロオビアゲハだ」
光沢のない黒の地に後ろ羽に白い帯が描かれるシンプルな柄。確か図鑑によると暑い地方の蝶らしくこの辺りでは見かけたことがない。直に見るのが初めてなこの蝶を、目に焼き付けるようじっと見つめる。
と、その時、シロオビアゲハの触角がピクンと微かに動いたように見えた。思わず目を擦って見直す。すると今度は羽が微かに震えた。
思わず息を呑む。
死んでいるはずの、動くはずのない蝶が動いたのだ。
汗ばんだ手で冷たいガラスに手をついた。手形を作るように白くガラスが曇る。ドアのほうを振り返るが彼が近づいて来ている様子はない。
どうしても見てみたかった。その蝶が飛ぶ様を。宙で舞う様を。
息を詰めてガラスのカバーを持ち上げ、シロオビアゲハに手を近づけた。震える指を虫ピンに伸ばす。喉の辺りからドキドキと煩い位の心臓の音が聞こえた。まるでそこに心臓があるようで、これが『心臓が口から飛び出しそうな』という表現かと、頭の片隅で納得した。虫ピンをゆっくりと抜く。羽が欠けてしまわないように、胴が千切れてしまわないように、慎重に、呼吸さえも忘れて。
最後の一本を抜ききり、大きく息をついたとたん、そのシロオビアゲハがひらりと宙に浮いた。ひらひらと宙に舞うその様子に僕も歓喜に笑みを浮かべた。
しかし、それも一瞬のことだった。
まわりの、ガラスというガラスが甲高い音を立てて細かく砕け散った。窓からの光にキラキラと輝きながら床に落ちるガラスの破片の後ろから、黒い塊が飛び出してきた。その光景に思考が止まる。
蝶が。
黒い蝶の大群が壁から飛び立ち、部屋の中で所狭しと舞っていた。
閉じられた部屋の中で何かを探すように彷徨っている。
死んだはずの蝶が、全て蘇り、部屋中を満たす様を、僕は床に座り込んで見つめていた。蝶の羽ばたく音が聞こえてきそうだった。
廊下を走る足音が聞こえ、バンッと、乱暴な音と共にドアが蹴破られるようにして開いた。
「このガキっ。何をした?!」
さっきまでとは打って変わった、穏やかさをかなぐり捨てた様子でドアから蝶を振り払うように駆け寄って、僕の胸倉を掴んで立ち上がらせた。
「何をしでかしたか分かってるのか?」
あまりの剣幕のために怯て閉じかけた目を薄ら開いて彼を見ると、血走った目を大きく見開いている。怒っているのは声で分かるが、そこには怒りよりも恐怖が先にたっていた。
「お前はっ。死の使いを解き放ったのだぞ」
胸倉をつかまれたまま大きく揺さぶられ、背中から床に落とされる。だけど、僕は彼のその言葉も耳に入らないほど、背後で起こる情景に心を奪われていた。
蝶が。
漆黒の蝶が。
彼を追い、求め、纏わりつく。
蝶の黒い姿と相まって、それは。
闇が彼の身体を、存在を、精神を、喰らい尽くすような光景だった。
しかしその一方で、その姿は正しく歓喜であった。
まるで、恋い慕う人を見つけたかのように。
さながら、長い間の希求が叶えられたように。
黒い蝶が彼を覆っていく。背を、胸を、足を………。
覆っていなくても、周囲を舞う蝶で僕からは彼の姿がほとんど見えなかった。ただ、顔の周りで腕を振り回すおかげで、一瞬そこから飛び立つ蝶の隙間から、彼の鬼気迫った表情を見ていた。しかし、その腕も顔も、徐々に張りを失い、やせ細り、干からびて、みるみるうちに老人の肌のようになっていっていた。思わず手で口を押さえつけ悲鳴を飲み込んだ。声をあげると、蝶が僕のことに気づいてこちらに来るのではという恐怖があった。
振り回していた腕も徐々に緩慢になり、蝶に覆われていく。彼の姿が見えなくなってから、何秒も、何分も、あるいは何時間もたつ間、僕はただその光景から目を離せずに震えていた。
どのくらい時間が経ったから分からなくなった頃、ようやく黒い蝶が飛び散り、そこには初めから誰もいなかったかのように、何も存在しなかった。
その蝶たちは視界を遮り、次々と割れた窓を通って、真夏の光の満ちる外へと飛び出していく。逆光を浴びていたその姿は、まるで夢のようだった。
* * * *
僕は、走って、走って、心臓が止まるのではないかというぐらい必死で走って家にたどり着いた。もう、汗なのか涙なのかよく分からない液体が顔をぐちゃぐちゃにしていた。
あの夏の日。
空の青がいっそ暗く見えるくらいに深かったあの夏の日。
僕が見たものを、何年もたった今でも覚えている。
そして、目の前を蝶を横切るたび想うのだ。
彼が語った伝説を。
漆黒の蝶が、あの夏の日のどこか暗く見えるほど青い空に向かって飛び出していく、夢のような光景を。
そして。
蝶は、いつ僕の命を奪いに来るのだろうかということを。
それを想う時、震えるほどの恐怖のそこに潜む甘やかな期待に、僕は暗い青空に堕ちていくような眩暈を覚えるのだった。
了
夏揚羽 小鳥遊 慧 @takanashi-kei
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