Die Mosel

juno/ミノイ ユノ

忘れてきた夜

忘れてきた夜



 目が覚めたら電車はルクセンブルクに着いていた。記憶があったのはコッヘムまで、薄暗い照明に照らされる段丘の葡萄畑を眺めながらぼうっと物思いに耽っているうちにいつの間にか眠りに落ちていたらしい。東京の環状線ならまだしも、ドイチュバーンの都市間特急で眠りこけるなど、この国に暮らして長いけれど初めてのことで、私は未だに寝起きで重い頭をゆるく振った。早々に検札があって、それで油断したのかもしれない。いずれにせよ早く列車から立ち去らないと多大な罰金を課されるので、慌てて荷物を持って立ち上がる。線路へと躍り出てから思い出したように財布の中身を確かめた。幸いにして何も抜かれていなかったけど、ここは日本ではない。恥じるほどの不用心である。まるで素人だと肩をすくめながら、今頃駅で待ち惚けを食らっているはずの夫にメッセージを送った。都市の規模の割にそう大きくもない駅の片隅で、遅くなるであろう私を出迎えてくれる夫は私と同じくドイツ人ではない。私よりもずっとドイツ語は上手なのだけど。

 ルクセンブルクに来るのは2度目だった。近くて遠い街はなかなか足が向かない。車で1時間足らずだと言うのに、なかなかその1時間を無精するのである。それにルクセンブルクは、ドイツ語と英語だけ扱えてもどうしようもない街だ。それならザールブリュッケンやリエージュに行く。フランス語は簡単な自己紹介くらいしか出来ないままだった。駅構内の表記が見慣れなくて、必死でドイツ語の表示を探した。

 しかしそもそも乗った電車が終電に近かったのだ。しかも、遅延していた。絶望的な時刻である。既に閑散とした構内に灯る電光掲示板に表示される文字はない。職員さえ帰り支度を始める時間だった。私は再び携帯を開いて、電車がないから帰れそうにない、ごめんなさいと送った。夫からの返事は速かった。ルクセンブルクまでなら迎えに行くよ。仕事帰りに加えて、恐らくは既に飲んでいるであろう人物に70kmの道のりを運転させるのはどうしても気が引けたけれど、ありがたい申し出であるのは確かだった。ルクセンブルクは物価が高い。食べ物ひとつ取ってもドイツの倍くらい値が張る。税率はむしろ、ルクセンブルクの方が低いのにどうにも納得がいかない価格高騰ぶりである。

 駅構内にいても仕方がないのでとりあえず駅を出て、彼が着く頃にもう一度現在地を連絡すればいいと思った。そうして歩いているうちにコーヒーチェーンが目に入って、予想外の出費が痛くはあるものの、取り敢えずコーヒーを飲みながら時間を潰すことにした。これならウロウロと夜の街を徘徊する必要もないし、カフェくらいはいくら私がフランス語に疎くてもわかる。が、その後がいけなかった。おそらくは砂糖やミルクの有無を聞かれているのだろうけど、運の悪いことに黒人の店員はフランス語以外まったく解さないようだった。

「オーネツッカー……ノー、シュガー!」

「Pardon?(なんて?)」

「Ich trinke gern ohne Zucker und Milch!」

「Un café allongé s'il vous plaît.(アメリカンコーヒーを一杯)」

 後ろに並んでいる親切な現地人が訳してくれたらしい。渋々、といった風情で店員はブラックコーヒーを用意した。どうやらはじめから嫌がらせのつもりだったらしい。アジア人の見た目で受ける誹りは今に始まった事ではないけど、こうもあからさまだとただ呆れるばかりだ。彼を睨みつけてマグカップを受け取ると、後ろから肩を叩かれた。

「Warum sagst du mir keine Dank?(何故礼を言わない?)」

「du……あっ」

 あまりにも流暢なフランス語だから完全に現地人だと思っていたが、意外や意外、背後に立っていたのは日本人だった。そして、嫌というほど知っている男だった。初対面なのに、duなんて馴れ馴れしい男、などと悠長に構えている場合ではない。不遜にも2ユーロ硬貨を何枚か掌で転がしながら、相変わらず鬱陶しそうな前髪を掻き上げる。その仕草がなにひとつ変わっていなくて、私は思わず口の端を引きつらせた。

「なんでここに」

「それはこっちのセリフだよ」

 いちいち言うことが正論なのも相変わらずだ。彼はコーヒーショップで頑なに紅茶を頼む。それも前となにひとつ変わらない。成長しないと言った方が正確なのかもしれない。

「当てようか。大方電車にでも乗りそびれたんだろう」

「全然違う」

「じゃあどうして駅から?」

「ずっと見てたの!」

「やっぱりね」

 カマをかけられていたらしい。こういう底意地の悪さも変わっていない。私は舌打ちをしそうになるのを堪えながら、取り敢えずありがとう、と呟いた。

「Bitte schön. Was machst du so?(どういたしまして。最近どう?)」

「……変わりない。あなたも変わりなさそう」

「まあね。きみも相変わらずそそっかしいね」

「馬鹿にしてる?」

「親愛を込めてるんだよ。さあ、行こうか」

 当然のようにカップを持たない方の手を握られて、思わず振り解こうとしたが熱いコーヒーを持っているせいで暴れられそうにない。そんなに強い力ではなかった。でもきっと、逃げようとすると力を込めるのだ。この男はそういう男だ。私が牙を剥けば剥くほど、余裕めいた笑みで腕の中に閉じ込める。

「行くってなに!」

「大方、迎えが来るまでの暇つぶしでしょう。付き合ってあげるよ」

「いい、いらない。夫がなんていうか……」

「昔の友達に会った以上の言い訳をするつもり?」

「友達じゃないでしょう、あなた」

「Ich war dein Freund.(きみのボーイフレンドだった)」

「Jetzt sind wir gute Freunde, nicht wahr?(今はただの友達、じゃないの)」

 そう言うと彼は手を離した。拍子抜けした。いつも強引な人だったのだ。辟易するくらい身勝手で、厚かましい人だった。どういう心境の変化かと思わず身構える。

「きみはずっと連絡をくれなかった」

 伏し目がちな睫毛は男にしておくのが勿体無いほど長い。言葉に詰まった。彼が相変わらずドイツで仕事をしていたのは知っていたし、私もずっとドイツにいた。連絡をしなかったのは、夫に悪いと思ったからだ。それは裏切りだと思ったから、この何年も連絡しなかった。それだけだ。

「私、人妻なんだけど」

「知ってるよ。見ればわかる」

「あなたに連絡なんて……夫に悪い」

「ただの友達なのに?」

「……あなたと話してると調子が狂うの」

 私は溜息を吐きながら彼に背を向けたが、今度は腰に手を回された。ああ、やっぱり、この強引さはなにも変わっていない。不遜なくらい堂々とした、日本人離れしたメンタリティは相変わらずだ。

「ちょっと、やめて!」

「僕も宿に戻るだけだから、ドライブに付き合って。またこの辺りで降ろすから」

「ドライブって……なにが嬉しくて、元彼とデートしなきゃいけないの」

「ただの友達だからね」

「わかってるわよ!」

 彼はそのまま私を連れて外へ出てしまった。殆ど車通りのない大通りに、見覚えのあるドイツナンバーのベンツ。今も欠かさず磨いているのか、一片の曇りもない車体が眩しい。私は渋々助手席に乗り込んだ。相変わらずイタリアのフレグランスの香りがする。嫌味な車だ。

「思ったよりも元気そうで安心したよ」

「それはどうも」

「今の時間だと、夜景が綺麗だよ。ルクセンブルクに来たことある?」

「1回だけ。それも昼」

「夜のルクセンブルクを見ないと意味がない。世界遺産の称号にも引けを取らないから」

「あなたまさかひとりでそれを見に来たの」

「金と暇を持て余してるんだ。休みの日はやることがなくて仕方ない」

 嫌味なくらいが彼の物言いだった。今はすでに、癪にすら障らない。むしろ懐かしい。まともに取り合っていた頃は傷つきもしたけれど、こういうものだと割り切ってしまえばあとは楽だった。

 滑るように走り出す質感が久々で、私は窓の外ばかり見ていた。真っ暗な宵闇にぽつぽつと浮かぶ街灯が幻想的で美しい。戦火を免れた街並みの、人が暮らす息吹を感じる。今いる街もそうなのだけど、歴史と伝統の中に現代が入り混じる様相は奥深く、ゆえに楽しいのだ。ルクセンブルクの渓谷と断崖、古城の織り成す情景に車で踏み込んで明かりを満喫する、それは軽い恍惚ですらあった。

 峡谷に架かる小さな橋を渡る。ブラックコーヒーを嗜みながら眺める街明かりの美しさに、私は再び嘆息した。彼は自分の側を指差して外を見るように促す。

「見える? あれがviaduc橋。その向こうがcasemates de la pétrusse(ペトルス砲郭)」

「なあに、あれ」

「城砦の跡地だよ。ここ一帯が全て城砦だった。この街を守り通したシンボルにして、ここの人たちの誇りだ。フランスやドイツといった大国に囲まれながら、自治を貫き通した大公国のね」

「市町村合併って概念はこの辺りにはなさそうね」

 元彼……面倒なので恭輔と以前のように呼ぶけれど、恭輔はこんな嫌味で適当な形をしているが、泣く子も黙る官僚で外交官だった。この変わった性格が災いして未だに独身ではあるけど、彼曰く独身なのは主義で、いわば選択して独立しているのだという。このあたりの小国みたいだ。ドイツとフランスという大国に囲まれながら、そしてスペインの統治を経ながら、独立を勝ち取ってきた歴史とこの男の生き方は似ている気がした。だからルクセンブルクからは足が遠のいたのか、と私は密かに納得した。

 恭輔と付き合っていたのは今から3年ほど前のことで、私たちは半年ももたなかった。デュッセルドルフの飲みの席で知り合って、付き合い始めたのだから妥当といえば妥当だ。私はその頃2度目の留学を折り返したくらいで、もうなんとなく日本には帰らないのだろうなと思い始めていて、だから日本には帰らない、一時帰国はともかく生活の拠点は移さないと断言した外交官が魅力的に見えたのだ。恭輔はロマンチストで、嗜虐趣味があって、信じられないくらいスマートな男だった。格好つけと言ってもいい。好きになるのは簡単だったけど、一度好きになってしまうと嫌いになるのが本当に大変だった。だから二度と出会いたくなかった。

「一度でいいからきみをこの街に連れてきたかった。3年前は」

「3年前にそう言えば良かったじゃない」

「それもそうだな。29歳の僕には言えないことだったんだろう」

「32歳になって、言えるようになったってこと」

「今でも彼女には言えない」

「彼女、泣くんじゃない? 元カノ連れまわしてドライブしてましたって知ったら」

「ただの友達だから問題ないさ」

 車はそのまま細い坂道をどんどん上がっていく。また城砦のような門を通り抜けて、その先の坂が急だった。石畳なうえに険しいなんて、ここの人たちはどうやって生活しているのだろう。自転車があれば不自由しないドイツに住んでいるとなかなか味わえない不便さだ。

「ここの左側が旧市街地だ。とはいえ、もう開いている店の方が少ないし、一杯引っ掛けるだけで何十ユーロも取られる」

 街の中にも古い建物がたくさんある。頭上に架かる石造りの橋を物珍しげに眺めていると、恭輔が不意に笑った。

「きみ、相変わらずビールは飲めないの?」

「ヴァイツェンとケルシュは飲めるようになった」

「女の子だなあ」

「恭輔のペースで飲んでたら肝臓壊しちゃうわ」

「うちの妹は僕と同じくらい飲むけどね」

「出たシスコン。妹さん元気?」

「今は一度日本に帰ってるよ。また秋学期からこっちへ来る」

 車は珍しい3つ続きの塔の下を通り抜けようとする。右手の方には、列車の高架橋と新市街の高層ビルが見えた。谷を挟んだ反対側が官庁街になっているのだ。寧ろ明かりの強さでは断然あちらの方が明るい。

「前にあるのがtrois tours、ドイツ語だとそののままDrei Türme(3つの塔)」

「珍しい形ね」

「あれを越えたら一度車を停めようか」

 要塞は端まで来ているらしい。旧市街のぼんやりとした明かりが心地よかったので、新市街へは行かなくていいと言った。きっと彼の仕事柄は、あちら官庁街の方が馴染みがあるのだろうけど。

 車は少しいったところにある小高いパーキングで止まった。さすがにこの時間は殆ど人がいない。夏とはいえ夜は冷えるので、車の中から外を見やった。大きな通りを挟んだ反対側にある旧市街の存在感は、意外なほどに住んでいる街に似ている。旧市街の存在感など、存外どこへ行っても大差ないのかもしれない。

「そのコーヒー、もう飲めるようになった?」

「……覚えてたの、猫舌」

「大体覚えてる。きみは好き嫌いが多かったから。ビールよりワイン、熱いのより冷たいの、ケーキよりアイス。好きと嫌いの境目がはっきりしていたからね」

 恭輔は紅茶をすっかり飲んでしまって、ハンドルに凭れかかるように前傾姿勢で笑った。彼の言うことはいつも正しい。今の指摘も全て正しかった。記憶力がいいのは頭がいいから、何か私たちとは別の方法を使って覚え込んでいるのだろう。でも別れた女のそうした情報を覚えていて、どうするのだろう。そうして私の情報を言い当てるごとに、私は辛くなる一方だというのに。あんなに好きになって、あんなに苦労して忘れたのに、どうして彼は覚えていられるのだろう。

「私はダメね。全部忘れちゃったわ。恭輔が紅茶好きなことくらいしか覚えてない。魚と肉のどちらが好きかとか、お菓子とお酒のどちらを喜ぶかとか、もう覚えてない」

「それは僕にもわからない。僕はきみほど拘りもないから、それで正解だよ」

「……覚えてないってことよ。なんにも。忘れちゃった。ぜんぶ」

「でもきみはさっきから僕のことを元カレだと言ってる。自分のことも、元カノだと言ったし。それで充分なんじゃないのかな。少なくとも、なかったことにはなってない」

「なかったことになんて出来るわけないじゃない」

 なかったことになんてできない。陳腐なセリフだけど、実際出来ないのだから、それは事実だ。少なくともあの半年がなければ私の人生はもっと平凡でつまらないものになっていたし、今の夫に支えられて愛されることもなかっただろう。恭輔と別れたばかりで泣き明かしていた私を真綿で包むように愛してくれたのは今の夫だ。郷土の温かいスープを作ってくれた夫のことは愛している。世界の誰よりも愛しているのに、恭輔に奪い去られたままの恋心はどこかへ行ったきり未だ戻らない。だからもう二度と恋は出来ない。愛されるしか能がないのだ。

「歴史的事実は覆らない。その詳細を再検討出来たとしても、その事実までは疑い得ない」

「ふふ。さすが歴史学徒は言うことが違うね」

「昔の話だから。今は日本語教師」

「おっと、そうなんだ。そうだよね、きみのドイツ語はかなり上手になった」

「教えた人が厳しかったのよ」

 抱き合いながら囁かれた言葉を思い出す。日本語だったり、ドイツ語だったり、もはや言語の体を成していなかったりしたけど、あの時に私に注がれた恋情を綴る言葉たちはずっと消えずに私の中にあったらしい。胸の奥が擽ったくなるほどの糖度で、言語も、愛も、熱も全て教わった。なかったことになんて出来ない。出来るはずがない。私がいくら流暢にドイツ語を話せるようになっても、いくら夫を愛しても、恭輔との恋が消えるはずがないのだ。

「会えて良かったよ。きみと」

 恭輔は3年前に別れる時と同じセリフを言った。会えて良かった。すでに過去形になっているその言葉が、私をどれほど打ちのめしたか、彼は知らない。きっと気付いているだろうけど。

 どこまでも格好をつける男だった。それが癪に障って、目が離せなくて、大好きだった。あの時の私の恋心を奪って消えてしまうまで、ずっと。

「私はそうでもない。すごく今日は寝つきが悪そうよ」

「旦那さんの腕の中で暖かく眠るといい。朝晩は冷えるからね」

「彼、末端冷え性なの。逆に冷えるわ」

 突然恭輔はエンジンをかけた。時計を見ると、そろそろ夫が着いてもおかしく無い頃合いだった。駅の周辺に居なければ合流出来ない。駅まで送っていく、というのは初めの約束だった。

 恭輔の横顔に滲む慈愛の色味はきっと、彼に恋する人でないとわからない。私はもうわからなかった。死んでしまった恋心は、二度と息を吹き返すこともないだろう。夫への愛だけを抱えて生きていけばいい。恋に殉じた恋心は、この街でも彼の手にもついに見つからなかった。

「きみは何かに怒っているくらいが元気でいいね」

「怒っている矛先は他ならぬあなたなんだけど」

「そうなの? この世界遺産の街並みに免じて許してほしいところだけど」

「許すわ。もう会えない人を怒っても仕方ないから」

「いつでも総領事館においで。困った時でも、暇な時でも」

 相変わらずひと気のない駅に着く。夫はまだ着いていないようだった。私が車を出ると、彼も隣に立った。

「迎えが来るまで側にいるよ。邦人保護が僕の務めだからね」

「……そうだった」

 夫へ何食わぬ顔で会釈する彼を想うと、おかしくてたまらなくて思わず吹き出した。夜の風に体が冷えるので、ジャケットの肘を握りしめる。今はこの肩に掛けられる上着もないけれど、渓谷の向こうの夜の明かりと同じくらい、あたたかな何かが胸の奥からそっと湧いてきた。それが何であるか、気づかないまま、残りの人生を生きるのも悪くないと思った。



END

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