木苺と林檎

木苺と林檎



 ストラスブールにきてから1週間が経った。漸くユーロ通貨を間違えずに使えるようになり、独特の乾燥に肌も順応してくる頃合いである。わたしは土曜日の朝のレッスンを終えると、高速バスに乗り込み、メッスに向かった。特に何かの用事があったわけではない。ただレッスンをしてくれている先生、その人を追ってわざわざフランスまで留学しに来たわけだけど、彼女の出身地がメッスだったのだ。着いてすぐ、ストラスブールの観光に繰り出したわたしは、初めて肌で触れるヨーロッパの街並みに興奮していた。西洋音楽をやっているからには、かねてから訪れたかった土地にこうして自らが立てていることを誇らしくさえ思った。ストラスブールをすっかり回ってしまったわたしは、レッスンの始まる前に先生に訊いた。どこか気軽に行ける、いい旅行先はないかと。たどたどしいフランス語ではあったが、彼女は快く自身の故郷を勧めてくれた。朝のレッスンが終わってからでも充分に楽しめるよ。日帰りでも出来ないことはない。

 実際、わたしはそう時間を持て余しているわけではなかった。楽器は1日でも手放せば臍を曲げる生き物のようなもので、休んだ分だけビハインドになると幼い時から言われて育ったのである。旅行をし、美味しいものを食べ、美しいものに触れることは大事だが、それで時間を徒らに浪費するのは避けたかった。日帰りでも、という言葉に惹かれ、すぐさまバスのチケットを取った。

 メッスという街の名は聴いたことがなかった。幸いにしてバスの中はWiFiが使えたので、その間に調べてみると大聖堂があるらしいことがわかった。考えたらせっかくお金を払って出向くのに、見るべきものが何もないのはあまりにも淋しい。まだ目玉が分かりやすかったから良いものの、もう少し計画性を大事にした方が良い、と自らに言い聞かせるように嘆息した。

 生憎、天気が悪かった。途中ひどい雨風に煽られながら、予定よりも20分ほど遅れて、バスはメッスに着いた。思ったよりも小綺麗で都会的な駅だった。見ればドイツの方からやってくる電車もあるらしく、ストラスブール同様に国境付近の息遣いを感じられる街のように思えた。駅からはうまく大聖堂が見えず、わたしは大人しく地図を買った。

 駅から大聖堂までは少し歩くようだった。大聖堂のすぐ裏側には川が流れているらしい。取り敢えずは、駅から出た方角に進めばいいということで、多少入り組んだ石畳の道を懸命に歩いた。ヨーロッパへ来てからと言うもの、ヒールは滅多に履かなくなっている。東京であれば考えられない女子力の低さだけど、わたしはここにオシャレをしに来たのではなく、バイオリンを習いに来たので、あまりに気にしないことにしてずかずかと大股で歩いた。少し滑るので、転ばないように必死だった。

 傘を吹き返す強風と濡れた石畳に悪戦苦闘しているうちに旧市街の中心付近へ出ていたらしい。所狭しと立ち並ぶ石造りの建物はどれも同じクリーム色をしている。今日は土曜日で、お店は遠慮なく何処もかしこも開いていた。服屋も、パン屋も、本屋もある程度の人で賑わっている。私はその時、自分が耐え難い空腹を感じていることに気づいた。そして雨風はいよいよ、遮るのが困難なほど酷くなっていた。避難のためにもいちばん手近な店に入ると、抜群に美味しそうな林檎のタルトの下に2ユーロの表示があった。

「une tarte aux pommes s'il vous plaît(林檎のケーキをお願いします」

「oui, merci」

 フランス人の店員はどこでも愛想がいい。にっこりと微笑んで、大きなトングで掴んでトレイの上に載せた。間近で見ると思ったよりも大きい。コーヒーもついでに注文して、浮かれながら席に着く。通りはまだ風に煽られて傘をさすのが難しそうだ。濡れて冷えた体を温めるためにも、慌ててカップに口をつけた。挽きたての豆の芳香が心地よく鼻腔に漂う。フランスに来たなあ、と何度目かの感動を覚えて、鼻を鳴らしたところで新しいお客さんがトレイを持って奥の席へきた。アジア人だった。しかも、あれはおそらく日本人か台湾人だ。ヨーロッパに1週間もいれば、アジア系の顔は少し見分けがつくようになる。

 若い、でも私よりは年上の男の人だった。持っているのはフランス語の新聞と、紅茶……フランスで紅茶なんて、珍しい。別に個人の好みを否定したりはしないけど、フランスといえばやはりコーヒーだろうと、個人的には思う。

 男の人と目があった。それはもうバッチリと、ごまかしのきかない勢いでしっかり見つめ合ってしまった。

「Est-ce que je peux m'asseoir ici? (相席いいですか)」

「あ、あっ、oui, avec plaisir.(喜んで)」

「日本人?」

「日本人です。あなたも?」

 男性は返事をしなかった。ただにっこりと、目を細めて笑った。男の人はあまり作らない類の笑顔だと思った。少なくとも……親や、親類身内の男性はこんな風には笑わない。

「それ。美味しそうですね」

「美味しいです。一口いかがですか」

「よくもっと警戒心を持てと言われませんか?」

「言われます。ですが、私はできれば、あなたのお皿の木苺のケーキも欲しいです」

「……その上図々しいと言われたことは?」

 男性は続けざまに笑顔を崩さず言う。呆れているようだが、壁を作られてはいないようだ。私はこくんと頷いた。

「こんなところでお会いしたのも何かの縁ですから」

「縁ねえ。フランスにお住まいですか?」

「はい、1週間前から」

「僕はドイツに住んでいるので、普段ならお会いすることも出来ませんね」

 男性は器用にプラスチックのフォークで木苺のケーキを切り分けて私の皿に載せた。そして、林檎は実は得意ではないので、と付け加えた。それが本当かどうかは疑わしい。嫌いなものをわざわざ美味しそうと言う人はあまりいない。だが追求するのも失礼かと思って、有り難く頂戴することにした。そして私はその時、ようやく周りの席が満席だったことに気がついた。なるほど、それで相席。

「では、フランスへようこそ。ええと……」

「美袋です」

「みなぎ、さん? 珍しいお名前ですね」

「覚えてもらいやすくて助かりますよ。そちらは」

「国友と申します。あの、美袋さん、ドイツにお住まいなのに、かなりフランス語がお上手ですね」

「仕事柄必要なもので」

 下手をすると私よりも余程上手な……そう思ったが、少し喋りすぎているような気もして、私は黙った。黙って木苺の独特の酸味を噛みしめる。歯が痛くなるような、舌が痺れるような、独特の味わい。私は普段なら断然林檎が好きなのだけど、この木苺なら捨てがたい。

 美袋さんはフランス語の新聞を折りたたんで明らかに仕事用の鞄に仕舞った。革製の鞄は少しだけ濡れている。良いものだろうに、勿体無い。

「お鞄、拭いてください。それではすぐに傷んでしまいます」

「ああ……これはどうも」

「良いものですね。イタリア革ですか」

「人に貰ったものなので、詳しくは何とも」

 肩を竦める動作がこれほど嵌まる日本人を初めて見た。私は内心おお、と歓声をあげていた。同時に、人から、というのはやっぱり女の人からだろうかとぼんやり思った。

「では尚更、大事になさったほうが」

「まあ、別れた女なので……とはいえ、物に罪はないな」

「あら。それは、踏み入った真似をお許しください」

「いいんですよ。漸く傷も癒えてきたところですから」

 傷、といったが、それほど傷ついてもいないような物言いだった。大人の男の人はわからない。本心を隠すのに長けすぎている。同年代の男の子たちは、まだまだ子供だ。というか、男の人は基本的に子供のようなものだ。私の倍以上生きている父親がそう断言していたのだから、そうなのだろう。

 美袋さんは本心のわからない人だった。今まで出会った男の人の、その中でいちばん、ミステリアスだと思った。

「僕の話はいい。なぜフランスへ?」

「私ですか。私は、バイオリンを習いに来たのです」

「ほう。音楽家の方ですか」

「の、卵です……今は音大の2年生で」

「未来があるのは良い事です」

 美袋さんはとても大人めいた事を言いながら、3口ほどでぺろっとケーキを食べてしまった。結構大きいように見えたのに、やはり大人の男の人には物足りないものなのだろうか。

「僕も来月には30になるんですが、折角長続きしていた彼女と別れてしまいました」

「何年ほど?」

「半年です。また妹に紹介できなかった」

「……。」

 もしかしたらこの人は少し変わった人なのかもしれない。

「美袋さん。半年は長いとは言いません」

「僕の中では最長なんですが」

「私の中学生の頃のボーイフレンドよりも短いです」

「人それぞれですね。いろんな人間がいる。フランスには、ドイツよりもいろんな人間がいる」

 うまいこと話を逸らされて言いようがなかった。ざっと店内を見渡しても、白人に黒人、それから私たちのような黄色人種、ラテン系。様々だった。様々な人間がフランス語を話して、フランスのパティスリーでケーキを美味しそうに頬張っている。それはなんだか、この上なく幸せな情景に見えた。世界が平和なように見えてしまう瞬間。それは日本にいないからか、余計にそう思えて不思議な気分だった。

「だから僕は時々こうしてフランスへ遊びに来るんですよ」

「そうなんですね。良いところですよね」

「国友さんも、ぜひドイツへお越しください。僕の住んでいる近くに、ベートーベンの実家があります」

「美袋さん、ボンにお住まいなんですか」

「よくご存知で。ですが惜しい、デュッセルドルフです」

「でゅ……?」

「日本人の多い街ですよ。日本人相手の仕事ですので」

 美袋さんは一息に紅茶を飲み干すと、腕時計をちらりと見た。ひとつひとつの小物が、なんだか上等でさりげなく高価だ。これも貰い物なのだろうか。だとすればなんとなく……別の女なのからではないか、と思った。これは全く根拠がない。女の勘というやつだ。

「僕はそろそろ行きます。慌ただしくて申し訳ない、良い経験をなさってください。それから、何か滞在中に困った事があればご連絡ください。僕が直接対応する事はできませんが、このあたりの管区でしたら知り合いに取り次ぎますので」

「?」

「名刺を渡しておくか……あったかな」

 美袋さんは無造作にジャケットの内側から名刺ケースを取り出した。そして辛うじて1枚だけ残っていた名刺を差し出した。私はもちろん手持ちがないので、ありがとうございます、と丁重に頭を下げた。しかし残念な事にその名刺はドイツ語で書かれていた。Kyosuke Minagiという彼のフルネーム以外に何も情報を得られない。

「何か困ったら美袋さんにご相談すれば良いんでしょうか」

「水道が壊れたとか、ゴミの日がわからないとか、そういうことでなければ」

「良い音が作れないときは」

「相談に乗りましょう。ドイツに来るときも、勿論歓迎しますよ」

 その前に私はドイツ語を少しは学ばなければならないだろう。では、と美袋さんは空っぽになったティーセットを返却して、土砂降りの中を黒い大きな傘と共に歩いて行った。1週間ぶりの日本語は、思ったよりも楽しかった。そして私の手の中に残った、読めない言語の名刺。いつか役立つときが来るのだろうか。

「雨が上がったら大聖堂へ行こう……早く止まないかな」

 今は未来よりもひとつずつの日々を楽しく生きる。雨が上がれば、濡れた石畳を再び歩こう。まだまだ、小旅行は始まったばかりだった。

 私もようやく林檎のトルテを食べ終えて、るんるんと諸手を振って店の外に出た。雨は少しだけ小降りになっていた。ただ空模様は未だ重苦しく曇ったままで、今日の写真はあまり上手に撮れないかもしれない。地図をくるくるとひっくり返しながら歩く。街角のどこかから、誰かの弾くG線上のアリアが聞こえる。バイオリンだけだ。私もバイオリンしか持っていないから、共に奏でることは出来ない。その音色に誘われるようにして歩みを進めると、荘厳な大聖堂が見えてきた。いつの間にか、雨はあがっていた。




***


 きっちり3コールで電話に出た相手は、現在地を告げると驚いていた。驚いていたし、微妙に管轄地域ではないと笑っていた。たった一度話しただけの相手をよく覚えているものだ。まるで昔からの友人のように、気安く親しい声音だった。

『そうだな。1週間後なら調整できますが』

「では……ええと、どちらまで行けば良いでしょう?」

『ケルンまで。RE12でその街から2時間半です。サイトのURLをお送りしますから、可能なようならもうチケットを押さえてしまってください。。ところで國友さん、どうしてこのタイミングでトリーアへ? 新婚旅行か、何かですか』

「お仕事です」

『演奏会?』

「いいえ。今は探偵の助手をしていますので」

『ほう。……その辺りも今度聞かせて頂きましょうか。調整がつくようならまた連絡します』

「はい!」

 電話の向こうの声は全く変わらない。というか、結局電話をしたのはこれが初めてだった。あの後、困らないことがないではなかったけど、結局留学も1年だけだったし、一度相席をしただけの男性のことを思い出したのは今私がドイツにいるからに他ならない。

『国友さんがいらっしゃるなら、木苺のケーキを用意してお待ちしています』

「木苺! 懐かしいですね」

 覚えていてくれたのか、と思うと自然と声が上擦ってしまった。そのまま通話が切れて、上司……上司であり密かに私の想い人でもあるのだけど、彼が少し面白くなさそうに顔を背けていたので、三村さん、と呼びかけた。

「1週間です。1週間で、かたをつけましょうね」

「終わらなかったらケルン行きはなしな」

「ダメです。美袋さんの奢りですから。意地でも、終わらせてケルシュを飲みましょう」

「……そもそも誰、美袋さんって」

 不機嫌そうに上司が首を傾げた。それはそうだ。知らない男の名を口の端に乗せて、私がこんなに嬉しそうな顔をしていては。面白くないのだろう。案外子供っぽいところのある人なのだ。

 さて、どうやってあの雨のメッスの邂逅を説明したものか。まずは私がドイツ語を学び始めた経緯から、説明すべきなのかもしれない。

 必死に解読した彼の名刺に書かれていた文言。それは、日本の外務省のものだった。

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