第六章 天気不安定
1
天気予報の通り、雨が降り出してきた。
物語なんかだと、わたしのような気分でいる主人公にはシトシト雨と相場が決まっているものだ。
しかし映画でも漫画でもアニメでもない現実は、わたしの気分などお構いなし、この世の終わりかと思せるような、滝のような大豪雨になっていた。
太平洋を大型台風が北上してきており、その影響ということだ。
本州接近はまだまだと聞いていたので、ならば、と重い腰を上げ出かけることにしたのに。
屋根の下だからとりあえず濡れることはないものの、湿気が肌にまとわりついて服に染み込んできて気持ち悪い。スカートだからまだいいけど、ズボンだったら最悪だったな。
わたしは駅のホームの待合室で、途方にくれたようにベンチに座っている。
四人がけベンチが二つ向き合うガラス張りのこの空間、けして広いものではないが、わたし一人だけだとがらんとしてて寂しい。
激しい雨がガラスにびちびちと当たってきて、外がまったく見えない。
あと四十分も、ここにいなければならない。
成田方向の電車に、タッチの差でいかれてしまったのだ。
時刻表を確認して、余裕を持って家を出たつもりだったのだけど。
あの件があって以来、ボーッとしてばかりいる。
なにも考えないようにしようと思っていると、かえってそのことばかり浮かんでくるくせに、じゃあそのことをとことん考えてやろうじゃないかと開き直ると、今度は頭が真っ白になってなにも考えられなくなる。
なにがどうであれ常に変わらないのは、自分がたまらなくみじめで不快な気分でいるということ。
いっそのこと本当になにも考えられなくなってしまえば、こんな気分に苦しまないですむのにな。
ちょっと辛い目にあった程度で自殺するなんてバカのやることだと思っていたけど、いまは、気軽に自殺してしまえる勇気が羨ましい。
そんなことを考えていると、不意にガタガタと音を立てて待合室のドアが開いた。
「ライリライリライリ~!」
能天気な歌声。
イヤホンで音楽を聴いている高木ミットだった。
「あれ、お前なにやってん」
イヤホンの片方を外した途端、シャカシャカとラテンっぽいリズムの音楽が洩れ聞こえてくる。どれだけのボリュームで音楽聴いてんだか。
「電車待ってんだよ」
わたしはぼそりと、つれない返事をする。
「当たり前だろが。駅のホームなんだから」
ミットはドアを閉め、「よいしょっ!」とうるさい声を出してわたしの隣に座る。どうせ、他が空いとんのになんで隣やねん、とかなんとか突っ込んで欲しいのだろう。
「なんで隣やね~ん! って突っ込めやコラ!」
「黙っててよ」
「ノリわる!」
静かになった。
何分経っても誰もこず、相変わらずこの狭い空間にわたしたち二人きり。
ミットは膝をぱたぱたと開いたり閉じたりしていたが、突然立ち上がると両腕を広げて大きく伸びをした。
「あ~今日もいい天気だなあ!」
雨じゃアホ。と思ったが、口には出さない。
「雨じゃい!」
また自分でツッコミ入れてる。
「なんかノリが悪いな今日は。いつもならラリアットかましてくるとこだろ。ウホッって」
ダン!
と、わたしは床を踏み鳴らした。と同時に痛みに顔を歪めた。
「おい、大丈夫かよ」
「……だい、じょうぶ。……もう! あんたがイライラさせるからだよ」
足を怪我していることを、すっかり忘れるくらいに。
普通にしている分には、それほど痛みはない。歩くことも問題ない。
しかしぶつけたり、激しい運動をしようものなら、骨と骨をがしと掴んで捻られるような、関節にヘラを差し込まれてねじくられるような、とてつもない激痛に襲われる。
「ねえ」
ミットの顔を見上げた。
「ひま?」
「ひまって、おれも用事があるから電車に乗ろうとしてんだろ」
「大事な用?」
「……そうでもない」
「じゃ、付き合ってよ」
2
成田氷崎台総合中央病院。
大きそうな病院を想像してしまう名前だが、古びた外観の、単なる町の小さな病院だ。
303号室に、景子が入院している。
徒歩で数分のところに景子の自宅がある。今後しばらく通院をすることになるので、それを考えてこの病院を選んだとのことだ。
先日、景子は下校途中の道で自動車にはねられたのだ。
わたしのことを助けるために、身代わりになって。
自動車を運転していた人が自ら通報して、しばらくして救急車が、少し遅れて警察のパトカーがやってきた。
「大丈夫だから」
景子は担架で運ばれながら、わたしに笑顔を見せた。
涙目で、痛みに顔を引きつらせながらも、それでもわたしに優しく笑んでくれていた。
でもわたしはなにもいえなかった。
ただ呆然と立っていることしか出来なかった。
わたしは、警官に色々と尋ねられ、そしてパトカーに乗せられて警察署へいった。
そこから自宅に電話をして、お父さんを呼ぶことになり、病院へ行って足の治療をし、帰宅した。
乗用車の、速度違反。
事故の原因は、そう片付けられた。
スピードを出しすぎていたため、ブレーキが間に合わなかったと。
でも、本当の原因はわたしの不注意だ。
わたしがつまらない意地を張って、景子と喧嘩なんてしてしまったから。
全部、わたしのせいだ。
警察署と病院から帰った後、わたしは景子の家に電話をした。景子のお父さんが出た。
病院にはお母さんが付き添っており、命に別状はないとのこと。
ただ、腰の骨にほんの少しだけ亀裂が入っており、入院が必要らしい。
電話を終えた後、お店の車で、景子の自宅に向かうことになった。わたしのお父さんが、向こうの家にお詫びしなければならないから、と。
景子の家に着くと、景子のお母さんも病院から戻ってきていた。これから入院のための着替えなどを用意するのだそうだ。
わたしは、景子のご両親に深く頭を下げて謝った。
お父さんも一緒に謝ってくれた。医療費はすべてこちらで持つから、ともいってくれた。
でも景子の両親は聞かない。うちの娘が勝手に飛び出したのだから。安静にしていれば後遺症が出ることもなく完治する、そうお医者さんもいっているのだから、と。
「それよりもね、うちの娘が命の危険に身をさらしてまで友人を庇おうとしたことが……景子が、そんな一生の親友を持っているということが嬉しいんですよ」
景子のお父さんの言葉、今後のわたしの人生にとって宝となるものだった。
でもこの時のわたしは、なにも考えられず、ただごめんなさいごめんなさいと繰り返すことしか出来なかったのだけど。
3
それから何日も経ち、今日、初めてお見舞いをする。つまり、あれから初めて景子に会う。
いまわたしは、病院の前にいる。すぐ後ろには、無理矢理引っ張ってきた高木ミットが立っている。
事故後、すぐにお見舞いにいかないととは思っていたのだが、どうにも気が重く、まだ景子が落ち着いていないだろうとか、わたしも足を怪我しているのだからとか、口実を作っては何日も先延ばしにしてきた。今日だって、豪雨や、ちょうど電車にいかれてしまったことを理由に引き返してもおかしくはなかったのだ。
高木ミットと偶然会えてよかった。一応は共通の知り合いなわけで、わたしたち二人でお見舞いにいっても不自然なこともないし。
でも、本当によかったといえるかどうか。
わたしなどがお見舞いにきて、景子が喜んでくれるかどうか。
担架で運ばれながら、景子は笑顔を見せていたけれど、内心はどうであったのか。
あの時は本当にそのような気持ちであったとしても、いまは怒っているかも知れない。
だって、わたしが景子をあんな目に遭わせといて、お見舞いすらせず放っておいたのだから。
恨まれていても、なにもいえない。すべてわたしが悪いのだから。
「ここの303なんだな。じゃ、いくぞ」
ミットはわたしの手を強く握ると、ぐいと引っ張った。普段のわたしなら、気安く触るなとブン殴るところだが、今日はそんな気力はない。むしろ、リードしてくれて感謝すらしている。
病院の中に入ると、金網ガラス窓のある古臭いエレベーターに乗った。
ごうんごうんと低く唸りながら、エレベーターはなんとか三階へとたどり着いた。
303号室の前にきた。
四人部屋のようだ。
入院患者の名前が書いてあり、その中には畔木景子の名前もある。
「じゃ、おれここで待ってるからよ」
ミットは小声で呟き、わたしの背中を押した。
「一人じゃ入りにくい。一緒にきてよ」
道中、わたしはミットに今回起きたことの全てを話していた。わざわざ付き合ってもらうのだから、当然のことだ。
「ダメ。その、入りにくいってのを乗り越えるのが大切なんだよ」
こんな時だけ真面目なこといっちゃって。
でも、確かにそうかも知れない。
よし……
「じゃ、いってくる。待っててよね。絶対、ここにいてよね」
「分かったよ。つうかそれほどのことじゃないだろうに」
「あたしにはそれほどのことなの」
ドアを軽くノックし、開けた。
しんとしているかと思ったら、少しだけ騒がしかった。四人の患者が入院しているわけだが、テレビがついていたり、お見舞いにきている人がいたり。
それぞれのベッドの周囲にはカーテンが引かれており、それぞれのプライベート空間を確保している。
そのためよくは見えないが彼女がいるのは窓際の、わたしから見て右側のベッドのようだ。カーテンレールから、畔木景子と書かれた名札が下がっているので分かった。
わたしは決心すると、ゆっくりと進んだ。
カーテンは半分開いていたので、少し歩くとすぐにベッドが見えた。
どくん。
心臓が、胸の内側を激しく叩いた。
景子の姿が、見えたのである。
ベッドを折り曲げて、上体を起こしていた。
わたしと目があった。
景子はわたしに気付いてもまったく驚くふうでもなく、目を細めると、やわらかく微笑んだ。
わたしは、といえば、まったくの反対だった。
「あ、あの……あの、ええと……」
つっかえつっかえで、全然言葉が出てこない。心の準備は万端ではないが、あれをいおう、こう話しかけよう、と色々と言葉だけは準備してきたはずだったのに、すっかり忘れてしまっていた。
すっかりと、舞台に上がった新米役者のようになっていた。
「お見舞い、きてくれたんだ」
助け船を出してくれたのは、景子だった。彼女はそういうつもりではないのだろうけど、でも、わたしの気持ちが少しだけ楽になったのは間違いなかった。
「そ、そう。……遅くなって、ごめん」
「きてくれてありがとう。嬉しいよ。でも、たいしたことないのに。腰の骨に、ほんのちょっとヒビ入っているから動いちゃダメなんだけど、でも二週間もすれば病院の中くらい歩いてもいいって。三週間で退院の予定。全治二ヶ月だから、当分は走ったりは出来ないけど」
「そう、なんだ」
よかったね、といってよいものか。
「梨乃のほうこそ、足、怪我したって聞いたよ。大変だったでしょう、ここまでくるの」
「たいしたことないよ」
「どんな怪我? 骨折? 捻挫?」
「右足の捻挫。右の、膝と、足首。……景子が救急車で運ばれた後さ、警察の人が現場検証して、その時にいってたんだけど、景子に助けて貰わなかったら、あたし、大怪我してたろうって。車の運転手、走り寄る景子を見て、あたしたちに気づいてブレーキをかけたんだって。だから、景子がいなかったら、あたし、もしかしたら、死んじゃってたかも知れない」
「そうだったんだ。でも、それなのに二人とも命に別状なくてさ、よかった」
「よくないでしょ! 景子、関係ないじゃん。……あたしなんか、助ける義理なかったじゃん。……なのにさ……ほんと……バカじゃないの! そっちこそ、死んじゃってたかも知れないんだからね!」
涙が出てきた。
ポロポロと。
腕で拭っても拭っても、大粒の涙が零れ落ちてくる。「うるさいよ!」という中年女性の苦情に、すみませんと謝るものの、多分口が引きつって言葉になっていなかっただろう。
「確かにわたし、バカだよねえ」
と、景子はのんびりとした口調でいう。
「でも、体が勝手に動いちゃったんだもの。しょうがないじゃない。……それで、全然後悔してないんだから、ほんとどうしようもないね。……まあ、要するにわたしたち、友達ってことだね」
しみじみと、景子はそういった。
わたし、もう少しクールで、自分勝手な、嫌な奴だと思っていたのに、
こんな、
こんなくらいのことで、
涙がぼろぼろと、
ぼろぼろと、
こぼれてきた。
景子……
ほんとうにありがとう。
大好きだよ。
酷いこと色々といってしまったけど、でも、最初から、全然嫌ってなんかいなかったんだから。
わたし、ひねくれているから、どうしたらよいか分からなかっただけで。素直になれなかっただけで。
「友達、なんかじゃ、ないよ」
わたしは鼻をすすると、わざとちょっと怒ったような顔を作った。
「じゃ、なに?」
景子は、おかしそうに笑っている。
「親友……違うな、大親友! あたしと久樹と景子は、大大大大大っ親友だ!」
「そんな大袈裟な。……あ、すみません高柳さん」
高柳さん、先ほどの怖そうなおばさんだろう。カーテンで見えないというのに、景子は頭を下げ謝った。顔に笑みをたたえながら。
「景子……ごめんね、色々と、本当にごめんね。それと、ありがとう」
「なにが? さっきから気持ち悪いなあ」
「見捨てないでくれてさ。縁切られることも覚悟してた」
「なにをいまさら。大親友なんでしょ」
「そうだね」
「それにさ……」
「なに?」
「ハナキヤのイタリアンジェラート、まだ奢って貰ってないからね。それまでは、簡単に縁なんか切れますか」
「まだ覚えてるよ、せこっ。……じゃあ、縁切れたら困るから、絶対おごらな~い!」
嘘だよ。もっと美味しい物、そのうち食べにいこうよ。
「うわ……初めて梨乃にやり返された」
どちらからともなく笑い出す二人。
高柳さんの雷が落ちたらどうしようと思うものの、心の奥から湧き上がるこの最高に楽しい感情を、どうしても抑えることができなかった。
4
わたしと景子の仲は完全に修復され、これまで以上に絆の強固なものとなった。
しかし、ことはそう簡単には終わらなかった。
景子とのことは完全に終わったのだけど、別の問題が起きていた。
教室で、わたしは孤立してしまっていた。
わたしと景子とがギスギスとした感じになっていて、そしてあんな事故が起きた。そのため、わたしが景子を事故に遭わせようと突き飛ばしたのでは、そんな噂が流れているらしく、たぶんその影響で。
事実を話しても、みんな半信半疑。刺激的な噂話のほうが広がるスピードが圧倒的に速く、結局、半信半疑は無信全疑へと塗り変わる。
でもどうせ、もともとこの件、悪いのは全部わたしなのだ。あまり釈明めいたことをしたくもなかった。景子が悪くいわれているわけでもないし。放って置けばすぐに元通りになるだろう。
というのは自分にいい聞かせようとした嘘で、やはり、いままで仲の良かったクラスのみんなに冷たい態度を取られるのは辛かった。でも、弁解しようとすればするほどかえって疑われたり、もしかしたら景子のことも悪くいわれるのではないか、と、それが怖かったからおとなしくしていた。
景子との仲を、そのような程度にしか認識されていないことが、少し悔しくもあったけれど、もとはといえばわたしがまいた種なのだ。
5
放課後。
教卓のそばで、
ここ数日の、もう慣れっこの光景のはずなのに、耐えなければならないことのはずなのに……
疲れていて、自制心を失っていたのだろうか。
プツ、とわたしの脳の血管が切れた。
席を立ち、二人のほうへゆっくり歩いていく。
二人は、怪訝そうな表情でわたしの近づいてくるのを見ている。
「楽しい?」
わたしはニッと微笑むと、次の瞬間、教卓を蹴り倒していた。
ガチャンという音が響き、田島たちはひっと悲鳴をあげた。
蹴った足よりも、軸足のほうに強烈な痛み。右足を怪我していることを、すっかり忘れていた。そして、その痛みで我に返った。
わたし、なにやってんだ。
でももう遅い。
たまたま廊下を歩いていたカマバロンに、その様子をすっかり見られてしまっていた。
わたしは一人、職員室に呼ばれて怒られることになった。
6
おとなしく小言を聞いて反省のそぶりを見せていた効果か、説教の時間はとても短く済んだ。それでも部活には、三十分ほど遅刻することになってしまったけど。
でも、どのみち怪我人のわたしはみんなの練習を外から見ているだけだ。
ある程度怪我の具合が良くなるまでは、副部長の
わたしは部室でトレーニングウエアに着替え、練習場である体育館に向かった。
通路の窓から、フットサル部の練習が見える。
浜虫久樹の大きな声が響いている。
ここ数日間の久樹の指導は実に素晴らしいもので、紅白戦を見ていても、回を追うごとに、連係が良くなっているのが分かる。
現在、ゴレイロを置かないでFPだけで紅白戦をしているところのようだ。
その隣では、
「はい、ちょっと休憩!」
壁際に置いてあるタオルや水筒を目指し、つまりこっちのほうに向かってぞろぞろと歩いてくる。
みんな、まだ窓枠から見ているわたしの姿には気付いていないようではあるが。
「……ん? 梨乃がどうしたって?」
「聞いたことありません? 木村先輩が景子先輩のこと突き飛ばしたんだって話」
「ああ、知ってる知ってる」
「あたしも、聞いたことあるよ」
脱力感。
なんだ。ここでもか。
ここも教室も、どこも結局、同じなのかな。
と、ちょっと悲しい気持ちになってしまっていたのだけど……
「そんなはずないのにねえ」
「そうそう、二人がどんなに仲がいいか知らないはずないのにね」
「部長のこと勝手に犯人に仕立て上げて、無視したりしてるらしいよ」
「ほんと頭くるよね!」
みんなの言葉に、体の奥からじわっと温まってくるような、くすぐったいような、そんな不思議な感覚に全身を包まれていた。
「え、そんなことあったんだ。あたし、知らなかった! ふざけやがって。部長の教室に殴りこみかけてやる! 二年生だろうと、知ったことか」
「ほんとに、全員で抗議にいこうか」
「やめときな! くっだらない!」
久樹の一喝に、ざわざわした空気が一瞬で静まり返った。
「女っつーのは、こういう時の結託というか、行動力が凄いからねえ。ほんと、おっかない。あのさあ、部の人間が余計なことしようもんなら泥沼だよ。そんなくだらない疑いなんて、すぐ晴れるから。いま梨乃のために出来ることは、ひたすらトレーニングすることだけ! あ、あと王子は赤点取らないように頑張ることもね」
「久樹先輩、一言多いス」
山野裕子の憮然とした表情に、どっと笑いが起きた。
「よし、それじゃ休憩終わり、練習再開するよ!」
「はい!」
すごい、久樹。大人の対応だ。
勉強しないから成績悪いだけで、とても賢い子なんだな。
みんなにも、本当に感謝だ。
元気出た。
わたし、この学校入って良かった。
この部活に入って良かった。
みんなと知り合えて良かった。
7
お父さんが配達にいったのを見計らって、
「ヒデさん……」
声をかける。
今日はヒデさんが店番で、お店の掃除をしているところだ。
「手伝おうか」
「ありがとう、梨乃さん。でもいまは、ぼく一人で大丈夫ですから。上で勉強してて下さい」
なんかまだ、お父さんとは話しにくくて、お店を手伝うのはヒデさんしかいない時にしている。
「ヒデさんてさ、ほんっとに仕事好きだよね」
わたしはヒデさんのいうことを無視して、サンダル履いて床に降りた。
「好きですよ。豆腐を作って、売って、お客さんに食べていただいて。そしてまた豆腐を作って。楽しいじゃないですか」
そうしたぐるぐるサイクルが好きならどんな仕事でも楽しいんだろうけど。
「真面目だよなあ」
「そうでもないですよ。ここに雇ってもらうまでは、まあ荒れた生活してましたから」
「嘘だあ。想像出来ないよ」
などと会話していると、ガラス戸が開き、お客さんが入ってきた。中年の女性。吉岡さんという近所の主婦だ。夕刻にいつも木綿と絹、決まった分量を買いにくるのだ。
「いらっしゃいませえ!」
と、わたしはヒデさんを押しのけて、袋詰め、レジ打ち。それとちょっとした雑談。
「ありがとうございました!」
わたしの声を背に受け、吉岡さんは出ていった。
ガラス戸が閉まって約十秒、不意にヒデさんが口を開いた。
「最近よく、お店を手伝ってくれますね」
「……お父さんに、あんまり借りを作りたくないんだよね」
「借り?」
「親なんだから、そりゃ娘を養う義務はあるんでしょうけど、だからって世話になりっぱなしなのもなんかさ」
でかいことの一つもいいにくくなるし。
「でもそれ、黙っていちゃ意味がないじゃないですか。まあ、ぼくが全部いっちゃってますけどね」
「やだ、やめてよ!」
ヒデさんの肩を叩いた。
「親の手伝いをすることは、素晴らしいです。でもね、養ってもらうことを借りを作ることだと思う、その考えはよくないですよ」
「分かってるよ。……ま、単純にいうと、愛されてなかったらどうしようなんて思ったりして、その予防線張ってるだけ。仕事の手伝いしとけば、すこし自分の気持ちが楽になる気がして」
「血の繋がってない親子みたいじゃないですか。そういう悲しくなるようなこというのは、やめて下さいよ」
「だってさ、娘にあまりお金もかけたくないみたいだし」
「梨乃さん……お父さんのこと、本当にそんなふうに思っているんですか?」
空気が、変わっていた。
ヒデさんの表情には、まるで変化はないのだけど、でも、なにかが。
静寂。
ほんの数秒だけど、妙に長く感じられた、沈黙。
ヒデさんは、口を開いた。その言葉は、まったく予期もしないものだった。
「なにをいっているんですか! 逆ですよ! お金、ためているんですよ。梨乃さんのために」
「え……」
貯金、
お父さんが、
わたしのために。
「それ……本当? ヒデさん」
ヒデさんは頷いた。
「嘘いってどうするんです。いくかは分からないけれど、大学の学費にって。それと最近、結婚貯金も始めましたよ。早すぎるんじゃないかっていいましたけど、儲けてる商売じゃないしのんびりしてたら間に合わないから、って。だから最近、お昼は自分とこの豆腐一丁の日もあるくらいです。まあ確かに、収入が同じなんだから色々と削らないと、貯金なんか出来ないでしょう。そうして、頑張っているんです。それを、自分に愛情ないからなんて、勘違いもいいとこです! ……このこと全部、内緒にしてくださいね。ぼくがクビになっちゃいます」
がーっとまくしたてると、ようやくヒデさんは口を閉ざした。
わたしは、呆然とした表情のまま、なにも言葉を返すことが出来なかった。
お父さん、そんなことしてたんだ。
わたしなんかのために。
そんなこと、してたんだ。
バカだな。
豆腐だけなんて。
体壊したらどうすんだよ。
「そっか。……ヒデさん、教えてくれてありがとうね」
わたしはサンダルを脱ぐと、家に上がった。
二階の自室へ。
激しい脱力感に襲われて、階段を昇るのが一苦労だった。
まだ夕方だというのに、わたしは布団を頭からかぶって寝てしまった。
8
「てめえら、こいつがどんな気持ちでいるか、想像も出来ねえのか!」
先日わたしは怒りに任せて教卓を蹴飛ばして倒してしまったが、今日それをしたのは高木ミットだった。
クラスの全員がいる、帰りのホームルームの時間。突然、キレたのだ。
先週までと変わらぬ、みんなのわたしへの態度に。
何故か、関係ないはずのこいつが。
担任もびっくりして、言葉も出ない様子だ。
ミットは続ける。
「畔木を突き飛ばしただあ? なにそれ? バッカじゃねえの。なんでそんなことしなきゃいけねえの? あのう、病院にお見舞いにいって、部活の試合の作戦考えてたり、二人仲良しなんですけど相変わらず。畔木、今度の週末に退院するから、またこれまで以上に仲良しなところをお見せすることになると思うんですけどねえ。……どうでもいいんじゃねえの、本当のことなんて。単に面白がってるだけなんだろ。でもそれでさ、こいつがどんな嫌な気持ちになるか、考えたことある? 喧嘩しちまって嫌な気分になってる時に、親友が事故に遭って入院しちゃったんだから辛いよな。自分のせいじゃねえかって落ち込んでんだよ? じゃ、支えてやりゃいいじゃん。それを反対に、まあネチネチと。お前ら、自分が嫌に…」
「もういいよ!」
わたしは声を張り上げ、ミットの言葉を遮った。
せっかく、ほとぼり冷めるまでおとなしくしていようと思ったのに、台無しじゃんか。バカミット……
もう。
視界が、歪んでいた。
涙が溢れ、こぼれていたのである。
なんでなのか、理由はまったく分からないが、不意に。
最近わたし、すぐ泣くよな。しかも、大嫌いなこいつの前でばっかり。
それが恥ずかしくて、
涙を見られるのが嫌で、机に突っ伏してしまっていた。
でも、泣き声が洩れてしまう。泣いていると思われたくないのに。
堪えようとしているのに、嗚咽が、涙が、止まらない。
悲しいわけじゃないのに、なんだこの涙は。
9
「まったく余計なことを」
今は放課後。
わたしと高木ミットは、校舎裏の人気の少ない場所に立っていた。
「まあな。……あんなの、おれのキャラじゃねえよなあ」
いつもの、すっとぼけた表情のミットだ。
というか、なんだよキャラって。
「景子が退院すれば、全部元に戻ったのに」
わたしは不満げに、唇をとんがらせる。
どのような表情でいればいいのかよく分からず、わざと、こうした顔をしてみせたのだ。
「そうだけどよ。でも、なんかやじゃん」
「嫌もなにも、あたしのことなんだから。……でもさ、ありがとうね。あたしなんかのために」
「お、おう!」
「ブスで粗暴なゴリラなんかのためにさ」
わたしはここでようやく、笑顔を作ることが出来た。
面食らったような顔のミットだったが、やがてすました顔に戻って、
「バカだな。お前ひょっとして、自分で気づいてないの?」
「なにが?」
「お前……あの……あのよう……お前さあ……」
なに、モジモジしてんだ、こいつは。季節遅れで日本脳炎にでもなったのか?
「早くいいなって、うわっ!」
ミットがいきなり、わたしの両肩に手を置いたのだ。そして、声を裏返らせながら、
「お、お前っ、むちゃくちゃ可愛いッ! と思う!」
え?
いま……
なんて……
ええっ?
わたしの頭はすっかりパニック状態になっていた。
だって、
だって!
「ちょ、ちょっと、冗談なら……」
「冗談なんかじゃねッ!」
「といわれても」
なんて返せばいいんだ。
そもそも、わたし、どう思えばいいんだ。この状況を。どう考えればいいんだ。
一体なんなんだ……この展開。
「わお、ついにいっちまった。ああすっげえ恥ずかしいな、おれ。きっといま宇宙で一番恥ずかしい男だ。……恥ずかしいついでにいっちまうぞ、聞けよ……」
あらためて、わたしの顔をまじまじと見る。
「おれと……」
茹でダコのように真っ赤になっているミットの顔。
見つめあう二人。
わたしは、ごくりと唾を飲んだ。
ミットの口が、ゆっくりと動いた。
10
「おれと、付き合ってください……」
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