レッド/レイズ/ロザリオ/ワルツ

橘こっとん

プロローグ【5人】

 引き抜いた中指は温かかった。


 何度も動かしたからそろそろ痛くなってきたのだ。指先に絡みつく、血と混ざった体液を思わず舐める。

 生臭い味。だが嫌いではなかった。重要なのは上手い不味いではなく、心が満たされることだ。


 それは自分が組み敷いた少女についても同様だった。重いまぶたと分厚めの頬は野暮ったく、あまり可愛らしいとはいえない。

 ここ数日は身だしなみに気を遣うこともできなかったのだから尚更だろう。横たわる廃墟のコンクリートには黒髪が広がっており、髪質はやや荒れているように見受けられる。


 だがそんなことは問題にならないのだ。この姿さえあれば。

 涙と絶望に淀んだ瞳、荒縄で縛られた両の手足、血のにじむ裸の肌。それらに比べれば顔立ちなどささいなスパイスにすぎない。


 残念なところといえば、半開きになった唇からもう罵倒も悲鳴もこぼれてこないことくらいか。今の状況を思えば都合よくはあるのだが。首に残した噛み痕を見るにつけ、そのとき漏れた「かひゅっ」という怯えた吐息を思い出す。欲情の残り火が下腹部で息を吹き返す。


 とはいえそろそろ頃合いだ。あまり長居はできないし、なにより指が痛い。腱鞘炎になりそうだった。少女のスカートで脚のあいだと指を拭き、あらかじめ脱いでおいた下着をはきなおす。


 そして衣服から粉塵をはたき落とすと、自慢のエアリーヘアを梳いて微笑んだ。


「結構よかったよ。いっぱいイイ声聞かせてくれたしね。あなたも楽しんでくれたならいいんだけど」


 そうでなかったことは分かっている。最後までそう濡れていなかったし、指は結局一本しか入らなかった。まして達するなど無理な相談だろう。

 だが楽しんでくれていればという気持ちは本音だ。せっかくの最初での機会なのだ、泣き叫ぶまで含めて感じておかないと損ではないか。


「ええっと……イトーさん、だったっけ。たしか」


 多分そうだが確認できない。彼女も概ねの生徒と同じく名札をつけていないから。

 校則違反だが、「ダサい」ことを嫌う少女たちには無意味だったし、母校の校風はかなり緩い。なにより、今は校則どころか法律自体が意味をなさないのだ。


 傍らに置いていたバックパックを引き寄せる。「イトーさん」はそれではじめて我にかえったように目を見開き、うつ伏せになって必死に這おうとした。少し傷つく。まるで自分の行為など大したことがなかったみたいだ。


 「イトーさん」の腰にまたがり、髪をつかんで首を反らさせる。掠れた声がぜえぜえ漏れ震えていた。どうやら喉が枯れてしまったらしい。

 「もう痛くしないからね」と甘く語りかけ、彼女から視線を離さないまま手元を閃かせる。


「素敵な時間をありがとね。じゃ、ばいばい」


 言って首筋に滑らせた刃は、あっけなく皮膚と血管とを断ち切った。


 見る間に鮮血があふれて味気ないコンクリートを染めていく。ひゅーひゅーこぼれる息にまた情事を思い出す。

 表情を知りたいと思ったが、落胆が目に見えていたからやめた。きっと自分が欲しいものではない。


 そんなことを思っていると、こわばっていた「イトーさん」の身体からくたりと力がぬけた。血はまだ飽きることなく流れ出ていて、黒髪もセーラー服も光沢のあるも一緒くたに塗りこめていく。

 同じ色で汚れたナイフをやはり「イトーさん」の制服で拭う。すこし名残惜しく思いながら、足元の血が自分のところまで広がってくる前に立ち上がった。刺殺はこういうとき面倒だが仕方がない。拳銃も持っているものの、音が響くし弾がもったいないのだ。確実に殺せる場面ではナイフを使おうと決めていた。


 とはいえ結局のところ、殺す殺さないはどうでもいい。あくまでおまけだ。自分の目的はその前段階にこそある。


「残ってる子、あとどれくらいかなあ……」


 礼葉れいは女子学園高等部一年A組・出席番号二五番 羽瀬川はせがわ 華怜かれん

 名の通り華のような微笑みを浮かべたとき、彼女はその放送を聞いた。


***


 馬鹿馬鹿しい。正気を失う者も、逃げ惑う者も、この催しも、すべて。


 何度も考えたことがまた頭を巡り、少女は倦んだように嘆息する。背をあずけた木陰はじっとりと湿っていて、包帯を巻いた右腕はまだじんじんと熱をもっていた。バックパックに救急用品が入っていたのはせめてもの幸運だ。

 そんなことに幸運を覚えてしまうのも馬鹿らしくて、苛立ちがまた脳髄を焦がす。だが現実を認めないのはそれこそ馬鹿のやることだった。

 過去は過去、今は今。臨機応変に立ち回らなければ生き残れない。文字通り。


 状況を整理する。昨日小笠原久美子に負わされた傷がネックだ。化膿していないが良くもなっていない。少なくとも期限までには治らない。明確なハンディキャップになる。


 眼鏡の右側が割れかけているのもよくない。視界の確保は重要だ。

 手持ちの武器はサブマシンガンとクロスボウ、あとは靴下で作ったブラックジャック。どれも距離を把握しなければ当てられない。利き腕の負傷も併せれば最悪だった。


 そう思えば、これ以上の行動は無用かもしれない。体感だが敵の数はかなり減ってきている。自分が動かなくてもどうにかなる可能性が高かった。目的は生き残ることだ。殺すことはその手段にすぎないのだから。


 とはいえ、このまま期限を迎えてしまうのは考えうる限り最悪のパターンだろう。

 生存者が何人残っているか正確に分からない以上、絶対にないとは言い切れない。ならば今のうちに動いた方がいいのだろうか? 現状を掌握するため見晴らしのいいところに陣取って、だがそれでは狙撃される危険が……


 ああ、考えがまとまらない。

 右腕が痛みを伴って疼く。サイドテールの結び目に触れるたび、リスクと安全の天秤が揺れる。


 誰も彼もが馬鹿に見えた。殺す者、殺される者、この状況に振り回される人間すべて。冷静になれないから隙のある殺しをする。それに気づかないから生き残れない。

 だが一番苛立つのはいま何も決められない自分自身だ。必要な殺しにはもう慣れた。倫理観からなにから捨てたというのに、それでもなお有効打が見いだせない。ここまで自分は無能だっただろうか。


 悔しい――なにに対するものか分からない言葉を噛み砕き、その代わりにもう一度つぶやく。


「ほんと、馬鹿みたいよ」


 礼葉女子学園高等部一年A組・出席番号十一番 来栖くるす こずえ。

 もはや何度目かも分からないため息をついたとき、彼女はその放送を聞いた。


***


 殺さなきゃ。

 殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ――同じ言葉がぐるぐる頭を回る。それが意味することもよく理解できていないまま、少女は険しい獣道を彷徨い歩いていた。


 この地獄がはじまってからもう三日ほど経っている。制服はところどころが破けていた。先日美容院でかけてもらったばかりのパーマもぐちゃぐちゃだ。手足の傷がずきずき痛むし、そして何より、洗い落とせないままの血が気持ち悪い。


 武器の日本刀は、重いし血が出るし扱いが難しいしで最悪だった。殺した相手から銃を取り上げようとしたこともあったが、扱いが分からなくて怖いのでやめた。ふとした時に弾が出てきたらと思うとぞっとする。

 その点日本刀なら相手に刃を向ける限り自分には当たらない。せめて武器だけは自分を傷つけないものにしたかった。


 そう、周りはすべて敵なのだ。殺さなければ殺される、ただそれだけの理屈が少女たちを支配している。


「ころさなきゃ、みんな、はやく、ころさなきゃ……」


 日本刀を杖代わりにして、少女は草むらのなか幽鬼の歩みを進めていく。どこに行けばいいのか分からない。きっと殺すべき誰かのところ、あるいはたったひとりの少女のところだ。

 死にたくない。傷つきたくないし殺されたくない。だから殺さないといけない。そんな苦海で、けれどあの子だけは自分を救ってくれるのだ。だから行かないと。


 右脛に痛みが走る。ぼうっと霞がかっていた意識が新たな痛みに覚醒して、ひざをつくと同時に思考が走った。


 ワイヤー? 罠? 待ち伏せされていた、殺される、いやだ早く殺さないと――


 日本刀を抜く。刀身は血で汚れきり、刃はところどころ欠けていた。周囲に警戒をはり巡らせてしゃがみこむ。しかし足元を見やったとたん、その集中は霧散した。

 右のふくらはぎがすっぱり切れている。だがワイヤーなど存在しない。ちょこんと生えた小さな若木の枝先に、血のかけらがにじんでいるだけだった。


 一気に身体中の力がぬける。そのまま地面にへたりこむ。力ない手つきで若木を根元から刎ね飛ばして、これが最後の気力だった。もう一歩も動けない。


 視界が熱いもので覆われて、声を殺して嗚咽する。誰にも見つからないように。けれど誰かに届くようにと、こいねがいながら雫を落とす。


「やだ、こんなのもうやだよぉ……たすけてよ、ねえ……」


 礼葉女子学園高等部一年A組・出席番号三番 浮嶋うきしま 千紗ちさ

 唇で「あの子」の名を刻んだとき、彼女はその放送を聞いた。


***


 ごめんなさい、と囁きながら少女は歩む。

 救えなかった人、殺してしまった人。手を差し伸べることができなかった人、手を離してしまった人。

 みんなみんな大事な級友だったのに、もう誰もこの世にいない。みんな自分の前で死んでいった。


 悔いても悔いきれない。だからこそ、自分はまだやれることを見つけなければならないのだ。


 コンクリートで舗装された林道は見晴らしがよく、太陽の光をさんさんと受け止めている。脇には傾斜のついた林があった。待ち伏せだの何だのには都合がいいだろう。

 ならば誰かがいる可能性は高かった。この局面で生きている人間が、まだ。


「ねえ、誰かいない? 怖いのは分かるけどさ、話し合おうよ。きっとどうにかなるからさ」


 林へ呼びかける。王子様みたい、と散々もてはやされたハスキーボイスは、いまやただの震え声だ。説得力なんて欠片もない。


 怖い。姿をさらせば一瞬のうちに銃口を向けられる、それくらいとっくに理解しているのだ。

 けれど信頼を得るにはこれしかない。自分が先に歩み寄らないと、相手の良心さえ潰してしまう。


 みんな同じことを思っているはずだ。本当は殺したくなんてない。けれど死ぬのは怖いから、殺されるのは怖いから、殺すしかない。

 だが根本の思いさえ同じなら、いつかはきっと分かりあえる。自分に応じてくれる誰かは現れる。


 その思いは実ったのだろうか。こちらに背を向けるように木へもたれかかる影が見えて、思わず呼吸が跳ね上がった。


「……笹木さん?」


 高い位置で結んだ、明るい色のツインテール。高等部になってあの髪型をしたクラスメイトは一人しかいない。周囲から子ども扱いされながらも可愛がられている子だった。自分の試合にも応援に来てくれていた気がする。

 答えてくれた。逸る鼓動が胸をうつ。早口になりそうになる言葉を制して、ことさらゆっくりと歩みを向ける。


「笹木さんだよね? 私、湊だよ……みんな心配してたよ。ね、そっち行っていい?」


 反応はない。だが否定なら逃げるか武器を向けるかしているはずだ。肯定と受け取って脚を早める。

 今度こそ間違えない。次は絶対に守りぬく――そう唱えつづけて、自慢の健脚で坂をのぼる。頭は低い位置にある。座っているのだろう。刺激しないように木の裏をのぞきこむ。


 ツインテールの愛らしいクラスメート、笹木彩。額に空いた風穴が信じられないとでもいうように、眼を見開いたまま絶命していた。


「……」


 思いのほかショックは受けなかった。脚が浮き立つのをやめ、これまで通りの地獄に根を下ろしただけ。

 そんな心の動きを信じたくなくて、せめて彩のまぶたを降ろしてやる。生前の可愛らしい面影がかすかに戻った。


 手を合わすのもそこそこに立ち上がる。まだ諦めるわけにはいかないのだ。怖いくらいに明るく照らされた林道に戻り、再び声をあげる。


「ねえ、誰か……」


 礼葉女子学園高等部一年A組・出席番号三十二番 みなと 亜衣音あいね

呼びかけはきっと誰にも届かないと気づきかけたとき、彼女はその放送を聞いた。


***


 早く終わってほしい。なんでもいいから、一刻も早く。


 暗闇でうずくまる少女の心はそれだけだ。殺すことも殺されることもしたくない。それくらいなら時間切れで死んだ方がよほどましだった。

 とはいえ自殺をする度胸も、首輪の爆弾をむりやり起動させる胆力もない。ただただ何もしたくないと、心にあるのはそれだけだ。


 誰もいない民家を見つけられたのは幸いだった。こういうところは初期に探索され尽くされたので役立つものはなかったが、少なくとも隠れることはできる。

 期限が迫った今の段階ならなおさらに。荒れ果てた和室の押し入れなどと、こんな逃げ場のない場所に潜む馬鹿はあまりいないだろうから。


 いや、逃げてきた結果がこれなのだ。三日前にこの状況がはじまった時から、何もかもを放棄してきた。


 武器は使う事態を考えることすら恐ろしくて早々に捨てた。それからはずっと誰との接触も避け、暗がりで縮こまって呼吸することしかしていない。

 それもそろそろ限界だ。蛍光塗料の塗られた時計を見やれば、時間切れまであと八時間ほど。状況を変えるには遅すぎるが、何もせずやりすごすには長すぎる。


 死ぬ準備、とやらをしておいた方がいいのかもしれない。殺されるにしろ時間切れにしろ、結果としてはそう変わらないのだ。


 遺書を用意しようと一瞬考えたが、そういうものを家族に渡してもらえるとも思えない。万一渡してもらえるとして何を書けばいいのだろう。言い残したいことなど何もない。

 そして何を書き残したとして、きっと両親や妹は悲しむのだ。だったら何を書いても意味などない気がする。


 ――もう、考えることすら飽いてきた。もう何もしたくない、何も考えたくない。

 ただこうして何も見えない暗闇で、眠るように終わっていきたい……その願いを自覚したとたん、身体はかび臭い板張りに横たわっていた。


 心も体もただただ気怠い。眠くもないのに目を閉じて、埃っぽく冷たい空気を呼吸する。

 この押し入れが時分の棺になるのかな、なんて思いながら。まだ思考してしまう頭を疎ましく感じながら。


「……はやく、終わらないかな」


 礼葉女子学園高等部一年A組・出席番号二十番 築城つきしろ ゆい。遠い永遠の眠りへ手を伸ばしたとき、彼女はその放送を聞いた。











「――礼葉女子学園高等部一年A組のみなさん。生存者が五名となりました。これにてプロジェクトの全日程を終了いたします。


 生存者の生徒はその場に留まり、スタッフの到着をお待ちください。この経験がみなさんの人生をよりよいものにすることを祈っております。たいへんお疲れ様でした!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レッド/レイズ/ロザリオ/ワルツ 橘こっとん @tefutefu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ