リジェネレーション

 リジェネレーション


 有能な助手はドイツ語を話すことができた。だからこの仕事を受けた。音楽家という仕事を俺は誤解していたかもしれない。スコアを浚い、音作りに向き合い、家の中に閉じこもって世間を見ない偏屈な生き物のようなイメージがどこかにあって、恥ずかしながらそういう目で彼女のことを見ていたのも部分的には否めなかったりした。でも聞いてみれば彼女は学生時代にフランスへ留学していたというし、ドイツ語も独学ながら学んでいた期間があるという。俺よりもよっぽど広い世界を知ってるじゃないか。なんだかそう思うと矮小なものになったような気がして、俺は素直に彼女と向き合えないまま11時間弱のフライトを終えた。有り体に言えば、年下の女の子におんぶに抱っこでこの仕事を進めるのが、現地に近づくほどに怖くなってきたのだった。

 着いてすぐ入国審査で引っかかった。滞在目的は仕事と言ったのに、自由業のようなものだと回答したのがよくなかった。一応ここは弁明しておくが、言ったのは俺じゃない。彼女だ。真面目な子なのだ。故にこわい顔の入国審査官にとどめ置かれて20分ばかりの尋問を受けた。職務に真面目な人間は時に冷酷で残酷である。

 着いて間も無く、ホテルに荷物を押し込んだ俺たちは、エスカレーターを下ってすぐのところにあるスーパーでパンを買い込んだ。信じられないくらい安くなっているユーロは先日の欧州情勢を嫌という程に反映している。予め換金してきていたので、紙幣を誇らしげに出すともっと小さい紙幣で払えと店員に文句を言われた。日本じゃまずあり得ない光景。

「ドイツのパンって美味しいですよね。旅行に来たら必ず買ってました」

「あんまり好みじゃないけどね……」

「三村さんは大体白米を召し上がりますから……でも、ヨーロッパに来たらパンですよ、パン」

「アメリカでも米を炊いてた人間にとっては耳が痛いな」

「郷に入っては郷に従う、です」

 やたら甘いコーラとやたら硬いパンをなんとか胃に押し込んだ。軽食のつもりだったが存外腹が膨れるものだ。なんとも味気ない夕食だったが、飛行機の中で複数回出された何食ともつかない謎の食料が妙に空腹感を奪っていた。

「水は買えるうちに買っておいたほうがいいですよ」 

 ホテルは空港から連絡通路でそのまま繋がっていて所要時間は約5分。さすがは世界のハブ空港である。豪壮絢爛な外見とは裏腹に意外なほどの安値で売り出されていたその一室は、ダブルベッドであることを除けば理想的な寝床に見えた。しかし俺たちは今回、仕事のためとはいえわざわざヨーロッパまで観光に来た日本人のカップルを演じる必要があったので、それについては事前に了承済みだし何の文句もない。一人で動き回るよりは二人で。これは出発前に国友さんが口を酸っぱくして俺に言い聞かせた言葉だ。

 飛行機というのは乗るだけでも疲れるものだ。シャワーはさすがにまずは若い女の子に譲った。きっと疲れているのだろう。けたたましい勢いでタイルに叩きつけられる水音をぼんやりと聞いているのもそれはそれで失礼な気がしたので、何も考えずにテレビのチャンネルを回した。当然言語はドイツ語なので、何一つわかりはしない。1日分以上の汚れを背負ったままベッドに寝転ぶのは気が咎めた。貴重品入れの肩掛けカバンから手帳を取り出す。明日乗る電車の時間と乗り換え駅が書いてあるのだ。

 俺は正直な話、このトリーアという地名を聞くのさえ初めてで、検索してみると日本語ではトリーアとかトリールとかいくつかの表記の揺れがあるらしい。つまりはそれだけ日本において浸透していないということだ。しかし何があるのかと見てみれば世界遺産は7つも8つもあって、さらには左側の人にはまさしく神にも等しい(共産主義は宗教を否定するのだが)カールマルクスを輩出したというではないか。きっとこの知名度の低さはサッカーチームが弱いせいだろう。あるいは日本人選手の誰かが移籍すれば一躍有名な街になるかもしれない。

 そんな街に娘がいるかもしれない。そう大家のおばあさんに泣きつかれたのは、ちょうど一週間前の話だ。




『あんた探偵さんなんでしょう。申し訳ないんだけど、私の代わりに行って来てもらえないかしら』

 頼りになるのは絵葉書だった。逆にいうならば絵葉書しかなかった。どこに行ったかわからなかった娘から手紙が届いて、と語る大家さんは5年前に旦那さんを亡くし、我らが拠点を構える雑居ビルを遺産として旦那さんから引き継いだ。それまで普通の専業主婦だった彼女は、大学にも専門学校にも行ったことがなく、もちろん外国にも出たことがない。数年前から旦那さんの看病に追われて、亡くなってからはむしろ肩の荷が下りたのだというようなことを言っていたのは覚えていたが、娘がいたことは知らなかった。知らないはずだ、俺がテナントを借りた頃にはすでにその娘は失踪に近い形で家を出ていて、実家とは疎遠になっていた。どうやら相当父親と折り合いが悪かったらしい。結婚したともしないとも、日本にいるともいないともわからなかった大家さんにとって、一言の息災を書いて寄越した彼女の手紙はまさに地獄に垂らされた蜘蛛の糸であった。

 いつまでたっても親は親なのよ、あんたも親がいるなら帰ってあげなさいよ。依頼のついでに説教も付け加えていく彼女は、何ヶ月か賃料を踏み倒しても怒らないという点では非常に良い人だった。ただ少し推しが強いだけで。そして、世の中には親のありがたみを30超えてもまだわからない男がるということを度外視するというだけで。

 話を横で聞いていた国友さんが興味ありそうに目を輝かせていたから、それじゃあ行こうかという話になって、渡航費も滞在費も全部込みで(何ヶ月分かの賃料から引いてくれるらしい)、事務所の方は経理担当に任せて開店休業状態にしつつ、俺たちはドイツへやってきた。来る前に想像していたよりも随分暖かかった。天気予報では8月にも関わらず気温8度とかいう嘘みたいな表示を目の当たりにしたりもしていたのだが、こればかりは嬉しい誤算と言えるだろう。ジャケットを厚手のものから薄手のものに替えて、物陰や建物に入ればちょうど良い心地よさだった。真夏の日本よりはよほどいい。






 国友さんが風呂から上がってきたのを見届け、交代で風呂に入った。ホテルの風呂は、なんとなく居心地が良くて好きだ。尤もお嬢様育ちの国友さんにはなんの変哲も無いビジネスホテルのユニットバスは窮屈だったようで、化粧を落とした飾り気のない玉肌に入念にクリームを塗り込む表情は暗めだった。

「三村さん、お湯出るまでしばらくかかりますよ」

「ほんとだ。ありがと」

「バスタオル間違えて使わないでくださいね」

「さすがに濡れてるかどうかはわかるよ」

 欧米人の体格に合わせて広々としたシャワールームは俺にとっては快適そのものである。10時間を超えるフライトの汚れをすっかり落とし、浅く張った湯に身をくぐらせる。いかがわしいことはかけらも考えていなかったはずなのに、やはりホテルの風呂という環境がそう思わせるのか、やたらと気持ちが高ぶった。相手が彼女でなければ無理にでも口説いた。その気じゃないと言いながら男と二人で海外旅行なんて、さすがに冗談がすぎるだろうと相手に責任をなすりつけながら、躊躇なくバスローブの細腰をほどいただろう。彼女でなかったならば。

 証左と言ってはなんだが、俺は今回の旅行に一つもコンドームを持ってきていない。普段なら国内旅行でひとり旅であってもこうはいかない。同行するのが本命の女であればこそ、そう気安くも関係を持つことができない。

「あ〜〜〜もう」

 童貞か、と自分でツッコミを入れたくなる。情けない話だ。早いうちに、それこそ出会って間もないくらいに関係しておけばこんなことにはならなかった。ここまで本気になる前にしれっと抱いておけば、その後の言い訳なんていくらでもできた。本気だから、今更他の女みたいに気軽に抱くことができない。欲に塗れた目も、朝の寝顔も晒すわけにいかない。順番を間違えて大人になった男は最悪だ。女を口説くのは簡単にできるのに、愛するとなるとどうしていいか途端に迷う。格好つかないことこの上ない。だからそんな気なんてありませんよ、あなたのことはそういう目で見てませんよという顔をするしかないのである。

「三村さん? 大丈夫ですか?」

「大丈夫。もうすぐ出る」

「私もう寝るので、宜しくお願いしますね」

 時差ボケを避けるために、飛行機ではずっと起きていた。今は日本時間に換算すると午前4時、眠いのも当たり前である。この子はこんな風に無防備が過ぎるから、何をするにも、どこへ連れて行くのにもひそやかな罪悪感が湧く。風呂を出ると宣言通り健やかな寝顔を晒して寝息を立てていた。愛らしいとかかわいらしいとか、そういった感想の前に慈しむ気持ちが出て、意識のない頬をそっとなぞった。






 フランクフルト国際空港駅からトリーアまでは2回の乗り換えを要する。早朝、8時半発の列車でまずはマインツへ向かう予定だったが、近距離路線はホームが違うとかで2度上り下りを繰り返す羽目になった。空港ターミナルのほど近く、その列車は薄暗い地下に停まっていた。ニューヨークでも東京でも地下鉄の風景は変わらない。フランクフルトは欧州の金融中心街だから、金融都市の地下はどこも同じ風景で同じ匂いなのかも知れない。唯一ゴミ箱の形が変わっていて、三角錐の形をした上部の3面からゴミを捨てることができる。さっきスタンドで買って食べた硬いハムサンドの紙袋を捨てて、俺は国友さんに続く形で列車に乗り込んだ。

「地下鉄で行けるんだな」

「すぐ地上に出ますよ。ここが少し変わってるだけで」

「京王線みたいだ」

 予告通りすぐに地上を走る。旅人にしては軽装な俺たちは、ぼうっと窓から外を眺めた。灰色の空。もっと抜けるような青空をイメージしていたが、さすがに夢を見過ぎだっただろうか。

「マインツから、乗り換えてどこまでだった?」

「コブレンツです。1時間くらいですね、今度は特急ですよ」

「ふーん。で、そのあとも1時間半くらい乗るんだっけ」

「そうです。でもコブレンツからはほぼ直通ですから、乗りっぱなしでなんとか。乗り過ごすとルクセンブルクまで行っちゃいます」

「ああなんだっけ、首相が同性婚した国か。案外近いんだな」

「あそこはあそこで、いいところです。私がいたのはストラスブールなので、一度だけ行ったことがあります」

「パスポートなしでも国境を越えられるのはヨーロッパのいいところだよな。アジアとは大違い」

 他愛ない話はどれも飛行機の中で一度はしたような気がする内容だったが、沈黙を気まずく思うよりはマシだった。国友さんの話を聞いているうちに、マインツにはすぐ着いた。川を越えている時、あれが大聖堂ですと指差して教えられたが今ひとつよくわからなかった。わからないまま曖昧に頷き、人の流れに乗ってホームへ降りる。日本の駅舎とは全く異なる、だだっ広く無機質で、人の殺到しないホームはなぜか居心地が良かった。

「……遅れてるみたいですね」

「え、うそ」

「あそこ見てください。電光掲示板」

「まぁわかんないけど、そうなのか」

 イメージに反してドイツの鉄道はよく遅れるらしい。イタリアやフランスに比べたら正確な方だというが、おそらくそれはドイツ人が時間に正確な気性だからで、現にホームにはなにやら掲示板を見ながら激昂している老人がいた。ニープンクトリヒ、と繰り返す老人の声音がやたら印象的で、おそらくあれはパンクチュアルpunktualのドイツ語なんだろうかとぼんやり思った。時間通り、正確な。そうでないから怒っている、というのもわかりやすい。

「どうしようかな。今遅れたら、コブレンツで電車を逃すかも」

「まあいいんじゃないか。別に急がないわけだし」

「次に来るの1時間後ですよ」

「……半分旅行だからな、いいさ。コブレンツに着いたらビールでも買うか、国友さん」

「私はコーヒーでいいです。時間があるなら、そこで電話してもいいですか」

「ん? 誰に」

「日本人のお友達がいるので」

 日本人の友達。それがどういう人物なのかは、いちいち探るほど野暮ではない。男だろうが女だろうが。どうせこんな海外で生活しているのなら、一般の日本人とは認識が少しずれていることだろう。既に1時間電車に乗っただけで疲弊している俺にとって、こんなところで生活するなんて想像の範疇を超えた被虐趣味に見えた。真似できない。するつもりもない。正直、日本以外で生きていく気は無い。それが一層強まる道中ではあった。

 時間通りに来る電車はそれだけで神々しく見えるものだ。俺は早くも東京が恋しくなっていた。


 電話はなかなか繋がらなかったが、電車を待っている間に2度かけ、目的地の駅に着いた時に掛け、やっと繋がった。予想はしていたが、男だった。そしてケルンという新しい町の名前を聴き、当然のように会うことを告げられた。俺はすこぶる複雑だったが、早く終わらせるという具体的な目的ができた点に関してはなんの文句もない。曖昧に笑って流す。

 トリーアは想像していたよりもずっと小さな町だった。まず駅からして規模がコブレンツの3分の1くらいだったし、駅は高架ではなく地面に建てられていて向かいの丘がよく見える。田舎に来てしまった、と本能的に思ったが、有能な助手はグイグイと俺をバス乗り場まで引っ張って行き、5分後にバスが来ることを教えてくれた。

「とりあえず、滞在中の拠点はホテルに置いてですね、ホテルは中心部にあるので、そこから歩き回るという形でよろしいかと」

「そうね」

「三村さん、滞在先のホテルの名前大丈夫ですか」

「ここにメモが……読むのは任せる」

「お疲れですか?」

 疲れている。明確に疲弊しているが、ここは少しでも見栄を張りたいところだ。

「大丈夫。荷物を置いたら少し観光しようか……昨日は硬いパンだったから今夜は何か奢るよ」

 安堵したように国友さんは笑顔を浮かべた。くそ、可愛い。大変けしからんことに愛らしいことこの上ない。こういう笑顔を向けられて、張り切ってしまう男とそうでない男、世の中には2種類の男がいるが俺は間違いなく後者だ。それでなくとも通訳全部丸投げしている。なんなら滞在中の食事は全部俺持ちでもいい。疲れているせいで少し投げやりだがそれでも全然いい。

「せっかくドイツに来たからにはソーセージが食べたいですね」

 疲れているせいで妙な連想をしたが、慌てて頭を振って打ち消した。

「噂に聞くカリーヴルストとか」

「あっ。いいですねえ、探しましょうね」

「看板は読めないから絵でも探すか」

 バスは程なくしてやって来て、入り口で料金を要求して来た。これも予習通り。どう見ても重そうな荷物とアジア人の外観を見てか、運転手は何も言わずに4ユーロを受け取ってチケットを2枚発券してくれた。そして周りの乗客も心なしか道を譲ってくれる。噂には聞いていたが親切な国民性である。

 奥まった座りにくい席が空いていたので、彼女と譲り合うようにして座るとバスが動き出した。

「1週間あれば、何か糸口も見つかりますかね」

「そう踏んでるんだけどな。そんなに大きくない街だし、日本人コミュニティなんか当たれば一発じゃないかなーとは思う」

「というか、身元隠すつもりなら、もっと大きい街で手紙出せばよかったのに」

「これは俺の推測だけど、多分これは本人が出した手紙じゃない」

「そうなんですか?」

「疎遠になった親に自分で手紙を送るなんて真似はしないんだよ。書きかけてやめるか、書いて送らずに溜めるか。俺ならそうする。っていうか、そうしたというか」

「……あれ? 根拠はないんですか」

「ないね。同じ境遇ゆえの勘」

 そう言って笑うと国友さんはそういうものですか、と不服そうに言った。説明不足で申し訳ないが、しかしこれ以上に言いようがなかったのだ。

 子として親にしてやれること。それは多いように見えて、存外少ない。親が子にしてやれることと同じくらい、無益で無価値で、独善的で。健在でさえあれば良いなどと、耳障りの良いことを言ってもそれは一時凌ぎであり、親に反発するなど大人気ない、という世間の風潮に対する処世術の一環だったりする。

 親だからこそ許せない。子だからこそ、愛せない。そうした気持ちに覚えがあったから、俺はもしかしたらわざわざ、こんなに遠くまで出向いているのかもしれない。

 自分のことはいつまでも吹っ切れないのに、他人のそうしたことに肩入れしてしまうのは、きっと自分のことから背を向けたいからなんだろう。

「俺が仮にこの娘さんのお友達だったら、絶対にこの話は受けなかったけど」

「大家さんにはお世話になってるから受けたんですね」

「そう。軽蔑したかな」

「いえ。そういいながら、三村さんはいつも解決しようと尽力してくださるから。私の時もそうだったし、お仕事への姿勢、とっても素敵だと思います」

 純粋にそう言ってくれる助手を前にすると、とてもじゃないが本当のことは言えなかった。俺は君だったから君の依頼を受けた。君が思うより俺はよっぽどクズなんだ、と口にするのはあまりに度胸のいることだった。返事はせずにバスの外を見る。廃墟のような市壁の残骸が道路沿いに立ち並んでいて、言い訳を探すようにそれをずっと眺めていた。


***


 モーゼルワインの世界的名産地はその評判に劣らず燦々と眩しい太陽光が降り注いでいた。川沿いの斜面には所狭しと葡萄の木が並ぶ。あの全ての葡萄がワインになるのだと、国友さんはそう教えてくれた。ワインといえばボジョレーヌーボー、しかも貰い物しか飲んだことのないような自分にとって、ドイツの白ワインと言われてもあまりありがたみがない。知らないものをありがたがるような真似は好きではなかった。きっと彼女も嫌いだろう。

 バスは巨大な黒い廃墟の前で停まった。狙いすましたようにはす向かいのケバブスタンドで店員が手を振る。風貌はいかにもヨーロッパ人。ケバブ屋はトルコ系に限った話ではないらしい。

「先にホテルに行こうと思ったんですが」

「お腹すいた」

「三村さんってたまにびっくりするくらい子供っぽい時があります」

「欲に忠実なのは30超えるとなんとも情けなく思えてくる」

 店の段差はトランクケースに不親切だったので、国友さんが俺の分と合わせて二つ、手のひらの1.5倍くらいはありそうな馬鹿でかいケバブを廃墟の近くのベンチまで持ってきてくれた。不慣れな異国のジャンクフードは一言で言うと食べにくい。味は言わずもがな、日本のジャンクフードを小馬鹿にするようなクオリティとボリューム。シャキシャキのレタスと真っ白なソースの酸味が肉の風味と程よく調和し、絶品としか言いようがなかった。

 大口を開けて齧るのは、彼女の意外な一面の一つだった。昨日のバゲットもそうだった。硬いパンを齧る健康的な白い歯、大きく開けられた口。日本にいた時には目の当たりにすることのなかった彼女の一面は、俺の心を無意識に浮足立たせる。片思いというのは、相手の知らない顔を知る、ただそれだけのことがどうしてこんなに楽しいのだろう。馬鹿みたいだ。子供っぽいという指摘は、強ち間違いではない。

「ケバブは東京でも食えるけど、やっぱり現地のは美味いなって」

「このボリュームに慣れると日本で食べられないですね」

「本当に。その分、こっちじゃ日本食は高いんだろうな」

「日本のオクトーバーフェストのビールくらいの価格帯ですかね」

 ぺろ、と親指についたソースを舐めとり、国友さんは謎の廃墟を見に行った。感心したように遠くから眺め、近くから見上げ、そしてぐるっと石畳の感触を確かめるようにして歩いて回る。俺はその姿をぼうっと見つめていた。そして俺より早く彼女がケバブを平らげたことに、俺はまたもや知らない一面を見た気分だった。単純に俺の、慣れない食べ物への耐性の低さが露見しただけとも言えるのだが。

「三村さーん。終わったら、スーツケース持って来てください! せっかくだし、上がっていきましょ」

「先にホテルじゃなかったのか」

 日本語に反応するのは俺一人だった。この国の端っこの町、小さな都市では、日本語が使われるという事態がそもそも珍しいのだろう。道ゆく人々が物珍しげに眺めてくるのを視界の端で看過しながら、俺は苦笑して二人分のスーツケースを押して石畳の向こうへ急いだ。心なしか跳ねた彼女の語調が、言いようもなく可愛らしく聞こえたのだ。



 ローマ帝国時代。ここはドイツ地域ではあるが、れっきとしたローマ都市だった。

 円形闘技場も、皇帝浴場も、市壁もあった。ゲルマン人の一部族である、トレウェリー族が住んでいたから、トリーアの名を冠する。ほぼ完全な形で残る市壁北門は、いつしか劣化と戦火による変色から「Porta Nigra(黒い門)」と呼ばれるようになり、今日までその姿をとどめている。

 30メートルの巨大な門を築き、そこから内を市域と定めた古代のローマ人は、現代基準で考えても相当な変態だ。この技術力、そして統率力。さぞや外部の民には脅威であったことだろう。地下を一度経由する入り口で、スーツケースは預けて来た。最低限の手回品だけを携えて、俺と国友さんは地上を見下ろす3階の小さな窓から胸の奥まで空気を吸い込んだ。今日は随分と涼しい。いや、ドイツはもしかすると、いつでもこんな調子なのか。

「なんだか随分詳細な解説ですね」

「研究熱心なんだな。まあ、日本でも城があるところは大体こんなもんだよな」

「門だけに」

「あっ結構つまらない……」

「わ、忘れてください」

 ガラスに印字された表示は街の歴史、この門の謂れ、あらゆるものを詳細に語っていた。ドイツ語はさっぱりだが、英語はありがたい。ちょっとしたジオラマなんかもあって、これなら子供にも優しいだろう。静謐な印象の石造りの建物の中は驚くほどひんやりとしていて、寄りかかった窓枠、というより空洞のちょうどいい高さの下底が服越しの肘をひんやりと冷やしていった。

「残ってるのがすごいよなあ。1700年も」

「本当に。法隆寺より長いんですよね」

「木製で1500年近く残ってる法隆寺も大概やばいけど」

「んー。法隆寺より涼しいですね」

「寒いくらいだ。まだ上あがる?」

 国友さんに手を差し出す。何の気なしに彼女が握る。手だけは、これまでもたくさん握って来た。それ以上ができないだけだ。

「手汗かかなくていいですよね、この国」

「涼しいからね」

 涼しくても心臓は鳴る。喧しく、煩わしく、何度も。階段を登って息切れしてるわけじゃない。スーツケースが重かったわけでもない。仕事できているのに、デートの真似事みたいなことをして、照れ臭かったのだ。彼女の手は弦を押さえる手で、繊細なのに強くて、俺の手とは全然違う。そういえばさっき、ケバブ食べたあと、ああ……俺も大概気持ち悪いな。

「三村さん? 涼しいんですよね」

「ん、ああ」

「手熱いですけど。本当に涼しいです?」

「眠いのかなあ」

「子供じゃあるまいし」

 バカなやり取りをしながら階段をかつかつと踏みしめて登る。いけない、遊びに来てるわけじゃないのに、どうしてこんなに彼女は楽しそうな顔をするんだろう。

「国友さん。仕事だからな」

「わかってますよ。三村さんこそ」

「仕事はきっちりするよ」

「知ってます。頼りにしてます」

「こちらこそ。……ま、これも一応仕事だしなあ。立地確認は大事だ」

 もっともらしいことを言えば彼女は何も言わない。女神なのだ。基本的に人を疑わない。だからこそ、色々と辛い思いもしたし、親戚同士の面倒な交渉に巻き込まれて俺を頼ることになった。父親を亡くして大変だったはずの時に、財産相続と後継問題に頭を悩ませ、ろくに泣けていないから胸を貸してくれと言われた時、情けないことに俺はすこーんと頭から、恋の沼に落っこちてしまった。こんなことは初めてだった。月並みな話だ、弱みを見せられたから好きになってしまうなど、考えられなかった。

 仕事だから。仕事……ただ、彼女と一緒でなければ、受けなかった、仕事。

「地図見ますか?」

「みる。ありがとう」

 大聖堂があって、博物館があって、三叉路、バジリカ、あの大きな教会の向こうには公衆浴場。小さな街だが、なんでもある。これは存外骨が折れるかもしれないが、仕事の皮を被って彼女の手を取れるなら、それもまた悪くはない。





***


 3日が経った。あれから結局、毎日街で日本人の足跡を追ったが、当然話はそう簡単ではない。

 うまいソーセージスタンドも、魚料理の店も、ビールの専門店も見つけた。だが日本人の情報は得られない。この町の人々は意外なことに、老若男女問わず驚くほど英語が上手だったし、旅人に親切だった。観光地としての矜持がそうさせるのだろう。京都よりも奈良よりも古い都、そのことに誇りを持っている。人口は10万人足らず、なのに世界遺産は8つ。街の中心部には常になんらかのアーティストがいて、それを見ながら炎天下の下でみんなアイスを食べている。大聖堂の前にはベンチが並んでいて、休憩がてら俺たちも何度か行ったが、年老いた紳士が子供達のためにシャボン玉を作ってやっていた。長閑なものだ。天高くキラキラと輝くシャボン玉を子供達が追いかけ、追いついたり追い越したり。

「ここはいいところですね」

 全く目的が達成されてはいなかったが、それには俺も同感だった。国友さんは遠巻きに子供達を眺め、満足げに目を細めた。子供が好きなのは意外だった。芸術家に子供、というイメージがあまりなかったのだ。探偵にも子供というイメージは同じくないだろうが。

「思ってたより長閑だよなあ」

「私、ケルンに行ったことあるんですけど。同じ司教座都市でも全然違いますね」

「シキョーザトシ」

「昔、大司教っていうすごく偉いキリスト教の指導者がいたところです。ドイツ地域だとマインツ、ケルン、そしてここトリーア」

「なんだ。全部行くことになるのか」

「そういうことになりますね。司教座巡りです……あの三村さん」

「ん?」

「子供ってやっぱり欲しいですか?」

 想像して見て欲しい。好きな相手に、唐突に、子供が欲しいかどうか尋ねられる状況を。

 俺はその時ちょうど、世界的ファーストフード店で買ったばかりの味のしないコーヒーを飲んでいた。思わず吹き出しそうになるのを慌てて口を押さえて耐えたのだ。国友さん、きみは、その発言が君の口から為される威力を知らない。

「なんでまた」

「いえ。あんまり眩しそうに見ておられるから」

「実際逆光だしなあ。……まあ、そういうことになったら、まんざらでもないんだろうな」

 まるで他人事のようで少し冷たい言い方になったが、実際まだ自分が人の親になるという想像はうまくできなかった。どうしても親というものの雛形が希薄だし、俺の知る親の形をそのまま再現したらこんな息子ができてしまう。娘は死ぬかもしれない。姉のように……どうも家族というものには良い思い出がない。国友さんもそれは同じのはずだ。形は違えど。

「大人なんですね」

「どうかな。この年の男にしたらだいぶちゃらんぽらんだと思うよ」

「てっきり断固拒否するのかと」

「生まれる命に罪はないし。罪があるとしたら、防ぎきれなかった俺が悪いし……ってなんで失敗する前提なんだか」

「あはは。そうですよね。まぁ、ああいうのは授かりものですから。望む望まない以前の問題なんでしょうね」

「神の御心のままに、ってか」

 まるで敬虔な信徒だ。俺は思わず笑った。自分自身は相変わらずカトリックとプロテスタントの区別も曖昧なくせに。

「そういえば、友人から連絡が入りまして……急遽そっちに行く用事ができたからご飯でも、と」

 国友さんの言葉に俺は少し黙る。友人というと、あの電話で話していた男か。頗る複雑ではあったが、こっちに職を得ている人ならばもっと広範なコミュニティに関する情報なども持っているかもしれない。何もこの街に住んでいるからと言ってこの街のコミュニティに顔を出しているとも限らないわけだし。ちなみに着いてすぐ、それらしき団体、というか個人には連絡を取っている。残念ながらそんな名前の人は知らないと言われてしまったが。

「しばらく滞在するので、用事が終わったらまた迎えに来ると……ケルンにはどうしても連れて行きたいそうで」

「なんで?」

「美味しいビールを出す店があるんだって言ってました」

「ビール好きか。で、そいつなに、デブいおっさんだったりとかしない?」

「いやあ……会ったのは数年前に一度きりですから。今はもしかしたら太ってたりして。ううん、結構男前でしたけどねえ」

「俺くらい?」

「なんか系統の違うイケメンでしたね。女の人が10人いたら5:5で分かれそうな」

 彼女自身がどっちかは聞かなかった。そして見ず知らずの男前と半々、と言われて地味に嬉しかったのは内緒だ。少なくとも彼女視点、男前カウントには数えてもらっているらしい。ありがたい。

「いつ来るの、そのイケメン」

「明日。ですから、明日の晩は食費浮きますよ」

「全額おごってくれるのかあ。高給取り?」

「大使館の人です」

「……うん?」

 全く想像しなかった展開に俺は思わず固まる。大使館。なるほど、縦横無尽に国を動き回るわけだ。いやそうじゃない。

 そんなコネクションがあるなら最初からそこを当たればよかったのではないか? ケルンの近くというと、こことはもしかしたら州が違うかもしれないが、在独邦人の情報くらいは管理しているだろうし、こっちは身内、血縁が探しているという証拠もいくつか持っている。

「国友さん。それ初めからその人当たればよかったんじゃないか」

「……?」

「コネがあるなら使おう」

「は、はい。ええと、連絡しましょうか」

 どうせ繋がらないだろ、と思ったら本当に繋がらなかった。まぁ、初回もそんな調子だったものなあ。

 俺はなんだかおかしくなって、テンション的にはあの子供達と一緒にシャボン玉を追いかけたくなったが、さすがに絵的にやばすぎてやめた。

 でもこれは思ったよりもなんとかなるかもしれない。というか大使館職員とコネがあるとは。さすがに俺も全く想像しなかった。彼女の広すぎる人脈にはつくづく驚かされる。

「み、三村さんごめんなさい、あの、繋がるまで電話しますから」

「いいよ。個人情報だし、まぁなんかコミュニティとか目撃証言とか聞けるの期待するしかないし。その人もそのものズバリの情報持ってるとも限らないし」




「ああ。恵令奈を探してたのか」

 ズッコケそうになった。翌日夜、唐突にホテルの前に車を停め、そのまま店は押さえてるから! と俺たち2人を小洒落たレストランまで連れてきた強引なその男は、事もなげに言い放ち、そして驚くべきことにその場で電話をかけようとした。慌てて止めたが。

「……あのう美袋さん」

「はい。なんでしょう三村さん」

「お友達ですか?」

「別れた女ですね」

「ぶっ」

 いや、別れた女に連絡できる方かどうか、と聞かれたら確実に俺もそっちの方だとは思うが、さらっとそういうことを言うのはやめてほしい。と言うか初めからここに言っておけば3日かそこら歩き回る必要はなかったのか、と思うと自分としてもなかなかにクるものがある。探偵は足を使ってナンボとは言うが、あまりにもあんまりだ。世間は狭い。世界規模でも存外狭い。良い勉強になる。

「こないだ偶然出くわしたんですよ。それで、元気そうだったので。連絡しておきましょうか」

「来てくれますかねえ」

「お母さんの依頼なら来るんじゃないかな。お父さんと折り合いが悪かったらしいから」

「美袋さんは気まずくないですか?」

「いやあ。あっちは既婚だし、僕も別に。昔の話ですからね。そんなことよりここの白ワインは格別ですから三村さんも国友さんもどうぞ」

 いかにも有能そうな男は硬い職業にもかかわらずネクタイを締めていない。俺の方が服装だけ切り取ればフォーマルってどう言うことなんだろう。

 国友さんは少し酒に酔って、美袋と出会ったフランスのことを饒舌に語った。ケーキ屋で木苺と林檎を分け合った行きずりの仲。全く他意のない、無防備すぎる物言いに俺は内心でもう一度ずっこけることになる。そして伺うように美袋という男をもう一度、見てみる。少し薄情そうで、有能そうで、知的で。確かに俺とは系統の違う男前。倉橋や町本とも違う。もしかしたら向坂に少し似ているかもしれない。男前の項目を脳内で捲って高校生が出て来るあたり、俺の普段の付き合いの中に男前は少ない。

「よく来るんですか。ここまで」

「いいや。今回は滞在中なのを存じ上げてましたから、他の人間の仕事を代理で務めただけです。ドイツはどうですか」

「思ったより……いいところですね」

「この街がいいところなんですよ」

 他はそうとは限らない。自分には、性に合ったが。そんなことを語りながら次々に美袋のグラスが空になる。健啖家だなあ。ビール腹どころか、ネクタイのないスーツを着こなすほどスタイルもいいし。なんだか何一つ勝てていない気がして、俺はぐいっとワインを呷った。すかさずボトルが差し向けられる。

「恵令奈はルクセンブルクで僕にあったことをきっと旦那には言ってないでしょうから、そのあたりは彼が来ていたら内密にお願いします」

「勿論です」

「え、旦那さんに黙ってデートしたんですか」

「旦那が迎えに来るまでの暇つぶしですよ。元はと言えば電車を乗り過ごすくらい爆睡するあの子が悪い。僕も今の彼女には言ってません」

「うわあ……美袋さんって案外悪い人なんですね」

 国友さんはこういう人だ。これくらいで悪い人認定されてしまったら、俺なんてどうなるんだ。これまでの女、誰も拗れていないことにだけは自信があるが、こんなものの比じゃない。

「男はだいたいこんなものですよ。ねえ三村さん」

「どうだか。ははは」

 きっとこの冷徹そうな目は見透かしているだろうなあ。そう思いながら飲むワインはどことなく苦い気がした。リースリングの最高級なのに。思い込みというやつは厄介だ。

「世の中狭い。なんだか不思議な力に導かれてるみたいですね」

「縁があるんですよ」

「つくづく人間の力ではどうすることもできない。面白いですね」

 にこり、と美袋が笑う。なるほどこれはさぞ女にモテるだろう。天然でやってるとしたら逆に不自由するだろうな、モテすぎて。

 俺は恐る恐る隣に座る国友さんを覗き込んだ。なぜか目が合ってしまって、何、と少し不機嫌なふりをする。国友さんはなんでもない様子で食事に戻った。白身魚のソテーは美味かった。内陸国のイメージが強いドイツでこんな魚を食べられるとは思っていなかったが、想像の何倍もこの国は住みやすいらしい。レストランの中を見渡してみてもそうだ。誰も彼も、楽しそうにワインを飲み、魚を切り分け、ポテトをつまんでいる。

 その時俺の頭の中に薄ぼんやりと、向かい側に美袋ではなく国友さんが座っているイメージが浮かんで、慌てて頭を振って打ち消した。

「なるほど」

「なんです」

「いや。ケルンまでは送っていきますよ。実はケルンから空港までのICEのチケットはもう手配してるんです」

「え?! いやいや、そこまでしてもらうわけには」

「お呼び立てしたのは僕ですからね。それに……国友さんのお元気そうな顔が見られて安心しました。いっときは苦労されたそうなので」

 美袋はやり手だ。もうそれは嫌という程よくわかった。これは煽りだ。牽制などではない。俺の心境を見抜いて、わざとこうやって焚き付けてきている。売られた喧嘩は買う主義だ。俺だって雰囲気だけではあるが、日本ではそこそこ女が放っておかないという自負がある。

「本当に大変だったなあアレは。まあ、無事解決してよかった」

「そうですね……ん? 私美袋さんにその話しましたっけ」

「出所は重要機密です」

「何それどういうことですか」

 疑問符を頭上に浮かべている国友さんは、水面下で行われる男の意地の張り合いに気づいていない。いやどうか気づかないでくれ。幻滅されたくはない。まだ愛していると何も仄めかしていないうちに、一方的に振られるのだけは。

 この男、敵には回したくないが、舐められたら一瞬で敵に回られるだろう。味方につけておいて損はない。ケルンではさぞ美味い酒を飲ませてくれるのだろうな。

 国友さんは帰り際に美袋から何か話をされていた。俺はそっと聞こえないふりをして離れる。気にもとめていないと、そうアピールするかのように。




 美袋はさすがに仕事が早かった。翌日、ホテルに来客があって、ずっと持っていた写真によく似た女が現れた。実物は写真より少し年を取っていて、そして少し綺麗になっていた。

「まさか恭輔経由でお母さんにたどり着くとはねえ」

 彼女はホテルのロビーで出される安っぽいコーヒーを口に含み、満足げに頷く。自分の前に置かれた絵葉書を懐かしむように眺めて、そして何も言わなかった。夫がいると言っていたから、きっとその人が出したのだろう。

「わざわざこんなところまで、ご足労様です」

「いえ。お元気そうで、我々も良い報告が出来ます」

「元気ですよ。お母さん……母は元気ですか」

「勿論です。我々にとっては、素敵な大家さんです」

 恵令奈さんはそうですか、と笑った。それは親を憎む子というよりは、古い友人に出くわした時のような、懐かしさを隠し立てない素直な笑顔だった。親と疎遠な例はいくつも見てきたが、彼女にとって母親はその敵ではなかった。だからきっと、こうして穏やかな顔つきで我々とも会ってくれる。

「もうこの街はご覧になりました?」

「はい。あの、いいところですね」

「でしょう。小さいし、日本人は滅多にこないけれど、いやそれだからこそ、いいところですよ。私は日本人コミュニティにも顔を出していないし……夫がロシアの人間なんですけれど、そっちにばかり感けてしまって。日本語を話したのは恭輔と会った時以来です。もう2度と会わないつもりだったのに借りが出来てしまったわ」

「そのことなんですが……美袋さんから預かってます。お一人だったら渡してくれと言われました」

 国友さんは封書を彼女に差し出した。彼女は一瞬眉をひそめたが、本心から嫌がっているようには見えなかった。別れても友人、と美袋が言っていた通り、恋人としては終わりになっても友人としては付き合いが続くのだろう。大人の付き合い。きっと俺には出来そうもない。スマートに振る舞うなら、必ず別れてしまう。好き合った時の気持ちを殺すのは下手くそだ。

 恵令奈さんはそのままカバンに封筒をしまい、代わりに絵葉書を取り出した。それはこの街の世界遺産の一つ、今は修復作業中でブルーシートに覆われている皇帝浴場の夜の姿だった。

「母に渡してください。いつでも手紙をくれと、それだけでいいです」

 裏面には彼女の字だろう、端正な文字で、あの絵葉書と同じ文字で、トリーアの住所が書かれていた。俺たちが持ってきたあれには記されていなかった住まい。そしてメールアドレス。大家さんはパソコンが使えたはずだ。これで完全に、縁を結ぶことができたと言ってもいいのかもしれない。

「ロシアでは、父親の名をミドルネームにするんです。父系社会なんですよ。それがどうしても嫌だったけど……これからは前向きに考えられそうです。ありがとうございます」

「いえ。我々は何もしていませんよ」

「会えて良かった。母は、あんな別れ方をしたのに、私を探してくれたんですね」

 憑き物が取れたような彼女の笑顔に俺たちは言葉を失った。そして何度も頭を下げながら、ホテルのロビーに飲みかけの冷めたコーヒーを残して、さっさと立ち去ってしまった。愛想が悪かったのではない。会計を済ませ、フロントを後にしながらハンカチを取り出していたから、まあ推して測るべしだ。無粋な真似はするまい。

「はー……お疲れ様でした」

「お疲れ様でした。Gute Gemachtです」

「ぐーてげま……なに?」

「でかした! って意味です」

「だんけしぇん」

 クソみたいな発音だったが、有能な助手はサムズアップしてくるだけだった。俺はソファに倒れこむように深く腰掛けて、ぐうっと天井を眺めながら伸びをした。

「でも、今回は人の力あっての依頼完遂だったよなあ」

「確かにそうですけど。でも、皆さん直接顔を合わせづらい人ばっかりでしたし、それをつなぐのが探偵のお仕事! って感じがしました」

「……君は本当にいい人だなあ」

 揶揄ったわけではない。バカにしたのでもない。この状況でその言葉を投げてくれる彼女の感性が好きだと思った。

 残る日数はあと2日。あと2日はこの街の中で観光を満喫できる。そして昨日うっかり妄想したように、今度は彼女を向かいに座らせても良いかもしれない。そしてグラスを鳴らす。木苺のタルトと林檎のシブーストを交換する。存外俺は嫉妬深いのかもしれなかった。

「さて、残りは観光に費やすか。打ち上げ打ち上げ〜」

「お土産も買っていきましょうね」

 婚前旅行なんて不純だが、まあいいだろう。俺は相変わらず彼女には手が出せないし、下心を隠して泊りがけのデートをするのも、今ここでしかできないなかなか乙なものだと思う。これが温泉旅行であったらきっとそうはならなかった。西の果ての小さな町で、手を取り合って地図と睨み合うのもたまには悪くない。






***




「ただいまレーシャ」

「ああ。おかえりボリス」

 恵令奈、であってエレーナ、ではないのだけど、夫はいつも揶揄うように私のことを自国風のあだ名でレーシャと呼んだ。頼んでいた買い物をほぼ完璧にこなし、サワークリームはいつもと違う銘柄なんだごめんね、と謝られたが、意に介さず感謝の意を込めて抱きつく。腕に抱いたまま、今日は何があったの、と聞く声音は優しい。

「日本からお客さんが来てたの。ボリスが前に出した手紙を持ってね」

「ああ……僕らが散々喧嘩したあれね」

「まぁ、勝手に私の机から手紙を送ったのは今でもされたくないなって思うけど、結果オーライではあった。母に連絡先を取り次いでもらえたし」

「良かったね。で? 心境はどう」

「スッキリした。お腹が空いたわ」

 ボリスは盛大に笑った。じゃあ早速ご飯にしよう、ボルーシは昨日食べたし今日はグラーシュでも作ろうかと意気込む。夜ご飯は簡素に、というのはこの国の習慣の話だ。私たちは夜ご飯をしっかり食べる。この国に暮らしてはいるけど、いつも心の拠り所は祖国。異邦人と異邦人がたまたま、仕事の関係で住んでいるに過ぎない。

 恭輔から取り次がれた封書には、再度連絡してしまってごめんという謝罪が綴られ、最後にБудь счастлива, пожалуйста. Прощай.(幸せになってくれ、もう2度と会わない、さようなら)と丁寧にロシア語で書かれていた。何ヶ国語喋れるんだあの男。私は思わず笑ってしまって、ロシア人と結婚してることまで把握してるんだったら、この長い人生の中でそう遠くないうちにまた出くわすような事態がある気がした。きっとその時は元恋人ではなく、面識のある日本人同士として、そしてこの国に生きる異邦人同士として、敢えてIch freue mich, Sie kennen zu lernen(初めまして)と握手をするのだろう。

 そっくりそのまま返すわ、恭輔。あなたこそ幸せにならなくては。

「今度一緒に日本に行く?」

「それもいいかもね。クリスマスマーケットの時期は辟易するし、日本に避難してもいいかも」

「僕も思った。この国の人間はクリスマスを祝いすぎだよ。あんなの新年が来てからちょろっと祝うものだろう」

「それはあなたの国だけよ」

 笑い合うキッチンは夏だというのにひんやりと涼しい。冬でも気温が氷点下を記録しない、極東の国の冬を彼はなんと形容するだろう。そう思いながら肉を刻む。塊の肉は重い。重いほどの肉を刻みながら、その度に異邦人である私を痛感して、不思議なことにそれがとても楽しいと思えた。





END

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