裁きまであと何マイル③

 またあの夢を見た。


 いや、まったく同じ夢ではない。母へ銃弾を放った後、ゾーヤは幼い少女から今の姿になり、銃口をそのままタチアナに突きつける。

 変わらない碧眼には殺意のひかり。引き金はもう、震えていない。


『許さないから、ずっと』


 その言葉と放たれる銃弾に、後悔でも罪悪感でもないを覚えた。


 いつの間にか暗闇のたゆたう天井を見つめている。目覚めの穏やかさを自覚して、その事実そのものに臓腑が疼いた。どこまで自分は身勝手なのだろう。もう絶望さえできない。

 ゾーヤ。タチアナたちのせいで母を殺めてしまった少女。

 その彼女に自分を殺させて安堵するなど、絶対に許される話ではない。


 昼の比ではない吐き気がせり上がってくる。横たわっていたソファを飛び降りてトイレに向かい、胃の内容物を洗いざらい撒き散らす。

 もう何も出てこなくなったところで内臓の蠕動が収まってくる。便器にひざまずいて荒い息を繰りかえし、そこでようやく思いが至った。


(ゾーヤを、起こさなかっただろうか)


 口から垂れる胃液を拭き取り、冷たいタイルを踏んで立ち上がる。なりふり構わずリビングからトイレまで駆けこんでしまった。物音が聞こえてしまったかもしれない。


 ゾーヤはここに数泊していく。タチアナとたくさん話したいからと言っていた。タチアナの側から断れるはずもないのだが、ゾーヤは本当に何も思わないのだろうか。食事も寝る前もごく自然体だった。


 今さらながらに足音を殺して廊下に出る。ゾーヤには寝室を貸していた。見慣れた扉を開くまでもなく、タチアナはその向こうの異変に気づいた。声がする。

 やはり起こしてしまった? だが正確な内容は聞こえない、ただの寝言かもしれなかった。その場合、弁解するために入室したことで起こしてしまう可能性がある。できれば避けたい。


 扉に耳をつける。寝言という推測は正解だった。ただし、罪深いほど楽観的な。


「おかあ、さん……おかあさん、やだ……」


 呻きのような泣き声が、タチアナの心臓を握りつぶした。


 扉の向こうで嘆きは強く大きく波打っていく。受け止める鼓膜が、伝わる脳髄が、そのうちにある心が同じ波長に乱されていく。

 歯が鳴る。いつ見た夢よりも恐ろしいものがこの先にはあった。


「やだ……やだ、やだ、やめて、やだあ! うぁああああぁあ!!」


 叫び。耐えきれなくなって部屋に飛びこんだ。

 反射的に電灯をつけると光が瞬き、闇に慣れた目を焼く。それに眩むうちにも事態の全容は露わになっていった。


 タチアナの貸したベッドに横たわるゾーヤ。布団はもう蹴り落とされていた。パジャマの四肢を突っ張らせ、かと思えば無茶苦茶に振り回し、涙にまみれた顔で泣き叫んでいる。

 明らかに尋常ではない。暴れる手足が直撃するのもかまわず、ゾーヤに覆い被さって呼びかける。


「ゾーヤ! ゾーヤ、起きろゾーヤ!!」

「ああぁあああああ! やだああぁああっ、あああああっ!!」

「ゾーヤっ!!」


 肩を揺らしながら何度名を呼んだだろう。やがて碧眼が見開かれ、波が打ち寄せるようにして意志の色が戻ってくる。

 ゾーヤの身体が動きをやめたころには、両者ともに肩で息をしていた。ゾーヤがはじめてタチアナを認識したように瞬きを繰りかえす。先まで暴れ狂っていた手で、覆い被さるタチアナの頬に触れる。


「あ、あぁ、あ……タチアナ、さん?」

「ああ」

「あ、そっか……わたし、タチアナさんのところ……」


 ほっと脱力したように腕が落ちる。だがそれも一瞬だった。慌てて起き上がるとタチアナにすがりつき、まだ涙の浮かぶ眼で謝罪を紡ぐ。


「ご、ごめんなさい! せっかく泊めてもらったのに騒いじゃって。夢見が悪いとこうなっちゃって……あ、時々ですよ、時々! 毎日こうじゃないんです、ほんとに!」

「いいんだ。いいんだよ、ゾーヤ」


 首を振る。その謝罪を受け取る資格は自分にはなかった。彼女をこんなにも痛ましい存在にした一人は、他でもないタチアナなのだから。


 迷いながらもゾーヤを抱きしめる。彼女はわずか驚いたようだったが、すぐにこわばりを解いて小さな身を預けてくれた。信用されている。それが苦しくてならない。

 だから言わずにはいられないのだ。たとえこれが、いま触れずにいるべきことだと理解していても。


「……すまない」

「えっ?」

「すまない。あの時、私が……」

「どうして、タチアナさんが謝るんですか」

「君は、「お母さん」と言っていた」


 腕の中で、ゾーヤがぴくりと震えた。

 震えは何倍にも増幅され、タチアナの心臓にまで響いてくる。記憶の蓋が再び開く。

 ちいさな指の引き金、届かない手、タチアナを見上げる碧眼……あの時のすべては、疑いなくゾーヤの人生を縛っている。


 平気なはずがない。分かっていたのに。彼女の強さ優しさに甘えていた、見て見ぬふりをしていた。過ちを犯したあの時と何も変わっていない。


「あの時、もっと早く私が動けていれば、勇気を出せていれば。君にあんなことをさせずにすんだのに……」


 声は掠れて消えていく。いつの間にかタチアナの側がゾーヤにすがりついて泣いていた。そんな資格などないのに……いや、タチアナに許されることなどもうほとんどないだろう。


 償いを、裁きを。

 たとえどんなに叶わないことでも、タチアナが願っていいのはそれだけだ。


 すまない、と謝り続ける。意味のないことだと分かっているのに未だ誤り続ける。

 嗚咽に窒息し、このまま死ぬことができればとさえ思った。彼女に手を下させるのを望むくらいなら、いっそ自ら息絶えたい。


 ゾーヤの腕が上がる。殴られるのか突き放されるのか。その予感にすら安堵を覚えそうになって、二乗する罪への裁きを望んだ。


「ねえ、タチアナさん。謝らないで」


 けれどタチアナに舞い降りたのは、裁きではなく許しの天使だ。


 髪を撫でられる感覚。背には細い腕が回され、赤子をあやすようにとんとんと優しく叩かれる。少女の体温がタチアナのすべてを受け入れる。そこから生まれる言葉は、心からの愛情に満ちていた。


「わたし知ってます。タチアナさんは、タチアナさんだけは悪くない。だってタチアナさんはあのとき、私を止めようとしてくれたんですから」


 顔を上げる。ゾーヤは涙の残る顔ではにかみ笑い、けれどそこには痛みがあった。生涯通して癒えないであろう深い傷跡。少女の微笑みの裏にあるものを、タチアナははじめて目にした気がした。


「誰もね、止めてくれなかったんです。男の兵隊さんも、女の兵隊さんも、村のみんなも……おかあさんも。

 みんな私を見て、早くやれって思ってるだけ……あんなの絶対、わるいことなのに」


 わるいこと。そう告げるとき、ゾーヤの声は引き攣れるように震えていた。

 その行いをさせたのも、止められなかったのも自分たちだ。タチアナはその罪から逃れることはできない。際限のない悔恨は恐怖にも似て、果てのない罪責の深みへ落ちていく。


 なのに彼女はタチアナを救いあげてくれるのだ。こんなにも愛おしそうに、タチアナの名を呼びながら。


「でもね、タチアナさんは違ったの。

 タチアナさんは私を止めようとしてくれた、兵隊さんを叱ってくれた。こんなことすべきじゃないって、言ってくれた。だから思ったんです」


 碧眼がタチアナを映す。過去と同じひかりが宿っている。そこでようやくタチアナは悟った。あの時のゾーヤの眼は、責めさいなむものではない。


「ああ、このひとがいるなら大丈夫だって。このひとが正しいことをしてくれる。そしたらもうあんな悲しいこと、きっと起こらないって」


 深海で輝きを見た瞳。朽ちかけていた意志を取り戻した証。

 タチアナが止めようとした、たったそれだけで救われてくれていた。


 だれひとり本当の意味では救えなかったタチアナが、ただひとり、この少女の心だけは守れていたのだ。


「だからありがとう、タチアナさん。あなたがいてくれるおかげで、わたし、絶望しないで生きていける……」

「……っ!」


 礼はいらないとも、こちらが言うべきものだとも伝えられなかった。ただ湧き上がってくる熱のままに新しい涙を流して、ゾーヤを強く抱きしめる。

 ゾーヤはタチアナを抱きかえして、笑って、また泣いた。互いに頬を触れさせあっていれば、温度の違う涙が混ざり合う。それがどうしようもなく嬉しかった。


 過去は変えられない。タチアナの罪は消えはしない。ゾーヤの痛みも癒えることはないだろう。悪夢の名残は永遠に、ふたりの心を運命づける。


 それでも互いに支えあっていければ、いつか新しい夢も見ることができるのかもしれないと――この腕の中のぬくもりは、それを教えてくれていた。

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