貴女を手折るまでの千の夜 (殺伐百合短編集)
橘こっとん
お題:責任(元軍人×ロリ、PTSDおねロリ)
裁きまであと何マイル①
引き金にかかったちいさな指のこわばりが、今も目に焼きついて離れない。
あの時、自分の腕がもっと長かったなら。脚がもっと速かったなら。あるいは男の兵士だったなら――
いや、そんなありえない仮定など無用だ。もっと早く駆けだす、たったそれだけでよかった。
兵士が嗤う。怯えきった表情のまま、少女は血まみれの女に銃を向けている。
無骨な軍用拳銃はあんな幼子に扱えるものではない。それは背後でにやにやしている男たちにも分かっているだろうに。
走る。手を伸ばす。一向に近づけないし届かない、重い水銀をかき分けているみたいだ。けれど見過ごすことなどできないから、十メートルもない距離を気が狂いそうな遅さで駆けぬけた。
ああ、やっと手が届く。今度こそ。確信して少女に触れんとするその刹那、いっそう大きな震えが引き金に伝わった。
銃声が胸を射抜く。硝煙の匂いが鼻孔を貫く。世界は粉々に叩き割られて、残るは少女と、その手をつかむのが遅すぎた自分だけ。
少女がこちらを見返す。虚ろな碧眼に意志が宿る。どうしてと問うように、その愚かさを責めるように。
輪郭をなぞって涙が滴り落ちると、空っぽの世界が一瞬にして海の底へと変わる。彼女の瞳と同じ、暗い碧。
無力な身体は踏みとどまることすらできない。空気の泡とともに浮上する。こちらを見つめている少女を深海に残したまま。
そうして、タチアナはまた過ちを繰りかえすのだ。
「ぁ、はっ……、ああ、ぁ……」
空気の冷たさが肺を刺して、現実世界へ立ち返ったことに気がついた。
酸欠気味の荒い息、底なし沼から這い出たような目覚め。安堵はなかった。ここは夢の延長線上、どうあっても自分はあの記憶から逃れられない。
寝室はまだ薄暗かった。時計をなんとか読み取れば3時を過ぎたところだ。眠れば確実に同じ夢を見る。本当なら、このまま起きて夜をやり過ごしたかった。
だが今夜だけは許されない。ベッドサイドに置いた睡眠薬を口に含み、コップの水ごと嚥下する。
汗だくの身体と布団がいやに不快だったが、そのまま眼をつむって潜り込んだ。早く朝がくるように、それまでに少しでも自分が罪を実感できるようにと祈りながら。
今日は運命の日。
あの娘に本当の償いを果たすべき、断罪のはじまりだ。
***
中央駅は人でごった返していた。
休暇シーズンの初日なのだから当然だ。数分ごとに構内へ響きわたるアナウンスも、人々のざわめきを打ち消せはしない。終戦から数年、かつての活気が蘇ってきている。
トランクを持った人々がそれぞれのホームを目指し、好き勝手な方向に蠢いていた。じっと見ていると色とりどりの人混みが軍服一色へとすり替わりそうに錯覚する。脳裏に巣食う記憶の残滓。
この都市の出身者はみなこの駅から戦争に出て、そして帰ってきた。
タチアナも同様だ。数少ない女兵士として、男に劣らないようピンと背筋を伸ばして出征した。だが帰ってきたときには男だ女だという以前の問題で、周囲の戦勝ムードにまったく乗りきれなくなっている。陰気な顔をして戻ってきた娘に、母は何を思ったのだろう。
(……やめよう、今考えることじゃない)
煙草をつけて思考を遮る。自分のことなどどうでもいいのだ。中央口近くのレリーフの壁に背をあずけ、こちらへ向かってくる人々をひたすら観察する。
男や少年は目に入れない。幼すぎる女児や明らかに大人の女性も。とはいえ、十代半ばごろの少女とはどのくらい成長しているものなのか、人付き合いが疎かになってきたタチアナにはいまいち分からない。
もしかすると大人のように着飾ったりしているものなのだろうか。十も年齢が違うから、タチアナが同じ歳のころの常識は通用しないだろう。
何度となく夢に見るのにおかしな話だ、と自嘲する。覚えているのはあの呆然とした表情だけ。目鼻立ちは記憶の摩耗の中に失われていった。
後悔が合理的に取捨選択されていると思うとどうにもおかしい。あの少女の記憶をわずかでも切り捨てている、それ自体が後悔になるというのに。
(本当に、どうしようもない人間だな。私は)
そして本当にどうしようもないのは、こうして己の考えにばかり沈みこんでしまうところだ。
三歩ほど先のところで足を止められて、はじめて「彼女」の存在に気がついた。
「あの。タチアナさん……ですか?」
名を呼ばれて、鼓動が意識を串刺した。
いつの間にか俯いていた。視界と顔を上げれば、タチアナを見つめる少女と目が合った。その碧眼に覚えがある。夢で何度もタチアナを映していた。
既視感。まだ夢を見ているみたいだ。しかし違うと分かっている、そういえば夢では声を聞いたことがない。動揺を悟られないよう、落とした煙草を踏み潰しながら口を開く。
「あ、ああ。私はタチアナだよ……君は、」
「ああ、よかったあ! 昔みたいに軍服じゃなかったから、ちょっと分かんなくて。ずいぶん痩せた感じしますし」
少女は花開くように笑う。上気した頬、輪郭でけぶる麦藁色の髪、角がなく柔らかな目鼻立ち。
プリーツスカートのワンピースが可憐な印象を植えつけるが、上着とトランクは誰かのお下がりなのか、不釣り合いに無骨だった。
瞳以外のすべてが記憶の少女と重ならない。戸惑うタチアナをよそに、少女は一歩距離を詰めるとしげしげとタチアナを観察する。
「でも、銀色の髪とかキリッとした鼻筋とか……あとそう、その眼をいちばん覚えてます。変わってなくてよかった」
ふふっ、と愛らしい吐息。まるで屈託のない振る舞いが記憶を上書きしていきそうで、それが怖かった。ジャケットの裾を握り、絞り出すようにもう一度問う。
「一応確認させてほしい。君が……?」
「あ、ごめんなさい。そうですよね、久しぶりだし」
一歩さがる。トランクが重いのか振り回されるように両手でスイングし、小刻みな足取りにワンピースが揺れた。
そして彼女が告げた名は、どうあってもタチアナにとって忘れられない、あの少女のものだった。
「改めて、ゾーヤです。無理言ってごめんなさい、少しのあいだお世話になります。タチアナさん、よろしくお願いします!」
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