裁きまであと何マイル④【了】
みんながお母さんを殴り殺そうとした。
男の兵隊さんはわたしにお母さんを殺せと言った。
お母さんはわたしに撃ちなさいと言った。
だから、わたしは。
胎内のようにぬるい暗闇のなか、ゾーヤは目覚めた。
まだ窓の外にも太陽の気配はない。こうした時間は嫌いだ。闇は深いし、もう一度眠らなくてはいけないし、眠ればまた厭な夢を見るかもしれないから。
けれど今夜はもう、悪夢は見ないと思う。きっと隣にこの人がいてくれるからだ。
「タチアナさん……」
目鼻立ちに似合わない穏やかな寝息に、愛おしさがこみあげる。頬の銀髪にそっと触れればくすぐったそうに睫毛が震えた。思わずくすりと笑ってしまう。
愛しいひと、正しいひと。この人はやはり変わらない。
眠る間際に軍に戻ろうと思うと聞かされて、それだけでゾーヤの胸がどれだけ喜びに満ちあふれたか、きっとタチアナは知らないだろう。五年前の地獄で彼女だけが輝いて、これからも同じなのだ。
だからゾーヤも、進む道を迷わず決めることができる。
「ねえタチアナさん。わたし、頑張るから。だから絶対、迎えにきてね……」
祈るように囁く。希望に満ちた未来図をいくつもいくつも描き出す。
タチアナは軍に戻って、ゾーヤは士官学校から同じ道へ。そして頑張って軍や国の機密に触れられる立場になって――どこか外国に渡してしまうのだ。
もっともっと頑張れば、別のやり方もあるかもしれない。軍隊内部の不穏分子を集めてクーデターを起こしてみるのはどうだろうか。外国のスパイになるより分かりやすいし、なによりそちらの方が軍の側も実力行使に出られる。つまり、タチアナに銃を向けられる可能性が高くなる。
もちろんどの進路にしたって簡単なものではないだろう。タチアナがゾーヤのもとに来てくれる、その道筋だけは緻密に引かなければいけない。だが考える時間はたくさんある。タチアナもゾーヤもまだ若いのだ。
(タチアナさんは、どんな風に殺してくれるかな。どんな顔してくれるかな。楽しみだな、ほんとに)
タチアナの手に指を絡め、胎児のように丸まりながら思う。願わくば悪い人をみんな殺して、最後にゾーヤを残してくれればいいのだけれど。そこまで言ってしまえば我が儘だろうか。
だってこの世にはあまりにも多くの悪が生きている。ゾーヤの生きていた村だけでも、あれだけうじゃうじゃ潜んでいたのだ。
――誰も止めてくれなかった。兵も、村人も、信じていた母親でさえ。
みな母親を殴って、ゾーヤにも悪いことをやれと言う。ゾーヤにも罪を犯せという。ならばみな悪い人なのだ。彼らに応じてしまったゾーヤも同じく。
あの時からゾーヤは罪人になった。彼らもゾーヤも、いつか必ず裁かれなければならない。
(でも、タチアナさんは、タチアナさんだけは違う)
タチアナ。ゾーヤのなかにある唯一の輝きにして、ゾーヤの処刑人。
彼女だけはゾーヤの過ちを止めようとした。自身が止められなかったことを悔いていた。精一杯償おうとゾーヤに援助までしてくれた。
タチアナは他の誰とも違う。タチアナもきっとゾーヤを特別に思ってくれているだろう。ならばこれは両思いだ。きっとゾーヤの願いも叶えてくれる。
「一目惚れ、かな。あのときからね、わたし、ずっとタチアナさんのこと覚えてたよ。わたしを裁いてくれるのはこのひとだって、信じてた」
だってタチアナは間にあわなかったのだから。
だってタチアナはゾーヤを救えなかったのだから。
だってタチアナはあの瞬間、自分だけ正しくあろうとしたのだから。
「さいごまで責任、とってね。タチアナさん」
裁かれるなら、殺されるなら、あなたがいい。
絡めた指にそっと口づけを落とす。そのまま満ち足りた気持ちで眠りにつく。過去ではなく未来の光景へ、意識は優しく溶けていった。
少女の想いは確実にタチアナを絶望させる、死よりも凄絶な苦界へと突き落とす。
自身が強いられたのとまったく同じことを、ゾーヤはタチアナに願っている。
この情動が限りなく殺意に似ていることに――未だ幼い少女は、気づかない。
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