第61話 影法師

夏が終わる。




季節が巡る。




夏じゃない、秋が来る。








「ふ、ぅ…」




それはとある日曜日のこと。


私こと佐々木夏葉は、遠ざかっていくバスの背中を見送りながら、小さく息を漏らしているところでした。




「暑いなぁ…」




もう9月も半ばを過ぎたというのに、まだ残暑の名残をみせて爛々と輝く太陽の光を浴びながら、思わず目を細めます。


元々体力がない私にとって、この暑さはまるで一種の拷問のよう。


彼女によってつけれられた傷や折られた骨がようやく癒えたりくっついたりで、最近ようやくギプスを外すことができたばかりとあっては尚更です。


少し運動をして体力をつけたほうがいいのかも…なんてことも考えましたが、それはまたの機会に考えることにしましょう。




「さて、と…」




ひとつ大きく伸びをして、くるりと反転。


すると、白塗りの大きな建物が目に飛び込んできます。


バス停から徒歩3分もしないその建物が、ズバリ私の目的地。


風情がないなぁなんて思わなくもないのですが、利用する方にとっては距離が近いほうがいいのもまた確か。


数人のお年寄りの方達が連れたって入っていくのも見えますしね。




私もここ最近はお世話になりましたし、あまり歩かずに済んだことで恩恵を受けた一人です。


文句を言うつもりなんてありません。




「……きっとこれからも、ずっとお世話になりますしね」




思わず口から出てしまった小さな本音は、誰の耳にも入ることなく私自身の影へと吸い込まれていきます。




「……行きましょう。いつまでもここにいても、仕方ないですよ」




それは誰に言い聞かせるためのものだったのか、自分でもわかりませんでした。


まるで逃げるかのように一歩、また一歩と、足を踏み出します。


太陽の光を背に浴びて、濃さを増す影法師。


まるで私の心の写鏡のようで、まだ昼下がりだというのにとても黒く、うす暗い。


私は俯き、向き合いながら、それでも歩みを止めることなく、目的の建物――私たちの住む街の中でも最も大きな、市立総合病院の中へと、足を踏み入れていくのでした。














コツコツと、廊下に僅かな足音が響きます。


耳を澄ませているつもりもなかったのですが、建物の中は思ったよりも静かです。


一階のロビーは結構な賑わいを見せていて、それなりの時間を待たされていたりはしたのですが、許可を取り、エレベーターで階層を上がってみると、一気に人気がなくなりました。




すれ違う人もほぼおらず、たまに廊下の向こうで忙しそうに歩く、何人かの看護師さんを見かけるくらい。


あとは部屋を横切ると、たまにテレビの音声が聞こえてくるくらいです。




本当に静かで、空調も完璧。


背中を伝っていた汗もすっかり引いて、見かけだけなら問題ないと言い切ることができるでしょう。




「いいことでは、あるんでしょうね」




この場所は、本来なら賑わっていないほうがいい。


勝手ながらそう思ってしまいます。


……いいえ、違いますね。これは私の本音じゃない。


だって、本当に私が安らぎを覚えて欲しいのは、たったひとりの男の子だけなのですから。




「湊くん…」




それは、私にとって誰より大切な人の名前。


彼の名前を、思わず呟いてしまうけれど。




「みなと、くん…」




どうしてでしょう。


こんなにも、胸が苦しくなってしまうのは。




「っ……」




どうして、足を止めたくなるのでしょう。




どうして。どうして。どうして。




―――その答えは、とっくにわかっているのに。




「…………」




唇を噛み締め、胸の痛みに耐えながら、それでも足を踏み出して。


そしてやがてたどり着く、本当の目的地。






――105号室。水瀬湊






彼の名前が刻まれたプレートに目を配り、間違いがないことを確認すると、私は部屋を小さくノックしました。






コンコン






数回ドアを叩いてから、そっとドアノブへと手を添えます。


返事がないようなら、そのままドアを開け、中へと踏み入るつもりでした。


だけど―――




「どうぞ。入っていいよ」




その声は、確かに彼の部屋の中から聞こえました。




「やっぱり…」




今日も、来てたんだ。


返事が返ってこないことを期待していた私と、彼女にまたも先を越された悔しさが入り混じりながら、私はドアをゆっくりと開けていきます。




「やっほ。今日も来たんだ」




それと同時にかけられる声。


計ったようなタイミングの良さ。意識せざるを得ないのは確かでしたが、そうなるとある人物の姿と、僅かに揺れる金の髪が、嫌でも目に飛び込んできてしまいます。




「……それはこっちのセリフです。随分とお早い到着ですね。渚さん」




「アハハ」




精一杯の嫌味と皮肉を込めたつもりでしたが、彼女―月野渚は僅かに笑うばかりで、まるで気にしたふうでもありません。


椅子に座りながら、私に視線を寄せてきます。




―――それがなんだか、とても悔しい。






「うん、心配だからね。湊のことが」




彼女は微笑みながら、その白い指を、白いベッドへと――布団の上から投げ出された彼の指へと絡みつけていました。






まるで、私に見せつけるかのように。






―――ズキンと、胸の奥が軋む音が、確かに聞こえた気がしました。

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いつも一緒だったのに。 くろねこどらごん @dragon1250

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