第60話 終着
「警察、呼んでたんだね」
サイレンの音を耳にしながら、綾乃が小さく呟く。
動揺してる様子は見られない。ただ事実を確認しているだけのように感じて、それが逆に恐怖を掻き立てられる。
「夏葉からの連絡がなかったからね。保険のつもりでしたんだけど…動揺、しないんだ」
「これでもしてはいるよ。警察のお世話になったことなんてないし。だけど、今更でしょ。どのみち、引き返すつもりなんてもうないから」
綾乃はそう言うと、僕に視線を向けてくる。
それはゾクリとするほど怜悧な瞳だ。その奥にある暗い炎を、僕は一瞬垣間見た。
「綾乃、もうやめてよ…今なら、きっとまだ…」
それでもと、恐怖と戦いながら僕はなんとか声を振り絞る。
渚の言うとおり、もう綾乃は詰んでいるのだ。ただの高校生が警察から逃げることなんてできないだろう。
ましてや殺人犯のうえに、僕だって刺されてる。法律には詳しくないけど、もう高校に通うことなんて不可能なことは火を見るより明らかだ。
どうあがいても綾乃には破滅が待っているに違いなかった。
「ねぇ、みーくん。私のこと、好き?」
そのことに、彼女が気づいているかはわからない。
だけど、真っ直ぐにこちらを見つめながら、綾乃はそんなことを聞いてくる。
パトカーの音は確実に近づいていて五月蝿いほどなのに、その問いは何故か耳にハッキリと届いた。
「な、にを…」
「答えて」
困惑するも、綾乃は逃げ道を塞ぐかのように詰めてくる。
この状況で好きかどうかだなんて聞かれて、まともに答えられる人間がいったいどれだけいるんだろう。
背中から血を流している幼馴染に対し、場違いにもほどがある質問だ。
しかもそれを実行した本人が聞いてくるのだから、笑うことすら出来やしない。
僕が映画の登場人物であったなら、そんなこと知るかくそったれと、唾を吐き捨てる場面だろう。
実際、それが正しいのだと思う。
「僕は……綾乃のことが……」
夏葉さんを殺した恨みはある。渚を傷つけたことだって許せない。僕だって綾乃に刺された。
憎む理由、嫌いになる理由なんて今日だけでどれくらいできただろう。
きっと、一生許すことなんて出来ないと思う。だけど、綾乃とこれまで一緒に過ごしてきた時間は、確かに本物だったのだ。それをなくすことも、また出来ない。
「好き、だよ」
憎悪と記憶。両方を秤にかけて、結局過去が勝ったという、それだけの話。
恋人が死んだっていうのに、本当に僕ってやつは、どうしようもない男だった。
「それって、女の子として?」
楽しい時も、辛い時も、どんな時だって、この子はずっと僕の傍にいてくれた。
だというのに、僕は身勝手な劣等感を拗らせたのだ。
そこから生じた罪悪感が、綾乃を突き放すことをさせてくれなかった。
そうして中途半端幼馴染の距離だけが残って、気付けば僕らはここにいる。
僕がしっかりした人間なら、こんなことにはならなかったはずなのに。
「……幼馴染として、だ。僕は君のことを、ひとりの女の子として見たことなんてなかった」
喋るたびに、背中がズキズキと痛む。焼けるような熱さだ。
だけど喉の奥、心の底から湧き出す思いの丈を止めるわけにはいかない。
「それどころか、僕は綾乃のことが苦手だった…昔から世話好きで、色々できて、しっかりしていて…敵わないって、ずっと思ってた。僕は君のことが、羨ましくて、眩しく思ってたんだ…」
もう遅いのはわかってる。だけど、ここで言わなければ、きっと綾乃だって救われないだろう。
「君たちへの劣等感を抱えてそれでも離れることができなかった…だから夏葉さんに告白されて、僕はそれに飛びついたんだ。僕が誰かと付き合えば、ふたりとも距離を取れるはずだって、そう思って…なのに…」
全て僕の弱さが招いたことだった。こうなったのは、全部が全部僕のせいだ。
僕が全部悪いんだ。
「ゴメン綾乃。僕は自分の本心を知られるのが怖かった。君のことを大切な幼馴染のままにしておきたかったんだ…もっと早くにこのことを言えていれば、きっと…!」
「もういいよみーくん。わかったから」
懺悔の言葉は、途中で遮られた。
綾乃はふぅと小さく息を吐くと、僕から視線を外して宙を仰ぐ。
「そっか、私のこと苦手だったんだ。だから…うん、全部納得したよ。なるほどね…やっぱり、勝ち目も可能性も私には最初からなかったかぁ。叶わない恋しちゃってたんだね、私」
僕の後悔に満ちた本音、その全てを受け止めた綾乃。
好きだった相手の矮小さを知ったはずなのに、その顔はどこか悔しそうで、だけど同時に、何故か嬉しそうだった。
「なんで…」
「すみません、こちら水瀬さんのお宅ですよね?通報を受けて駆けつけたのですが…」
どうしてそんな顔をするのかわからず困惑するも、外から聞こえてきた声に強制的に我に返る。いつの間にか、パトカーの音は聞こえなくなっていた。
「警察のご到着っと。これでいよいよチェックメイトってやつだね」
「……そうだね。してやられた感じ。全部が全部、渚ちゃんの計算通りってことか。あーあ、結局最後まで渚ちゃんには勝てなかったかぁ」
その呟きには悔しさが滲んでいた。
綾乃は間違いなくこれで終わりで、僕らの関係ももう戻ることはない。
ここがきっと、僕らの終着点なんだろう。
「綾乃…」
だけど、何故だろう。
悪い予感が止まらない。背筋は痛みで熱いくらいなのに、冷たい感触が一筋流れる。
「だけど、言ったよね?もう止まるつもりなんてないって。私は私のやり方で、絶対に渚ちゃんに勝つって決めたの」
そう言って、綾乃は腰を低く構える。
それはまだやるという意思表示。なにより、綾乃はまだ包丁から手を放していない―――!
「やめろ、綾乃―――!」
僕が叫ぶより早く、綾乃は動き出そうとして、そして―――止まった。
「っつ!佐々木、さん…まだ…」
背後から伸ばされた手に、足を掴まれて。
「夏葉…!」
「……ゴホッ!勝手に、人が死んだ、体で…話進めないで、もらえませんか…!」
いつの間にか近づいていた夏葉さんが、綾乃の動きを止めてくれたのだ。
体を這わせながら、明らかに息も絶えだえといった様子なのに、それでも彼女の凶行を食い止めてくれた。
「…………生きてたんだ、夏葉」
小さく渚が呟く声が耳に届くも、そこにある感情を読み取る前に、夏葉が生きていてくれたことに驚きと同時に、安堵の気持ちが胸いっぱいに広がった。
「よくも、やってくれましたね…ガハッ、このお礼は高くつきますから…おとなしくしてください…!」
「最後まで、邪魔を…!皆、皆なんで私の邪魔ばかり…!私はただ…!」
夏葉の手を振りほどこうと、文字通り足掻く綾乃。
先ほどまでの苛烈さは既になく、その姿はどこか滑稽で、いっそ哀れにすら思えた。
「いっつ…この、暴れ…」
「みーくんと、幸せに…!」
だからだろうか。気が緩んでしまっていたのかもしれない。
例えそうでなかったとしても、なにも出来なかっただろうことにはきっと変わりなかっただろう。
「あっ……」
もがく綾乃が夏葉さんの手から逃れ、自由になったことも。
予期せぬ事態にたたらを踏み、前へとつんのめってしまったことも。
そしてそのまま倒れて、手に持っていた刃が彼女自身の胸へと吸い込まれていくことも。
全てが一瞬のスローモーションのようで、僕には本当に、ただ見ていることしか出来なかった。
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