お題:翼(ソ連宇宙飛行士、コンプレックス双子百合)

双翼の墓標①

 にはじめて気がついたのは、果たして誰だったのだろう。


 思ったより早い気球計測器ラジオゾンデの降下に首を傾げた気象台の人間か、雲の上で空の旅を楽しんでいた人々か、もしかすると高高度偵察機のパイロットだったかもしれない。

 なんにせよ、自分が何に立ち会ったのかは、誰ひとりとして理解できなかっただろう。


 1982年夏。東西冷戦が新たなステージに突入して数年、核兵器配備の交渉と応酬で世界が軋みをあげていた時代。

 過ぎたる力に振り回される地表を嘲笑うよう、空はその姿を変えた。


***


 『コマドリザリャンカは地球に戻れない』。

 その知らせを聞いたとき、エカチェリーナ・ユーリエヴナ・コマロワは心の底から安堵した。


 次いで胸を衝かれる。安堵。自分の夢が叶わなくなった絶望よりも、彼女がこの世から消える歓喜の方が大きいなんて。

 この事実自体が腹立たしく、けれど二度とはないだろうから味わい尽くす。憎悪を、嫉妬を、彼女を見るたび臓腑が煮え立ちのたうつような激情を。


 二人といない双子の姉の声を聞きながら、噛み砕いて、呑み下す。


『カチューシャ、聞こえるかな?』

「ええ。聞こえるわ。でもみんな聞いてるんだから子どもみたいに呼ばないでほしいわ、コマドリザリャンカさん」

『うえぇ。寂しいこと言わないでほしいな。お姉ちゃん泣いちゃうから』


 ざらついた雑音の奥から姉の声が顔を出す。ふわふわ間延びした口調は、無線の波に乱されていても変わらない。

 それに対抗するように落ち着いた喋りをするのはもう慣れた。それでもなお他人から「双子は声まで似ているんだね」と評されることも。癪に障るがもう構わない。しばらくすれば言われることもなくなる。


 この管制室に窓はない。無機質で機能的な外観に反し、染みこんだ汗や人間くささが充満している。照明は暗めに設定されており、正面のメインモニタがひときわ目を惹いた。

 何列にも並んだ長机には隙間なくコンピューターが敷き詰められている。すべての画面が何らかの画像や数値を表示している。その一席に座りながら、しかしエカチェリーナに託されたのはデータの解析でも、各種機器の操作でもない。


 細い輪郭、やや眠たげな丸い瞳、スラヴ系にしては彫りの深い目鼻立ち――黒いディスプレイに自分が映ると、おなじかおと対面しているように錯覚した。目を閉じて彼女の声に耳をすませる。


『ええっと、報告ね。今も地球はきれいだよ。「壁」があるなんて分からないくらい。観測機は今日も変な数値出さないし、多分そんなもんなんじゃないかなあ。鉄のカーテンだってほら、目じゃ見えないんだしさ……』

「要は、何も進展はないわけね」


 とんでもないワードが出てきたので早々に遮る。ソ連において宇宙開発はアメリカとの戦争も同じで、当然この無線交信も党や軍の監視下にある。政治的な話は出さないでほしかった。

 対して『はぁい、その通りでーす』などと呑気に笑ってノイズを揺らすあたり、姉は何も分かっていない。笑える状況ではないのだ。前代未聞の事態に上層部はヒリついている。いつもは苛立つばかりの姉の鈍さも、今回ばかりは哀れだった。


 三日前、空に「スティナ」が発見された。


 いや、この表現は適切ではない。そもそもとして目には見えず、正確にはいつ成形されたのかも定かではなかった。ただ「不可視の遮蔽物がある」と認めることでしか説明ができない。そう三日前に結論づけられただけだ。


 高度一万メートル前後にそれは存在する。この三日間で共産圏が行ってきた実験はすべて同じ結果に終わり、アメリカや西欧のニュースも騒ぎ立てているらしい。

 つまりほぼ世界的な事象ということだ。そしてなぜ騒ぐかといえば、もたらされる影響が甚大すぎた。


 「壁」に触れた物体は、

 気象観測用気球も、旅客機も、偵察機も、きっと核ミサイルですら等しく。一定の高度に至るとほどけるように粒子と化し、雪のように羽のように地上へ舞い降るのだ。


 大気構成に変化はなく、紫外線やらの観測値も変わらず、なにより宇宙との無線通信が生きている。成層圏にできる真珠母雲も観測されたとのことだから、おそらく「壁」が分解するのは固体だけ。

 人類が滅ぶほどの脅威ではなく、しかし核に支配された世界情勢を根底から覆すであろう事態。それを前に米国もソ連も慌てふためいていた。


 だが手も届かない騒動などどうでもいい。

 エカチェリーナにとって重要なのは、姉がどのような結末を迎えるかだけだ。


「……食料、あとどれくらい保ちそう?」

『うふふ、昨日も聞いてきたねそれ。気になっちゃう?』

「気になるに決まってるでしょ」


 早口に言い切る。演技半分、本音半分だ。姉の運命を案じる顔をしながら、カウントダウンを指折り数えている。


『正味一週間分くらい……って昨日は言ったけど、今日方針が決まったよ。事態が変わるかもしれないからね、節約して食べようってなってる。頑張れば十日くらい粘れるかなあ。おしっことか飲めば二週間くらい?』

「そう」

『でも、頑張ったところで酸素が尽きたらおしまいだから。餓死か早いか窒息死が早いかって感じだねえ』


 袋小路の現状を、姉は昨日の夢でも語るように告げた。


 首脳部は繁忙を極めている。現在以上に今後のことを考えなければいけないのだ。

 「壁」の解析と解消実験、宇宙開発計画が頓挫した場合のトラブル、新たな打ち上げが封じられた各種衛星の代替案、無力化された弾道ミサイル……これらに比べれば、いま宇宙ステーションサリュートに乗りこんでいる宇宙飛行士コスモノート三名の命など些事でしかない。


 そもそも「壁」がなくならなければ帰還は絶望的なのだ。ならば限界まで各種観測データを採ってから死んでくれ、それが国防省の要望だった。


 非情な命を受けた管制室は墓場のように静まりかえっている。無線で歪んだ姉の声と、語りかける自分の声だけが響く。

 血を分けた半身であり、姉のバックアップクルーであるエカチェリーナ。その会話に口を挟める者などいないとみな理解している。


 好都合だった。これなら誰も邪魔はすまい。口端のうごめきを制御しながら、穏やかに語りかける。


「こっちでも党が打開策を探ってる、なんとかなるわ。頑張って。待ってるから」

『うん、ありがとカチューシャ。待っててね』


 そう言葉を交わして通信が切れる。サリュートの公転周期は約九十分、無線交信ができるのはそのうち二十分ほど。加えてサリュートがソ連上空を通過するのは一日につき四周ほどなので、トータルでは日に一時間程度交信できるにすぎない。三日前から姉の報告相手にエカチェリーナが指名されたのは、おそらく慈悲なのだろう。


 インカムを外して席を立てば、そばに控えていた女職員が涙ながらにエカチェリーナを抱きしめてきた。どうして、なぜ、こんなひどい……エカチェリーナを哀れんでいるのか姉のために泣いているのか分からない。

 応じるように抱き返す。あたたかい肩に口元を埋める。ここでエカチェリーナは、ようやく笑みを浮かべることができた。

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