裁きまであと何マイル②

 戦争には死がつきもので、そして兵士の仕事はそれらから祖国を防衛すること。つまりは生き残って一人でも多くの敵を殺すこと。タチアナはそのことを十分に理解していた。


 少なくともそのつもりではあったのだ。塹壕から機関銃を撃つこともしたし、相手の顔が見えたところで躊躇いはしない。

 殺人の罪悪感に怯えられたのはほんの数日だ。まったく他人の敵兵を殺すことより、自分や同じ部隊の仲間が殺されるほうがよほど怖いことに気がついた。


 まして守るべき人々についてはなおさらに。攻め込まれたいくかの地域は、すでに敵の手に落ちていた。占領された街や村には戦えない女子ども、民間人がいる。そこに家族や友人をもつ仲間も少なくない。

 彼らを救うため、タチアナらは戦わなければ。その使命感のまま、心を鈍磨させ、ひとを殺す腕だけを鋭く研ぎ澄ませてきた。


 だが自分たちが救う側であると無邪気にも信じることができたのは、あの瞬間までだった。


 敵の猛攻に何人もの仲間が倒れ、何度もの撤退を経験した。しかしいつしかその比率は逆転し、少しずつ戦線を押し返していく。

 そして占領されていた街や村に着くと、みな解放者が来たと喜んでくれる。タチアナはそれが嬉しかった。


 だからあのときも同じだと思ったのだ。街とは呼べない、各種公共施設がいくつかあるだけののどかな村。敵部隊は半日ほどの銃撃戦ののちあっさり撤退して、ここも敵の手から解放された。

 隠れていた民間人たちが這い出てくる。タチアナや仲間たちの奮戦を称えてくれる。それに照れくさい思いを噛み締めながらせめてもの支援物資を配っていると、広場のほうが何やら騒がしくなっていた。


 物資の見張りだけ残して広場に向かう。薬莢が転がり弾痕の刻まれた石畳では、ひとりの女性が袋だたきにされていた。


 売女、裏切り者、薄汚い売国奴――そんな罵倒から察するに、占領中はよほど敵国に協力的な振る舞いをしていたのだろう。それを罪と定めた法律もある。だがこれはやりすぎだ。白い目で見られるくらいは仕方がないが私刑としか思えない。

 そして目を疑うのは、兵隊の何人かがその暴行に加わっていることだった。憎しみに染まった村人たちとは違い、明らかに楽しんでいる。


 リンチはどんどんエスカレートし、女性は血まみれになっていく。仲間の女性兵も動けず、唖然と成り行きを見守るしかない。

 そうこうしていると、野次馬の村人の中から声があがった。


「おい、いたぞ! こいつの娘だ!」


 そう連れだされ、兵士に突き出されたのは幼い少女だ。おそらく十歳にもなっていない。頬を大きく腫らし、目には涙をいっぱいに貯めている。


「家畜小屋に隠れていやがった……このガキもあの女と散々甘い汁吸ってたんだ。好きにしてくれ」

「そうか、ならお言葉に甘えよう」


 下士官がにやにや笑いながら頷く。少女の腕を引き、女性を殴る人々へ離れるように命じる。ようやく胸をなで下ろすことができた。あの下士官はまともだ。

 そんな認識は一瞬にして崩れ去る。堂々と胸を張った宣言は、輪をかけて正気を疑うものだった。


「では、かの裏切り者に対する即決裁判への判決を下す。敵国に対する奉仕、ならびに国家反逆罪により死刑。処刑人は――」


 ことさら優しく少女の背を撫でる。小さな手に軍用の拳銃を握らせる。そして安全装置を外し、石畳へ倒れる女性に向けさせた。


「貴様の娘だ。さあお嬢さん、撃ちなさい」


 意味が分からなかった。あの少女にはなおさらだろう。疑問と恐慌のあいだのような表情で下士官を見上げ、忙しない瞬きを繰りかえす。


「遠慮はいらない。あれは祖国の癌だ。それを撃てないというのなら……君もお母さん売国奴と同じ目に遭う」


 わざとらしく甘い声音に、こちらの背筋が粟立った。

 だが一番大きな反応を示したのは血まみれの女だ。もはやまともに動くことも叶わないというのに、少女へと声を張り上げる。


「撃ちなさい、ゾーヤ! 撃って!」


 売国奴という汚名を負っても、母の愛は変わらないらしい。それに下士官は興が乗ったようにうんうん頷き、少女に射撃の姿勢をとらせ、また背中を優しく叩いた。

 あとは撃つだけ。その決断は、幼い少女の肩に押しつけられている。


「……っ!」


 駆け出す。これ以上は見過ごせない。売国奴の疑いがどうあれ、子どもに母親を撃たせるなどそれ以上の蛮行だ。

 引き金にかかったちいさな指が震えている。碧眼は見開かれたまま凍りついている。その腕を押さえようと、十メートルもない距離を走って走って手を伸ばして――


「っ、やめ――!」


 そして、届かない。


***


 それから一年もしないうちに戦争は終わり、祖国は戦勝の錦に飾られた。


 タチアナは復員して早々に軍を辞めた。あの村の一件で感情のままに下士官を殴りつけ、貴方がたには人の心がないのかと散々泣きわめき、以降の立場が悪かったこともある。だが何より大きいのは、自分たちが救済者でも解放者でもないことに気がついてしまったからだ。


 敵国の人間ならば、祖国に仇なす者ならば殺していい。

 あの村の景色は、タチアナたちが戦場で培った倫理の延長線上にある。


 以降の生活は平穏そのものだった。大量の男手が戻ってきたなか、タチアナもなんとかいい職を得ることができた。戦争の傷跡は癒えてきて、みなの表情にも笑顔が蘇っていく。この国はそれなりに幸せな暮らしを送っていた。


 だがあの村と「ゾーヤ」という碧い目の少女のことは、どうやってもタチアナの頭を離れない。


 何度となく悪夢にうなされ、むりやり睡眠薬を飲んで眠りにつく。そんな日々を五年ほど繰りかえした。直接手を下した敵兵たちへの罪悪感も、すべてあの少女の姿へ変わる。いつしかゾーヤという少女は、タチアナが殺した人々、救えなかった人々の象徴になっていた。


 そう、だから思いもしなかったのだ。あの自失していた少女が、今はこんなにも快活に碧眼を輝かせているなんて。


「まず、お礼を言わせてください。ありがとうございます。あなたのおかげで、わたしはこうやって元気に過ごせてます」


 対面の席で微笑むゾーヤ。その前には散々悩んで選んだ紅茶とチョコレートのケーキがある。

 駅からもほど近いこのカフェは、客が多く会話も聞かれづらい。軽く話をするには最適だというだけで入ったが、十四歳の少女には魅力的だったようだ。


 長い銀髪を耳にかけ、煙草に火をつける。逃げてはいけないと分かっているのに、煙に頼りたくて仕方がなかった。


「礼なんていらない、本当に……気がついたのはいつ?」

「わたしからお手紙を送った日……ええと、三ヶ月くらい前かな。叔母さんが教えてくれたんです」


 ゾーヤは現在叔母と暮らしている。父は戦死しており、母は言うまでもない。チョコレートケーキを一口運び「えへへ」とはにかむように笑う。


「教えてくれたっていうか、わたしが問い詰めたんですけど。私が住んでたとこってほら、結構田舎だったじゃないですか。もうあそこは離れたんですけど、叔母さんの家も別に裕福じゃないし。

 なのにみんなが食べ物がないって言ってるときに闇市でご飯が買えてたし、いまは進学の準備もさせてもらえてるし、なんだかおかしいなって。なにかあるんじゃないのって聞いたら、タチアナさんがお金を送ってくれてるんだって聞いて」


 フォークを置く音。思わず肩を跳ね上げたが、ゾーヤの瞳には親愛の色しか見当たらない。

 それがなおのこと恐ろしかった。ゾーヤからの求めで会うと決めたとき、千の罵倒を覚悟していたはずだ。なのに彼女が幸せそうにタチアナへ笑みを向けてくれる、これだけの事実が万の糾弾より痛い。


「お礼が遅くなっちゃって、本当にごめんなさい。このお返しはいつか必ず」

「やめて。礼なんていらないと言っただろう。これはただの……」


 償い。その言葉を呑みこんで、代わりに紫煙を吐き出した。

 金銭を渡すだけで償いになるものか。タチアナはそれを理解した上でゾーヤを援助していたのだ。ただ何もせずにはいられないという、ちっぽけな責任感からの行いにすぎない。


「でも、わたしはありがとうって思ってるから。どうしても直接お礼が言いたかったんです。それに、タチアナさんに会いたくて」


 だからこの敬意を受け取る資格はタチアナにないのだ。窓から射しこむ春の陽射しがゾーヤをきらきらと縁取る。夢みるような微笑みでまたケーキを口にする。

 過去の闇に囚われたままであれと思ったことは断じてない。だが、母の死に関わったタチアナを前にここまで活き活きとできるものなのだろうか。窓の外をちらりと見やり、人の行き交う街路を愛おしげに眺める。


「わたし、ここの士官学校に行こうと思うんです。戦争は終わったけど、タチアナさんみたいな兵隊さんとか、軍人さんになりたいから。

 それにですね、外国にも興味があるんです。だからタチアナさんのおかげで外国語が勉強できるの、本当にありがたくて……」

「ひとつ、いい?」

「はい! なんでもどうぞ」


 期待に彩られる碧眼。それを直視できずに視線を背け、結局は首を振る。

 どうしようもなく知りたくはあった。だが「あのことを恨んでいないのか」なんて、そんな勝手なこと聞けるはずがない。


「……いや、なんでもない。うちにトランクを置いたらまた外に出よう。士官学校、結構近いから」

「ほんと? やったあ、ありがとうございます! ふふっ、楽しみだなあー」


 心底嬉しそうに頬を綻ばせ、ゾーヤは身体を左右に揺らす。傍から見れば親戚のお姉さんと、それに甘える少女のようにでも見えるのだろうか。

 あまりにも侮辱的な想像に吐き気がして、押しこめるように紫煙を深く深く吸いこんだ。

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