最終章 天使の羽

     1

 朝。

 なにもしなくとも毎日勝手にやってくるものだけど、でも、今日の朝は普段となんだか違う。

 それは、そうか。

 関東高校生フットサル大会、千葉県地区予選が行われる日なのだから。

 対戦相手は、ばらふじ高等学校女子フットサル部。そこにわたしたちが勝利したならば、午後にもう一試合を行い、二週間後の千葉県決勝大会への進出を賭けて戦うことになる。


 わたしはいま、フットサル部で使用している黒いジャージ姿だ。

 洗面所で、顔を洗っているところだ。

 タオルで水気を拭くと、鏡に映る自分の顔を見る。

 なんとはなしに、いろんな表情を作ってみる。

 怒った顔、可愛らしい顔、べーっと舌を出してみたり。

 鏡って、いつも自分に都合の良い角度からばかり見てしまうから、客観的な自分の顔ってよく知らないよな。記念写真なんかも、あまりあとから見ることもないし、そもそもそれも撮られること意識した表情だし。

 自分、すごいブスなんじゃないか。

 いやいや、結構いけるんじゃない?

 って、その日の気分によって、自分の顔への自己評価って激しく変わるものだよな。

 結局、自分がどう思うかってことだ。

 顔だけの話じゃない。

 それは人生においても同様。

 遭遇する様々なこと、良いと思うか悪いと思うか、それは自分の脳が決めるのだ。

 それなら、何事においても良い方向に考えるのがいいよね。

 ……と、分かっちゃいるものの、それがまた難しいのだけど。

 なんだかとりとめのないことを、いつまでも考えているな、わたし。


 もう一度、鏡に映った自分の顔をまじまじと見てみる。

 幼い顔してると思ってたけど、

 ちょっと大人の顔つきになってきたかな。

 心は相変わらず子供なのにさ。

 体が大人になっていくから、一緒に心も成長していくのだろうか。

 心が成長するから、大人の顔になっていくのだろうか。

 どうなんだろうね。


「空いたか?」


 お父さんが入ってきた。


「うん」


 タオルだけ手に取って、場所を譲る。

 今度は、お父さんが顔を洗いはじめる。お父さんのは綺麗にするための洗顔というよりも、単に目覚ましのためだけど。

 洗顔が済むと、朝食の時間だ。

 以前は特に、ご飯を誰が作るとは決めておらず、どちらかが適当に作ったり、夜の残りだけの日もあったりした。最近は、毎朝必ずわたしが作るようにしている。朝食だけでなく、お父さんの昼ご飯もだ。最近といっても、数日前にやり始めたばかりだけど。

 お昼は豆腐一丁、などと無理しなくたって、しっかり工夫して料理すれば、節約しつつも栄養だってちゃんと摂れるんだから。なら工夫しなきゃ損だ。


「強いんだろ、そのなんとかって高校」


 ず、と味噌汁をすするお父さん。

 わたしたち二人は畳の上に腰おろし、ちゃぶ台を挟んで向かい合っている。


「強いっていうか、とにかく体がデッカイんだって。みんな男みたいに筋肉ガッチリしてて、殴ってもビクともしないような体してるって話。サッカーと違ってガッと当たったりは禁止だし、だからそれがそれほど向こうに有利とも思わないけどね。フットサルなんて、基本は床の上をボールころころ転がすスポーツだから」


 サッカーもよく知らないお父さんに説明しても、しょうがないんだけど。


「ふうん。なるほどな」


 なんか、分かったふりしてるよ。

 わたしも、味噌汁をちょっと口に含む。

 大根とダシだけの、シンプルな味噌汁だ。

 こうして一緒にご飯を食べる関係に戻れて、はや数日。

 それ以前がどんなであったかなんて、すっかり忘れてしまった。

 もともと、そもそも険悪になどなっていなかったのだ。わたしが一人で変な方向に暴走して遠くへいってしまっていると思い込んでいただけで、お父さんは最初からどっしりと元の場所にいたのだ。

 お父さんの再婚の話は、まったく進展がない。

 現在となっては、伯母さんよりもむしろわたしのほうが急かしているくらいだ。するなら早くしてしまえ、と。だって、お父さんには幸せになってもらいたいし。


「あのさあ……あたし、大学、いこうと思う」

「そうか」


 唐突だったというのに、まるで驚いた様子もない。

 そういや資金を溜めてるっていってたものな。ヒデさんが。


「かなり勉強やんないとダメだけど、千葉国立とか。あとどっか奨学生で、なんてのもあるし、とにかく無理して貯金なんかしないでいいんだからね」

「無理も貯金も、なんにもしてねえよ。ん、ヒデの奴、なんかいってたか?」

「な~んにも。……ああ、あとさ、スポーツ特待生なんて制度もあるじゃん。どこの大学がどうで、なんて全然調べてないけど。だからとにかく、今日の試合は負けられない。将来への、選択の幅を増やすためにも」


 まあ、スポーツ特待生よりは猛勉強して千葉国立のほうが遥かに可能性高いと思うけど。春江先輩くらいの実力があれば別だろうけどさ。

 最近わたし、食育、スポーツ栄養学というものに興味を持っている。漠然とだけど、そんな仕事に就けたらいいななんて考えている。

 結構子供が好きなんで、スポーツやっている子に食のことを教えられればいいと思っている。

 でもそのためには、最低限大学くらいは出ないと。

 浪人、留年しない限りは、五年後には就職か。その頃って景気、どうなっているだろう。わたしのような落ちこぼれが好きな仕事に就くためには、よほど雇用情勢が良くないとならないから、気になるところだ。……いやいや、景気がなんだ、自分が頑張ればいいだけの話じゃないか。


「ま、とりあえずは今日の試合に集中だ」

「ふうん」


 また、味気ない返事して。くそ、ちょっとからかってやる。


「お父さん……」

「ん?」


 味噌汁口に含みながら、ちらりとこちらに目をやる。


「大好き」


 ブーッと激しく味噌汁吹き出すオヤジ一匹。


「な、なんだよおめえ、いきなり妙なこといいやがって! 気持ちわりいな!」


 わたしはなにも言葉返さず、ただ笑ってた。

 いいにくい言葉ほど、いってしまえば世界が変わる。最近悟ったこと。

 からかい半分とはいえ、ついお父さんで実践してしまった。まさか味噌汁ぶちまけられるとは思わなかったけど。


     2

 食器を洗い、歯を磨き、天国のお母さんにお線香をあげ、忘れ物チェックをし、トイレを済ませ、バッグを背負う。

 そうだ、占いの時間だ。とテレビをつけたが、「めざましスタジオ七時です」はやってなかった。そうだ、今日は日曜日だよ。すっかり忘れていた。

 試合の日なんだから、平日なわけないのに。


「それじゃ、いってくるから」

「おう。ま、悔いないように頑張ってこい」

「もちろんそうしますって。足のことがあるから、あたしが出るかは分からないけどね。部長として、悔いの残らないようにやってくるよ。いってきま~す」


 などとだらだら喋っている間に玄関から靴を持ってきて、お店のほうへと移動する。


「おい、ちゃんと玄関のほうから出ろよ!」

「いいじゃん、こっちのほうが近い。……じゃあね~」


 お店舗側で靴を履くと、わたしは外へと出た。

 今日は快晴。

 見上げると、気持ちのよい青い空がどこまでも広がっている。

 試合は屋内だけど、でも外がこんな快晴だとやっぱり気分が違うな。

 なんか、勝てる気がしてきた。


「おはよう」


 向かいの精肉店前の電柱の横に、はまむしひさが立っていた。

 わたしと同じく、黒いジャージ姿だ。

 集合場所は佐原駅なんだから、わざわざこちらにこなくてもいいのに。


「おはよう」


 わたしたちは手を伸ばし、パシッと勢いよくタッチ。

 そのままぎゅっと、強く握り合った。


     3

 畑、

 田んぼ、

 小さな山、

 林、

 畑、

 田んぼ、

 点在する民家、

 田んぼ、

 林、

 田んぼ。

 バスからの眺めは、延々とこの繰り返しだ。


 JR成田駅近辺は高い建物も自動車も多いけど、ちょっと離れるともうこんな感じ。

 成田って空港もあってそこそこ有名だと思うけど、佐原に負けず劣らずの田舎なんだよな。まあ、だからこそ空港が出来たわけだけど。

 実に、わたし好みの街並みだ。

 都会に住みたい者の気持ちが分からない。

 わたしの好みは置いといて、しかし本当に、こんなとこに体育館があるんだろうか。確かバスで二十分って話だけど。


 いまわたしたちが揺られているのは、普通の市営バスだ。

 フットサル大会千葉県地区予選に出場するために、会場に向かっているところである。

 車内の空間のほとんどを、わたしたちが占領してしまっている。

 佐原駅へ向かうあたりからずっと、試合のこと考えて緊張してしまっていたのだけど、牧歌的風景の中ガタゴト揺られているうちになんだかリラックスしてきて、ちょっと眠くなってきたくらいだ。


「男子は松戸光陰らしいね」

「そうなの? 初めて聞いたよ。そこ、優勝候補じゃん」

「男子は初戦で玉砕かぁ。……オジイがこっちばっかり構ってくるようになったら、鬱陶しいなあ」

「あたしらが勝たなかったら同じでしょうよ」

「あらぁ、勝てないと思ってんの?」


 緊張気味で無口になっている一年生とは反対に、二年生はうるさいくらいにお喋りだ。自分たちのため、そしてカチカチになっている一年生のため、意識してそうしているのだろう。

 そういえば、すっかり忘れていたな。男子、松戸光陰なんだよな。

 あっちも今日が初戦。

 会場は、確か千葉市のどこか。幕張だかなんだか。

 相手、優勝候補か。

 どんな試合になるんだろうか。

 勝てるだろうか。

 高木ミット……

 そういえばわたし、告白されたんだよな。

 実感、まったくない。


 なんか以前から、景子も久樹もうすうす気づいてたみたい。ミットってば、さりげなくわたしのこと色々聞こうとするし、だからきっと気があるんだろうな、って。

 フットサル部に入ったのも、わたしとの接点が増えるからじゃないか。と久樹は予想しているのだけど、いわれてみれば確かにそうなのかも知れないな。合同練習したり、かなり接点あったし。

 じゃ、同じ高校に入ったのも、もしかして……。

 通学が楽だからっていってたけど、でもあいつの成績なら、もっともっと上の高校だって充分に狙えたんだし。

 でもなあ、いまさらあんなこといわれてもなあ。そもそも、わたしのこといつもブスだのゴリラだのって、名前で呼んだことないくせに。

 あ、そういえば……お祭りで三人組にからまれて逃げる時、確か呼んだよ、「梨乃」って。あいつ、自分でも気づいていないんだろうなあ。

 とりあえず、付き合うの付き合わないのといったことは保留。

 いまはとにかく、目の前の大会に集中したい。

 というかあいつ、「付き合ってください」といった直後に、真っ赤な顔を両手で隠して、女の子みたいにキャーって叫んで内股で走って逃げちゃうんだもの。

 それで、それきりだよ。

 中高生で付き合うなんてガキが見栄張ってるだけだ、なんていっていたくせに、他人にいうことと自分のやっていること、まったく違うじゃんかよ。

 それから、教室でも絶対にわたしと視線合わないように、いつもそっぽを向いてるし。ほんと、わけ分かんない奴。「告白? ああ、なかったことにして」なんていわれても、なんの不思議もない。

 でも多分、

 あのバカと……

 付き合うことに、なるんだろうな。

 ……ハツカレかぁ。


「え、なに? カレシ? ハツカレ? あのバカって……もしかして相手、高木ミット? やったじゃん!」


 変なとこに飛んじゃってたわたしの意識が、織絵の声に一瞬で我に返されていた。


「え、え、あたしいま喋ってた? ど、どこまで……どこまで喋ったぁ?」

「うわ、やっぱりそうなんだあ!」


 聞き耳立てていた一同が、どがーんと大爆発!


「梨乃おめでとう!」

「先輩、あたしらのことも忘れず構って下さいね!」

「結婚しちまえ!」

「うらやましい!」


 夏木フサエがわたしの頭を掴んで、ヘッドロックでグイグイ締め付けてきた。


「マックスコーヒーおごれ!」

「やったね梨乃ぉ!」


 わたしはみんなに振り回され、ド突かれ、髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回された。


「やめて~~~!」


     4

 ようやくバスは目的地に到着した。

 成田市立山陽台中央公園第一体育館。

 周囲を田んぼに囲まれた、広大な運動公園施設の一角にある建物だ。

 この体育館で、これからわたしたちの戦いが始まるのだ。


 バスを降り、曲がりくねった道を進み、体育館が近づいてくるにつれ、また、緊張感が戻ってきた。

 体が震えてくる。

 誰も注目などしていない、勝とうが負けようが目立つこともない、高校生大会のたかだか県地区予選であるというのに、


「気分は決勝戦だね」


 わたしの気持ちを代弁したわけじゃないのだろうが、はまむしひさがそういってわたしの肩を叩く。

 久樹は単純に、自分のテンションを高めて楽しんでいるのだろう。緊張を楽しんでいるのだろう。

 しかし実際のところ、我々には楽しんでいられるだけの余裕などはない。

 技術力がどうこうというよりも、駒の数が絶対的に不足しているためだ。

 かなり厳しいといわざるをえない戦力状態だ。


 なにがどう厳しいのか、説明しよう。


 まず、わたし。

 だいぶ右足の状態は良くなったけど、まだ激しく踏み込むと痛みがある。

 出なくても勝てるのなら、出たくないところだ。

 まあ、わたしが出れば勝てるというものでもないけど。


 それと、あぜけい

 腰を骨折しており、昨日、ようやく退院したものの、もちろん試合など無理に決まっている。

 会場には同行したかったらしいが、わたしが許可しなかった。退院したばかりなのだし、無茶して欲しくなかったから。

 二戦とも勝てば、一週間後の決勝ラウンドに同行は可能だろうけど、戦力のあまりの厳しさに、さすがに絶対に勝つとは約束出来なかった。


 次に、くす

 練習中に左足首を捻挫。全治二週間。


 しの

 親族に不幸があって、こられない。残念だけども、お葬式に出るななんていえるはずない。


 さらに、王子ことやまゆうが離脱。

 O157でダウンしてしまい、ようやく回復の兆しが見えたと思ったら、生理を遅らせるためのピルを飲み忘れてて、いままさに真っ只中。

 もともと生理痛がかなり辛い体質らしい彼女だが、O157での体力消耗の影響か、かつて経験したことないくらいに酷い吐き気に腰の痛みとのことだ。

 迷惑かけたせめてもの罪滅ぼしにと、青ざめた顔しながらも同行してくれている。

 おとなしく休んでりゃいいのに、と思う。

 わたしも生理の時はかなり吐き気やら腰の痛みが酷くなるほうだから、彼女の辛さはよく分かる。


「しっかしまあ、茂原藤ケ谷の奴ら、黒魔術だかなんだか知らないけど本当に呪いかけてんじゃないかね」


 久樹が、肩をすくめて苦笑い。

 確かに我々のこのチーム状態、もう笑うしかないといったところだ。


「ぐうええええい」


 山野裕子がふらふらしながら、妙な呻き声を出している。


「王子、大丈夫?」


 わたしは、王子様の背中を軽くさすってやった。


「男でも生理になるんだな」


 久樹がぼそり。


「男が生理になるわけないでしょ! ……あの~、あたし、部に迷惑かけちゃってますけど、だからムードだけでも盛り上げようとこうしてきてるんだし、あたしだって落ち込んでいるんだし……つうか、だいたい久樹先輩のほうがガサツでガニマタでよっぽど男じゃねーかよ!」


 確かに。

 そういえば、久樹という名前、両親が男の子が生まれることしか考えてなかったからって聞いたことがある。名は体を表すとはよくいったものだ。


「なんだとこらあ! だいたい拾い食いなんてしてっから、O157なんかにやられるんだよ!」

「してませんよそんなこと! 先輩のうちの食事じゃないんだから!」

「うちのごはん知ってんのかよ!」

「どーせ道に落ちてるキャベツの葉っぱとか、そんなとこでしょ!」


 また漫才始まったよ。もう、この二人は。


「まあ迷惑かけちゃっているのは事実ですから、これ以上はなにもいいません。先輩んちの食事がいかに衝撃的かも、もう黙ってますよ。だからさ、先輩、今日、絶対に勝ってくださいよね! 二試合とも。そしたらあたし、決勝大会ではゴール量産してやりますよ」

「お、よくいった。えらいぞ男の子」


 久樹は、王子のツンツン頭をなでた。

 みんな、笑っている。

 少しは緊張が解けたかな。いつもバカな話ばかりしているのはちょっとと思うけど、こういう時には有り難い。


     5

 体育館の玄関に着いた。

 重たいガラス戸を開いて、わたしたちは中へと入った。


 とうとう、ここまできたんだ。


 あ、いや、予選の予選だから参加すれば誰だってこられるのだが、なぜだかそんな気分になってしまった。

 まあ、個人的に色々とあったからな、わたし。

 もうすぐ大会が始まるという館内の雰囲気であるが、まったく賑やかではなく、むしろしんとしていて、ちょっとした人の声も反響して、なんだか寂しい感じだ。

 たかだか高校生の大会の、地区予選だ。参加者とその関係者がほとんどで、観客席も父兄らしい人がちらほら、と、そんなところである。


 あと二十分ほどで、本日の第一試合目が始まる。

 ピッチ内では、出場校の選手たちがウォーミングアップを行っている。

 二階のガラガラの観客席で、太ったおばさんが両手をぶんぶん振り回して「マナちゃーん! マナちゃーん!」と叫んでいる。

 きっとコートの中の、一人顔を真っ赤にしているショートカットの子がマナちゃんだろう。


「親ってほんと恥ずかしいよね。あんなのにこられたら、試合どこじゃないよ」


 自分の場合を想像したか、薄ら寒そうな顔の久樹。

 確かにそうかも。


 わたしたちがいるのと反対の端に、この第一試合目とは関係なさそうな、ジャージ姿の集団がいる。茂原藤ケ谷高校の部員たちだ。背中にプリントされた校名を見るまでもなく、体つきで分かる。噂通り、みんなやたら大きい。

 背を向けていた一人が、振り返ると同時にニッと笑った、ように見えた。


「絶対笑ったよね、あいつ」


 久樹も気づいていた。


「たぶんね」

「確か、あいつが内藤だよ」

「ああ、主将の」


 ないとうさち、三年生。

 主将のくせに、一番ファールや退場が多いらしい。

 茂原藤ケ谷のフットサル部は強制引退がないので、この時期でも三年生がゴロゴロいるのだ。三年が多ければ勝てるというわけではないが、大きな優位点であることは間違いないだろう。

 羨ましいな。わたしも卒業までフットサルしていたいし、うちも強制引退なくすよう、オジイに相談してみようかな。


「あたしらの体型を見て、舐めてんだよきっと。……面白い。今日の試合、絶対に勝つよ! 茂原藤ケ谷、ぶっ潰す!」

「ちょっと、久樹いい!」


 いきなりとんでもないこと叫ぶなよ。さすがに茂原藤ケ谷の人たちみんな、びっくりしてこっち見てるよ。

 やだなあ、なんかあったら責任かぶるの部長のわたしじゃんかよ。


「おーっ!」


 片手突き上げ、勇ましく返すきぬがさはる


「春奈まで! もう、久樹が変なこというからあ!」

「ああ、あたしなんか変なこといった?」

「とぼけちゃって。まったく」


 久樹は面白いところがあって、相手に舐められるのを喜ぶのだ。

 要するに、格下と思わせといてコテンパンにやっつけるのが大好きなのである。それで負けてしまった時には、人一倍悔しがるくせに。

 でも、向こうの主将、内藤幸子がこちらを侮るのも無理はないかも知れない。

 あちらと比較するまでもなく、普通に見たってわたしたちの体型はちょっと貧弱に見えるところがあるからだ。わたしや織絵はともかくとして、春奈や、佐治ケ江、久樹など。

 俊敏さや技術で勝負すればいいとはいえ、やはりある程度の頑丈さは必要だからな。

 茂原藤ケ谷と、わたしたち佐原南とでは、平均身長が十センチ以上違う。

 あちらは恵まれた体格を生かした、反則すれすれのガツガツと当たってくるようなプレーをしてくるという噂だけど、今日は果たしてどんな試合になることか、まったく想像もつかないな。

 想像つかないといえば、向こうの一年生であるともえかずの存在もだ。

 身長百六十四センチでわたしと同じだけど、茂原藤ケ谷の中では一番背が低い。しかし相当なテクニシャンと聞く。特に、ボール奪取とボールキープの能力が並外れて高い。

 福島県から最近転校してきたそうで、向こうの部員たちは彼女のことを「遅れてきた最終兵器」などと呼んでいるとのこと。

 向こうが、その最終兵器である巴和希をどう使ってくるのか。

 なお、これらはすべて、春江先輩からの情報だ。信頼性はかなりあるといっていいだろう。

 もちろんうちのメンバーにもしっかりと伝え、対策も講じたつもりだ。


「では、第一試合、予定通りに十二時より開始します。準備して下さい!」


 黒いレフリーシャツを着た男性が、叫んでいる。


 今日、この会場で試合を行うのは四校。


 第一試合 私立ながれやまはとがや高等学校 対 県立いん西ざいおろし高等学校


 第二試合 県立ばらふじ商業高等学校 対 県立わらみなみ高等学校


 それぞれの勝者同士が、午後から二戦目である第三試合を戦う。

 第三試合に勝つことにより、二週間後に幕張で行われる千葉県決勝大会に出ることが出来る。

 決勝大会では二位までが県代表として、代々木で行われる関東大会へと出場出来る。


 先日わたしたちが練習試合を申し込んでボロ負けした県立ひがし第三高等学校は、わたしたちと同じ地区に当たるのだが、去年千葉県決勝大会を二位通過しているシード校のため、地区予選は免除されている。


     6

 さて、審判の笛が鳴り、流山はとがや対印西木下の試合が始まった。

 わたしたちも、茂原藤ケ谷も、二階の観客席からこの勝負を観戦している。午後に、この二校のどちらかと戦うことになるからだ。自分らが一戦目を勝ちさえすれば、であるが。


 目の前で行われている試合であるが、どちらのチームも非常に上手だ。

 個々の技術があるだけでなく、チームとしてもしっかりしている。話に聞いていた通りに、攻撃の流山はとがやに守備の印西木下というのがよく分かるゲーム内容だ。

 うちは守備に重きを置く戦い方だから、印西木下と重なるか。でも、対戦するなら、どちらとが良いのだろう。

 などと、考えていても仕方ないか。強いほうが勝つ。それだけだ。

 その、強いというのには、しっかり相手を分析するということも含まれる。どちらと戦っても実力を発揮させられるよう、どちらの戦い方もしっかりと目に焼き付けておかないと。それはわたしの役目、わたしの責任だ。


「やっべ、忘れたあ!」


 隣の久樹が、バッグをガサゴソやってたかと思うと唐突に立ち上がった。


「どうしたの?」

「携帯プレイヤー持ってくんの、忘れちゃった」

「なんだ、そのくらい」

「大事なことなんだぞ」


 久樹はいつも試合前に音楽を聴く。なんとかモンキーとかいうちょっと前のバンドの、サイキックナンバーなんたらって曲を聴いて、気持ちを高めるのだそうな。

 いつからの習慣か知らないけど、ゲン担ぎにもなっていて、とにかく絶対にかかせないのだとのこと。


「王子、久樹のそばで歌って盛り上げてやんな」


 わたしは王子こと山野裕子の脇腹を肘で軽くつついた。


「ええっ、あたしイエモンなんて全然知らねえっすよ」

「いいよ、王子の歌なんか耳に入れたら、得点出来ないどころかオウンゴールで試合に負けちまうよ」


 久樹は諦めて、バッグのファスナーを閉じている。


「くそ、聞いたことないくせに、あったまくんな。あたし歌上手いんですよ。じゃ、先輩、今度カラオケ勝負しましょうよ。成田にでっかい店が出来たから、キャンペーンで安いうちに」

「いつもどっからくるんだよ、その自信は。分かった、勝負しよう。だからいまは歌わなくていいよ。ヘタクソな歌声は成田のカラオケ屋までとっておけ」

「いま叫びたくなってきたあ!」

「やめろお!」


 などとくだらないやりとりをしている間にも、眼下では実に集中した引き締まった試合が展開されていた。

 そしてスコアレスのまま、前半が終了した。


     7

 二校とも、ある程度の戦力は分かった。

 この後に試合を控えているわたしたちは、一階へと降り、体育館の端でウォーミングアップを開始した。


 わたしは、右足の怪我を気にして少し控えめだ。特に痛くもないが、しかし激しく動いたらどうなるか分からないから。


 すぐ脇で、第一試合の後半戦が始まった。

 今度は上からは見下ろせないが、間近で迫力ある試合が展開されることになった。


 その後半戦であるが、なんだか子供の喧嘩みたいな、面白い結果になった。

 まず、後半八分、印西木下が自慢の守備を崩されて、ついに失点。開き直ったのか、守備かなぐり捨てたような怒涛の反撃を開始する。

 予期せぬ事態にリズム狂わされたか、流山はとがやは、たまらず失点。さらに失点、また失点、また失点。

 印西木下は、ラスト五分の怒涛のゴールラッシュで、4-1と快勝。第三試合への出場権を得た。


 余談だが、先ほどお母さんが観客席で叫びまくって恥ずかしそうに顔を赤らめていたマナちゃんは、流山はとがや高校だ。

 彼女も、他の子たちも、衝撃的な逆転負けを喫したものの、みんな悔いのないすがすがしい笑顔だ。

 実力拮抗で、勝てるチャンスも充分あっただけに、悔しいだろうに。それなのに、ああいう顔が出来るって素晴らしいよな。見ていてとても気持ちがいい。

 わたしや久樹なんか、どんより落ち込んでしまうところだ。荒れて、ボトル蹴飛ばしたりとか。


「では、予定通りに一時より、第二試合を開始します。茂原藤ケ谷と佐原南の両校は準備して下さい」


 どくん。


 心臓が大きく鼓動した。緊張が、血流に乗って一瞬にして全身に回る。

 いよいよ、この時がきたんだ。


「佐原南! 勝つぞ!」


 わたしはみんなを集めると、力一杯に声を張り上げた。


「おう!」


 全員声を合わせて、力強く叫んだ。

 わたしは右手を、ぐっと前に突き出した。

 広げた手を、らくやまおりが自分の手のひらで強く叩き、パンと鳴り響いた。

 続いて、なつフサエ、浜虫久樹、もとこのみ、たけあきら。スターティングメンバーは、次々とわたしの手のひらを叩いて、ピッチの中へと入っていく。

 茂原藤ケ谷の選手たちもピッチに入っていく。

 中央で両校、十人の選手たちが並んだ。

 茂原藤ケ谷の選手たちだが、間近で見ると本当にデカイ。身長が十センチ高いというだけでなく、横にも奥にも、とにかく肉の量が我々とは天地の差だ。

 我々の中では一番のガッシリ体型である織絵ですら、華奢に見えるくらいだ。

 最終兵器こと巴和希は、ベンチにいる。

 どんなタイミングで投入されてくるのか、気になるところだ。

 わたしとしまあやきぬがさはるゆう真砂まさごしげの五人はベンチスタート。みな、パイプ椅子に腰を降ろした。

 しかしまあ、わたしを含めて控えの層の薄いこと。怪我人に、初心者に……サブのゴレイロもいないし。控えは七人まで置いておけるというのに、五人しかいないし。

 まあ、仕方がない。ピッチに立つ主力にしたって、層が薄く心もとないくらいなのだから。

 とにかく、このメンバーでやるしかないのだ。

 組織でしっかり守ることさえ出来れば、絶対に久樹が点を取ってくれる。

 みんなを信じよう。

 大丈夫。

 大丈夫だ。

 わたしはぎゅっと両手を握りながら、胸の中で何度も大丈夫を唱えた。

 第一審判が、笛を口にくわえた。


 そしてついに、


 わたしたちの試合が、始まった。


     8

 予想していた通り、話に聞いていた通り、ガツガツと当たってくる。

 フットサルでは基本的に接触プレーは禁止。従ってサッカーほど文字通りにガツガツでもない。ただ茂原藤ケ谷の選手は体の寄せ方が実に巧みで、ファールを取られることもなく相手の体力だけをガリガリと削り取っていく。相手、というのはもちろんわたしたち、佐原南の選手たちだ。


 なお、佐原南のユニフォームは上下ソックスすべて深い青。

 茂原藤ケ谷は、上下とも赤だ。

 以前、同じような色のユニフォームである我孫子東と練習試合をしておいてよかったな。

 風貌が、まったく違うけど。

 よくもまあ、こんな大きな選手ばかり揃ったものだよ。

 単なる県立の商業高校で、特に外から選手を集めているわけでもないのに。ある意味奇跡だ。

 それに対して、佐原南もよく戦っている。

 普段とは出場メンバーがらりと異なっているため、ピヴォのはまむしひさは、まずはバランスを取ることに徹している。

 あまり前に張らず、若干中盤に吸収されていて、実質中盤三人横並びだ。

 左から、なつフサエ、浜虫久樹、もとこのみ。中央後方にはベッキのらくやまおり。最後部には守護神、たけあきらが構えている。

 フォーメーションはいつもの通りダイヤモンド型、だけど今日はいま説明したようにその変則型だ。

 色々といじらざるを得ないほどの深刻な駒不足だけど、わたし個人としてはなるべくならば出たくない。

 せっかく治りかけている足を、悪化させたくないからだ。

 今日の二試合を勝てば、決勝大会は二週間後。その頃にはたぶん完治していると思うから、そうなってから思い切り暴れたい。

 おそらくくすの怪我も治っているだろうし、やまゆうだって出られるだろう。

 けいは、残念ながらまだまだ無理だけど、応援に来てくれるだけでも心強い。

 とにかく、まずはこの試合に勝つことだ。

 そうなれば、決勝大会突破だって夢ではない。うちには浜虫久樹というエースがいるのだから、守備さえ安定すればいくらだって点を取ってくれるはずだ。

 絶対に、勝たないと。

 負けてたまるか。


 試合開始前は、このメンバーでどこまでやれるだろうかと不安だったのだけど、だんだんとそんな思いは払拭されていった。

 勝機は充分にあるぞ。そう思うようになっていた。

 もともと聞いていた話ではあるけども、相手はそれほど技術があるわけではない。とにかく体格に恵まれていること、その有利さを生かす術を知っていること、それを露骨なまで徹底的に実践してくること。ただ、それだけのようだから。

 あと、しいていうならば、三年生がいることによる経験の差もあるか。まあそれをいうならこちらの久樹に勝る経験を持つ者など、おそらく向こうにはいないだろうけど。


「レフェリー、交代お願いします」


 わたしは立ち上がり、ライン際に立つ第一審判の許可を得た。次にプレーが切れた時に、選手交代だ。

 本来、交代は自由にどんどん行って構わない。申告が必要なのは、この大会のローカルルールだ。審判のレベルの問題や、タイムキーパーまたは第二審判すらいない試合も場合によってはあり、しかし大会記録は正確に残さねばならないため、このようなルールを設けているらしい。

 わたしたちの座るパイプ椅子のすぐ後ろでは、まさしげがいったりきたり、足を高く上げたり、とアップを行っている。これから、彼女に出てもらうのである。

 真砂茂美、かわいらしい顔をしているが恐ろしく無口な一年生だ。誰もどんな声なのか覚えていないくらい。でもなんだか、今はその無口さが頼もしく思える。


 突然、少ない観客数ながら、わっと喚声が沸いた。

 久樹が織絵のスルーパスに反応し、抜け出したのだ。

 しかしすかさず、茂原藤ケ谷のベッキの選手が詰め寄り、進路を塞ぎにかかる。

 久樹はボールキープしたままくるりと反転、ポストプレーで味方の攻め上がりを待ち……と思いきや、再度反転、右足一閃。シュートを放った!

 ゴレイロは、意表を突かれたかまったく反応出来なかった。

 しかしボールはゴレイロ正面、肩に当たり、跳ね返った。

 中盤から上がってきていた根本このみが、跳ね返りに反応して、倒れこむようにヘディングシュートを放つ。佐原南が初めて迎えた決定的なチャンスだったが、しかし運悪く、ボールは大きく枠を外れてしまった。

 いい攻撃だった。いまの、決まっててもおかしくなかった。

 根本このみのシュートが外れてゴールラインを割ったため、相手ゴレイロのゴールクリアランスにより試合再開だ。

 ゴールクリアランスとは、サッカーでいうゴールキックに相当する。蹴るのではなく、投げるという点が異なる。人数やピッチの広さがサッカーと違うので、合わせてルールも違うのだ。


「選手交代! このみ、茂美とかわるよ!」


 わたしの叫び声に、このみが戻ってくる。

 交代ゾーンには、すでに真砂茂美が待っている。


「茂美、まかせたよ!」

「……」


 茂美は、口をかすかに開き、このみとハイタッチをかわすと、コートの中へ小走りに入った。

 ほんと、無口なのか、声が小さいのか。

 でも、以前の面談の時にがいっていた通り、心は誰よりも燃えているのかも知れないな。期待しよう。


「このみ、シュート惜しかった。よかったよ」


 わたしは、このみの肩にタオルをかけてやった。


「ありがと。決まったと思ったんだけどな。練習足らんわ」


 このみはタオルで顔を拭いてわたしに返すと、椅子には座らずにそのままストレッチを開始した。能動的体力回復、かつ筋肉を冷やさないようにしているのだ。予定通りならば、数分後にまた出番がくるためだ。

 フットサルという競技は、サッカーとは違って何度でも選手交代が可能だ。それを利用し、全体的なバランスを考えつつ疲労対策をしたい。と、わたしは考えている。

 とはいうものの、大半の選手には全後半フルで出てもらうつもりだけど。うちの台所事情というものがあり、仕方がないのだ。

 本来であれば、控えの選手が七人おり、体力などそこまで考慮することなく何度でも交代させられるのだけど。うちは現在五人しか控えがおらず、さらにそこそこ使えそうなのとなると、いま交代で入った茂美くらいしかいないからだ。

 ピヴォの久樹、ベッキの織絵、ゴレイロの晶、この三人はフル出場させて、アラの選手を頻繁に変えようと考えている。

 久樹はスタミナがあるし、例えへたばっていても久樹は久樹だ。

 織絵は、いないとやはり守備が安定しない。ベッキは、うちにとってもともと層の薄いところだから、仕方がない。過労死するかも知れないけど。

 アラの選手はなるべく上下に走り回って、久樹と織絵にあまり体力消耗させないようにと打ち合わせてある。このみもフサエも、あまり体力のあるほうではないけれど、でもまあ、そのためのこまめな交代だ。

 使う選手は、とりあえずの予定としては、以上だ。

 わたしは右足の怪我があるからなるべくなら出たくないし、きぬがさはるはまだ初心者過ぎて使うのは怖すぎる。

 しまあやは二年生だが、能力的に春奈と大差がない。

 ゆうは、とにかく体力がないから、使うなら後半から使いたい。正直なところ、あまりにも気弱なプレーばかりするものだから、出さずに済むなら出したくない。アラの体力温存のためのローテーションは、控え一人いればなんとかなるし。

 と、これが今日のうちの面子を考えると、正攻法と呼べるやり方だと思う。

 景子や久樹と案を練りに練って、プランB、プランCと、いくつか奇策的なことも考えてはあるのだが、これらはあまりに不確定要素が多すぎるため、他に打つ手がなくなった場合の最後の手段だ。

 でも試合はどんな事態が発生するか分からないし、いざとなれば奇策だってやるし、島田綾、佐治ケ江、春奈だって使うつもりだ。

 技術の無さなんて、本人の根性と周囲のフォローがあればなんとかなる。それがチームスポーツだ。

 とにかく、その時点その時点で、勝利の可能性が高い方法を選択していくだけだ。

 でも現在は現在のやり方でやる以上、試合に出る選手たちの疲労は相当なものと思うが、頑張ってもらうしかない。

 ここで泣き言をいうくらいなら、最初からフットサル部に入るなという話だ。


「そう、そこです、いけえ!」

「しゃあああ、ぶっとばせえ! ああもう、チクショウ! 久樹先輩ナイシュー!」


 衣笠春奈と王子こと山野裕子が、ひっきりなしに叫び声を張り上げている。

 王子は体調不良で試合には出られないのだけど、勝たせようと必死になっているのが伝わってくる。


 試合は非常に均衡している。

 ただ現在は、若干ではあるものの佐原南が有利にゲームを運んでいるだろうか。

 交代枠の問題からくる疲労が心配だから、相手にペースが移る前に得点してくれればいいんだけど。


「フサエ先輩、ナイスカット!」


 また、春奈の叫び声。

 本当に、一生懸命応援している。

 屈託がなくて、本当にいい子だよな。

 フットサルに対しても真面目だし。

 どうして、あんなに嫌っちゃったんだろうな、わたし。

 辛くあたってしまったこともあったし、本当に悪いことをした。

 いまはまだ怖くて試合には出せないけれど、これからしっかり面倒見て、鍛えてあげよう。わたしたちが引退した後、主力になれるくらいに。本人は、とにかくやる気いっぱいなんだから、すぐに上手になるだろう。


「絶対に勝つぞぉ!」


 わたしも春奈や王子に刺激を受けて、指示ではない単なる熱い応援の言葉を叫んでいた。

 ふと気付けば、二階の観客席からは、さきほど戦っていた流山はとがやと印西木下の二校が野次馬となって、春奈に劣らずの黄色い歓声を上げている。

 印西木下としては、次の試合の偵察という面もあるのだろうけど、いまピッチで行われているこの試合につい感情移入をしてしまっているのか、いちいち感嘆の叫びが漏れ出ていた。

 なんか……悪くないな。

 女の子女の子した、いままで毛嫌いしていた世界。

 結構、いいかも。

 だって、せっかく女の子なんだし。

 せっかくまだ十代なんだし。

 などと思っていたら、なんだか体の奥底から、ぞくぞくするような気持ちよさがこみ上げてきた。


「よし、決めろ!」


 わたしの叫びと同時に、久樹が一人かわして冷静にシュートを放った。

 相手ゴレイロのふるとしは、なんとか反応し、腕にボールを当てて弾き上げた。

 ボールが、宙に浮く。

 落下地点に久樹がすっと入り込み、待ち構える。

 しかし久樹にまで落下するより先に、相手主将であるないとうさちにヘディングでクリアされてしまった。

 残念。

 久樹は背が低い。この相手とも、身長差二十センチはあっただろうか。

 フットサルはサッカーほど身長が大事ではないとはいえ、やはりこういう時には大きく響く。


 クリアボールを向こうの2番、ぐらあけが拾った。

 こっちのチャンスになりかけていたというのに、一瞬にしてこっちのピンチだ。2番と、佐原南ゴレイロ武田晶の一対一だ。

 少しゴールまでの距離があるため、あちらの2番はすぐシュートは打たずにドリブルを開始する。

 二人の距離は、予想より遥かに速く一瞬にして詰まっていた。2番がドリブルに入ったその瞬間に、武田晶が迷うことなく全力で飛び出していたのだ。

 次の瞬間には、晶のスライディングによりボールは弾き飛ばされていた。

 フットサルは基本的にスライディング禁止だが、ゴレイロによる守備のためのスライディングは許可されている。2番、名倉明美はバランスを崩し、尻餅をついた。

 晶……凄い。ほんと的確な判断力。冷静なくせに、大胆にいく時はいくし。顔も体もコロコロと丸っこく見えるのに、まあ俊敏なこと、迷いのないこと。

 わたしも一応ゴレイロ練習をしているけれど、もしあそこに立っているのがわたしだったならば、きっと動けずゴール前に張り付いていて、失点していたのに違いない。

 クリアボールはラインを割ることなく、フサエが胸でトラップした。


「フサエ、逆!」


 わたしは短く指示の言葉を飛ばした。

 フサエは視野が狭いこともあってか、ボールを持ったあとに考えてしまうところがある。でも、わたしの声にすぐに状況を理解してくれたようで、トラップしたボールが足元に落ちる前に、反対サイドへと蹴った。

 反対サイドには、マークから外れてフリーの久樹が。

 決定的なチャンスだ。

 と思ったが、残念なことにフサエのパスが少し精度悪かった。

 久樹は、さっと戻って腿でトラップ。相手二人に囲まれてしまった。

 奪われる!

 ……いや、真っ赤なユニフォーム姿の大きな二人の間から、青いユニフォームを着た久樹がするりと抜け出していた。ただ抜けただけではなく、足にはしっかりとボールが吸い付いている。

 何度もいうけれど久樹はとても小柄であり、相手からしたら一瞬消えて予期せぬところからふっと現れたような錯覚に陥ったことだろう。わたしだって練習で久樹に抜かれると、そういう感覚を受けるくらいなのだから、茂原藤ケ谷のような巨大生物ともなればなおさらだろう。

 久樹は、大きな相手と戦うにはどうすればいいか、どう動けば小さな体格であることが武器になるか、常にそれを考えて練習している。その成果をここでも発揮したのだ。

 二人を抜いて飛び出した久樹は、独走する。

 相手ゴレイロは、我慢出来ずに飛び出した。

 巨体を横倒しにしてシュートブロックしながら滑り、ボールを奪おうとするが、難なくかわす久樹。

 フットサルでは体を横にしてのセーブはしないものなのに、おそらくこのゴレイロはサッカー経験があり、その癖が出たのだろう。それも致命的な。

 久樹の目の前には、がら空きのゴールがあるだけ。

 もう、流し込むだけ。

 先制だ。

 久樹が外すわけがない。

 いや……

 なんだ、これは。

 なにが起きた?

 突然、久樹が転倒したのだ。

 バランスを失い、膝から崩れ、ごろり転がったのである。

 ボールはそのまま転がり続けて、ポストの右横をかすめ、むなしくゴールラインを割った。

 苦痛に顔を歪めている久樹。

 受身の取れない倒れ方でもなかったと思うけど。

 しかし、わたしの気のせいだろうか……相手のゴレイロが、久樹の足首を掴んだような……

 試合は一時中断し、二人の審判がピッチに入り久樹の状態を確認している。許可を得て、わたしもコートの中に入った。


「久樹、大丈夫?」


 痛みに顔を歪めていた久樹は、わたしの声に反応すると、床に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。

 そして茂原藤ケ谷のゴレイロ、古野敏江を睨み付けた。


「こいつ、一瞬、あたしの足首凄い力で掴んで引っ張りやがった。レフェリー、見てたでしょ! 得点機会阻止!」


 ……やっぱり。


「いや、なにもなかった。試合再開。さ、控えの選手は外へ出て」


 第二審判が、わたしの肩を叩いた。

 その態度は、久樹を激昂させた。


「はあ? なにもないじゃないだろ! てめえら、その目は節穴かよ! それか、ひょっとしてルール知らねえのかよ!」


 王子顔負けの汚い言葉で、審判たちを罵倒したのである。


「久樹、落ち着いて!」


 わたしは久樹の両肩に手を置き、なだめようとした。

 下手したら、審判への暴言で一発退場だ。

 しかし、

 遅かった……

 レッドカード。

 浜虫久樹に、退場が命じられた。


「ちょっと、冗談じゃないよ! 脳なしヘボ審判!」

「あの、わたしも見てました! 確かにゴレイロ、足首を掴んでいたと思います」


 はじめから、二人で猛烈に抗議するべきだったのだろうか。

 でも、いまさら遅かった。

 第二審判は興奮するわたしたちと反対に、冷静な表情で口を開いた。


「仮にそうでも、もう覆らないよ。ビデオジャッジなんかやっていないし、もう決定された後だし。それになにがあろうとも、審判への暴言は許されないこと。ルールを知らないわけじゃないよね」


 最後の一言、久樹のことばそのままやり返したのだろう。

 その人をバカにしたような態度に、今度は久樹ではなくわたしが切れそうになった。あんな目に遭わされて、得点機会を潰されて、退場までさせられた久樹の気持ちを考えてみろ。悪質なファールを見逃したくせに。

 わたしが審判に、激しく詰め寄ろうとした時である。


「ごめん」


 久樹はぼそりと消え入りそうな声を出すと、うなだれたまま佐原南ベンチのほうへ歩き出し、ピッチの外へ出た。

 わたしは、なにもいえなくなってしまった。


「ほら、君も早く出なさい」


 促され、わたしもピッチから出る。

 この、ヘボ審判……

 と、心の中で毒づきながら。


 試合は再開した。

 圧倒していたというほどではないもののそこそこ佐原南のペースで試合を運ぶことが出来ていたというのに、形勢は完全に逆転、わたしたちは防戦一方を余儀なくされることとなった。

 当然だ。

 こちらが一人少ないのだから。

 FPが十人いるサッカーと違って、フットサルは四人、それが三人になってしまったのだから。

 しかもいなくなった選手というのが佐原南の一番の実力者、前線でしっかりボールキープが出来る浜虫久樹なのだから。

 守るしかなかった。

 なにも考えず、ただひたすらに。


 怒涛の攻めを見せる茂原藤ケ谷。

 阻まんとする佐原南。

 一秒が一分にも二分にも感じられるような、そんな攻防が、わたしたちの目の前で繰り広げられている。

 佐原南は、楽本織絵を中心とした粘りの守備で、なんとか失点せず持ちこたえているが、いつ失点をしてもなんら不思議のないくらいに、押し込められていた。

 ゴレイロである武田晶のファインセーブにも、何度助けられただろうか。

 ピッチの外から見ているだけで、汗がどくどくと、河の流れのように吹き出してくる。

 相手のシュートが放たれるたび、心臓が悲鳴をあげる。

 さっきまでうるさいくらいの大声を張り上げていた春奈や裕子も、すっかり黙ってしまっている。祈るのに精一杯で、声を出さなければと考える余裕すらないのだろう。二人とも痛々しそうな表情で、いいようにシュートを打たれ続ける仲間たちをただ見守っている。


 このまま頑張って守備を続けていても、点が取れなければ試合には勝てない。

 だけど、構わない。

 防戦一方で。

 これは、フットサルなのだから。

 プレーヤー人数の少ない競技でよくあるルールだと思うけれど、フットサルも退場で減った人数の補填が可能だからだ。

 条件としては、退場から二分経過すること、または退場した側が失点した場合。

 変な色気を出すよりも、おとなしく、しっかりと、二分間を粘ったほうがいい。

 ピッチの選手たちはみんな、やはり焦りは出てしまっているようだけれど、でもよく耐えている。

 こういう時にしっかり我慢出来るのも、わたしが守備重視のチームを作ってきた効果だろうか。もちろん、戦術を理解して実践してくれるみんなの能力あってこそだけど。

 でも、人数が四人に戻った後、どうやって点を取ればいいんだ。

 もちろん普段から、久樹に頼らない攻撃のパターンだってしっかり練習している。でも実際、一番得点あげているのは久樹だし、堅守の中で点が取れるのはいつも前線で頑張ってくれている久樹がいればこそだし、ピヴォの位置からゲーム全体をコントロールしてくれているのも久樹だった。その久樹がいなくなってしまったというのに……

 普段は冷静というか飄々としているくせに、いざ試合になると切れやすいところがあるのは分かっていたのだけど、よりによって初戦でさっそくこんなことになるだなんて。

 悔やんでも現実は変わらない。とにかく、残った選手でやるしかない。


 あと十秒ほどで、補充できる。

 当初の予定を変更して、島田綾を入れよう。織絵の守備負担を減らしたいから、慣れてないけどフォーメーションをボックスにしよう。

 綾では技術的にも経験的にも少し頼りないけども、とにかく走り回って相手をかく乱させ、疲れさせてくれればいい。

 本当は経験豊富な久樹の意見も取り入れたいところだけど、久樹ってば頭を抱えてすっかりふさぎこんでしまっている。とても話せる状態じゃない。

 とにかく、耐えることだ。

 あと、ほんの少し。

 そうすれば、FPの人数が四人に戻る。

 耐えに耐えた分、こちらに勢いが戻るかも知れない。むしろ久樹がいない分だけ、マークのしどころが分散して、うちにとってやりやすくなるかも知れない。というのはちょっと都合よすぎる考えか。

 決定機を逃し続けた側にはピンチが、我慢し続けた側にはチャンスが巡ってくる。それが鉄則のはずだ。そう、信じる。……でなければ、とても精神がもたない。

 あとほんのちょっとだけ、持ちこたえてくれ。

 頑張れ。


 だけど……

 本人たちは手を抜いているつもり、気を緩めているつもりはまったくないのは分かるけど、なにかことが起こるのは、えてしてこういうタイミングだったりするものである。

 織絵がボールキープに失敗、ガリッと骨肉えぐりとるかのような、荒っぽいボールカットを受けた。

 相手の5番、確かさくら、これもまた体の大きな選手だ。

 織絵は倒されて、尻餅をついた。

 笛はない。

 5番、桜木美紀は、自分の味方が二人待っている前線へと、鋭いパスを送る。

 夏木フサエが、懸命に足を伸ばすも届かない。

 茂原藤ケ谷の主将である内藤幸子に、パスが繋がってしまった。彼女はまったく迷うことなく、後ろへ反動つけた右足を激しく振り下ろした。

 誰もゴレイロの武田晶を責めることは出来ないだろう。

 だって、三メートルほどの至近距離からのシュートに反応して、ドッジボールのようにボールを抱え込んでみせたのだから。凄い反射神経だ。

 しかしキックの威力が凄まじかったためか、完全にキャッチ出来ず、ボールを前へ落としてしまった。

 茂原藤ケ谷の2番、名倉明美はそのチャンスを狙っていたのだろう。躊躇なく一瞬にしてボールに詰め寄り、つま先でボールを蹴飛ばした。

 晶は、今度はなにも反応出来なかった。後ろを振り向くと、ゴールネットが揺れていた。

 この数分間、まさに神憑り的な大活躍を見せていた晶だったが、そう何度も神様は降りてきてはくれなかった。

 失点……


     9

 笛が鳴った。

 喜びを爆発させる茂原藤ケ谷の選手たち。

 がっくりと膝を付く晶。

 晶だけではない。ほかのみんなも、うなだれ、肩を落とし、絶望的な表情を浮かべている。

 ベンチで自責の念に頭を抱えていた久樹は、顔を上げ、呆然とした表情で、起きた結果を見つめていた。

 絶対に相手に与えたくなかった先制点を、とうとう与えてしまった。

 でも、起きたことが現実だ。

 やれることをやるしかない。

 三人になった時点で、覚悟だってしていたじゃないか。

 二分持ちこたえることが出来ずに失点した場合には、即座に選手の補充が出来るため、ピッチに島田綾を入れた。


「ボックスでいくよ! フサエと綾は前! 織絵は、バランスとって! まだ一点差だ! くよくよすんな!」


 わたしは声を張り上げ、指示を出し、落ち込む仲間たちを叱咤をした。

 普段は、ダイヤモンド型のフォーメーションなので、ボックス型はやりにくいかも知れない。でもこのメンバーでは、仕方ない。守備が織絵一人では潰れてしまう。


「王子も声出せ! それでも応援団長か! 春奈も、いつもの元気はどうした!」


 わたしは二人を睨み、怒鳴り付けた。


「はい!」

「団長じゃねえけど、ガッテンだ部長! 負けんなあ、佐原南魂を見せろお! ブチ殺せ! 攻めろおおお!」


 ばりばりと凄まじい絶叫を始める王子。

 と、他人に応援を強制しておきながら、わたしが一番気落ちしている。

 この試合、この後どうすればいいんだ。

 負けたくない。負けたくないよ。

 でも、それじゃあどうすればいい?

 わたしに久樹のような特別な能力があれば、せめて、怪我さえしていなければ……

 なにより落ち込むのは、この失点のタイミングだよ。あとたった数秒で補充が出来たのだから。あまりに虚しくなるじゃないか。

 ならばいっそのこと、さっさと、わざと失点しときゃよかった。FP三人きりで、無駄に体力と気力を消耗しちゃって。

 わざと失点だなんて、スポーツやる者として最低の考えなのは分かる。口が裂けてもそんなこと人にはいわないけど、とにかくそう考えてしまうくらい、この失点が悔しくて、残念でならないということだ。

 でも……

 なにが出来るかだなんて、考えている場合じゃないよな。

 やること、やれること、悩むまでもなく決まってんじゃんか。


「茂美、もう少し中入って! 綾、もっと走れ! うまい、その調子! 落ち着いて! 2番との距離、もう少し詰めて!」


 状況を把握し、叫び、指示を出し、士気を鼓舞すること。

 負けたくないのなら、いまわたしが出来ることを精一杯にやるだけだ。

 簡単なことだというのに、ようやくそれに気づいたよ。

 頼むよ、みんな。


     10

 前半終了の笛が鳴った。

 とんでもなく長く感じられた二十分だった。

 失点は、運良くあの一点だけで済んだ。

 これから十分間のハーフタイムだ。


 ピッチ上の選手たちが戻ってくる。

 少ない控え選手を順繰りで回していたため、みんなかなり疲労が顔に出ている。ただ一人だけ二十分フル出場の織絵なんて、大口開けて見るも情けない表情で大きく肩を上下させている。

 反対に茂原藤ケ谷の選手たちは、七人の交替枠を有効に利用しているためか、さほど疲れの色はうかがえない。


「お疲れ。みんな、よくやってるよ。まだまだこれから。巻き返してこう!」


 わたしは、ぽんぽんとみんなの肩を叩いていった。

 でも、みんなの表情は相変わらず暗いままだ。

 超一流の攻撃センスを持っている久樹が退場してしまったのだから、仕方のないことかも知れない。

 でもこんなんじゃ、勝てる試合だって勝てないし、勝てそうもない試合ならなおさらだ。


「みんな、表情が硬いよ。よくやってんじゃん。ほんと、凄いよ。……あのね、失点してそんなふうに気分が落ち込んだり、悔しかったりするってことはね、真剣に打ち込んでいるからなんだよ。毎日頑張っているからなんだよ。フットサルが好きだからなんだよ。中途半端じゃないから、いまのそういう気持ちになれるんだよ。自分たちがどれだけ頑張ってきたのか、試すいいチャンス、がむしゃらにぶつかってこうよ! うちは強豪校じゃないし、失うものなんてなんにもないんだよ」


 わたし、なんだかいつになく饒舌になっているな。

 言葉を続ける。


「あたしと景子が喧嘩してたの、知ってるでしょ? 売り言葉になんとかってやつなんだけど、あたし、フットサル部なんかどうでもいい、なんて叫んじゃってさ。……こんな素晴らしい部員たちがいるのになって、ほんっと後悔したんだよね。で、今日試合が始まってみたら、素晴らしいどこの話じゃない。みんなずっとずっと凄いんだもん。技術のことだけじゃなくて、負けない気持ち、向かってく気持ち、王子たちの応援もね。あたし、この部に入ってよかったと思ってる。部長になれてよかったと思ってる。この試合も、みんなと頑張りたいと思っている。……失点してがっくりくる気持ちは分かるよ、でもまだ後半が残ってんだよ。そんなんじゃ、奇跡だって起こせやしない」


 奇跡もなにも、そこまで圧倒的に向こう有利な状況でもないのだが。でもみんな、絶対に勝てっこないような顔してるから。


「そうはいっても、久樹がいないんじゃ戦力ダウンどころじゃない。まして、一点ビハインドなわけだしさあ」


 力ないフサエの呟きは、きっと全員の気持ちでもあるのだろう。

 なんていってあげたらいいんだろう。

 こんな時に、なんといってみんなを励ましてあげたらいいんだろう。

 春江先輩なら、こんな時……


「みんな、本当にごめん!」


 突然、久樹が大きな声を出し、深く頭を下げた。


「あたし、ついカッときて、なにがなんだか分からなくなっちゃって。試合ぶっ壊しちゃって、なんて謝ればいいのか……」


 その目には涙が浮かんでいた。

 ただでさえ小柄な久樹だが、消えそうなくらい小さくなってしまっている。

 久樹の辛さがどれほどのものなのか、わたし程度には想像もつかない。でも、あの久樹が落ち込んで、泣いて謝るくらいなのだから、それは相当なものなのだろう。

 でも、

 でも……

 だからこそ、わたしはあえていう。


「あのさあ、自分いなくなった程度で、そこまで戦力ダウンすると思ってんの? ……一番経験があるんだかなんだか知らないけどさ、あんまり自惚れないでくれる?」

「梨乃……」


 きょとんとした表情の久樹。

 まあ、そうもなるか。

 わたしは冷たい表情をふっと緩めて、笑みを浮かべた。


「あたしたちと一緒に頑張ってきた他の二年生、信じられない? 久樹が手取り足取り教えて鍛えてきた一年生の成長、信じられない?」

「そうそう、あたしらだって日々成長してんですからあ。任せといてくださいよ」


 王子、山野裕子が自身満々に貧弱な胸を叩いた。


「あんたは試合出てないでしょ!」


 根本このみが、さりげなくツッコミを入れた。


「久樹先輩、退場のことそんな気にしないで下さい。……あたしだって、ボールをキャッチしそこねてゴール決められてんですから」


 続いて武田晶が口を開いた。

 さらに、


「絶対勝つ!」


 唐突に力強い声をあげたのは……


「茂美が喋ったあ!」


 当人以外ほぼ全員が、同時に驚き叫んでいた。わたしもだ。

 だって、あの信じられないほどに無口な真砂茂美が、ここでこんな大声をあげるだなんて、誰が予想出来たか。

 わたしや、他のみんなは、お互いの顔を見て、ぷっと吹き出すと、声をあげて笑い始めた。

 げらげらと、本当に楽しそうに。

 いつまでも笑いがおさまらないものだから、茂原藤ケ谷の選手たちはさすがに不気味なものでも見ているかのような怪訝な表情をこちらに向けている。


「どうやら、落ち込んだ気持ちも復活したようだね。……ほらね、久樹、みんな逞しいでしょ?」


 いたずらっぽく微笑むわたし。


「梨乃……」


 久樹の涙腺がじわっと潤んだかと思うと、突然抱きついてきた。


「梨乃ぉ……。大好きだあ!」


 抱きつきながら、大泣きを始めた。

 よしよし、とわたしは頭をなでてやる。


「先輩たち、恋人同士みた~い」


 春奈と王子が口を揃える。


「バカ、梨乃には高木ミットという彼氏がいるんだから」


 久樹がとんでもないことをいう。


「まだ彼氏じゃないよっ!」


 わたしは慌てて訂正した。


「まだ、ね」


 久樹のいやらしい笑顔に、どっと笑いが起きた。


「大泣きしてたくせに、こいつ」


 わたしは久樹のほっぺを両手でぎゅうっと引っ張った。

 ま、なにはともあれ、みんなに元気が戻ってよかった。このままじゃ、チャレンジするまでもなく負けていただろうから。


     11

「よし、じゃ、後半の作戦会議だ。景子と病院で考えた作戦なんだけど……驚かないでね。まず、メンバーだけど、ボックスで前がサジとフサエで、後列が織絵と晶でいくから」

「え?」

「晶あ?」


 やはりみんなに驚かれた。

 まあ当然か。

 ゴレイロ登録が晶一人なのに、その晶をFPで使おうというのだから。


「で、ゴレイロは春奈」

「えーーっ!」


 もっと驚かれた。

 まあこの反応も、当然だろう。

 フットサルを始めたのがつい最近、と経験こそ浅いものの、春奈は晶からゴレイロのコーチを受けているから。

 そして晶は、FPとしてもそこそこの技術を持っているから。

 というのが、このプランCでいこうと思った理由だ。

 この策も悪くないかな、と思えるほどに、全員が疲労してしまっているわけだ。

 悪くないどころか、現状の疲労とバランスを考えれば最適かも知れない。

 もちろん博打要素も強い。

 でもそれがダメなら、じゃあどうすればいいのかという話だ。

 スーパーな選手などおらず、現状の中でやりくりしていくしかないのだ。


「分かりました。頑張ります」


 当の春奈は、案外あっけなく了承した。

 緊急事態であることを理解しているにしても、意外と肝が据わっているな。柔和な顔に似合わず、大物なのかも知れない。


「疲れてたって、こっちのほうが身は軽いんだから、徹底して機動力を生かすよ。パスは動きながら。なるべく相手を無駄走りさせる。晶とサジ、二人は疲れてないんだから、とにかく走り回れ」

「はい!」


 と、ひとくくりにしたが、ビシッとした声の晶に比べて佐治ケ江の声はなんとも頼りない。まあ分かっていたことだし、ここでどうこうしても意味がない。

 わたしは続ける。


「晶の守備で問題なさそうなら、ダイヤモンドに戻して、晶一人をベッキにして、織絵をこのみと交替させる。織絵も、少し休ませてあげたいからね」


 フットサルはかなりハードなスポーツであるが、とはいえ本当はここまで選手の疲労を心配するものでもない。我々の場合、選手が少ないし、連係不足を走力で補っているし、どうしようもないところなのだ。


 さて、もうすぐハーフタイムも終わりだ。

 部員全員で円陣を組んで、腰を落とした。試合に参加出来ない山野裕子と浜虫久樹も加わって。

 わたしは、みんなの顔を見回した。

 そして、腹の底から叫んだ。


「佐原南、絶対勝つぞ!」

「おー!」


 わたしの音頭に、全員の気持ちが一つになった。


「佐原南、ぜんこんぜんそう!」

「おー!」


 全ての魂をつぎ込み、最後まで全力で走れ。という意味の、何年も前の先輩たちが作った言葉。円陣での掛け声は、これで終わるはずなのだが、


「部長もういっちょ!」

「燃えろ! 青い弾丸!」


 久樹につられて、無意識に妙なこと叫んでしまった。咄嗟のことに、みんな「はい……」「おぉ……」とチグハグな反応。


「梨乃先輩、それ、なんです?」


 武田晶が、無表情な顔でこちらを見つめていた。


「うわあ、恥ずかしい言葉~」

「青春ドラマかよ」

「漫画でもいわんよな」


 みんな、くすくす笑ってる。


「あ、あ、あの、前の部長、金子先輩が一年生の時、この掛け声で、夏千葉の準優勝までいったって聞いたことあって。なんとなくその掛け声が記憶に片隅にあったんだけど、でも、なんでいま、そんな言葉が出てきたのか、自分でも分かんない。なんか恥ずかしい~! もう、久樹が変なこというからだよ!」

「おー、それじゃあ少なくとも準優勝までは確実に進めるってことだね。……木村部長の恥ずかしい掛け声のおかげで」

「久樹い、そんな、いじめないでよぉ」


 大切な試合の、大事なハーフタイムだってのにさ、これで何度目の大笑いだろう。

 傍から見たら、わたしたち変な集団だな。

 気づくとみんなの顔から、疲労の色がすっかり消えていた。

 もちろん疲れてはいるのだろうけど、体の奥からこんこんとパワーが湧いてきて疲れを忘れているような、そんな表情に思えた。


「……あのさ、恥ずかしいついでに恥ずかしい提案なんだけど。今度さあ、クリスマスパーティでもしない? この大会での労をねぎらって。もしかしたら、優勝祝賀会になっちゃうかも知れないけど。まあ名目なんか、どうでもいいんだけど、学校以外でみんな集まってわいわいやるのもいいかなって思って」

「お、いいね」


 久樹と王子が乗ってきた。


「もちろん強制じゃないし、彼氏のいる子なんかはそっちのほうが大切だろうし」

「じゃ、梨乃も参加無理じゃんよ。いいだしっぺのくせにい」


 不満げに唇を尖らせる久樹。単にわたしをからかっているのだろう。


「だから、ミットとはまだどうなるか分からないんだってば」


 でもまあ、クリスマスまでには分かってるはずだよな。

 ……そうなってたらなってたで、ミットも強引に呼んじまえばいいや。加地原とならくるだろ。


「やるんだったら、あたし参加するよ。高木ミットなんかどうでもいいし」


 心と裏腹なこと、いってみる。


 さて、本当にそろそろハーフタイムも終わりだ。

 茂原藤ケ谷の選手たちが、ぞろぞろとピッチに入っていく。

 たった十分しかないハーフタイムだというのに、試合以外の話のほうが圧倒的に長くなってしまったな。

 でもまあ、普段から練習でやってきたことをやるだけなんだし、それすら出来そうもないような精神状態になってしまっていたから、これはこれで構わないだろう。


「勝つぞ、佐原南!」


 わたしは右腕を前に突き出し、手のひらを広げた。


「点取るぞ!」


 夏木フサエが、パン、とわたしの手を叩き、ピッチへと入っていく。


「燃え尽きてくるわ」


 楽山織絵が、わたしの手を叩いた。

 おう、燃えつきろ。


「……頑張ります」


 佐治ケ江優は相変わらずの小さな声で、弱々しくわたしの手を叩く。ほんと、頑張れよ。ポテンシャルは久樹並みに高いはずなんだから。

 続いて武田晶、いつも通りのクールな顔で、無言のままわたしの前を素通りして……と思ったら、いきなり一歩後退するやバシッと強烈なタッチをかましてきた。そして悪戯小僧のように、にかっと笑った。

 うわ、珍しいな、晶がこんな笑顔を見せるなんて。いつもぶすっとつまらなそうな顔をしているのに。相当やる気になってるな。FPとしてのプレー、期待してるよ。

 そして最後に衣笠春奈、


「全力でやってきます!」


 わたしとタッチする。

 と同時に、わたしはその手をぐっと握った。


「精一杯やってくれれば、それだけでいいから。経験浅いんだから、ヘマが出るのは仕方ない。例えなにがあっても、恨むようなこと誰もしないから。せっかく出場するんだから、楽しもうよ」


 そして、フットサルをもっともっと好きになろうよ。


「はい」

「あのさ、今度なんかお洒落な服、教えてよ。渋谷にでもいってさ」

「……はい! 静岡から転校してきて、まだ東京に遊びにいったことないんで、連れていって下さい」

「連れてくから、いい服選んでよね。あたし全然センスなくてさあ」


 こんな場所で、こんな時にする会話じゃないよな。

 わたしたちは笑みを交わし合い、春奈もピッチの中へ入った。


 さあ、いよいよ後半戦。

 絶対に勝つぞ。


 わたしはパイプ椅子に腰を降ろした。

 ユニフォームに、ジャージの上だけ羽織っている格好なのだけど、無意識に手を入れたポケットの中に、なにか硬いものがあるのに気づいた。

 取り出してみると、それはパスケース大の、薄く透明なカードのようなもので、中に葉っぱが挟んであるのが見える。


「四葉の、クローバー……」


 押し花みたいに、丁寧に薄く潰して乾燥させてある。

 脳裏に、高木ミットの顔が浮かんでいた。

 先日、河原で四葉を発見するや否や、奇声あげて走り去ってしまったけど……

 ひょっとして、あれがこれか。

 あれ、わたしのために探してたんだ。

 昨日、擦れ違った時にポケットに入れたんだな。

 今日このジャージを着るかなんて、分からないのに。

 気付くかどうかなんて、分からないのに。

 ……ほんとにバカだよなあ、あいつ。


     12

 うまい! ナイスキャッチ!

 きぬがさはるは前方へ倒れこみながら、ドッヂボールのように両腕と胸の間にガッチリとボールをおさめた。

 ……と思ったら、腕の間からボールがするりとこぼれてしまった。

 2番、ぐらあけが、巨体からは信じられないような瞬発力で転がるボールへと詰め寄る。

 春奈は四足で懸命ににじり寄って、紙一重の時間差でなんとかボールを守りきった。

 危なかった。

 心臓止まるかと思った。

 突き放されたら、致命的だからな。


「春奈、キャッチよりブロック!」


 たけあきらの叫び声。


「はい!」


 春奈は元気よく返事すると、大きくボールを蹴った。

 晶のいう通り、フットサルは至近距離から鋭いのがズドンとくるから、キャッチは難しい。ましてや素人が、短期間で実戦レベルのキャッチング技術に到達するなど無理だ。

 キャッチ出来るのならばそれに越したことはないが、まずは、相手シュートの軌道上に立って自身が巨大な障害物となることを意識したほうがいい。

 フットサルのゴレイロは、サッカーよりもハンドボールのそれに近い。手や腕は胸の前よりも横に広げる。そのほうがどこかに引っかかる確率が上がるからだ。

 春奈の蹴ったボールは、ぐんと大きく飛んで、なつフサエに渡った。


 さて、とりあえずピンチは凌いだけど、でも大変なのはこれからだぞ。

 うちは、仮に久樹がいたとしても攻撃のバリエーションが豊富とはいえないのだから。

 この満身創痍のチーム状況で、どう攻めていけばいいのか。

 ちんたらパス回しなどしていても、変な取られかたして危機を招くだけだし。

 まずは、とにかくしっかりと守るしかない。

 チャンスは必ずある。

 諦めちゃあ、なにもかもおしまいだ。

 わたしたちには、可能性があるのだから。

 現在一点差だから、とか、まだ時間があるから、とかではなく、諦めない限り人間には無限の可能性があるのだ。


 以前、宣伝で見ただけなんだけど、八十歳で生まれてどんどん若返ってく人生なんて洋画がやっていた。それを受けて、景子と久樹とつい雑談のネタにしたことがある。

 八十歳でいきなり生まれてきて、どんどん若返って、ゼロ歳で死ぬのと、

 八十歳でいきなり生まれるが、そこからは普通に年老いていき、いつ死ぬかは分からないのと、

 どちらの人生がいいか。

 わたしたち三人とも、選んだのは後者のほうだった。寿命八十年と最初から分かっているよりも、生きていく様々においてよほど可能性を感じるだろうから。

 もちろん本当にそんなふうに生まれることがあって、しかも自分に選択権が与えられるのなら、あらためて悩んでしまうところだろうけど。

 とにかく、可能性というものがあるから、挑戦心というものが生まれる。諦めずに挑戦をするから、奇跡が生まれるのだ。

 わたしたちは今、劣勢に耐えているだけのように見えるが、そうではない。可能性を信じて、挑戦しているのだ。


 そんな中、チャンスは実にあっさり簡単に、意外な形で訪れた。

 そのチャンスを生かすどころか、逆にあんなことになってしまうなんて、まさか思いもしなかったのだけど……

 相手のプレッシングに、フサエは慌てて苦し紛れのパスを出した。

 ぽーん、とボールは跳ね上がり、佐治ケ江優のほうへと飛んだ。

 普段練習している時の佐治ケ江ならば、難なく受けられたはずであるが、しかし今は試合中。右腿でのトラップに失敗して、ボールを高く蹴り上げてしまった。

 ああもう、と誰もが心にため息ついたんじゃないだろうか。

 部で一番ボール扱いが上手なくせに、試合では全然それを発揮出来ないのだから。

 だけど……

 佐治ケ江がミスで蹴り上げたボールは、虹のような弾道を描いて、茂原藤ケ谷ゴールに向かって飛んでいったのである。

 ボールは不意に失速してストンと落下、相手ゴレイロの五メートルほど手前に落ちる。

 前に出てなんなくキャッチ出来たはずなのに、ミスプレーから生まれたということに相手ゴレイロの反応が遅れてしまったようだ。

 攻め残っていたベッキの武田晶が、ごちゃごちゃ密集している中をするりと抜け出して、そのボールを受けていた。

 一瞬のためらいも見せず、足を振り抜いていた。

 ゴール左上隅。しっかり枠を捉えている。

 しかし相手ゴレイロふるとしの広げた腕にボールが当たり、惜しくもゴールインはならなかった。

 大きく跳ね返ったボールを、夏木フサエが胸で受けた。

 そこへ茂原藤ケ谷のベッキであるなしもとうららが、奪おうと襲い掛かった。

 フサエはちょっと慌てながらも、佐治ケ江へと転がし、そして走る。

 パスアンドゴーだ。

 綺麗なワンツーで、相手守備陣を突破する。

 フサエ、成長したな。それと佐治ケ江も緊張の中、よく返した。

 ただ、抜けたはいいが、リターンを受けるのをもたついてしまい、前半から鬱陶しい存在であった2番のぐらあけに追いつかれてしまった。

 向き合う二人。

 フサエはどちらかというと佐治ケ江のように自信のないプレーをするところがあるのだけど、この絶好のチャンスにすっかり思考がハイになってしまっているのか、なんと普段なら絶対にやらないようなシザースフェイントを試みた。失敗したら失笑ものだが、なんと大成功、名倉明美を華麗にかわしたフサエは、ゴールに向かってドリブル独走!

 ……と思ったら、突然よろけて、転んでしまった。せっかくのチャンスだったのに勿体ない。自分でも、まさか成功するとは思わず、慌ててしまったのだろうか。

 第一審判が笛を吹いて、イエローカードを高く掲げた。

 ということは、わたしからは見えていなかったけど、きっとフサエ、引っ張られてたんだな。

 ということはあの2番、二枚目? 退場だ。やった!

 と思ったら、なんとイエローカードは、フサエに対して出されたものだった。

 ファールを誘うためにわざと転んだ。そう判断されたのだろう。

 そんなバカな。


「抜けりゃ一対一だったんだから、わざと倒れるわけないでしょう! エリアの中ならともかく!」


 わたしは抗議したが、判定は覆らなかった。

 フサエは、自分が警告を受けたことも知らず、まだ痛みに激しく顔を歪めてごろんごろんと転がっている。左足首を、抱え込むように抑えながら。

 ……なんか、様子が変じゃないか?

 引っ張られて倒れたくらいで、こんなになるなんて。

 絶対おかしいよ!


「フサエ! フサエ、大丈夫?」


 わたしの呼び掛けは、全然届いてないみたいだ。

 審判も最初はフサエに対して「これ以上演技していると警告出しますよ」などといっていたのだが、やっと演技でないことが分かったようで、会場の係員に担架を要請した。


「あいつら……またやってくれたよ……」


 わたしの隣で、吐き捨てるような久樹の声。


「久樹、それ、どういうこと?」

「どうもこうもない。フサエがターンしようとした瞬間、足の甲を踏ん付けやがったんだよ。それで思い切り捻ってしまったんだ。……痛いよ、あれは。関節だからね。死ぬほど痛い。……あたしにも、わざと踏んだかどうかは分かんない。でも、自分が踏んだこと気付いてないわけないのに、まるで平気な顔してるってのがね、あいつら最低だよ。すげえムカツク」


 そんなことが起きていたなんて。


「フサエ! フサエ……フサエ!」


 担架で運ばれていくフサエに呼びかける仲間たち、だけど彼女は激痛に顔を歪め呻いているだけで、返事をする余裕もない。

 フサエ……

 畜生、平常心なんか役に立つかよ!

 わたしは茂原藤ケ谷の選手たちを睨みながら、心の中で叫んでいた。

 昨日電話で春江先輩と話した時に、「試合は絶対に荒れるよ。平常心失ったら負けるよ」と助言されたことを思い出したのだ。

 でも、こちらもカッとなっているのならともかく、向こうが一方的に荒っぽいプレーをしているだけなのだ。平常心なんか、なんの意味もない。

 でも、ここでさらに感情的にまでなってしまったら、それこそ相手の思うツボだよな。

 冷静に、ならないと。

 しっかりしろ、木村梨乃。

 我が部の主将だろ、お前は。

 わたしはどうしても込み上げてきてしまうドロドロした陰湿な気持ちを、そう思うことでなんとか体の奥深くへ押し込めた。

 「頭は冷たく、ハートは熱く」。春江先輩がよく使っていた言葉、それを頭の中でゆっくり唱えた。

 すーー、っと、大きく深呼吸をした。

 よし。

 やるぞ。


「レフェリー、選手交替!」


 わたしは叫ぶ。


     13

 出るのは、わたしだ。


 夏木フサエ アウト 木村梨乃 イン


 後半戦は、残り十五分。一点のビハインド。

 この状況で、足の怪我が不安だのといっていられない。

 負けたら次もないんだ。


「梨乃、無茶はしないで」


 久樹の声。わたしの足の心配をしてくれているのだろう。


「ありがと」


 彼女の小さな肩を、ぽんと叩いた。

 わたしの右足は、ソックスで分かりにくいがテーピングで腿から足首までぐるぐるだ。そして右膝は、サポーターでぐっと関節を固定している。非常に動きにくいけれど、おかげで痛みは感じない。

 夏木フサエは既に担架で運ばれピッチの外に出ているため、わたしは一人、交代ゾーンから中へと入った。

 まずわたしは、茂原藤ケ谷の主将であるないとうさちのところへ真っ直ぐ向かった。


「ラフプレー、いい加減にしてよね」


 どうでもいいけど、一言いってやりたかったのだ。

 善良だけどもどうしようもないバカで自分のプレーの荒さに気づいていないだけ、という可能性もゼロではないと思ったし。

 でもやっぱり、反応は予想してた通りだった。


「全部ルールの中でやってること。笛を吹かれるも吹かれないも。カード出されるも出されないも。ころころ倒れるのはそっちが貧弱だからだろ。もやし集団はもっと鍛えてから試合に出なよ。迷惑だから」


 内藤幸子はそういって、唇吊り上げて笑ったのである。

 あきれた。

 ここまでくるともう、ギャグ漫画だよ。

 本当にこんなのがいるんだな。千葉県は広いようで、やっぱり広かった。

 こんな連中には、絶対に負けたくない。あらためて、強くそう思った。

 しかし、実戦どころかボールに触ること自体が久々のわたしである。どこまで役立てるのか、はたまた迷惑かけることになるのか、想像もつかない。

 とにかく、フサエの負傷によりみんなに広がっている動揺、まずはこれだけでもなんとか落ち着かせたい。


 審判の笛が鳴って、試合再開だ。

 わたしにどこまで出来るのか、様子を見ながら、少しづつ体を動かしていこう。


 武田晶からパスがきた。わたしは右足の内側で、感触を確かめるようにしっかりと受ける。

 ファーストタッチだ。などとしみじみ思っている余裕もない、相手が激しい足音とともに迫ってきていたからだ。

 ちょっと慌てて、織絵へとボールを戻した。

 なんだこいつら、でっかいくせにこの寄せの速さ、迫力は。

 外から見ていたのとは大違いだ。

 ……みんな、こんなのと戦っていたのか。

 控えメンバー中心だというのに、よく一失点で済んでいるものだ。

 思っていた以上に、みんな成長しているんだな。

 わたしだって、負けていられないぞ。


「織絵!」


 わたしは走り出した。

 織絵は、わたしを囮に使おうと思ったか、佐治ケ江へとパスを出す。悪くない判断だ。

 だけどパスの受け手が佐治ケ江で大丈夫だろうか。

 と思ったら案の定。止まってボールを受けようとするものだから、相手にカットされそうになった。

 佐治ケ江は慌てたように前に出て、体を入れて、ボールを守る。

 反転して前を向き、そしてパス。浮いてしまったが、とにかくボールはわたしのほうへと飛んでくる。

 わたしはすっと走り、軽く足を上げ脛で受けた。

 いまのところ、足は順調だ。

 すかさず相手の4番、確かのぼりえつ、が襲い掛かってくる。

 この4番、なんと身長百七十六センチもあるらしい。両チームで一番の長身、バレーボール選手のような体型だ。

 でもサッカーならともかく、フットサルでそこまでの長身にさして意味もない。しかも情報では、足元はそれほど上手ではないらしい。

 ここを抜けば、大チャンスだ。

 わたしは迷うことなく仕掛けた。

 やることは単純なフェイント、右に左に揺さぶって、バランスを崩した相手の横を抜けるだけ。

 難なく成功し、抜けた。

 だけどその瞬間、視界が急速にぐるんと回転していた。

 浮遊感。

 わたしは肩を当てられて、吹っ飛ばされていたのだ。

 どう、とわたしは背中から床に叩き付けられていた。

 いてえ……

 笛が鳴った。

 もちろん登悦子のファールだ。


「梨乃先輩、大丈夫ですか?」

「ああ、平気」


 わたしは武田晶に手を引っ張って貰い、立ち上がった。

 とりあえず、足はなんともないようだ。

 そのかわりというか、肩が無茶苦茶痛いけど。

 プレーの切れている間に、選手交代だ。


 楽山織絵 アウト 根本このみ イン


 武田晶のベッキでも、それなりに対応出来ることが分かったから、五分ほど織絵を休ませてあげたいと考えたのだ。

 それに合わせ、予定通りに陣形を変えた。ダイヤモンド型だ。


 ピヴォが佐治ケ江優、アラがわたしと根本このみ、ベッキが武田晶。ゴレイロは、引き続いて衣笠春奈だ。


 場合により、わたしと佐治ケ江とでポジションチェンジをするつもりだ。

 出場させていてどうなるのか一番計算出来ないのが、佐治ケ江だからだ。

 いまのところは、よくやっているものの、緊張からいつなにをやらかすか分からないところがあるからな。エレベーターのボタン焦って全部押しちゃうとかいってたし。場合によっては、予定より早く引っ込めるかも知れない。


 佐原南のキックで再開だ。

 わたしは、さっきファールを受けた場所にボールをセットした。

 直接FKだ。

 茂原藤ケ谷の選手たちが、ボールとゴールとの間に壁を作る。でかい選手がずらずら並んで、まさに山脈だ。

 上手に綺麗な弾道を描くキックを見せる浜虫久樹も、気弱ながらズドンと大迫力バズーカ砲のフサエも、どちらももうピッチにはいない。ここはわたしが蹴るしかない。

 もっと自信あるプレーをしてくれるのなら、佐治ケ江に任せても面白いと思うけど。技術は文句なしのピカイチなのだから。

 じっと、審判の笛を待つ。

 キッカーであるわたしの気迫を感じ取ったのだろうか。さっきまで外野として騒々しかった二階観客席の、印西木下や流山はとがやのフットサル部員たちが、すっかりしんと静まり返った様子でピッチを見下ろしていた。

 笛の音。

 鳴ったと同時にわたしはボールに走り寄り、こすり上げるように蹴った。

 いい感触!

 気迫と技術と偶然とがごちゃまぜになり、スピードに乗ったボールは絶妙の弧を描き、デカブツどもの山脈を越え、そして、落ちる!

 ゴレイロの古野敏江は、完全に逆をつかれたか反応出来ないでいる。

 ガン、と音を立て、ボールはバーに弾かれた。


 落ち切らなかったか。

 ボールは茂原藤ケ谷6番の梨本麗が拾った……いや、その前を晶が疾風のように駆け抜け、ボールを取り返していた。

 すぐさま2番の名倉明美が、晶についた。

 だけど晶はボール保持に固執せず、簡単に手放した。しかも、ヒールパスという憎い演出で。

 どうやら、久々のFPを楽しんでいるようだ。

 ヒールとはいえ、正確で優しいパスだ。

 受けたのはわたし。右の足裏でトラップだ。

 FKからの流れだったため、混戦状態であり、瞬時にして茂原藤ケ谷の内藤幸子と梨本麗がわたしへと飛び掛ってきた。

 わたしは冷静だった。

 まず、猪のように突進してくる内藤幸子をルーレットでいなすようにかわす。ルーレットなんて、実戦でやったの初めてかも知れない。普段の練習の賜物だ。

 梨本麗はちょっと慎重になったか、飛び込んではこずに様子を見ようとしている。

 考える時間は与えないよ。わたしは右足を振り上げて強引にシュートを狙う、と見せかけて、右足を下ろすと同時に左足のインサイドキックで真横へパスを出した。

 そのパスを、武田晶が受けた。


「春奈いけえええ!」


 久樹の、鋭い叫び声が聞こえてきた。久樹もピッチの外で、戦ってるんだな。ところで、何故に春奈? ゴレイロだよね?

 と、そんなこと考えてる暇はない。

 前線でボールを持っている武田晶が、ドリブルし、内藤幸子の猪突猛進をボールを切り返してかわしたのだ。

 本職ゴレイロのくせに、晶ってFPとしてもムチャクチャ上手じゃないか?

 とはいえ決して神ではなく、相手ゴレイロ古野敏江の渾身のスライディングを受け、奪われてしまった。

 いや、奪われてはいない。鈍い音とともに、ボールは上空へと舞い上がっていた。

 みな、宙を見上げた。

 くるくると回転しながら、ボールが落下してくる。

 駆け寄る、足音。

 ……え?

 わたしの気のせいだろうか。

 ゴレイロとして自陣でゴールを守っているはずの衣笠春奈の顔が……すぐそば……走り抜け、

 ボールが、落ちてきて、

 突っ込んでいく春奈の、胸だか、お腹だかに当たって、

 跳ね返ったボールが、驚きに目を見開くゴレイロ古野敏江の脇を抜け、

 ゴールライン、

 ……越えた。

 ネットが、そろり小さく揺れた。

 ボール……

 ネットの中……

 ……ええっ?

 なんだ、いったいなにが起きたんだ?

 夢?

 だって、春奈、ゴレイロなのに。

 どうして、ここに。

 わけ分かんない。

 これ、どういうこと?

 笛の音が響いた。

 ということは、わたしの、幻覚では、ない、ということ、だよね……

 つまり……

 これって、

 これってさあ、

 もしかして……

 もしかしてもしかして、いや、もしかしなくてもっ、

 ゴール?

 同点?


「やった! やったよ春奈! 同点! 春奈! 春奈、同点、凄い!」


 わたしは思わず春奈に抱きついていた。

 なんで点が取れたのかさっぱり分からないけど、とにかく凄すぎる、偉すぎる。


「春奈、やるじゃん!」

「おいしいとこ、もってくんじゃねーよ!」


 武田晶と根本このみが、春奈の髪の毛をグチャグチャにかき回しはじめた。


「えへへ。久樹先輩のおかげですう」


 照れ喜ぶ春奈の言葉に、わたしは、ベンチの久樹を見た。

 久樹は立ち上がって、「ほら、まだ追いついただけだよ!」と厳しい表情で両手を叩いている。

 わたしの視線に気が付くと、ちょっとだけ表情を緩め、笑みを見せた。

 そうか。

 そういうことだったのか。

 さっき聞いた久樹の叫び声、あれが、春奈の攻め上がりへのゴーサインだったんだ。

 混戦から、ボールがこぼれる時、あの時間帯マンマークを徹底していた茂原藤ケ谷は、奇襲に対して一瞬判断にもたつくだろう。そう予想して、絶妙なタイミングで春奈へゴーサインを出したのだろう。

 大きなリスクはあるけども、成功すれば相手の混乱を誘えるし、一瞬の数的優位を作れる、と。

 でもまさか一発で、しかも攻め上がった春奈本人が決めてしまうとは、さすがの久樹も予測出来なかっただろうけど。

 まだまだ素人同然のくせに、ゴレイロで得点してしまう春奈もたいしたもんだけど、

 久樹も、本当に凄い。ピッチに立っていなくても、点取っちゃうんだから。


     14

「君たち、早く戻って!」


 なおも春奈の頭をみんなでポカポカ殴ってたら、さすがに審判に注意されてしまった。

 久樹が退場したことや先制点を奪われたショックからは、ハーフタイムで立ち直ったように見えたけど、でもきっと、拭い切れない不安というものがみんなの心の奥にはあったことだろう。やれるんだ、という確信、証拠のようなものがなかったからだ。

 そうわたしが思ったのは、先ほどまでと、みんなの顔つきが明らかに変わっていたから。

 希望、自信、顔から全身から、溢れている。

 点を取ったのだから当然かも知れないけど、それにより、みんな実感を得たのだろう。自分たちの、能力に対しての。

 まったくなあ。いくらメンバーに一年生が多いからって、気持ちの浮き沈みが激しすぎるだろ。

 でもそれだけに、調子に乗らせるとどこまでも乗っていきそうだな、こいつら。


「バカか! あんな初心者みたいな、ふにゃふにゃした奴に決められて、恥ずかしくないのか! キーパーだぞあいつ! お前ら、生ぬるいことやってんじゃないんだよ! ブチ殺せ!」


 茂原藤ケ谷主将である内藤幸子の、まるで獣の咆哮のような、なんとも凄まじい怒号が、わたしたちの歓声を吹き飛ばして、館内に轟き渡った。


「少しは気迫見せろ。全然足りてねえんだよ。お前ら下手だから、ブチ殺す気でやらなきゃ勝てねえんだよ! 分かってんのか!」

「はい!」

「生かして帰すな!」

「はい!」


 なんだこいつら……


「きみ、あまり過激なこというと、警告ものだよ!」


 さすがに見かねた審判が注意した。


「分かりましたよ!」


 相当カリカリきているようだな。あちらからすれば、圧倒的に攻めていたのに、追いつかれてしまったのだから。

 茂原藤ケ谷の部員たちも、主将に叱られるまでもなく、恥ずかしさや悔しさに興奮しているようだ。

 怖いけど、でもこれを利用しない手はない。


「みんな! 平常心!」


 わたしは笑顔を作り、そしてそう叫んだ。


「あっち怒ってるから、相当ガツガツ当たってくるよ。あたしたちは、なにがあっても冷静でいよう。こっちはあくまで、フェアプレーでいこう。我慢してれば、相手にバンバンとカードが出る!」

「フェアじゃないじゃないですか」


 晶と春奈が声揃えて、ツッコミを入れてくる。


「最後のは冗談。とにかく、気を引き締めて、あと十二分、戦い切るよ!」


 主将の内藤幸子が、プルプルと手を震わせながら、こちらを睨んでいる。

 実はわざと、向こうにまで聞こえるよう大きな声で話をしたのだ。ラフプレーをやりにくくなるように。

 わたしの言葉に激昂し、我を忘れてより激しく当たってくるようならば、それはそれで思うツボだ。これまでだってあちらは、ファールぎりぎり警告ぎりぎりといったプレーばかりをしていたのだから。


 しかしうちの選手たち、みんな、凄いよくやってくれているな。

 駒の数が不足どころか役立つ駒が皆無だ、とかなんとか思っていた自分の見る目のなさが恥ずかしいよ。

 このチーム、最高だ。

 間違いなく、最高のチームだ。

 わたしも追い抜かれないよう、練習を頑張らないと。


 自分のポジションへと戻っていく衣笠春奈であるが、なんだか足を引きずるように歩いている。


「足、どうしたの?」

「さっき全力で走った時、ちょっと躓いちゃて。一人でバカみたいですよねぇ」


 無邪気に笑っている。


「痛む?」

「それほどでも。でもさっきみたいには、走れそうにないです」

「分かった。無理そうならいってね。また晶に戻すから」

「はい」


 春奈をFPで使うのは無理か。場合によっては失点リスクの少ない前線で、と考えていたんだけど。このままゴレイロで使うしかないな。


 審判の笛が鳴り、試合が再開された。

 予想通りというべきか、わたしたちは暴風雨のような凄まじい攻撃に身を晒されることになった。

 こちらも気迫を持って臨もうにも、なにせ体格が違う。平均身長が十センチ以上も違うのだ。

 しかも連中、砂浜トレーニングをやっているだけあって、大きな体のわりに驚くほど俊敏だ。

 さらには、交代出来る選手が多いので、こちらよりも遥かに体力が残っている。

 相手の中でも特に怖い存在なのが、主将の内藤幸子だ。

 鬼気迫る形相で、猪のように巨体を突進させてくる。その攻撃から身をかわすたびに、風の唸りを聞くかのようだ。

 また、わたしたちの我慢の時間になった。

 といっても、時折抜かれてはシュートを打たれてしまい、運で防いでいるような状態だったけど。

 いや、運とばかりはいえないかな。

 ゴレイロの春奈が、何回か素晴らしいセーブを見せている。素人なんだから単なるラッキー、ということではなく、きっとなんらかの才能があるのだ。反射神経、勘、運を呼び込む力、どのような才能かは、分からないけど。

 この数分間で、茂原藤ケ谷には既に何枚かのイエローカードが出ている。残念ながら、立て続けに貰う選手はおらず、退場者は出ていないのだけど。

 茂原藤ケ谷は退場者が出ないよう選手を入れ替え入れ替え、猛攻を継続する。

 その猛攻に、さすがに耐え切れなくなってきた。

 まずいな。


 佐治ケ江が、相手のクロス気味のボールをなんとかクリアー。タッチラインを割る。

 試合の途切れたタイミングで、織絵を戻した。


 根本このみ アウト 楽山織絵 イン


 ボックスで、晶と織絵に守備をさせる形に戻した。

 しかし、そんな戦術変更は小手先だとばかり茂原藤ケ谷は相変わらずの勢いで、この暴風雨はなかなかやむことを知らなかった。

 我慢だ。

 向こうの集中力が切れる瞬間、絶対にくるはずだ。

 この猛攻、凌いでいれば絶対にチャンスはくるはずだ。

 ……だけど、

 わたしの右足、痛くなってきた。

 やばいな。

 気のせいかと思っていたのだけど、いまターンした瞬間、ビキビキッと電流が走った。

 どこまで、やれるかな。

 いや、

 やれるかじゃない、やらなければ。


 中学時代、はると出会ったあの日……

 疲労して、意識が朦朧としてきて……勝負の結果より、自分に負けるのが嫌で……

 結局あの時、自分に勝ったのかどうかは分からない。

 どうでもいい。

 過去は、もう、どうだっていい。

 いま、

 自分に、勝つ!

 茂原藤ケ谷の猪主将、内藤幸子が突進してくる。

 わたしはちらりと右に視線をやり、パス、と見せて体を左へ反転させる。

 さすがに主将だけあってフェイントに気づいたか、内藤幸子は慣性の法則を筋力で強引に捻じ曲げて、わたしの進路を妨害しようとする。

 でもね、読めてたよ、その動き。

 わたしは、左へと体を流しながら、踵でボールを後ろに蹴り出した。

 素早くターンし、ドリブル続行。

 せっかくのボールを、簡単には渡さないよ。

 今度はわたしの前に、6番、梨本麗が立ちふさがった。確か、単純なフェイントに弱い選手だ。右に、左に振り、そして、抜く!

 右膝に、ぶつっと針金を突き刺されたかのような痛みが走るが、でも構わず、抜き切る。

 次は2番、名倉明美だ。五十センチほどの距離を置いて、わたしと彼女とは睨み合った。

 一瞬の我慢比べ、耐えられなくなったのは向こうだった。

 わたしからボールを奪うべく、ぶうん、と足を横薙ぎ一閃。体格に恵まれているだけあって、格闘技のような凄い迫力だ。

 しかし、すでにその位置にボールはない。

 ボールは、わたしの右足のすぐ後ろだ。

 凄い鼻息で奪いにかかる名倉明美だが、わたしは体を回転させ、腕を使い、足を使い、背中や腰を使い、ボールにかすらせもしない。


 二年前、こんなふうなボールを、わたしは二十分かけて、春江先輩から一度も奪えなかった。触ることすらも出来なかった。でもいまは違う。ボールを奪うことも出来るし、一度奪えばこのように、そう簡単には奪われない。

 相手が春江先輩じゃないからといえばそれまでだけど、でもきっと、先輩とだって、そこそこ戦えるはずだ。わたしだって、成長しているのだ。


「織絵!」


 駆け上がってきた織絵に、わたしはパスを出した。

 転がすつもりだったが、2番の名倉明美に審判から見えないような角度で引っ張られて、精度の低い浮き球になってしまった。

 でも織絵は冷静に、胸でしっかりとトラップ……するつもりだったのだろうけど、相手の寄せが早かった。飛び出してきたゴレイロとの間で、挟み撃ちにあってしまう。

 さらには猪主将である内藤幸子が地響きたててそこへ参戦。

 織絵は、冷静にトラップなど試みて三方から囲まれ潰されることよりも、胸トラップからボレーで直接わたしに返すことを選択した。

 本当なら、トラップして相手かわしてシュート、といって欲しかったけど、この状況じゃあ仕方がない。みんなが久樹のような能力を持っているわけじゃないからな。。

 山なりに、ボールがわたしへと戻ってくる。

 ちょっと高いよ!

 とと、と下がりながら受けようとするが、その前に6番の梨本麗がどんと押すように体を割り込ませてきた。


 競り合いになる。

 わたしは渾身の力を込めて跳躍していた。

 勝った。鍛えた脚力と気力があれば、十センチ以上背の高い選手にだって余裕で競り勝てるのだ。

 というのは嘘で、実は見えないように梨本麗の背中をド突いてジャンプを邪魔してやったのだ。こっちはラフプレーの応酬を受けているのだ。この程度の仕返し、バチは当たらないだろう。

 しかし、競り勝てはしたものの、冷静にボールをコントロールすることは出来ず、頭のてっぺんでさらに高く放り上げただけになった。


 着地。

 全身のバネで精一杯クッションをきかせたつもりだったが、着地姿勢が悪かったのか、想像以上に足が悪いのか、予想を遥かに上回る痛みが走り、心の中で絶叫ともいえる悲鳴を上げた。

 心で上げている程度じゃ、まだ大丈夫だ! そう強引に、自分を納得させる。

 一瞬遅れで、梨本麗も着地する。その際にバランスを崩したようで、わたしは引っ張られ巻き込まれていた。

 二人はもつれあって倒れた。


 ボールが、床へ落ちた。

 フットサルのボールは反発係数が低くほとんど弾まないものなのだが、かなりの高さから落ちてきたため、ちょっと高いバウンドになった。

 ボールを自分のものにしようと、梨本麗が暴れ、わたしと絡み合った状態から逃れようとする。自分からこうしたくせに。

 彼女が暴れるほどもつれて、ごちゃごちゃと体のパーツがからみあう。不快感を覚える暇もなく、わたしは顔面に肘を入れられていた。

 審判、これファールじゃないのか?

 もつれてて分からないのか。

 どうでもいい。

 上等だ!

 そっちがその気なら、徹底的にやってやる。


 バウンドしたボールが、落ちてくる。

 わたしは横になったまま、もつれあったまま、懸命に足を伸ばした。

 茂原藤ケ谷の選手が二人、倒れているわたしたちのほうへと駆け寄ってくる。全体のバランスを崩そうとも、とにかくボール奪取しようと、強い執念、気迫をもって。

 しかし残念でした、落ちてくるボールに触れたのは、彼女らではなく、わたしともみ合っている梨本麗でもなく、わたしの爪先だった。倒れた姿勢のままぐっと伸ばした右足の爪先で、落ちてくるボールを蹴り上げていた。

 く、と呻き声。

 わたしの声だ。蹴り上げた瞬間、ヘラでねじくられるような凄まじい激痛に襲われたのだ。

 どどどと走り迫ってくる茂原藤ケ谷の二人の間を抜けて、ボールは武田晶のほうへと飛んでいく。


「速攻!」


 倒れたままの姿勢で、わたしは力の限り叫んでいた。

 ボールは後方へ戻る形になったものの、相手の陣形は乱れてバラバラ。チャンスである。だから、わたしは迷わず叫んだのだ。

 わたしは、からみつく梨本麗の手足を強引に振りほどいて、なんとか立ち上がった。

 わたしが戻すように蹴ったボールに、武田晶は普段のゴレイロのクセが出たか手を伸ばしかけるが、はっと我に返り、地に叩きつけるようなヘディング。

 バウンドする前に、隣の楽本織絵が足で踏みつけた。


「サジ!」


  織絵は叫ぶと、佐治ケ江優へと長い浮き球のパス。

 7番の頭上を越え、佐治ケ江へ……通った!

 佐治ケ江は腿を上げ、わたしから晶、織絵へと繋がれたメッセージを受け取った。

 その、はずなのに……


 パスを出せる相手がいないか、佐治ケ江は視線を動かす。

 誰にも負けない技術を持っているはずなのに……

 体力と、積極性があれば、もの凄い選手になれるはずなのに……


 予想通りといえばそれまでの、自信のない佐治ケ江のプレー。

 せっかくの、速攻のチャンスが……


 もたもたしている間に、内藤幸子主将が地響きを立てて佐治ケ江へと迫る。

 普段から頼りなく見える佐治ケ江だけど、これほど頼りなく見えた瞬間はなかった。

 巨大な津波に飲み込まれる赤子。そういっても、なんら過言ではないシーンだ。


 だけど、

 だけど……


 わたしたちの目の前で、想像もしなかったことが……

 いままでの佐治ケ江優を知る者ならば、とても信じられないような、そんな光景が、起こったのである。

 佐治ケ江優は、右足でちょんとボールを蹴り出すと、そのままドリブルで内藤幸子へと向かっていったのだ。


 対峙する二人。

 勝負は一瞬で決まった。

 内藤幸子の股の間を、ボールが抜けていた。

 佐治ケ江は、内藤幸子をよけて右側から回り込んだ。

 足を突っかけられ、バランスを崩して倒れそうになりながらも、佐治ケ江は転がるボールに向かって、走った。


 茂原藤ケ谷のゴレイロ古野敏江が、ボールを奪おうと飛び出した。

 佐治ケ江と古野敏江が、ぶつかりあった。


 大きく吹き飛ばされる佐治ケ江……の姿が見えたのは、わたしの不安な気持ちからくる幻想だったのか。

 佐治ケ江は古野敏江をもかわして、誰一人いない最前線へと抜け出していた。ボールと、ともに。

 佐治ケ江の眼前には、誰も守る者のいないガラ空きのゴールがあるばかり。

 そこへ右足で、ちょん、と押すように軽く蹴る。

 するすると、ボールは転がり、そして、そろり小さくネットを揺らした。


 ボールは、止まった。

 残るは、静寂。


 人間って、信じられないことが起こると、なぜこう静かになってしまうのだろう。

 わたしだけではなく、佐原南の全員が全員、なにが起きたのか理解出来ずに呆然と突っ立ってしまっていた。

 なにが起きたのかは、分かっている。

 ただ、それが現実なのかが信じられない。

 いま、目の前で起きてること、これ、本当のことなのだろうか。

 夢なのではないだろうか。

 目が覚めたら、「ああ、やっぱりなあ」な佐治ケ江優や衣笠春奈なんじゃないだろうか。

 わたの足、ズキズキと痛んでいる。

 夢じゃ、ないってこと?

 ほっぺじゃなくても、痛みは痛みだよね。

 これ、夢なんかじゃないってこと……だよね。


 わたしたちは誰からともなく顔を見合わせると、にいっ、と傍から見れば不気味この上ない笑みを浮かべていた。

 わたしの全身が、ぶるぶると震え出す。

 沈黙を破ったのは、織絵だった。


「やった、逆転だ!」


 みんなが、儚い夢なのか歓喜の現実なのかを疑って混乱している中、織絵が一人抜け駆け、両手を天に突き上げたのである。

 残ったわたしたちも、彼女のその絶叫に、ようやく逆転したことを確信し、喜びを爆発させた。

 仲間にわっと取り囲まれる、佐治ケ江。

 わたしも、その中に加わった。

 当の本人は、まだ自分の行動の結果を信じられないのか、うつろな表情で突っ立ったままだ。


「サジ、ナイスゴール!」


 武田晶が、背中を叩いた。


「やったね! だから、とにかく自信だっていってたでしょ」


 楽本織絵が、肘で佐治ケ江の脇腹を小突く。彼氏が出来て急成長した織絵がいうと、実に説得力がある。


「サジ……凄い、よかったよ。勇気もって、仕掛けたところ。……ほら、やれば出来るんだから」


 わたしは佐治ケ江の顔を見つめ、肩をポンと叩いた。

 彼女は我に返ると、わたしの顔を見つめ返してくる。


「先輩。……あたし……あたし……」


 佐治ケ江の目に、じわっと涙が浮かんでいた。

 ず、と小さく鼻をすすった。

 ここまでならば驚くほどでもないが、しかし次の瞬間、

 うわあん、

 と、彼女は大声をあげて泣き出したしまったのである。

 ボロボロとこぼれる涙をこらえようと上を向くが、それでも涙はとめどなくこぼれ続けている。

 見られまいとしているのか、単に感極まってしまっているのか、突然わたしに抱きついてきた。

 迷子になった幼児がようやく母親を見つけたかのように、情けなくむせび泣きながら、強く、わたしにしがみついてきた。

 以前にフサエがいってた通りだ、佐治ケ江の体、ふわっとしてて柔らかい。ちょっとの柔軟で悲鳴を上げるくらい関節が硬いくせに。

 わたしも、ぎゅっと抱きしめてやった。

 ……なんてかわいいんだ、こいつは。

 ひねているようで、驚くほど純粋で。

 なんて、素敵な涙を流すんだろう。


「まったくもう、試合まだ終わってないんだよ」


 わたしは佐治ケ江の背中を手のひらで軽く叩く。

 両肩に手を置いて、突き放す。

 試合でゴール決めたくらいで、わんわん声をあげて泣く高校生がどこにいるか。


「はい。すみませんでした」


 佐治ケ江は涙を拭った。


「時間稼ぎしてんなよ!」


 茂原藤ケ谷の主将、内藤幸子が声を荒らげ試合再開を急かしている。

 うるさいな、こいつは。いまいいとこなのに。フットサルはプレイングタイムだから、時間は止まってるだろバーカ。


     15

 審判の笛が鳴り、内藤幸子の希望通り、試合が再開された。

 残り時間は、約七分だ。

 相手の攻撃を抑え切ることが出来れば、わたしたちの勝利だ。

 慢心相違のわたしたちだけど、決して無理ではないはず。

 これまで以上に相手に押し込められることになると思うけど、点を取らねばならない状況での不本意な防戦一方と、守ればよいだけという状況での防戦一方とでは、心身へかかる負担がまったく違うというものだ。

 絶対に、守り切ってみせる。

 そしてあわよくば、追加点をあげてみせる。

 特に示し合わせたわけではないけれど、全員がそんな共通の意識のもと、全力で茂原藤ケ谷に挑んでいた。

 そんな気持ちが空回りしたというわけではないと思うが、織絵のなんてことのないパスを、晶が受け損なって、2番の名倉明美に奪われてしまった。

 ゴレイロの春奈と、名倉明美とが、一対一に……

 いや、そうなる前に、審判の笛により試合が止まった。

 直感的にピンチを悟ったのか、ベッキの楽本織絵が、名倉明美をスライディングで引っ掛けて転倒させてしまったのだ。

 名倉明美は、まったく痛がるそぶりも見せず、すぐに立ち上がった。

 痛がる演技など必要ないのだ、フットサルは基本的に、危険かどうかを問わずFPによるスライディングタックルは禁止なのだから。


「ごめん! ついやっちゃった」


 織絵は両手合わせて、わたしに謝ってくる。


「抜けられたら危ないとこだったから、仕方ないって」


 とはいえ、まずいな……後半六つ目だ。

 第二PKか。


 フットサルは、直接FKになるようなファールは、前半後半それぞれ五回まで許される。許されるというと語弊があるが、とにかく六回目からは相手に第二PKを与えることになる。

 相手は第二PKと、FKを選択出来るようになるのだ。

 ペナルティマークより、もう少しセンターライン寄りに下がったところにもマークがある。ここにボールをセットし、キッカーがゴール目掛けて蹴る。

 これが第二PKだ。

 相手選手が壁を作ることは出来ない。

 距離の遠いPKとも考えられるし、壁を作れないFKともいえる。

 ゴレイロが晶なら安心だけど、初心者の春奈だからな。

 ここだけ晶と交代出来ればいいのだけど、大会ローカル規定で、PK決定後に、その対策のための交代は出来ない、と定められているから無理だ。

 確かに利にかなったローカルルールだと思っていたけど、そのルールのためにわたしたちが大ピンチを迎えることになるとは。


 茂原藤ケ谷のキッカーは、第二PKを得た名倉明美本人だ。

 対する佐原南ゴレイロは、衣笠春奈。

 体重が、倍は違うのではないだろうか。

 それくらい、名倉明美は骨も肉もがっしりとしており、春奈は小学生のように貧弱に見える。

 腕相撲をするわけではないので、肉の量など直接関係ないものの、やはり相対的に、相手からは圧倒的な迫力を感じ、こちらとしてはどうにも威圧感を受けてしまう。

 とはいえ、第二PKなどそうポンポンと決まるものでもない。ましてやこのような状況だ、相手が焦って大きく枠を外すことだって充分に考えられる。


「春奈ああ、頼むぜえええ!」


 サイドラインぎりぎりのところから、王子が大声を張り上げている。でも、晶のアドバイスを聞くのに精一杯で、おそらく聞こえていないだろう。

 緊張で、そのアドバイスすらも耳に入っているかどうか。

 「もう持ち場について」と、審判から注意を受けて、晶は春奈のそばを離れた。

 あまりにたくさんの言葉を詰め込もうとしてもそれは無理というものだから、ちょうどよいタイミングだった。


 春奈と、キッカーの名倉明美が、向かい合った。

 しんと静まり返った中、他の選手たちは緊張した面持ちで対峙する二人を見つめている。


 笛が鳴った。

 その瞬間、キッカーの名倉明美は待ち構えていたかのように短く助走し、ボールに足を叩きつけていた。

 精度よりも勢い、破壊力重視のトゥーキック。

 ドン、と大砲のような低く鈍い音が聞こえたと思った時には、ボールは既に春奈の脇を抜けてゴールネットに突き刺さっていた。


 春奈は、ぴくりとも反応することが出来なかった。

 せっかく、佐治ケ江が逆転弾を決めてくれたというのに、次に喜びを爆発させたのは茂原藤ケ谷のほうになってしまった。


「春奈、ドンマイ!」


 夏木フサエの声だ。

 無念の負傷退場となった彼女は、パイプ椅子に座りながら元気そうに叫んだが、その瞬間、ぐっと顔をしかめた。

 足首にぐるぐるとテーピングが巻かれているが、そんな程度で到底取れっこない痛みなのだろう。思い切り捻ったからな、足首を。

 その隣に座る久樹も負けじと、


「まだまだ、これからだよ!」


 声を張り上げた。


「振り出しに戻っただけ! 一点取るぞ!」


 織絵も、ピッチの中で手を叩き味方を励ます。

 経験の少ない一年生が多いため、意気消沈してしまわないか不安になったのだろう。他の二年生も、次々と、手を叩き、味方を鼓舞する言葉を吐き出していく。

 でも、そんな心配はいらなさそうだ。

 しょんぼりしている一年生なんて、一人もいない。

 顔を見れば分かる。

 自分たちは、まだまだやれる。みんな、そんな自信に溢れた、最高の表情を見せていた。

 二年生たちは、それに気が付いたか、なんともくすぐったいような笑顔で隣同士顔を見合わせた。

 普通は逆だろ、まったくもう。二年生が、一年坊主の態度に勇気や元気を貰うだなんてさ。

 嬉しくて、なんだか全身がムズムズとしてくる。

 ……分かってきたよ、春江先輩。

 仲間の成長を喜ぶということが。

 お互いに高め合っていく、気持ちよさというものが。

 まだまだ道は長いとは思うけど、でも……少しは近づけたかな、先輩。


     16

 佐原南のキックで試合再開だ。


 わたしは、最後列の織絵へとボールを渡す。

 織絵から晶、また織絵、そしてまたわたしへとボールが入る。

 全体的な押し上げを期待して、わたしがポストで粘る……というつもりでいたのが、「先輩!」と、わたしの背後、つまり相手ゴールのほうから声が。振り向いた瞬間、走る佐治ケ江の姿が目に入り、わたしはその軌道の先へとパスを出していた。


 佐治ケ江は素早くボールに駆け寄り、足裏トラップ。

 2番の名倉明美が襲いかかる。

 が、柳に風で、佐治ケ江は軽妙なフットワークとボール捌きで、相手を翻弄する。

 主将の内藤幸子が加勢して、二人で挟み込もうとするが、佐治ケ江はあっさりとボールを手放した。


 ボールは武田晶に戻る。

 その隙に、佐治ケ江はすーっと前にいってしまう。

 内藤名倉の両名が、どっちにつくべきかほんの一瞬迷った次の瞬間には、佐治ケ江は晶からのループパスを胸トラップしていた。

 ドリブル、そしてシュート!


 ゴレイロの古野敏江が、なんとか体に当て、こぼれたボールを抑え込んだ。

 茂原藤ケ谷は、素早いリスタートを見せる。

 ボールはいきなり最前列で張る内藤幸子主将に渡る。

 そして、さっと上がってくる6番の梨本麗へとパスを出す。

 しかし、佐治ケ江が絶妙な読みで軌道に入りインターセプト。


 次の瞬間には、内藤幸子と梨本麗という巨体二人に挟まれ、奪われそうになるが、しかし佐治ケ江は、一体どんな魔法を使っているのか、足にボールがぴったりくっ付いて、まったく奪われない。

 飽きたとばかりに、ちょんとボールを蹴り上げヒールリフトで内藤幸子の頭上を抜くと、足の甲に吸い付くトラップからドリブル、そしてサイドを上がってきていた織絵にパスを出した。


 織絵は素早くシュートを狙うが、角度がなく、残念ながら枠を捉えることは出来なかった。

 でもそんなこと、わたしには全然気にならなかった。

 それ以上の驚き、興奮に全身が包まれて、震えていたから。

 この逆境の中で、ゴールを決めたことか、

 それとも他の、なにがきっかけなのか、分からないけど……


 佐治ケ江が……


 ついに、

 自分の殻を破った。


 そのあまりの凄さに、わたしの全身は震えていたのだ。


 ボールを扱う技術がずば抜けて高いのはよく知っていたけど、まさかこれほどとは。

 わたし、実戦の場でヒールリフトを見るなんて初めてだ。この巨体どもを完全に赤子扱いじゃないか。


「おい! どうなってんだよ。佐治ケ江がこんな凄いなんて聞いてない! 明美、ちゃんと佐原南のこと調べたのかよ! なんなんだあいつ、華奢そうな体してるくせしやがって……一年のくせしやがって」


 茂原藤ケ谷の主将内藤幸子が、自制心を失い始めている。

 現在同点だし、人数の問題を考えれば体力的にあちらにこそ分があるというのに。


 内藤幸子主将は、審判にタイムを要求した。

 茂原藤ケ谷の選手たちが、主将のもとへと向かう。

 佐原南にとっても時間が与えられたわけで、わたしのほうへと、織絵や佐治ケ江が寄ってくる。

 内藤幸子は、佐治ケ江と擦れ違う際に、肩に手を置き、睨み付けた。


「鬱陶しいんだよ、チョコマカしやがってこのボケが!」


 なんだあいつ!

 わたしは危うくキレそうになった。相手の肩に手を置いたり、威嚇したり、どう考えても問題行為だろ。

 また佐治ケ江が畏縮して元に戻ってしまったら、どうしてくれるんだ。

 なんとか自制したわたしであるが、しかし佐治ケ江を守るためにもここはなにか一言いわなければ、と、口を開きかけた時である。


「ありがとうございます」


 佐治ケ江は、なんと内藤幸子に対して、大きくお辞儀したのである。

 内藤幸子が目を白黒させている間に、佐治ケ江は奴の横を抜け、わたしのほうへと歩いてきた。

 わたしはなんだかおかしくなってきて、一人で大笑いしてしまった。


「やり返すなんて、凄いじゃん。あいつ、大激怒してるよ」

「え、え……怒らせちゃったんですか? 対戦相手に鬱陶しいだなんていうもんやけ、もしかして褒めてくれているのかなと思って……」


 あくまで真顔で応じる佐治ケ江。


「天然か!」


 織絵は、佐治ケ江の頭を叩く仕草を見せた。

 佐治ケ江以外、大爆笑であった。

 当の本人は、なにがなんなのか分かっていないのか、きょとんとした表情を浮かべている。本当に天然かも。


「サジ、凄くいいよ。残りの時間もその調子で頼むよ」

「はい!」

「いい返事じゃん」


 ほんとにうちの一年は全員、調子乗り世代だな。そういうのって、王子だけだと思っていたのに。

 うん。若いって素晴らしい!


 さて、茂原藤ケ谷のゴレイロ古野敏江のゴールクリアランスにより試合再開になるわけだが、ひとつ向こうに大きな変化が起きた。


 ようやくというべきかついにというべきか、「茂原藤ケ谷の最終兵器」こと、ともえかずがピッチに入ってきたのである。


 巴和希。

 一年生。

 茂原藤ケ谷の中では異端ともいえる、「大柄でない選手」。小柄でもないが、みな大きいから異端は異端だ。

 ボール扱いが非常に巧みで、賢い選手だと聞く。

 残り時間あと五分という、このタイミングでの投入。スーパーサブとしての働きを期待されているというよりも、次の相手に研究されないように温存しておきたかったのかも知れない。

 弱者には圧倒的な破壊力を見せるが強豪校には結構弱い茂原藤ケ谷、この試合に限らず、勝っている限りは出したくなかったのではないだろうか。


 ゴールクリアランスのボールは、前線で張る茂原藤ケ谷主将の内藤幸子が胸トラップ。

 そこへ織絵が、強引に体を入れて、ボールを奪い取る……いや、織絵の裏にすっと入り込んでいた巴和希が、織絵の足の間からボールを蹴り出していた。

 前へ転がるボールに、織絵は慌てて追うが、投入されたばかりで体力のある巴和希は一瞬で織絵を抜き去り、ボールを奪っていた。


 さすがに上手だ、こいつ。

 技術もあるし、判断も素早く的確だ。

 あと数分というこんな時間に入ってきたのは、我々にとって運がよかったのか悪かったのか。


 余裕の表情でボールをキープする巴和希の前に、佐治ケ江が立ち塞がった。巴和希の行動にまったく迷いはない。右、左、右、と揺さぶって、一気に抜けた!


 しかし、その足の先に、ボールはなかった。

 びっくりしたように振り返る巴和希。

 小さくなっていく佐治ケ江の後ろ姿に、呆然とした表情であったが、はっと目を見開くと、慌てて後を追い始めた。


 ドリブルしながら駆け上がっていく佐治ケ江は、突進する6番の梨本麗をすっとかわすと、ゴールラインぎりぎりのところから、マイナスのボールをゴール前へと送る。

 わたしはそれに反応して飛び出し、右足でシュートを打った。

 決まった、と思ったが、ボールは真上に跳ね上がっていた。

 ゴレイロが闇雲に振り回した手に、ボールが当たったのだろう。

 落ちてくるボールは、ゴレイロに落ち着いてキャッチされた。

 残念。


「サジ、とてもいいパスだったよ」


 完璧なパスだった。決められなかったのは、単にわたしの技術不足。もっと練習しないと、一年生に笑われちゃうよな。

 佐治ケ江は中学高校と、公式戦出場の経験皆無どころか練習試合経験すらほとんどないくせに、天性の才能なのだろうか。戦術理解も完璧だし、咄嗟の判断も素晴らしい。

 足元の技術だけは高い、と思っていたのだけど、それどろではない。凄い選手だ。

 茂原藤ケ谷も、完全に誤算だったろうな。

 先ほど主将が憤慨して怒鳴っていた通り。


 相手の動きを観察してみると、どうやら巴和希にいったんボールを集めてから展開するという作戦のようだ。ピヴォ当てとも少し違う。巴和希はポジションに捉われずに、かなり流動的に動いているようだから。

 確かに、あのボールキープの上手さなら、彼女をキープレイヤーに考えるのは誰だって考えるところだろう。


 しかし個人技を計算しての作戦というのは、当然だがその個人技が通用して、はじめて成り立つもの。

 向こうの計画は、向こうがまったく計算に入れていなかった佐治ケ江優という存在によって、完全に破壊されることになった。

 なにしろ巴和希がボールを持っても、あっという間に佐治ケ江に取られてしまうのだから。

 しかたなくワンタッチでボールを捌こうにも、佐治ケ江が巧みな動きで誘導してパスコースを限定させることで、これまたあっさりと佐原南ボールになってしまう。

 巴和希という存在が、完全に無力化していた。

 いや、無力化どころではない。

 超高校級選手のはずの巴和希が、佐治ケ江の前にはまるで子供扱い。決定的な仕事を期待されてピッチに入ったというのに、決定的な仕事どころか簡単な雑用すらこなせていないという現状に、彼女自身の顔色がどんどん蒼白になっていく。

 自分の実力が、たいしたことなかったのか。

 それとも相手が凄すぎるのか。

 迷っているのだろう。顔を見れば一目瞭然だ。

 そんなもの後者に決まっているし、迷っていたってなにも変わらないんだから、策を講じるなり、ガムシャラに挑むなりすればいいのに。ほら、佐治ケ江がまたあんたからボール奪っちゃったよ。


 奪いつつサイドに流れた佐治ケ江から、わたしへと横パスがくる。

 わたしはシュート体勢に入りつつ、それをスルーした。背後に織絵の叫び声と、駆け上がってくる足音を聞いたからだ。

 わたしの足から強烈なシュートが打たれる、と思ったか、ゴレイロはバランスを崩している。

 しかし織絵の放ったシュートはクロスバーに嫌われ、山なりに跳ね返った。

 茂原藤ケ谷の2番、名倉明美が落下地点に素早く移動して、胸で受けようと、とと、っと下がる。

 だがそこへ、佐治ケ江が全力で身を突っ込ませていた。

 走りながら高く跳躍し、ヘッドでボールを奪った。


 空中で、そのまま体を横たわらせるようにし、身を捻り反転させながら、右足でシュートを放っていた。


 ボールは、大きく枠を外れた。

 なんだ……いまの技……


 観客席から、どよめきがあがる。

 わたしは、驚愕のあまりなんの言葉も発することが出来なかった。

 だってそうだろう。空中でトラップして、そのまま体ひねってボレーなんて、人間技とは思えない。

 佐治ケ江って、天才どころではないとんでもない逸材なのかも知れない。

 それともわたしが世間を知らないだけで、世の中、こういうのがごろごろいるのだろうか。

 決まらなかったとはいえ、あのような体勢でシュートを打てるというだけで、常人の域を遥かに超越している。

 単なるまぐれだったのかも知れない。でもわたしなら、一万回チャレンジしたってそんなまぐれは起こせそうにもない。

 やばい……

 いきいきと躍動する佐治ケ江が、とても輝いて見える。

 惚れちゃいそうだよ。

 あっちの意味でも、そっちの意味でも。

 いかんいかん、なに考えてんだわたしは。佐治ケ江は女だぞ。それにわたしには高木ミットがいるじゃないか。

 あ、いや……いるのかな。

 まったくあの男は、大事な時に女々しいんだから、はっきりしろよな、もう。


     17

「梨乃!」


 織絵の叫び。

 すっかり自分の世界に入ってしまっていたわたしは、するする転がってくるボールに驚きながらも、走り寄り、受けた。

 すぐさま、わたしの背後に最終兵器巴和希が密着して圧力をかけてくる。

 佐治ケ江以外からなら、楽にボールを奪えるとでも思ったのだろうか。お生憎様だけど、わたしからも簡単に奪えるとは思わないほうがいい。


「サジ!」


 わたしは、サイドを駆け上がっていく佐治ケ江に顔を向け、叫んだ。

 しかしその態度と裏腹に、そちらへパスは出さず、反対方向、中央に向かってドリブルを開始。

 フェイントでもなんでもないが、佐治ケ江恐怖症になっている巴和希には効果てき面、労せずしてマークを外すことに成功した。

 背後に、巴和希の乱れた足音。焦りから、相当に頭に血が上っているようだ。


 今度は本当に、佐治ケ江へとパスを出した。

 次の瞬間、予期せぬことが起きた。いや、フットサルをやっている以上は、本当は常に覚悟しておかなければならないことなんだけど……

 巴和希は判断に迷うあまりうまく体を止められなかったのか、わたしの背中に激しくぶつかってきたのである。

 手が触れ合った、と思ったその瞬間には、互いの手足がからみあい、わたしたち二人はもみあうように倒れていた。

 小動物がベシャと潰される時の断末魔の叫びとでもいおうか……わたしは、これまで経験したことのない激痛により、なんだか自分でもびっくりするくらいの凄まじい悲鳴を上げていた。

 右膝と足首それぞれの関節に、ヘラを深く突き立てられて、ためらいなくねじくられる。そんな経験はないけれども、でもわたしの貧弱な語彙ではそうとしか表現出来ないような痛みだった。

 反射的に上体を起こして、両手で右膝と右足首をそれぞれ庇うように押さえていた。

 ぶちりとねじ切られたかとも思ったけど、足、ちゃんと付いてた。

 でも最悪だ。膝も、足首も、脈に合わせてズキンズキンと内部で爆発している。なおもぐりぐりと捻られているようで、涙が出そうだ。

 わたしともつれて倒れていた巴和希が、先に立ち上がった。


「ごめんなさい。大丈夫ですか?」


 深くお辞儀すると、手を差し出してきた。

 なんだ、結構いい奴じゃんか。

 転校生だから、まだ茂原藤ケ谷色に染まってないんだな。

 是非頑張って、茂原藤ケ谷をまともな部に変えてあげてくれ。


「ありがとう」


 やせ我慢で笑顔を作ったわたしは、彼女の手を掴み、立たせてもらった。

 全体重が自分の足にかかった瞬間、また、ビキビキッと電流のような激痛が走り、がくり片膝を付いた。


 ……もっとやりたかったけど、もう、ダメだな。

 わたしの足、限界だ。


 もう一度、巴和希に手を引っ張ってもらい、今度こそ痛みに耐え踏ん張った。

 視線をピッチの外に向け、交代に使える選手を見る。


 根元このみ、

 島田綾、

 真砂茂美、


 この三人だけだ。

 茂美と綾、この二人はレギュラーではないため、ペース配分がうまくいかなかったようで、まだ体力が回復していないようだ。

 わたしが後先考えず走り回れと指示したせいもあるのだけど、二人で大の字になって、大きく胸を上下させている。とても動けそうにない。

 最悪、延長戦になるんだから、それまでには体力回復してくれよ。

 残るは、このみ一人だけか。

 彼女は二年生だし、技術はそれなりにしっかりしており経験もあるので、一番計算出きる存在。でも作戦上、そういう選手を一人は残しておきたいし……となるとやはり、わたしがもう少し頑張るしかないか。

 そうだよな。

 織絵だって、ほとんどフルタイム出ていて、足ふらふらなのに頑張っているんだから。

 佐治ケ江だって、後半からの出場とはいえ、信じられないくらい体力がないくせにあんなに頑張っているんだから。

 晶も、FPでの出場は後半からとはいえ、献身的に回ってくれているんだから。

 わたしだけが、ちょこっと足が痛い程度で楽するわけにいかないよな。


「梨乃、大丈夫? ぎゃ、ってウシガエルみたいなもの凄い悲鳴あげてたけど。……片足、引きずってない?」


 織絵に、気づかれた。


「なんだよウシガエルって、失礼だな。大丈夫だよ。転んでちょっと痛かっただけ、もうなんともないから。平気平気」


 織絵にというより、自分にいい聞かせた。

 あとほんの何分かの辛抱じゃないか。中学時代にやっていた陸上競技の、あの単純に心臓へくる辛さに比べれば、なんてことない。


 佐原南のキックで試合再開だ。

 わたしは横にいる佐治ケ江へパスを出した。

 佐治ケ江は、わたしへのリターンボールを前方へと蹴るが、わたしが足を庇って、もたもたとボールを追っている間に、2番に取られてしまった。


「すみません」


 佐治ケ江が謝った。別にそっちのミスじゃないのに。


「謝るのはこっちのほう」


 といいながらも、ボールキープしている2番へと体を寄せて、佐治ケ江と挟み撃ちでボールを奪った。

 佐治ケ江はわたしにボールを任せて、前方へ走る。

 わたしは、ポストプレーでボールをキープだ。

 2番、名倉明美が審判に分からないように、こっそり激しく肘で肩で腰でガツガツと当たってくる。ほんと鬱陶しいな、こいつら!

 でも負けてたまるか。

 わたしはなんとか平常心を保ち、タイミングを見計らって、晶へとパスを出した。


 ボールへ走り寄った晶は、トラップせず、ダイレクトに斜め前方、佐治ケ江を走らせるようなパスを狙った。

 でも、晶も状況が見えていなかったな。

 佐治ケ江の走り出しを期待してのパスだったのだろうが、彼女は内藤幸子と巴和希の二人に囲まれており、仮に抜いて飛び出したとしても、あのパスに間に合うわけない。相手のキックイン、下手すればカットされて即相手ボールだ。

 いや……

 晶は、分かっていた、ということなのだろうか。

 佐治ケ江のことを。

 すすっ、と細かなステップで、佐治ケ江は包囲網を抜け出して、ボールをなんなく受けていたのである。

 それどころか、受けたその瞬間に体を反転させて、なんと内藤幸子と巴和希に向かっていったのである。

 ここを突破すれば、後はゴレイロだけだ。

 まさか包囲網に再び飛び込むなど、相手も思わないだろうし、この判断は有効かも。覚醒した佐治ケ江の、素晴らしい足技があれば。


 完全に意表をつかれた茂原藤ケ谷の二人であったが、本能的だか経験的にだか分からないが巴和希は足をさっと出してボールを奪おうとする。

 佐治ケ江は予期していたかのように軽くボールを浮かせると、細かな左右のステップで、内藤幸子と巴和希、二人の間をなんなく通り抜ける。

 あとはゴレイロだけだ。

 しかし、


 内藤幸子の手が、佐治ケ江の襟首を後ろから掴んでいた。そして、腕を払って振りほどこうとする佐治ケ江の、その腕をも掴んでいた。

 体重の軽い佐治ケ江はぐいと引き寄せられて、二人の体は激しくぶつかった。

 そして二人はもつれあい、倒れ……

 いや、信じられないことに、内藤幸子は横へ倒れこみながら、一本背負いのように佐治ケ江を投げ飛ばしてしまった。

 佐治ケ江は受身も取れず、肩と顔を床に叩きつけられた。


 どうん、と嫌な音が聞こえた。

 うつ伏せに倒れたまま、そして肩を抑えたまま、動かない。

 動けないのだ。

 苦痛に歪んだ顔が、全てを物語っている。

 ちょっと……

 冗談じゃないよ。お前なんかに、うちの大事な佐治ケ江を壊されてたまるか。


「てめえ、柔道やりたきゃ柔道部に入れよ! フットサルやめちまえ、このドアホ!」


 わたしはすっかり冷静さを失って、罵倒の言葉を叫んでいた。

 審判の笛が吹かれた。

 内藤幸子に、レッドカードが提示された。

 技をかけ終えて立ち上がった柔道家は、自分に退場が命じられたことに気付くと、


「わざとじゃない。一発は酷いだろ!」


 血相変えて、猛烈に抗議をした。

 一発もなにも、自分がすでに一枚警告を受けていることを忘れているようだ。どのみち退場だ、バカ。

 わたしにも、相手選手への暴言ということでイエローカードが出された。

 そんなことは、どうでもいい。

 佐治ケ江の体が心配だ。

 痛みに、まだ起き上がることが出来ないでいる。

 両膝を床に着いて、肩に手を当てて、うずくまっている。


「サジ、大丈夫?」


 月並みな言葉だけども、これ以外にかける言葉がない。


「無理そう?」

「……いえ」


 佐治ケ江は、ゆっくりと起き上がりはじめた。


「やれます。……いえ、やらせて下さい」

「無茶はしないでよね」


 わたしも他人のことはいえないけど。


「……怖いんです、あたし」

「え、怖いって、なにが?」

「あの……いま、凄く面白いんです。木村先輩が一生懸命にフットサルの面白さを教えようとしてくれていたのに、あたし、余計なお世話だって、そんな酷いこと内心思ってたんです。夏に部長変わって、たいぎいことばかり、おいい部活になったって思ってたんです。でもいま、凄い面白いんです。……少し離れたら、またもとの自分に戻ってしまう気がして、それが怖いんです。じゃけえ、一分でも多く、試合に出ていたいんです」


 こんなに喋る佐治ケ江、はじめて見た。

 頭で考えず、気持ちがそのまま言葉になっているのだろう。

 広島弁がぽろぽろと出てきている。


「じゃ、この試合は最後まで任せた。終わったら、ドクターに診てもらうからね。場合によっては、病院いくよ」

「はい!」


 わたしは手を差し出した。佐治ケ江も手を伸ばし、わたしたちは硬く握手をした。

 ここで、選手交代だ。


 衣笠春奈 アウト 根本このみ イン


 ゴレイロの春奈をベンチに引っ込めるわけだが、しかし代わって入る根本このみが着ているのはFPユニフォームのまま。つまり、佐原南の選手は、五人全員がFPということになる。

 パワープレイといって、強行的に得点を狙うための捨て身の戦術だ。

 本来は、このような場面で行うものではない。負けている場合など、どうしても時間内にあと一点が必要な場合などに行うものだ。

 現在は同点。しかもリーグ戦ではないから、他会場に得失点を競うライバルがいるわけでもない。一点を得るために、バクチを打つべきではない。

 しかし、こちらの人数や体力を考えると、延長戦突入は絶対的に不利。そうなる前に決勝点を上げないと、勝つことは厳しい。わたしはそう判断し、パワープレイを選択したのだ。

 ゴレイロ不在となることから、相手のロングシュートがあっさり決まってしまったりするので、かなりリスクのある戦術であり、やるにしてもどのタイミングで、と様子を見ているうちに、相手の主将内藤幸子が退場した。やるならば、このタイミングをおいて他になかった。


 織絵と晶の二人が、ゴレイロ不在の分しっかり守備をし、わたしとこのみが攻撃、佐治ケ江にはポジション関係なく自由に走り回ってもらう。味方には、簡単にそれだけを伝えた。


 さて、内藤幸子とかいうバカの一発退場ファールで得た佐原南のFKであるが、キッカーを務めるのは、ファールを受けた本人、佐治ケ江だ。

 もしこれが決まれば、残り時間を考えて、ほぼ試合も決定だろう。

 果たして佐治ケ江がどんなFKを蹴るのか。

 佐治ケ江は、ボールを右足で踏み、真っ直ぐゴールを見つめている。

 さっき怖いっていってたけど、怖いもなにも、もうそんな心配いらないよ、佐治ケ江。自分では気付かないだろうけど、凄い自信に溢れた顔しているよ。

 わたしも、負けないようしっかり戦わないとな。

 足の怪我がなんだ。


 相手の壁は三枚。

 その周囲には、佐原南の選手が三人。

 わたし、根本このみ、武田晶だ。

 楽本織絵は、相手のロングシュートに備えて自陣で守っている。


 笛が鳴った。

 一呼吸の後、佐治ケ江は短い助走。右足の内側面でボールを擦り上げた。

 驚くようなキックではなかった。ただひたすら狙いが正確で、ただひたすら速かった。

 相手の中では一番身長の低い巴和希の、頭上をすっと越えた瞬間、ドライブがかかってクッと急速に落ちた。

 ボールって、この近距離でこんなに変化するものなのか……

 いや、それよりも変化させた佐治ケ江のほうが凄い。小学生の頃から、毎日壁を相手に遊んでいた成果だろう。

 だけどボールは、残念ながらゴレイロに弾かれてしまった。

 見切ってというよりは、混乱しながらも無意識に振り回していた腕に偶然ボールが当たっただけのように見えた。

 跳ね上がり、落下してくるボールを目指して、周囲の敵味方がどっと詰め寄った。

 混戦。

 激しい争奪戦になった。

 ここで佐原南が奪えば、決定的なチャンス。茂原藤ケ谷の絶対的ピンチ。だから、お互いに死に物狂いだ。

 晶がボールを奪い、振り向きざまにシュートを撃った。

 ガン、とポストに当たり、大きく跳ね返った。

 茂原藤ケ谷の巴和希がそれを拾い、詰め寄る佐治ケ江をフェイントでひらりとかわした。ついに佐治ケ江を抜いてやったということにほくそ笑む余裕もなく、狙い済ましてロングシュートを放った。

 一人守備に残っていた織絵であったが、前へ出すぎていた。

 まさかこのタイミングで打ってくるなど、つゆにも思わなかったのだろう。

 まさか覚醒した佐治ケ江が抜かれるなど、思わなかったのだろう。

 まさか、ここまで精度の高いロングシュートを相手が放つとは思わなかったのだろう。

 織絵は慌てて振り向き、六、七メートルほどの距離を全力疾走で駆け戻る。振り返り、なんとかボールをおでこに当てて下に床に落としたが、ボールを落ち着かせる間もなく、巴和希が迫っていた。シュートを打った瞬間に、走り出していたのだ。

 まずい、ガラ空きゴールの前で、織絵と茂原藤ケ谷の最終兵器とが一対一だ。

 と、焦るわたしであったが、


「先輩、こっち!」


 いつの間にか、佐治ケ江がサイドを駆け戻り、織絵と同じ高さにまで下がってきていた。

 九死に一生を得た、といった顔で、織絵はパスを出す。

 佐治ケ江は、それを受けると、今度はドリブルでぐんぐんと駆け上がる。

 茂原藤ケ谷ゴール前は、数秒前となんら変わらず、わたしと武田晶、対戦相手である名倉明美、桜木美紀、ゴレイロの古野敏江がごちゃごちゃとひしめき合っている状態だ。

 戦国の猛将よろしくあっという間に自陣からボールを持ち帰ってきた佐治ケ江は、中央突破を図ろうということか、あえて混戦の中に身を躍らせた。

 茂原藤ケ谷の名倉明美たちは、わたしや晶の存在そっちのけで、佐治ケ江の持つボールを奪おうと挑みかかる。

 しかしもともとボール扱いは抜群に上手な佐治ケ江である。自信を得たいま、簡単に奪われるはずもなかった。

 腕の使い方や、体の入れ方などは、まだまだ経験不足のようだけれども、補って余りある巧みな足技で相手二人を翻弄する。

 佐治ケ江と名倉明美がぶつかり合ったが、なんと巨体である名倉明美のほうが、バランスを崩してよろけていた。

 一瞬大きく開いた足の間から、佐治ケ江はシュートを放った。

 ボールはゴレイロの脇をすり抜けて、ゴールネットに突き刺さった。


「やった!」


 晶や織絵が叫んだ。

 でもすぐに、喜びから落胆へと急転直下。

 ゴールが認められなかったのだ。

 佐治ケ江のタックルが、反則を取られたのである。

 納得いかない。

 混戦の中、お互いに激しくぶつかって佐治ケ江が勝った、ただそれだけなのに。この程度のプレー、むこう最初からずっとやっているくせに、なんでこっちのはファールなんだ……

 審判に愚痴をいっても仕方ないか。ちゃんと向こうにだって、ラフプレーで退場者も出ているんだから。


 その退場によってこちらが一人多い状況だけど、現在、あまり有利ともいえなかった。

 交代出来る人数の関係で、こちらはもう体力の限界を迎えようとしていたからだ。

 もちろん相手だって疲れているのだろうけれど、こちらの状態に比べれば遥かにましなはずだ。

 さきほどのゴール取り消しによって、余計に疲労が増した気さえする。

 中でも一番酷いのが佐治ケ江だ。

 先ほどまでとはうって変わって、ボールを奪えない、プレッシャーのないところでパスミス、カットされて慌てて追いかけてますます疲労する悪循環。

 疲労が、冷静な判断力を奪ってしまっているのだ。冷静に自分のプレーを出来ないことから、また自信をなくしかけてしまっているのだ。

 佐治ケ江は後半からの出場のくせに……

 体力ないくせに、ペース配分を考えないからだよ。

 自分のスタミナのなさ、分かってたはずだろ。

 まあろくに試合経験がないんだから、仕方ないのか。

 相手のラフプレーに肩を痛めてしまったというのもあるし。

 いままでの窮屈な自分から開放されて、畏縮せずにのびのびとプレーが出来て、それがよほど楽しくて、本当に夢中になってしまっていたんだろうな。

 小さな頃から一日中リフティングなんかやってたんだから、充分な体力があってもおかしくない気もするけど。やっぱりランニングしたり、筋トレしたり、バランスの取れたトレーニングしないとダメだな。好きなことやってるだけじゃ。

 覚悟しときな、明日から、徹底的にしごいてやるから。

 栄養指導もしないとな。聞いてみないと分からないけど、なんか野菜ばっかりで肉食べてない気がするし。

 しかし本当に、どういうことだろうな。

 あんな超人的なプレーを連発出来るくせして、あいつ、体力はない、筋力はない、柔軟ではすぐ悲鳴をあげる、筋肉ないから足も速くない……伸びしろだらけじゃないか。なんか、嬉しくなってくる。

 育ててみよう。

 鍛え上げたらどんなふうになるのか、楽しみだ。

 佐治ケ江だけじゃない。春奈のことも。今度、景子と久樹に相談してみよう。みんなフットサルが好きだし、どんどん強くなるぞ、うちの部は。

 なんだろう。なんだかとても、気分が高揚してきた。

 中学生の頃に、好奇心からお父さんの缶ビールをこっそり一本飲んでしまったことがあるけど、その時の酔った感じに似てるだろうか。ちょっと違うか。

 自己防御反応で、脳内麻薬でも分泌されているのだろうか。

 ……それほどまでに、足の痛みが酷くなっていた。

 脳が、ごまかそうごまかそうとしてしまうほどに。

 動くたび、心臓の鼓動のたび、呼吸のたび、こじくられるように激しく痛む。


 わたしの足元へと、パスが回ってきた。

 足音。巴和希がこちらへ向かってくる。え、なんでこいつ二人いるんだ、と思ったら単にわたしの目がかすんできているだけだった。

 かわしざま、晶へとパスを出す。

 片足を庇いながら蹴ったせいで、バランスを失って、ふらついた。

 ぐっと踏ん張ってもちなおしたところへ、晶からのリターンがくる。

 左足の内側で、受け、激痛を必死にこらえながら右足で蹴る。

 走る。


 ああ、わたしいま、なにやっているんだろうなあ。


 ここ数ヶ月の間に、何十回、この言葉を心に呟いたことか。


 決まってんじゃん。

 フットサルやってんだよ。


 と、即答している自分に驚いていた。

 そうだよな。

 疑問に思うまでもなかったじゃないか。

 将来どうなっていくか分からない者同士、一年後、二年後にはもう絶対に組むことの出来ない、そんなかけがえのない仲間同士、こうしてフットサルをやっているんだ。

 将来への不安もなにも、将来なんてのは願おうとも拒絶しようとも、なにをするまでもなく放っておけば黙っていたってやってくる。

 いましか出来ないことは、いまやらないと。

 後悔はしたくないから。

 だから……


「もう時間がないよ!」


 誰かの叫び声。

 敵か、味方か、誰の声なんだか全然分からない。

 わたしは激痛を我慢し続けていたことと、疲労とで、ぐるぐると視界が回り、白くぼやけ……それどころか五感全体が麻痺しはじめ、耳もろくに聞こえない状態になってきていた。

 はやく、得点しなければ。

 延長戦になったら、おそらく勝ち目はない。

 焦りばかりがつのる。

 周囲、なんだかごちゃごちゃして、窮屈……

 ぼんやりした、視界、

 FKか。

 どっち?

 茂原藤ケ谷のFKか。

 いまわたしは、自陣ゴール前で守っているようだ。

 朦朧としてしまっていて、よく分からん。

 誰かが、蹴った。

 きっと……巴和希だ。最終兵器とかいわれている、茂原藤ケ谷の転校生。

 混戦の中で、体がゴツゴツとぶつかりあう音。相当激しくやりあっているのだろうけど、感覚が麻痺してあんまりよく聞こえない。他人事のようにも思える。

 どんと背中押されて、ぼんやりした、視界が、急速に反転し、床が、広がって、わたし、倒れていた。どどどっ、と崩れるような低い足音が耳元に迫り、わたしは頭を、がつがつと蹴られていた。

 すべてが、真っ白になった。 


     18

 気を失っていたのだろうか。

 どのくらい……


「梨乃!」


 楽本織絵の顔。


 天井が、広がっている。

 視界がはっきりしてきた。

 朦朧としていた意識も、はっきりとしてきた。


 織絵だけではなく、

 武田晶、

 根本このみ、

 佐治ケ江優、

 みんなが、わたしのことを心配そうな表情で見下ろしていた。


「よかった……気付いたみたいだ!」


 織絵が叫ぶ。その視線の先へと顔を向けると、浜虫久樹や山野裕子たちの、胸を撫で下ろしている姿が見えた。

 みんなに心配させちゃったな。


「大丈夫ですか?」


 織絵と晶の間から、黒いレフェリーウェアがぬっと顔を出した。


「大丈夫です」


 わたしは上半身を起こそうとする。


「頭を上げないでください。横になったまま、担架に乗ってもらいますから。すぐ病院にいってもらいます」


 さっきフサエを担架で運んだ係の人たちだ。その足元には担架が置かれている。

 冗談じゃない、この大事な時に病院なんていけるか。


「大丈夫ですよ……頭、蹴られてません。足の怪我がズキズキ痛んで、動けなかっただけですから」


 嘘をついた。

 床に手を付き、立ち上がった。自分でもびっくりするくらい、簡単に立ち上がることが出来た。

 実は意識不明のまま、何年もたっているんじゃなかろうか。そう思ってしまうくらい、足の痛みがなくなっていた。


「なんだ、そうだったんだ。心配させんなよ、もう!」


 織絵が、嬉しそうな顔で怒った。


「本当は頭蹴られて、ちょっとあっちの世界いってた」


 織絵の耳元で囁く。


「え、ダメじゃん病院いかな…」


 わたしは慌てて織絵の口を手で押さえた。分かったよ分かったよ、という表情に、ようやく押さえた手を離してやった。


「でもやっぱり足痛めてたんじゃん。大丈夫なの?」

「不思議なんだよね、こんな痛み経験したことないってくらいだったのに、いまは全然痛くないんだ」

「ならいいけど」

「試合終わったらさ、サジと病院いってくるよ。だから残り時間、全力でやるよ。みんな、後半戦が終わる前に点を取るよ! 勝つのは、うちらだ!」

「おー!」


 ピッチ内外、佐原南の全員が腕を振り上げ、叫んだ。

 頼もしい。

 みんなで、絶対に勝利を掴もう。


 各人、配置についた。

 さあ、試合再開だ。

 気合入れて、いくぞ。


 さっきの混戦で、向こうのファールが取られたようで、佐原南にFKが与えられた。

 佐原南の自陣からということでキッカーはベッキの織絵、他のみんなは上がった。


 笛が鳴った。

 相手ゴールまでには相当な距離があるので、織絵は無理に放り込まず、後方からの組み立てを選択し、少し前にいる武田晶へとパスを出した。

 茂原藤ケ谷の巴和希が、すかさずプレッシャーをかけてくる。

 晶は、織絵に戻すふりをして、すっと巴和希をかわした。

 佐治ケ江へのパスだ。

 敵の間をボールが抜けて、うまく通ったが、受けた佐治ケ江は疲労からか少しもたついてしまい、二人に囲まれボールを取られてしまった。

 そのボールは、すぐさま、一人で佐原南ゴール近くに残っていた巴和希へと送られた。

 伸ばした根本このみの足も届かず、巴和希にボールが渡ってしまう。

 織絵がだっと勢いよく詰め寄って、ボールを奪おうとする。

 巴和希は、軽快な足技で織絵を翻弄。無人のゴールを目掛けて、素早いモーションで足を振り上げ、ボールに叩き付けた。

 これが決まれば、茂原藤ケ谷の勝利も決まっていたことだろう。

 だけど、巴和希の足は虚しく空振りをしただけだった。

 全力で駆け戻ったわたしが、彼女の股の間からボールを奪ったのだ。

 信じられない、といった表情を浮かべている巴和希。

 おそらくわたしも、同じような表情を浮かべていると思う。だって意識がなくなるくらい、凄まじい足の痛みに苦しんでいたのだから。それが、痛みを感じないどころか、ここまでのプレーが出来てしまうなんて。

 ドリブルで駆け上がろうとするわたしに、敵、名倉明美が邪魔しようと走り込んできた。わたしは名倉明美に背を向けて、ボールキープ、と見せかけて、すぐさまつま先でちょんとボールを浮かして、そのまま体を反転させて前を向いた。

 体……動くぞ。

 痛くない。

 低く宙に浮いたボールに、膝を軽く当てて、前へと転がす。同時に、名倉明美の脇を風のように駆け抜ける。


「みんな、上がれ!」


 わたしは、力の限り叫んだ。

 自分で転がしたボールに追いついて、そのまま全力でドリブル。

 不思議な感覚。体重をまったく感じない。

 気持ちいいくらいに、ぐんぐんと視界が後ろに流れていく。


 きっとこれ、神様がくれた時間だ。


 だって、わたしの足も心も、悲鳴を上げる余裕すらないくらいボロボロのはずなんだから。

 あと何秒だか、何十秒だか分からないけど、この時間が終わったら、わたし、どうなるんだろう。

 フットサル、続けられるだろうか。

 続けられたらとても嬉しいけど、いま手を抜いて後悔はしたくない。

 痛くないのなら、走れるのなら、全力でやるだけだ。

 佐原南、全魂全走だ!


 わたしのドリブルを食い止めようと、5番の桜木美紀が、そして戻ってきたばかりの巴和希が、立ち塞がる。

 フェイントを仕掛けて二人の間を強行突破、と思わせておいて、ヒールで後ろへとボールを送る。普段の練習の成果を、織絵がうまく受けてくれたことを、信じてわたしは前へ走る。

 わたしの横を走る晶が、おそらく織絵からの、後ろからのボールを器用に受けた。

 晶は小さくドリブルしながら、わたしへと横パスを出した。

 ボールを受けようとした瞬間、ドンと背中から激しい衝撃が襲った。名倉明美が、トラップを邪魔しようと肩を当ててきたのだ。でもわたしは最初から、このパスを受ける気はなかった。

 スルーされたボールは、そのまま真横へと転がる。


 わたしへとマークが集中している中、フリーの佐治ケ江にボールが渡った。

 佐治ケ江優、残った気力と体力を振り絞ってドリブル独走だ。

 第一審判が笛を手にし、タイムキーパーと残り時間の確認をしている。そして審判は笛を口にくわえた。あとワンプレー、出来るかどうか……

 シュートチャンスを伺うようにゆっくりとドリブルする佐治ケ江に対し、ゴレイロの古野敏江は安易には飛び出さずゴール前で腰を落とし構えている。

 いっそ飛び出してきてくれたほうが、佐治ケ江にはやりやすかったかも知れない。かわせばいいだけ、と迷いない判断が出来るから。

 一瞬の我慢くらべ。耐え切れなかったのは、佐治ケ江だった。ゴレイロとの距離四メートルほどのところで、右足でシュートを放っていた。

 ゴール正面で、ゴレイロの両手に弾かれた。


 ちょっと正直すぎた。

 だけどまだ、佐原南のチャンスは続く。

 駆け上がってきていた織絵が、こぼれたボールを拾おうと、名倉明美と競り合う。

 二人の肩が激しくぶつかり合った。

 体格差に、織絵が一方的に飛ばされるかと思ったが、なんと勝ったのは織絵のほうだった。名倉明美はバランスを崩し、とと、と数歩進んだところで自らの足をもつれさせて転んでしまった。さすが織絵、彼氏が出来て逞しくなっただけある。

 織絵は落ちてくるボールをダイレクトに蹴り上げ、わたしへと送る。

 でもちょっと精度悪い。わたしは走り寄って、足を伸ばして受けた。

 ゴレイロに背を向けた格好だ。

 足元にしっかりボールを収め、その瞬間、振り向きざまシュート! と素早く反転したはいいが、ゴレイロの古野敏江が、鬼気迫る形相で飛び出してきていた。

 気迫で負けてたまるか。

 振り向くと同時にシュート体勢に入っていたわたしは、そのまま迷わず振り上げた足を振り下ろした。

 ゴレイロの古野敏江は、自分の体を横に倒し、滑る。

 フットサルで横に倒れ込むなんて……。と思ったが、でも彼女の判断は正しかった。前へと滑りながら、横たわった巨大な体全体を使って、わたしのシュートを防いだのだ。

 高く跳ね上がるボール。

 時が止まった? 一瞬、そう錯覚した。いま起きていること、何故かわたしにはスローモーションのように見えていたのである。

 こちらへと滑ってくるゴレイロを、わたしは冷静に、軽く膝を曲げ、跳んでかわした。

 そんなに大きく跳んだつもりはないのだけど、でも、宙に静止しているような、空を飛んでいるような、なんだかそんな感覚だった。麻痺しているのか、それとも不思議な力でも宿ったのか、とにかく体重を感じないのだ。

 ここに高木ミットがいたら、きっと「出た、ゴリラジャンプ!」などと叫んでたことだろう。

 宙に止まったまま、胸でボールを受けた。


 超能力者じゃあるまいし背後など見えるはずないのに、何故か、みんなの顔が見えていた。

 佐治ケ江、

 このみ、

 織絵、

 晶。

 わたしは、みんなに感謝していた。

 試合中だというのに、心の中で笑っていた。

 みんな、ここまで頑張ってくれてありがとう。

 そんな、感謝の言葉を唱えていた。

 春奈も、王子も、どうもありがとう。

 それと……久樹も、景子も、これまで本当にありがとう。これからも、ずっと親友でいようね。何回、何十回、生まれ変わってもさ。


 眼下には、無人のゴール。


 光が見えた。


 そしてわたしは――

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ブストサル かつたけい @iidaraze

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