第三幕、そして

 新たなループ、第三幕が始まった。



 魔女たちが言い残した言葉、

「悲劇には朝日を」

「喜劇には夕日を」

 の意味がつかめないままに芝居はまた進んでいく。

 だから俺は原作脚本をそのままたどって様子を見ることにした。



 脚本から外れたことはせずにハムレットをそのまま演じる。



 父の亡霊に会い、叔父への復讐を誓い、劇中劇で叔父の内面を暴く。

 心を鬼にしてオフィーリアを冷たくあしらい、母を責め、亡霊から母には手を出すなと言われ、隠れていたポローニアスを刺し殺してしまう。



 こうしてたどっていく中、俺は前回のループで気付いたことからの疑いが大きくなっていった。



 父の亡霊は俺の幸せなど考えてはいない。

 気にしているのは母の安全と叔父への復讐だけ。

 もともと父はハムレットを遠方の神学校に留学させていた

 。神学校を卒業すれば普通は僧侶になる。

 つまり王子として国を継ぐことはないのだ。

 父と母が正式な結婚をする前に生まれたハムレットは、この時代だと正式な嫡男とは認められないからだ。



 父はハムレットを王子と認めず愛してもいなかったのでは。

 そんな疑いを懸命に振り払う。

 父は正しい行いの人だから、権力を使って無理やりに婚外子のハムレットを嫡男とする訳にはいかなかったのだ。

 仕方ない。

 父が非業の死を遂げたら息子が生命をかけて復讐するのは血の義務なのだ。

 父がそれを望むのは当然。



 そう悩んでいる間にも芝居は進む。

 ハムレットはイングランド送りになり、しかし海賊船によって戻ってくる。



 オフィーリアは、彼女は、小川に落ちて死んでいる……



 父ポローニアスと妹オフィーリアの死に怒ったレイアーティーズはフランスから戻り、王の企みに乗る。



 叔父はハムレットとレイアーティーズの剣闘試合を開催することにして、レイアーティーズの剣には毒を塗り、念のため毒入りワインも用意する。



 叔父は誤って母に毒入りワインを飲ませてしまった。



 レイアーティーズとハムレットは毒の剣で傷つけあってしまった。



 ハムレットは、俺は死んでいく……



 薄れる意識の中で俺は考える。



 なにも救いがない。

 叔父が父を殺した事実は明らかにならず、正義はなく、悪人も善人もただ死体となって転がるばかり。

 残酷無残な物語。



 これが悲劇ということか。

 いや、そうだったろうか。

 原作ではここでフォーティンブラスが現れる。

 勇猛にして知的な彼をハムレットは後継者に選び、フォーティンブラスは新たな王となる。

 呪いは終わり、哀しみの涙はぬぐわれ、輝かしいデンマークの明日が始まる。



 デンマークに朝日が昇る。



「朝日……!」

 俺はそう言い残してこと切れた。


 またしても霧の中にいる。

 三人の魔女たちがいつものように唱和している。



「終わりが終わらない」

「終わらなければ終わらない」

 俺はなぜ終わりが終わらないのかを理解した。



 ハムレットの物語は悲劇。

 悲劇はただ死んで悲しく終わればいいのか?

 いや、それでは救われない。

 新たな朝日が昇る未来につなぐことで悲しみが希望に昇華されて終わるのだ。



 シェイクスピアの悲劇はそうなっている。



 ロミオとジュリエットでは、二人の死が二家の和平を生んで終わる。



 悪の誘惑に屈したマクベスが死ぬと、偉大な王が後を継いで新時代が始まる。



 老いたリア王が死に、若者たちが次の時代を担う。



 騙されたオセローは自殺するが、正しい裁きが始まる。



 悲しみの終わりを語ることで悲劇はカタルシスを得て終幕するのだ。



 ハムレットでは新たな王フォーティンブラスがその役を担う。

 そのフォーティンブラスがこのループ世界には存在しない。

 なぜってこの俺が脚本から省略してしまったから。



 フォーティンブラスの代わりをやれる役はいないのか?

 最後まで生き残っているのは忠実な親友のホレイショー、彼ではさすがに無理か。とても王の器ではないし、頼んでも本人は決して引き受けないだろう。



 そうこう考えているうちにまた新たなループの幕が上がった。




 第四幕が始まった。

 このループから出る方法に行き詰まり、俺は途方に暮れながら序盤の亡霊シーンを済ませた。



 この亡霊がハムレットを愛していないことはもう確信しているが、ハムレットの中にはどうにも深く父を敬愛する気持ちがあって、復讐の思いは収まらない。



 俺は救いを求めて、手紙が返却されるのを待たず、すぐオフィーリアの部屋に向かった。



「ハムレット様!」

 深夜、突然訪れた俺にオフィーリアは驚いたようだった。でもその声には喜びの響きがある。

 もう寝る時間なので、いつもの召使たちも退去している。この部屋には彼女と二人だけ。



 俺は彼女を抱きしめる。

「こういうことは結婚するまで許されませんのよ。礼儀正しく殿下お得意な詩で求婚を願ったりしていただけないのかしら」

 言葉とは裏腹に彼女の腕が俺の背中に回る。



「オフィーリア、聞いてくれ。この世界は芝居なんだ」

「ロマンティックな恋のお芝居ね」

「いや、そういう話じゃないんだ。この世界には脚本があって、そのとおりに進むと皆が死んでしまう。死んだらまた脚本を頭からやり直しだ。何度やっても皆が死んでしまう。君が、君も死んでしまうんだ……」



 オフィーリアは俺を見上げた。

 知的な瞳だ。

 劇中ではただ流されているように見える彼女だが、ハムレットの選ぶ女が馬鹿な訳はない。

 知的なのに自由を許されないゆえに彼女は苦しむ。



 オフィーリアは俺から離れて、

「長いお話になりそうですのね。飲み物をご用意します」

 俺を奥のソファに座るよう促す。



 彼女はグラスを二つ持ってきた。

 ひとつにはワイン、もうひとつには水。

 ワインを俺に渡してから彼女もソファに座り、話の続きをせがんできた。



「この芝居は悲劇なんだ。だから皆が最後に死ぬ。でも死んだ後に訪れるはずの救いが脚本から抜けていて、芝居が終わらない。また始めに戻って、また皆が死ぬ。どうしたらこの悲劇をなんとかできるのか俺にはもう分からなくなってしまった」



 彼女は興味深そうに聞いている。

 もともとハムレットの長々とした手紙を喜ぶ彼女だ。

 ハムレットの奇抜な話が大好きなのだろう。



 俺はハムレットの脚本を一から説明する。

 聞きながら彼女の表情はくるくると変わった。

「ハムレット様、主人公のあなたは本当にとてもひどいですわ!」

 俺は彼女からにらみつけられる。

 でもすぐに彼女は微笑んで、

「私を愛してくださっていたからのひどいお言葉、お許しします」



 俺の頬を涙がつたった。

 俺が何度オフィーリアを死に追いやったことか。

 芝居の世界だから仕方ないんだとはどうしても思えなかった。

 彼女が死ぬたびに俺の心は引き裂かれてきた。

 もう粉々になっている。



「俺の手、この手は君の血に塗れている。何度洗っても血で染まったままなんだ。どうしても取れないんだ」

 震える俺の手を彼女が両手で握りしめる。暖かい。

「私で染まったハムレット様、素敵ですわ。あなたは私のもの」

 俺は彼女を抱きしめ、その唇に口をつけた。

 互いに互いを固く抱きしめる。



 しばらく時が過ぎ、離れてから彼女は言った。



「ハムレット様はいつも悲劇ばかりご覧になってます。でも私は喜劇が好きなの。困ったことばかり起きて大騒ぎ、でも妖精や男装の麗人が現れて、不思議な奇跡を起こしてどれも解決、めでたしめでたし」

 俺は目を見開いた。

「それだ」

「ええ、楽しい宴でおしまいなのが好き」

「この世界の芝居を喜劇にすればいいんだ、そうか、喜劇には夕日を、なるほどな」

「ハムレット様?」

 俺はまたオフィーリアを強く抱きしめる。

「ありがとうオフィーリア、君は最高だ! この芝居を喜劇にすればよかったんだ」



 オフィーリアは少し深刻そうな声で、

「そのためにはひとつ、最初にやっておくことがありますわ。私に任せてしばらく大人しくなさってハムレット様。私、喜劇の役には詳しいのよ」

 そう言い、いたずらっぽい表情でウィンクする。



「君が頼りだ、任せるよ」

 俺は信じて答えた。

「ハムレット様は喜劇をお調べになって」



 オフィーリアが何を企んでいるのかわからないままに俺は日常を過ごした。

 その間にもシェイクスピアの喜劇にはどんなものがあったか俺は懸命に思い返していた。



 夏の夜の夢、恋人たちが周りのたくらみで大混乱するも、妖精パックのいたずらで最後には恋が実ってめでたく終わる。

 もしパックがいなければ悲劇になるところだった。



 十二夜、不幸な事故や実らない恋、そこに現れた男装の女性が意外な出来事を引き起こしていって最後には大団円。

 彼女が男装していなかったら死で終わっていたかもしれない。



 ベニスの商人、これも分類としては喜劇だ。

 笑える話ではないが、悲劇以外は全部喜劇というルールらしい。この話では男装の女性が裁判官となって、意外な判決で愛する男を救う。

 これも彼女がいなければ男は惨たらしく死んでいただろう。



 こうやって並べていくと、これら喜劇にはとても重要な役がいるのだと分かる。

 常識を外れた、表裏をひっくり返したような存在。

 正しい悲劇をおかしな喜劇に変えてしまうトリックスターだ。

 そしてハムレットにはそんなキャラはいない。

 おかしなポローニアスやローゼンクランツにギルデンスターンたちは、うっかりトリックスターにならないよう劇中で始末されてしまう。



 フォーティンブラスが締めくくる悲劇の代わりに、トリックスターがひっくり返す喜劇を目指そう。

 問題は誰がトリックスターにふさわしいかなのだが。



 王城に旅芝居の一座がやってきた。

 おとなしく芝居を待っていてとオフィーリアから言われ、芝居の稽古を見ることもせずに俺は待った。



 ようやく芝居が始まるから見に来るようにとの連絡をもらって会場の広間に来たのだが、オフィーリアの姿はない。

 どういうことなのだろうか。



 そして芝居が始まった。

 若く美しい顔立ちの神父が現れる。

 主役のようだ。

 しげしげと眺めた俺は吹き出しそうになった。

 オフィーリアではないか。

 なぜか彼女が男装で出演している。

 この時代、女性は舞台に上がらないものなのに。



 ポローニアスはどうやら気が付いていないようで黙って熱心に観劇している。

 俺も演技に注目する。



 神父には貴族の父がいて、まだ若い神父は父をずいぶんと尊敬し、憧れているようだ。

 だがその父は息子に冷たい。

 父は母の愛が息子に向かうのを嫌がり、遠くに追いやってしまった。



 父には弟がいる。つまり神父の叔父だ。

 叔父は母と仲が良く、息子を連れ戻したいという母の願いをかなえてやろうと運動するのだが、父は相手にもせず叔父を侮辱した。

 叔父は怒り、母は悲しんだ。



 そして父がひとり休んでいるところに毒を持った叔父が現れる。



 俺はもう続きを見れなかった。

 ありもしない火が上がったかのように椅子から飛び上がり、広間から逃げ出す。



 ひたすら走って礼拝の間に逃げ込み、台にひざまづいた。

 祈る。



 あの芝居が見せたように、父は息子ハムレットを愛してなどいなかった。

 むしろ母の愛を盗む邪魔者だった。

 だから婚外子として世継ぎの位を与えず、遠くの神学校に放り出した。

 なのにハムレットは父になんとか愛してもらおうとまるで逆らわずに尽くしてきたのだ。



 叔父に父を殺すきっかけを与えたのは母のハムレットを連れ戻したい思いであり、その思いが生まれたのはハムレットが父からの愛を望んでいるのだと母は知っていたからだった。



 つまり、つまり、原因はハムレット自身。

 ハムレットが父への思いを断ち切れなかったために父は死に、父は怒れる亡霊となってハムレットを破滅させようとしている。



 どうしてハムレットとその仲間にしか亡霊が見えない?

 どこに行ってもたちどころに亡霊がついてくる?

 亡霊はハムレットへの呪いだからだ。

 亡霊はハムレットの中にいる。

 俺こそが悪だ。



「違いますハムレット様、そのお気持ちこそが呪いによるものです」

 上から声。

 見上げるとそこには若く美しい神父がいた。



「オフィーリア」

「いいえ、神父フィリウスとお呼びください」

「フィリウス……?」

「悪いのはハムレット様の父です。あの人がハムレット様の大事な人生を台無しにしてきて、死んでもまだ止めてくれません。ハムレット様、この神父と共に立ち向かいましょう。呪いを追い出すのです」

 フィリウスが手を差し出し、俺はその手を握る。

 手を引かれて立ち上がる。



 フィリウスの目は明るく輝き、俺に勇気を注ぎ込む。

「俺は父に支配されていたのか」

「今もです」

「ありがとうオフィーリア、いやフィリウス。君の芝居で目が覚めたよ。俺たちで喜劇を演じてみせよう。呪いなんかには負けない」

「あなたのトリックスターにお任せください!」



 俺とフィリウスは作戦を存分に練った。



 俺が知る喜劇の筋をフィリウスに教え、フィリウスが工夫を練る。

 ちなみにフィリウスの服装は旅芝居の一座から買い取ったものだった。



 ふと俺は思い出す。

 もとの世界でハムレット上演の準備をしていたとき、過去の上演で使われた衣装を使いまわすことにした。

 ロミオとジュリエットに出てくる神父姿や夏の夜の夢に出てくる妖精姿の衣装を旅芝居の一座に着せておいたのだった。

 意外なところで役に立つものだ。

 もしかすると妖精の衣装も使えそうか。



 作戦を少しアレンジし、いよいよ決行の時が来た。


 大廊下、オフィーリアがひとり佇んでいるところに俺が通りかかった。

 オフィーリアがそこにいたのはポローニアスからハムレットの様子を見るよう指示されたからという建前。

 本当はポローニアスがそうするように彼女が仕向けている。

 カーテンの陰にポローニアスが隠れてこちらの様子をうかがっているのはお約束だ。



「オフィーリア、お別れを言いに来た」

「突然なにをおっしゃるのハムレット様!」

 俺たちは芝居を始める。



「前々からあるイングランド行きの話、国のために俺が引き受けようと思う。しばらくは戻れないだろう、達者で過ごすのだな」

「そんな、ハムレット様」

 オフィーリアは流れる涙をドレスの裾で拭う。



 そこに楽し気な曲をハミングしながら妙な服装の男がやってきた。

 旅芝居の一座から買った妖精衣装を着込んだロズギルだ。

 すっかり気に入ったらしい。



「これはこれはお嬢様、滝の涙に廊下もあふれ、私も殿もおぼれる次第」

 ロズギルは床にひっくり返って溺れるような仕草。

 変わり果てた姿に、仕込んだはずの俺もオフィーリアも思わず笑う。

「すっかり道化師だなローゼンクランツギルデンスターン」

 ロズギルはくるりと踊るように起き上がる。

「いいえ私めはギルデンスターンローゼンクランツ」


「俺のイングランド行き、お前にもついてきてもらうとしよう。イングランド王にお前を見せてみたいからな」

「ははっ、このローゼンクランツギルデンスターンめにお任せあれ」

 ロズギルは道化師らしい一礼を決めてみせる。

 衣装を渡しただけなのだがここまではまるとは思わなかった。

 道化師は事態を引っかき回すのに役立つキャラクターだ。

 ありがたい。



 さて、仕込みは十分だ。

 ポローニアスはイングランド行きの話を叔父に報告し、了承するだろう。


 はたして話はとんとん拍子に進み、俺たちは準備も済ませて港の宿屋に集合している。

 客室にいるのは俺、ロズギル、それにフィリウスだ。



 いつも閉じ込められていたオフィーリアも今やすっかり変装と脱走に長けて、こんな場所にまで来ている。



 イングランド王宛の親書を俺は開封する。

 いつもだとロズギルに預けられる親書だが、さすがにこんな道化師に預けるのは心配だったのだろう。

 俺に親書は渡されていた。



 親書を読み上げてみる。

 俺に預けるだけあり、至って普通の内容だ。

 後から改めて暗殺指令を送るつもりと見た。

 あらかじめ用意しておいた代わりの親書に入れ替えて封をし直す。

 適当にふざけたことを言い続けていたロズギルが少しびくりとした。

 大丈夫だ、ロズギル処刑命令なんて書かれてはいない。それに。



 そのときノックの音がした。

 入ってきたのは俺と同じような服を着た俺と同じぐらいな年齢に背格好の男。

「参りました、殿下」

「うむ、イングランド行きを頼むぞ」

「はっ、殿下として行ってまいります」

「途中までで構わない、海賊船で帰ってきてくれ」

「慣れたものです」

 男は歯を見せて笑う。

 この男はハムレット派の海賊だ。

 部屋から男は出ていく。



 次はフィリウスだ。

「フィリウス、遠いところまですまないが頼む」

「例のものと兄上を必ず見つけてきます」

「ありがとう、愛しているよ」

 フィリウスは妖しく笑い、部屋を出ていった。



「殿と道化めはイングランドに行きませんので?」

「イングランドの代わりに墓場で眠っているとしようか」

「ひえっ! 道化めはまだ生きておりまするぞ!」

 ロズギルが頭を抱えて部屋を駆けまわる。

 後は準備がそろうのを待つだけだ。


 墓場に隠れている俺とロズギルの元にはときどきホレイショーから王城の様子を知らせる手紙が送られてくる。

 それによるとハムレットを乗せた船が海賊に襲われ、ハムレットは行方不明になったそうだ。

 親書を載せて船はイングランドに向かい続けているという。

 予定どおりの進捗だ。



 さらに待ち続ける。



 墓場ではときどき埋葬が行われて、道化姿のロズギルが陽気に歌いながら墓掘り役をやっている。

 それを見ていると、父の亡霊姿を思い出すだけでも高ぶっていた気持ちが今は落ち着きはらっているのを感じる。



 ロズギルが墓を掘っていると、ときどきドクロが出てくる。

 父も今やこの姿、残っているのはただの妄執。

 命じられての復讐などただ後ろ向きに歩くかのように愚かな行為だ。

 正義は生きている者たちのために成されねばならない。



 待ち続け、その時が来た。

 墓場に二頭の騎馬がやってくる。

 乗せているのはレイアーティーズ、そしてフィリウス。

「待っていたぞ!」

 俺は声をかける。

 レイアーティーズが大声で、

「ハムレット殿下! ご無事の姿を拝見できるとはなんという喜び」

「俺もだ、レイアーティーズ」

 何度も殺してしまった彼の元気な姿を見るのは本当にうれしい。



「このフィリウスなる使いの者に聞きまして、フランスから戻ってまいりました。殿下が生きておられて、そのお元気な姿を広めるために剣の試合を私と開催されたいとか」

「まさしくそのとおりだ」

「不思議な話でしたが、どうもこのフィリウスの言葉を疑えませんで」

 フィリウスが微笑む。

 どうもレイアーティーズはフィリウスの正体に気付きもしないままここまでやってきたらしい。

 素直過ぎる堅物とは思っていたがここまでとは。



「さあ、王城に戻ろう」

 俺はフィリウスに目をやった。

 フィリウスはウインクでそれに答えた。例のものも入手できたようだ。


 王城は俺の帰還と試合の発表に沸き立った。

 叔父の内心は愉快じゃなさそうだが、表面的には試合の準備を命じてくれたから問題ない。



 試合の日、大勢の客が王城の大広間に詰めかけてくる。

 イングランド使節も来るはずだがまだ間に合っていない。



 大広間には剣がたくさん用意されている。

 叔父が命じたものだ。

 試合用だから刺さらないように先は潰してある。

 そういうことになっている。

 もちろん俺は信じていない。



 この試合に至る経緯は原作と異なるものの、叔父は毒殺のチャンスと狙ってるはずだ。

 レイアーティーズには叔父が手ずから剣を渡すだろう。

 その剣はとがった先に致死の毒が塗られているはず。



 演技ができないレイアーティーズには何も教えていない。

 気を付けないと原作どおりにまた彼から毒でやられてしまう。



 試合開始の時間が近づき、叔父と王妃が席に着く。

 ぎっしり詰め込まれた客たちの熱気が大広間を暖めている。

 叔父の隣には母とポローニアス、大広間の隅にはフィリウス、ホレイショー、それに落ち着かない様子のロズギルもいる。



 叔父が立ち上がり、大きなざわめきに満ちていた大広間が静まり返った。

 叔父が挨拶を始める。

「喜ばしくも我が息子、世継ぎの王子が無事に国へと帰ってきた。今日は健康を祝福しての試合だ、ハムレットが勝つたびに祝砲を撃ちならし称えよ。さあ、剣をとれ」

 叔父はまずレイアーティーズに剣を渡した。王から渡された剣を断ることなど彼にできようもない。

「これは良い剣です」

 そう言うと軽く素振りをする。

 その剣先にはきっと毒が塗られている。

 俺を殺した毒だ。

 俺は並んでいる剣から一本を選んだ。

 長さはどれも同じだが重さは違う。



 俺とレイアーティーズは位置についた。

 観客たち、とりわけ母の視線が熱い。

 とても楽しみにしているようだ。

「がんばってハムレット!」

 母が叫ぶ。俺は剣を高く振ってみせる。



「さあ、始めよ!」

 叔父が叫んだ。

「さあ、勝負だ」

 俺が言う。

「行きますぞ」

 レイアーティーズが応える。



 互いの剣が交錯し、高い金属音を立てる。

 レイアーティーズの剣が少しでもかすれば俺はあの世行きだ。

 激しくステップを踏み合いながら剣を振り回し、叩きつけ、弾き返す。

 早くも汗が流れてくる。

 皆の激しい注目を感じる。



 レイアーティーズは見事な腕だ。

 フランスで鍛えてきただけはある。

 だがこの俺も鍛えてきた。

 相手はレイアーティーズ自身だ。

 この試合は俺にとって二回目。

 彼の剣さばきはとてもよく覚えている。



「まだ本気を出していないじゃないかレイアーティーズ、全力でかかってこい」

「お言葉のとおりに!」

 レイアーティーズが全力で踏み込み突きを繰り出す。

 知っているタイミングだ。

 俺は半歩先に動いて剣を上から叩きつけた。

 レイアーティーズの剣先が折れて飛び、勢いよく壁に突き刺さる。



 いったん試合中断になった。

 俺の剣をレイアーティーズに渡し、俺は用意された剣をよく見て安全なものを取る。

 叔父は第一の企みが破れて内心は悔しかろう。

 しかしそんな様子は見せずグラスにワインを注ぎ、

「これは王子のものだ」

 と叫んで真珠を落とした。

 第二の企み、いよいよ俺に毒を飲まそうとの仕込みだ。

「さあ、飲むがいい」

 グラスを俺に手渡す。

 そのグラスを掲げたときだった。



「お約束どおり、私めにも一杯目をお分けくだされ!」

 道化のロズギルがはしゃいで走ってきて滑りこけた。

 そのまま俺にぶつかり、俺はグラスを取り落とした。

 ワインが床を濡らし、真珠が転がる。



「なんてことを。ロズギル、代わりを持ってこい」

 俺が命じると、ロズギルは慌てて代わりのグラスにワインを注いで持ってきた。

 自分のグラスにもちゃっかり注いでいる。



「叔父からの贈り物だ。大事にしよう」

 俺はそう言って、真珠を自分のグラスに落とす。

 叔父がじっと俺のグラスを見ている。

 俺は一口飲んだ。



 母が近づいてきて汗にまみれた俺の額を拭き、

「ハムレット、私にもちょうだいな」

「ええ、もちろん」

 俺はグラスを母に渡す。



「だめだ、飲んではならん!」

 叔父が叫ぶ。

「いいえ、ごめんなさい、いただきますわ」

 母も一口飲む。



「さあ続きをやろう」

 俺はレイアーティーズに声をかけた。

「いいですとも!」

 再び定位置につき、剣を構え直す。

「いくぞ」



 剣と剣がうなりを上げる。

 ぶつかり火花が散る。

 激しい動きで互いの位置が入れ替わり、また入れ替わる。

 荒い息になる。

 汗が全身を濡らす。

 体と体が激突し、汗に濡れた床で滑って二人とも転倒した。

 大きな歓声が上がる。



 立ち上がろうとして、体に力が入らない。

 疲れか?

 体がしびれてくる。

 見ると、母もまた具合が悪そうだ。

 立っていたのが椅子に座り込み、苦しそうに体を折る。



 起き上がろうとした俺はひっくり返る。

 意識が薄れそうになって目を閉じる。

 死んでしまって幽体離脱でもしたように周囲の気配が感じられる。



 フィリウスの叫び声。

「毒だ! 王の真珠に毒だ!」

「そんな、ガートルード、私のせいで」

 これは叔父の声。



 ざわめいていた広間が静まり返る。

「私の作った毒で、我が妻を」

 王が苦しそうにつぶやく。

「殺してしまった……! ああ神よ」

 椅子から落ちて突っ伏しているガートルードの横に叔父がひざまづく。



 フィリウスが告げる。

「全て懺悔なさい。神の許しを請うのです」

 叔父はぽつぽつと話し始めた。

「私は、なにもかも持っている兄が憎かった。奪ってやろうと毒を」

「続けなさい。どうしてハムレット殿下にも毒を盛ったのです」

 叔父は苦しそうに言う。

「やつは兄の息子だ。若く、賢く、強く、国中で大人気で、いつ反逆するかわからない。また奪われる前に始末しないと」



「あなたは神の教えに反しました。兄を殺し、妻を奪い、国を奪った。甥にも毒を飲ませようとした。認めますね」

「……認める。お慈悲を。許しを」

「王座を降りるのですね」

「降りるしかなかろう。だが誰に渡すのだ」

「神の元に返すのです」

「ああ、ああ、神よ許したまえ」



 声一つ無い大広間。

 だが亡霊の声が響き渡っている。

 皆には聞こえていない。

「おおおお! 復讐は成された! 忌々しき息子は死んだ! 憎き弟も全てを失い死んだも同然! 妻よ、共に参ろうぞ、急げ、来ないのか」

 声は地下深くに沈んでいき、二度と戻ってこれないであろう遠くへと消えていった。

 亡霊は去ったのだ。



 亡霊の声は聞こえずとも遺された恐るべき気配に包まれて皆は動けずにいた。

 そのとき大広間に咳が響いた。

 ガートルードの体が身じろぎした。

 その瞳からは涙。

 彼女は苦し気にせき込み、体を起こそうとする。

 急いでポローニアスが支える。

「生きていらっしゃる!」

 ポローニアスが叫ぶ。

 ガートルードは叔父へと声を絞り出す。

「あなたは、もう、夫でも王でもない…… ただの罪びとです」

「おおお!」

 ガートルードが生きていた喜びか罪を知られた苦しみか、叔父は頭を床にぶつけて嗚咽する。



 俺もまたゆっくりと起き上がった。

 レイアーティーズがすぐに支えてくれた。

 服のポケットから真珠を取り出し、高く掲げてみせる。

「これが毒の真珠だ。俺はこれとすり替えて、仮死の薬を酒に落としておいた。たっぷりと飲めば四十二時間は死んだような姿になるが、ごく微量であればこのとおりすぐに生き返る代物だ。ベローナの神父に伝わる秘薬をこのフィリウスがはるばる探し出して持ってきてくれた」

 大きな歓声がハムレットを称える。



 そのとき大広間に立派な服の男が入ってきた。

 イングランドの使節だ。

 使節は周りを見渡してから、俺に向かって話し始める。

「イングランド王からデンマーク王への回答を申し上げる。ひとつ、罪人一名をイングランドに送り、ロンドン塔に一生幽閉して懺悔させるものとする」

 罪人とは叔父のことだ。

 皆は黙って聞いている。

「ひとつ、イングランド王はハムレット王子を新たなデンマーク王と認める」

 広間が沸き立った。



「万歳! ハムレット王万歳!」

 皆が歓呼の叫びを上げる。

 叔父はただ頭を床につけたまま聞いている。



 俺は手を上げた。

「ありがとう。俺からはもうひとつ皆に告げることがある。俺が王妃に迎える者を紹介しよう」

 それを聞くやフィリウスが神父服を脱ぎ捨てた。

 そこには美しいドレス姿のオフィーリアがいた。

 芝居で使われる早変わりの技だ。



 俺が手招きして、オフィーリアが隣に並ぶ。

「我が王妃、オフィーリアだ!」

 大歓声。ハムレット王万歳、オフィーリア王妃万歳の声が続く。

 使節は拍手している。

 ポローニアスが喜びの涙を流している。

 ホレイショーが俺の隣で喜びの笑みを浮かべている。

 ロズギルは踊っている。

 母も悲しみと喜びの入り混じった涙を流していた。

 叔父はレイアーティーズと警備兵たちに連れていかれる。



 俺は叫んだ。

「さあ夕日の刻となった。宴を始めよう!」

 大歓声がそれに応える。



 そのとき上から黒い幕がふわりと現れた。

 幕はゆっくりと下りてくる。

 歓声は続く。

 俺はオフィーリアを招く。しっかりと抱きしめた。

 幕が下りる。

 世界は闇に包まれる。


 気が付くと俺は舞台の上にいた。

 学祭の舞台だ。

 幕は下りていて舞台は暗く、その向こう観客席からは割れるような拍手。



 暖かい。

 俺はオフィーリア役の彼女をしっかりと抱きしめていた。

 母役やポローニアス役たちのからかうような視線を浴びて、そっと離れる。



 幕が上がる。

 カーテンコールだ。

 俺たちは手をつないで一緒に礼をする。

 隣にいるオフィーリア役の手が熱い。

 満員の観客席から万雷の拍手。



 奥の壁際で黒いマントを来た女たちが拍手をしているように見えて、でも見直すと誰もいなかった。

「人生は舞台、舞台は人生。終わりの終わりか」

 俺はつぶやく。

 オフィーリア役の彼女が俺の手をぎゅっと握りしめてくる。

「始まりの始まりよ、私たちの」


終幕

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ハムレットが終わらない モト @motoshimoda

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