第2章 第5話 ほんの1秒の幸せ

黒い空の下に広がった偽物の宝石の様に怪しく光り輝く街の中を、それぞれの目的地に向かう人達が交差していた。

その流れの中を上手に逆らって足早に歩く私の後ろからは、相変わらずセミの声が聞こえていた。

来てる。来てる。

今夜の寝床のネカフェ以外には、渋谷にこれと言った当ての無かった私にとって、それはまるでエルと鬼ごっこを楽しんでいるかのようだった。

鬼さんこちら、セミが鳴く方へ。

と、前方に本屋が見えて来た。

そこは読書好きの私にとって都会の中のオアシスだ。

そのオアシスに飛び込んだ私は、平積みされているベストセラーや新刊には目もくれず一目散にアニメ雑誌のコーナーに向かった。

二次元の実在しない架空の夢物語は、私が生きている呪いの世界から逃避するは、持ってこいのアイテムだ。

エルは、後ろのラック越しに夢の世界に現実逃避しようとしている私の後姿を見つめていた。

エル? 君も現実逃避したいの?

私は、この時、エルとならこの紙の中の二次元世界で生きて行けそうな気さえしていた。

えっ!?

と、背後から聞こえていたセミの声が大きくなり始めた。

まさか、近づいて来てる?

確かに、セミ、いやエルは私の背中に向かって近づいて来ていた。

どうしたの? 私を捕まえるつもり?

私は、心拍数が上がると同時に身体中が熱く火照って来たのを感じた。

そんな私の大変な状況に、お構いなしにエルは何気に私の右横に立った。

不思議とセミは息を潜めたのか静かになっていた。

大丈夫だよ、私は、捕まえないから。

雑誌を広げた私の手が小刻みに震えていた。

それと同時に目の前の2次元の王子様も震えていた。

えっ!?

エルが、その震える王子様を覗き込んだ。

エル? 私の王子様になってくれる?

と、思った瞬間、つい私は、エルを見てしまった。

エルと目が合った。

エルが微笑んだ。

それは、邪悪な悪魔の心を浄化する甘美な天使の微笑みだった。

エル? 君は誰? 君は天使? それとも悪魔?

どっちでもいいよ。君となら幸せに死ねそうだから。

一重の切れ長の鋭いエルの眼差しが私の脳髄に突き刺さった。

それは、都会の中の紙のオアシスの中で起こった、ほんの1秒の幸せな瞬間だった。

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アイとケイ、そしてエル towa @hio3377

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