異世界に行ってきた。

枕木きのこ

異世界に行ってきた。

 下らない妄言だ、というのが、率直な感想だった。


 喫茶店でお互いを前にしているものの、半時間、視線が合うことは一度も無かった。中学時代から実に十年ぶりに互いの存在を認識した貴重な時間であるにも関わらず、である。


 休日、街中を歩いている最中、広瀬は柔和な笑みを浮かべて声を掛けてきた。彼の姿は十年のときを経ても記憶と大きな齟齬がなく、そのまま、身長だけを縦に引き伸ばしたような容姿で、名前こそすぐには出てこなかったが、知り合いであることはすぐにわかった。適当に話を合わせているうちに彼自身を思い出し、そして時間の都合も良かったのでお茶を飲もうとなった次第である。


 彼が私のほうを見ないのは、気まずいからであろう。

 私が彼のほうを見ないのは、呆れているからだ。


 飲み物を注文するなり、

「実は、こんなことを人に言うのは初めてなんだけど、俺、中学出てから最近まで異世界に行っていたんだ」

 などという言葉を吐き出したわけである。


 単語の意味を繋ぎ合わせるのに一分、それを飲み下すのに実に五分は要った。

 壊れたのか、と思わなかったことは、彼の尊厳には救いだったろう。私もお人好しだなと、あとになって思った。


 昔から突拍子も無いことを言う男であった、というよりは、昔からどこか浮世離れした人間だったという印象がある。幽霊がどうとか、小さいおっさんがどうとかと真摯な言葉で言われたことも、いまや懐かしい。当時からして彼を心底信じたことは一度も無かったが、あるいはもしかしたら、と考える程度には、私も悲観し、辟易としていたわけだ。周囲からどれだけ「ホラ吹き」と蔑まれようと彼は言動を変えることはなかったし、そうならば少なからず彼の主観から見れば嘘ではないのかもしれないと信じてやるのが、友人というものだろう。彼は私の友人だった。それは間違いない。


 しかし、下らない妄言だ。


「異世界だって?」

 久しぶりに声を出して、半時間ぶりの会話を再開させる。


 広瀬は私の顎を見たようだった。顎から声は出ていない。

「うん。やっぱり大木も俺のこと馬鹿だって思うか? 精神がおかしいんだって」

「いや……」すぐに否定した自分の真意がわからなかった。「そうは言わないけれど」


 多分、私も誰かを蔑むような大人になってしまったのだと思いたくなかったのと、美化された過去の友情のためだろう。


 また、視線がどこかに散った。


「俺だってもう二十四だぜ。こんなことわざわざ言わないよ……」

 自分の発言が「こんなこと」と認識される危惧はあったらしい。

「まあ、ちょっと、そうだよな、うん」クルクルとカップを回してからカフェオレに口を付ける。「オーケー、わかった。それで、それがなんだって?」


 こういう場合、下手に刺激するのは良くない。相手の話を聞き、理解してやる……、ふりをするのが大事だ。話したいやつに適当に相槌を打つのが、世の美徳である。


「うん……」だが彼も言うだけあって、二十四の思考で、私の装いなど承知しているらしい。「信じてもらわなくてもいいんだ、ただ、アストロデスティ、あ、向こうの世界で俺がいた国は――」


「なんだって?」吹き出すかと思った。「アストロ……、は?」

 急ごしらえの武装など簡単に吹き飛ぶ。


「やっぱ、この話やめるよ」

 広瀬が席を立とうとするので、

「待て待て、ちゃんと聞くよ。その、アストロなんとかが、向こうにある国の名前なんだな?」とりあえず、煙草だ。「それで、それが、どうした」

「うん……」また、私の顎を見る。アストロなんとかで染み付いた礼儀なのか。「実はそこが、今大戦争の真っ只中なんだ」

「ほう、戦争」ひとまず、繰り返す。「それは大変な事態だな」


「そうなんだ。隣国のミュキュリエに侵略される危機なんだ」

「ミュキュリエ……」口がもにょもにょとする。「ほう」

「それで、俺、実は向こうで勇者だったんだけど――」

「ははーん、勇者ね」

「真面目に聞いてくれよ」


 怒らせてしまったらしく、キッと睨むような視線が私のほうを向いた。射抜かれそうな恐怖心が芽生えるが、ここは平穏な昼下がりの喫茶店、周囲は家族連れにカップル、あるいは競馬新聞を持った中年男。とても乱闘が起こるには相応しくない。大丈夫、大丈夫。


「ちゃんと聞いてる」

「頼むぜ、大事な話なんだ」言われ、私にとっても今日は大事な休日だったのだと思い出す。十五連勤の末ようやくねじ込めた有給休暇だ。もちろん、十年ぶりには適うわけもないが。「ルナー姫が囚われてな」


 だが、ごめん。無理だ。


 笑ったのを誤魔化すためにカップで口元を隠した。幸い、彼の視線はもうこちらには向いていない。

「まずいことになったよ……」

 ともすれば頭を抱えん勢いに、不意に疑問が沸き起こり、私はカップを置いて煙草を一口吸うと、煙に言葉を載せる。


「その大変なときに、勇者であるお前は、どうして帰ってきたんだ?」


 純然たる疑問だった。これ以上に、今彼に投げる最良の言葉は無い。

 広瀬は我に返ったように、緩慢な動作で頭を起こし、私の喉、顎、鼻、そして目の順に、ゆっくりとまた視線を上げる。


「俺は、使命を授かった」

「使命?」彼の声音が、今までと異質のものに思われ、その言葉に笑うことも無かった。「アストロを放り出すくらいの、重大なものなのか?」


 彼は返事をしなかった。

 そしてまたゆっくりと視線を下げていく。自分の中に埋もれていくように、まるで、眠るように、最後には目を閉じた。


 それからまた半時間、会話はなくなった。最初に比べて、酷く沈鬱な沈黙だった。私は間断なく煙草を吹かし、カフェオレを飲み、次第に胃の調子も居心地も悪くなっていくのを感じながら、広瀬の次の言葉を待っていた。


 やがて、客がどんどんと喫茶店を去ってから、

「アストロデスティはもう、終わりだ」広瀬は言った。「ルナー姫が居ない状態では、国内の均衡も保てない。まして、彼女は姫にして最強の戦士でもあった。その戦士さえも囚われ、俺ひとりでは、とてもミュキュリエを打ち壊せない。もう、アストロデスティは、終わりなんだ」

「待てよ。お前、それで逃げてきたってわけじゃないだろうな」


 冷めたカフェオレと同じ温度で、私は自分の言動を恥ずかしくも思っていたが、彼の演劇チックな台詞に、興が乗ってしまったのも事実だった。

「違うよ、違う。言ったろ? 俺は、使命を授かったんだ」

「一体、どんな……」


「ミュキュリエがアストロデスティを滅ぼすと、向こうの世界はミュキュリエの独壇場になる。そうなると、彼らが次に欲するのはどこだと思う? そう、わかるよな――」言うが、全然わからない。「こっちの世界なんだ。この世界が、狙われてるんだ」


「待て待て、どうしてこの世界が?」

「事実俺がそうだったように、この世界と向こうの世界は互いに行き来できるくらい近しいところに位置しているんだ。向こうはこっちとは比べ物にならないくらいの技術がある。簡単にこちらに移って来れるんだ。UFOやタイムマシンと呼ばれるようなものは、全てその乗り物のことなんだよ」

「なんだって? じゃあ、すでに何度かは視察に来ているってことか?」


「そう……、だから、もう時間が無いんだ。俺が授かったのは、せめてこの世界を救うこと。アストロデスティを捨てたわけじゃない。守れなかったからこそ、俺はこの使命を全うしなければならないんだ」

「どうして、その話を?」

「大木なら……、大木なら俺を信じて、仲間になってくれると――」



 寂しげな背中を見送り、私は一人カフェオレを啜った。ホットがゆっくりと冷めていくようには、やっぱり、彼の話を自然のこととして受け取れなかった。仕方ない。私はいい大人になってまで異世界だ悪魔だとファンタジーなことを言う人間が大嫌いだ。十年も時間が経てば、関係も絶たれるのは、至極当然のことであろう。私は偏見や隔たりの一切もなく彼を信じてやれるほど、もう彼を友人として認めていない。


 現実を生きる人間には、現実を生きているという意識が大事だ。小説や漫画の世界に憧れるのは良しとしても、それに染まってはいけない。広瀬、君ももう、大人になるべきなんだ。


 煙草を吹かしていると、

「ねえあれ、UFOじゃない?」


 ――まさかね。

 ぽろりと、灰が落ちる。

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