嗤う田中 / 『嗤う田中』シリーズ
日南田 ウヲ
第1話
「嗤う田中」
介護休業明けで僕は会社の出勤場所が変わった。
以前は大阪の本町にある営業部門に出社していたのだけど、休業明けは本社のある大阪府のⅯ市になった。M市での勤務は経理部配属になり、これからは日々、社員の給与や保険やらそういったもろもろの事が自分の仕事になる。
おかげで僕は地下鉄の通勤ラッシュから解放されたけど、自転車通勤は天気によって出勤の準備が左右される為、雨の日などはレインコートを着るなどスーツが濡れない様、注意が必要になった。
僕の名前は田中浩。三十二歳。両親と同居している。
九月、急に父親が脳梗塞で倒れた。その為、介護で色々な準備が必要になり会社に介護休業を申請して二か月ほど休んだ。
その間ずっと自宅でひきこもるように休んだ。
おかげで十二月の下旬から出社を再開したため、自分の中での季節感が急に秋から冬に変わってしまい、自分の心の中で季節が一気に飛んだ気がする。
だから朝の自転車のハンドルを握る手が冷たいことに戸惑いを覚える日々ではある。
最初は自転車での通勤時間の配分に戸惑いがあったが、今では会社までの時間配分も十分にできるようになった。自然、自転車通勤でも地下鉄通勤と同じように早朝の同時間を行き交う顔なじみもできた。
自宅から会社までは約二十分、途中駅の高架を潜り、公園前のロータリーを抜けて、小学校前のスクランブル型交差点を抜けて小学校前の学生の見守りと交通整理している地元の御高齢の方の横断歩道を過ぎ、コンビニでちょっとコーヒーブレーク。
大体ここまで十分で、あとは大きな幹線道路を横切れば会社まで住宅街を抜けて到着する。それで合わせて会社まで二十分弱。
冬の自転車出勤としてはこれ以上の移動は身体や指先足先が冷えるので自分としてはぎりぎりちょうどいい感覚である。
さて、ここで面白い話をしたい。
いや、面白い話と言うと聞いた後、もしかしたら僕の精神を疑う人が居るかもしれないが、自身はいたってまともである。
先程述べた様に通勤をしていると自然と顔なじみができる。
僕の場合、駅高架を潜る時はメガネの学生、ロータリーを会わる時は早朝ジョギングの老婦人。スクランブル型交差点では子供を乗せた小太りの主婦。
まぁそうした出会いというのはそれぞれの人が規則正しく生きているという証明であり、いかに人間が日々規則正しく早朝の慌ただしい時間を過ごしているかという事実である。
それでいまから話す面白い話しと言うのは、そうした規則正しさの為に不幸に落ちた人物の事である。
新しい配属先へ出勤は、まぁ最初は知らない通勤路だったこともあったから色んなアクシデントを予想したり考えたりしてい為、出勤時間を少しそうしたことを考えて幅を取っていたが、そのうち回数をこなしていくうちに最短の時間と経路で通勤できるようになった。
そうすると出会う人が「この人ならこの時間でこの場所」となって行くのだが、今から話す人物はスクランブル型交差点と次のコンビニまでで必ず会う午前八時ちょうどの男の人物だった。
名前はもちろん知らない。ただ必ずスクランブル型交差点に僕が停車して信号が青になるのを待っていると後ろからピタリと止まる。
青になるとまずは僕がゆっくり先に自転車をこぎ出し、それからゆっくり十を数えると彼が追い越してゆこうとする。
暫くは並走するがそれも決まって並走してから一気に僕を追い抜くのは交通安全と通勤する小学生の見守りの為に横断歩道に出てきている地元の御高齢の方の前なのである。
僕は追い抜いた彼を見る度、彼のスポーツタイプの自転車のサドルバックに光る赤い点滅等とその灯りに規則正しくペダルをこぐ彼の足さばきに見惚れる。
その姿を見て相当の正確で几帳面な性格だと思うのは僕の勝手かもしれないが、やがて彼の姿はスピードを上げて彼方に消えてゆく。
僕はそんな彼を見終えるようにコンビニに自転車を停めると、いつもコーヒーを飲んだ。
話してしてこれで終わるのであれば、何もわざわざ話すまでもないのだが、実は僕はそんな彼にいたずらを仕組んでみようと思った。あれほど正確に同じタイミングで僕を追い抜いてゆく彼に・・いたずらを仕掛けたらどうなるだろうか?
いたずらはいたって簡単だ。
彼がスクランブル型交差点で僕の後ろに停まったら、その後彼は僕を追い抜いてゆく。
――それを唯邪魔してみる。
それだけなのだ。あれほど規則正しい彼の動きを混乱させたらどんな結末が待っているだろう。
そう思おうとわくわくした。
残念ながらその機会は直ぐに来なかった。
雨が三日振り続け、僕は時間通りに通勤できなかった。しかし、四日目の金曜日、遂にその日が来た。
僕はいつも通り駅の高架を抜け、メガネの学生とすれ違い、ロータリーでジョギング中の老婦人とすれ違い、やがてスクランブル型交差点に停まった。
(果たして彼は来るだろうか?)
僕は後ろを見ずに耳だけを集中する。指先が冷えて行く。
キュ
自転車の停車するブレーキの音。
僕は小躍りした。
(彼だ……、後ろに居る!!)
僕は手袋で指を叩く。冷えた指先を瞬間的に温める。
ちらりと信号を見る。
対抗する車用の信号が点滅して赤になった。
(さぁ…、そろそろだ)
信号が青になった。
僕はペダルを踏みこむ。
後ろを見ない。しかし後ろでカチリと音がした。恐らく自転車のギアを一段上げたのだ。その目的は僕を抜くために。
(そうはいかない!!)
僕は漕ぐ足に力を籠める。僕の自転車が加速する。
……!!
後ろの彼の動揺が聞こえそうだ。
僕は正面を見据える。少し先にいつも彼に抜かれるポイント、小学生の渡る横断歩道で黄色い旗を持って安全と見守りをしている老齢の方が見える。
(そこまで抜かせてやるものか)
僕は心のギアを上げた。力強い踏み込みで自転車が走る。
カチッ!!
(ギアを上げたな!!)
僕は歯を噛む。
(抜かせると思うなよ!!)
ぐんぐんと加速してゆく僕の自転車。
(やらせると思っていたら大間違いだ!!ヒャッ!!)
心の中で奇声を上げた。
いつも並走している箇所を過ぎてゆく。僕は独走している。
ヒヤッ!!
ヒヤッ!!
奇声を上げながら、スピードを上げてゆく。
背後からまたカチリと音が鳴る。
それが聞こえると、けけけと僕は声を出して笑い出した。もう相手が完全に焦って心の均衡を失い、またギアを上げたのだと分かったからだ。
(どうだ、どうだ)
自転車が加速する!!
しかし、後ろで巻き上がる風が迫って来た。恐ろしいほどの怒気を感じる!!
(ヒャッハー!!いかせるか!!行かせるなんておもうなよ!!バッキャ郎―!!)
もう目の前に横断歩道がせまってきた。ここまで来たら・・
――勝ちだ!!
僕はそれで横を見た。
その時、彼が僕を見た。それは眼が吊り上がり充血していて、異常さを浮かべて睨みつけていた!!何という恐ろしい顔何だ。それがお前の本当の本性のなのだ!!
「あばよっ!!」
彼は僕にそう言ったと思うし、僕にははそう聞こえたかもしれない。
その瞬間、僕は自転車のブレーキをめい一杯掛けた。
彼はブレーキを掛けなかった。
きっと僕を追い越すことだけに集中したのだろうな。
彼は僕が赤信号で止った横断歩道の向こうから現れたトラックを見落として、正面から激突した。
トラックは彼を塀まで跳ね飛ばすと、大きなブレーキ音を立てて、ガードレールにフロントをぶつけて止まった。
辺りにはその光景を見た小学生やら朝の通勤者が沢山悲鳴を上げて、驚愕している。
彼は堀の側でうずくまったまま、ピクリとも動かなかった。横断歩道の老齢の方が彼の方に走り寄る。
僕は信号が青になると自転車をこぎ出した。僕はただ、普通に自転車を加速して信号に合わせて掛けた。すこしめい一杯掛けたけど、それは僕が自分の不注意の範囲で見落とした結果に誰からも見えた筈だ。誰も僕が彼とここまでレースをしているなんて思わない。そうした心の動きは彼と僕の内心的心象にしか過ぎない。
自然な早朝の通勤以外に何もない筈さ。
僕はそこから何事もなくコンビニまで行くとコーヒーを飲んだ。飲みながら誰かが呼んだ彼を乗せた救急車が目の前を過ぎてゆく。そのサイレンは正確に鳴り響いてゆき、やがて僕の鼓膜から消えた。
翌日、僕は同じ道を通って横断歩道まで来た。トラックがぶつかったガードレールはへこみ、その場所に小さな花が飾られていた。
ということは、彼は死んだのか
青信号になり、僕は自転車で進んで行く。コンビニが見えたが今日は停まるのをやめた。
そのまま進んで行く。
人間とは不思議だと思う。
規則正しく生きると言うことは確かに規律正しく、それは美しくもあるが、少しはゆとりが必要なのではないだろうか?
彼は規則正しく行動することに執着しすぎた、だからああした結果を生んだのだと思う。
人間とは不思議だ。
そうした規則正しく生きることを、自ら正しさだと呑み込み、それが死を招くこともあることを知っていて尚、それを止めないのだから。
僕はそう思うと
無性に人間を嗤いたくなった。
なんとも愉快でたまらないよね。
そう、これはそんな
面白い話。
えっ?面白くないだって。
そっかぁ
じゃぁ悪いけど
忘れてくれるかな?
だってさ、
これは
或る人殺しの話だから。
嗤う田中 / 『嗤う田中』シリーズ 日南田 ウヲ @hinatauwo
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