第五章 春江先輩
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中学生の頃、部活は陸上部に入っていた。
短距離が得意、自分ではそう思っていたが、一年生の夏休みの時に、当時顧問だった先生の助言により中距離へと転向した。
その助言は的確だった。一年生のわたしはいきなり、この学校の陸上部での千五百メートル走の最速記録を大きく塗り替えてしまったのである。
四百メートル、八百メートル、千五百メートル。あまり優秀な子がいなかったせいもあるが、わたしはいつもトップだった。別にお山の大将というわけでもなかったと思う。二年生の時には、全中陸上の千葉県大会で二位、全国大会で四位、という結果を出したのだから。
かなりちやほやと持てはやされて、天狗になっていたものだから、三年生では予選敗退という結果に終わったのだ。という陰口を叩かれたが、それは半分は正しいが半分間違っている。
天狗、というよりは、どうにもやる気が出なくなってしまっただけだ。
わたしがそんな上がったり下がったりの変化に富んだ三年間を過ごしている傍ら、大きく張られた緑のネットの向こうでは三年間まったく変わり映えのしなかった男が一匹。
小学校からの同級生である高木ミットだ。
ネットの向こうにはサッカー部の練習場があり、高木ミットはいつもアニメみたいに技の名前を叫びながらボールを蹴っ飛ばしていた。「男子ってほんとにバカだな」と思っていたものである。そんなミットにゴリラゴリラいわれて、怒ってネットの向こうまで追いかけていくわたしも、まあバカというか、子供だったわけだが。
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中学三年の七月。わたしたち陸上部の三年生は、引退することになった。
やり尽くした、燃え尽きた、という気持ちはまったくなかったけれども、とにかく陸上にはまるで未練を感じなかった。
もちろん陸上競技は素晴らしいと思うし、よい点を挙げろといわれればいくらでも挙げられる。でも、どうも走るだけというのが自分には向かなかったのだと思う。
はっきりいって無趣味人間だったから、惰性で、引退時期になるまで続けられただけだと思う。家に帰ってもテレビ見るくらいしかやることがなかったし。
とにかくこれからは、受験勉強に専念しなければならない身だ。なにせ、実力よりも遥か上の高校を目指そうというのだから。
将来のことを考えてというより、単に近くの高校がそこしかないから。
駅まで遠くはないけれど、電車の本数があまりに少ないので、なるべく電車通学はしたくないのだ。
自転車通学で良いのなら他にも高校はあるが、そことて決してレベルの低いとはいえないところ、どうせ勉強しなければならないのならば徒歩圏内の高校がいい。どうせ滑り止めで私立も受けるのだし。
とはいえ我が家の経済状況を考えると、私立にもあまりいきたくない。
だから、勉強するのだ。
引退したその翌日のこと。
放課後の時間を使って、ぷらぷらと学校内を歩き回っていた。
勉強漬けの日々は明日から。
今日はくだらない、無駄なことをして過ごすのだ。
帰りは本屋で漫画を立ち読みし、家に帰ったらテレビ観ながらゴロゴロするのだ。お父さんと一緒に横になって柿ピーなどを食べながら。
あと、長風呂するのもいいな。
と、そのようなわけで、校内をあてもなく散歩、というか単にうろうろ歩いていた。
校舎の四階や五階の廊下を歩けば、理科室や家庭科室、視聴覚室などで文化部が活動している様子が見える。よく分からないけど物理部とか手芸部とか漫研とかだろう。
グラウンドや体育館では、運動部が大声をあげている。いろいろな競技があって、見てて面白い。ジャージ着て筋トレしているだけの部もあり、筋トレ内容から何部なのか想像するのも面白い。
しかしみんなよくやるよな。こんな公立中学で、部活なんかに一生懸命になっちゃって。見る分には楽しいけど、やれといわれても嫌だな、面倒くさい。
体育館では、女子がサッカーの試合をしている。
わたしは出入り口のそば、壁に寄りかかって、それを見ている。
あれ、でも普通サッカーって外でやるものだよな。なんでわざわざ室内でやっているんだろう。
サッカーなんてこれっぽっちも興味ないからよくは知らないけど、人数が少ない気もするな。
そういや、ゴールネットも小さい気が。
寄せ集めの用具で適当にやっているのかな、それとも屋内でサッカーやる時はそれ用のルールがあるのかな。
ひょっとして男子は外でやって、女子は室内の小さなコートで、とルールが分かれているのだろうか。確か、ラクロスだかなんだかいう球技、あれも男女でちょっとだけルール違うらしいしね。
一人、とても上手なのがいて、ドリブルで二人をかわして見事にシュートを決めていた。凄いいい動き、サッカー素人のわたしにも分かるくらい。
ルールはさっぱり分からないけど、要はあのゴールに入れればいいわけだろう。相手より多く入れりゃ勝ちってことだろ。オフサイドとかなんとか横文字ばかりで小難しいイメージがあったけど。
「なんだ。簡単そうじゃん」
この無意識の一言が、その後のわたしの運命を決定付けることになるなど、この時点で知るよしもなかった。
さきほどから上手なプレーを見せてた子が、プレーをとめて、こちらを見ていた。他の子もそれにならって動きをとめた。
全員の視線が一方向に集中、つまり全員がわたしを見ていたのである。
やばい。また考えてること声に出しちゃったよ。本当にわたしの悪い癖だ。いや、でも、なんか悪いこといったか?
あの子が、こっちに向かって歩いてくる。
白いユニフォーム姿。後ろの子たちみんなも同じ服装だ。
身長は、わたしより少し大きいくらいか。わたしが百五十六だから、百五十八、九といったところか。長そうな髪を、後ろでおだんごのように束ねている。
「簡単そうに見える?」
ニコニコと笑みを浮かべている。
「あ、ごめんなさい。あたしの悪い癖で、つい口に出しちゃって。悪気はないんだけど」
わたしは、意味もなくあたふたとしてしまっていた。
「そんなことは聞いてないよ。……簡単そうに見える? って、それを聞きたいだけ」
なんであたふたとしてしまったのか、原因が分かった。威圧感だ。この柔らかな態度の奥から滲み出ている気に、わたしは威圧されているのだ。
「簡単そうに思えた」
威圧感に負けそうになりながらも、精一杯の反抗を試みる。
「ふうん」
とニコニコしていた彼女の表情が、一瞬して変化、激高した。
「てめえ、寝ぼけたこといってんじゃねえよ!」
声質までがらりと変わって、低い、ドスのきいた声になっていた。
これが、わたしと
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「ごめん。だから悪気はないんだって」
わたしは焦り、うろたえ、作り笑いが精一杯。だいたい、自分でもなにいったかはっきり覚えてないのに、そんな突っかかってこられても知らん。
「悪気もへったくれもあるかよ、ドアホかお前。ドアホウ甲子園かコラ。来月であたしたち三年が引退すっからぁ、これから一年二年だけでちゃんとやっていけるかどうか見極める大事な試合をやってたんだよ。あたしたち三年生の魂を一年二年に引き継いでもらうための、大切な試合をやってたんだよ。それがなんだ、簡単そう? おめえ、やったことあっていってんの、フットサルを」
「フ、フットサル? ……なんですか、それ?」
なぜか敬語になってしまっていた。同学年なのに。
「はあ? ふざけんのも大概にしとけってんだよな。……じゃ、サッカーでいいよ、サッカーは知ってんのか?」
「名前くらいは」
「うわ、びっくりした。それで簡単そうに見えちゃうって、お前どんだけ神様だよ。すげえな、まったく。奇跡の存在じゃん。じゃ、その神様なところを見せてくれないかな」
無茶なことをいってくる。
「やったことないもの」
「それなのに、あたしやこいつらの何年もの努力を小馬鹿に出来るんだから神様仙人様なんだろっていってんだよ。さ、はやく見せてくださいよ。ねっ、はやくはやく」
「悪気ないっていってるでしょ。気にさわったなら謝るよ。ごめんなさい! それじゃ」
わたしもいい加減頭にきてしまっていた。怒った表情を隠さず、軽くお辞儀をすると、きびすを返す。こんなとこ、くるんじゃなかった。高校落ちたらこのバカ女のせいだ。
腕をつかまれた。
「帰さないよ」
また、ニコニコと笑みを浮かべてる。さっきまでの笑みは演技かも知れないけど、今度は本当に楽しそうな顔してる。性格最低だな、こいつは。
「どうすればいいの? 謝ったでしょ」
「あたしと勝負しな。勝ったら、おとなしく帰してやるよ」
「だからさあ……やったことないっていってんだろうがこのバカ! 勝負になるわけないだろ!」
つい語気を荒らげて、というか思い切り怒鳴り声を上げてしまった。
でも彼女のニコニコ顔は、ピクリとも変化しない。
「やんなかったら負けとみなして罰ゲーム。ここにあるボールを全部、べろで舐めて綺麗にしてもらうから」
「ふざけんな! 冗談じゃないよ、そんな一方的に決めんな」
こいつ、本当に殴りたくなってきた。
「なら、勝ちゃいいじゃん。あたしが負けたら同じことしてやるよ。どうするかは、勝負の内容聞いてからでいいから」
「……どんな勝負だよ?」
「なに、簡単だよ。あたしがボールをキープする。お前はそれを奪ったら勝ち。時間は、そうだな、二十分やるよ」
「一度奪うだけでいいの?」
「出来るもんならな」
なんだこいつの自信満々な笑みは。
でもね、笑いたいのはこっちのほうだ。
バカだ、こいつは。
「あのさあ、さっきあたしのことを散々いってくれたけど、フットサルとやらを舐めてんのってそっちのほうじゃないの? 二十分もあれば、素人だって一回や二回、奪えるでしょ。いくら技術の差があったって」
「やるの? やんないの?」
「やるよ」
こいつはいままで走り回っていたんだから、体力消耗しているはず。それにわたしは陸上競技をずっとやってきていたのだから単純な体力には自信がある。
フットサルをやっていない人間はみんな文化部だとでも思っているんじゃないか、こいつ。いやいや、文化部に入ってたって体力ある奴なんていくらでもいるぞ。
「あたしは、
「
さして広くもない中学で、学年も一緒だというのに、いままで名前も知らなかった。彼女、野木春江も同様のようであった。
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勝負はハーフコート内で行うとのこと。
フットサル用の競技スペースがあって、そこのさらに半分を使うということらしい。
まあ要するに、白いラインに沿って点々と座っているフットサル部員たちの、その中がコロシアムというわけだ。
そのハーフコートの中央に、わたしと野木春江が向かい合って立っている。
距離は、約一メートル。
二人の間には、ボールが置かれている。フットサル用のもので、サッカーボールより少しだけ小さいらしい。
この空間に部外者はわたし一人だけだ。でも別に緊張も恐怖もない。あるのは怒りと、そして、ほえ面かかせてやれる喜び。
「笛の音で開始だからな、木村」
いきなり呼び捨てかよ。
「あのさ、部長さん。部長さんがまずボール持ってから奪えばいいの? じゃないと、二人の間にボールがあったらあたしが取っちゃうよ、笛鳴った瞬間に」
「うん、そしたら木村の勝ちだな」
「分かった」
「なんか、自信出てきたじゃんよ、木村ぁ。木村工務店。薄笑い浮かべちゃって」
うち豆腐屋なんだけどね。
「そりゃね。さっきもいったけども、やったことないんだから技術じゃ天地の開きがあるだろうけど、二十分あれば、マグレなんかいくらでも起きるでしょ」
バスケのスリーポイントシュートみたいなもんだ。ちょっと例えがおかしいか。
「お前さあ、二十分も動けると思ってんの?」
「あたしさあ、陸上部だったんだよね。持久走、得意中の得意。去年の全中陸上、日本で四位だったんだけど……って知らないか、全国レベルの大会なんて、あんたらにゃ縁がなさそうだもんね」
中二の時、全中陸上千葉予選八百メートルで二位、参加標準記録も当然クリアし、全国大会へ。香川県の丸亀陸上競技場では、千葉予選で一位だった子の記録をも破り、全国で四位の結果だった。
競技が違かろうとも運動は運動、一回ボールを奪えばいいなんて単純なルールなら、走れるもん勝ちだ。なんてことない。
しかしそれを聞いた野木春江は、驚くどころか大笑い。
お腹を抱えて文字通りゲラゲラ笑ったのである。
頭きた。
「フットサルを舐めるのはダメでも、陸上舐めるのはいいのかよ!」
「陸上のことなんか舐めてないよ、お前のことを舐めてんだよ」
わたしの頭の中で、ブツッ、ブツッ、と血管が切れていく。
耐えろ……
こいつが調子に乗るほど、こいつが恥かくんだから。
「じゃ、はじめよっか。っと、そうだそうだ、その前に、その服。スカートじゃ動きにくいだろ。ジャージかなんか、着替えな。なかったら貸すよ」
「いいよ。面倒くさい」
この格好で昼休みの校庭で遊んでいるんだから、特に動きにくいこともないだろう。
「勝手にしな。それじゃ、
美紀子と呼ばれた子が立ち上がり、首からかけていた笛を手にした。
「二人とも用意はいいですか。じゃ、五秒前! 四! 三!」
二……
一。
なに考えてるんだか、律儀に秒読みしてるよ。
バカなのか、こいつらは。
笛の音を聞くまでもない。楽勝じゃないか。
しんと静まり返った体育館の中、高い笛の音が空気を震わせた。
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高い笛の音が空気を震わせた。
それと寸分の狂いもなく同時に、わたしは大きく右足を伸ばしていた。
音を聞くまでもなく、秒読みにタイミングを合わせたのだ。
ボールを踏みつけたはずだった。
勝利したはずだった。
しかし、
わたしの足裏は空気を踏んだだけだった。
前のめりになり、よろける。
体勢を立て直し、足元へと視線をやる。
ここには一瞬前までボールがあったはずなのに……
野木春江が、ニコニコと笑みを浮かべている。ボールは、彼女の後ろにあった。
いつの間に。
まるで手品、いや、魔法を見せられたかのような。
気をもちなおし、野木春江の後ろに回りこむ。しかし、すでにそこにボールはない。
彼女はさして体や足を動かしたようには見えないというのに、今度はボールは彼女の前にあった。
正面に回り込もうと素早く動いても、彼女の背中がみえるばかり。ボールはそのすぐ向こうにあるというのに、遥か遠くにあるようだ。
逆をついて、彼女の正面に回りこむことに成功、と思えば今度はボールは彼女の背後に。
どうなってんだ、これは。
「木村、強がってたわりに、てんでダメだな。面白くないからチャンスやるよ。ほら」
野木春江はそういうと、かかとでボールを後ろに蹴った。ボールはそろそろと、ゆっくり転がっていく。
こいつ……
完全に、舐められている、わたし。
わたしはスカートを気にせず、三段跳びのように大股ダッシュ。百メートル走のような勢いで、野木春江の脇を抜ける。
彼女が慌てて振り向いて追ってこようが、絶対にわたしのほうが早い。
勝った!
まさにボールを踏んづけようとしたその瞬間、わたしの足の間から野木春江の足がすっと出てきてボールを蹴飛ばしていた。わたしの背後から、スライディングでボールを蹴ったのだ。
ボールは体育館の壁に跳ね返り、また野木春江の足元へと戻った。
「どうした彼女、息、あがってんじゃんよ。さっすが陸上部、スタミナあるう」
彼女のいうとおり、わたしは大きく肩で呼吸していた。そして彼女は反対にほとんど、いやまったく呼吸を乱していなかった。
プレー再開。わたしはまた野木春江のボールを奪おうと、素早く踏み込む。
でも彼女はまるで妖精のように、ひらりとわたしの突進をかわす。
何度かそんなことを繰り返しているうちに、ただボールを奪おうとしても、絶対に奪えないだろうということが分かってきた。しかし作戦を考えようにも、疲労がわたしの脳味噌から思考力を奪っていく。
中距離走で全国までいったわたしが、なんでこの程度で疲れるんだ。わたしってそんな体力がなかったのだろうか。毎日毎日、何時間も走っていたのに。
まあ確かに三年生になってあまり真面目にはトレーニングしてなかったけど、それでも陸上部にはわたしよりスタミナのある者はいないはずだ。
闇雲に体を投げ出し足を伸ばし、向かってはかわされ、追っては逃げられ、わたしの体力はいたずらに疲労していくばかりだった。
すぐ目と鼻の先にあるボール一つ奪うことが、こんなに難しいなんて。
触れることも出来ないなんて。
股間の筋が痛くなってきた。なんだこれ、陸上やっていて感じたことのない痛みだ。
続いて足の裏の土踏まずのあたり、ふくらはぎ、腿の裏側、などが痛くなってきた。
そうか。陸上とは、使う筋肉がまったく違うのだ、少なくとも中距離走とは。
朦朧としかける意識の中、そう理解していた。
陸上、とくにわたしのやっていたような種目はただ前に走れればいいわけだが、ところがこのフットサルというのは、止まる筋肉、横に動く筋肉、というのも必要とするのだ。そんな筋肉、意識して鍛えたことなんかない。
鍛えていない筋肉ばかり使って激しい運動をしているのだから、ちょっとやそっとのスタミナなんて意味がない。筋肉の疲労はあっという間にわたしの体力を奪っていく。
なんだか肺の内側が痛い。痛いというか、猛烈に乾いて熱い。
久しぶりの感覚だ、これ。
陸上で鍛えるよりもずっと前、小学生の頃、持久走大会でトップの子と張り合って無理をして、コースの半分もいかないうちに疲労限界に達してしまったことがあるが、その時以来だ。
「五分経過!」
美紀子という子が叫ぶ。
絶望感に、さっと血の気が引いた。
もうすでに死にそうなくらいフラフラだというのに、まだ五分なのか。もう一時間以上もたっているような、そんな気さえしていたのに。
無理……
絶対、勝てるわけない。なんて無謀な勝負、挑んでしまったんだ。
なんなんだ、この野木って奴。わたしと同じ十四か、誕生日迎えてりゃ十五。しかし同じ年齢とは思えない。経験ではなく、なにか絶対的なものが違う。
フットサルとか、陸上とか、関係なく。
そもそも人間なのか、こいつは……
降参だ。罰ゲームでもなんでも、やりゃいいんでしょ。
……なにを、考えてんだ。
アホかお前は!
わたしは、自分を叱咤していた。
そんなんでいいのか。
格好悪い。
みっともないぞ、木村梨乃!
見た目のことや、勝負の結果のことではない。もう散々に、彼女らの前に無様な姿を晒している。
絶対に勝つと心に誓ったくせにそれを途中で放棄しようという、そんな自分がみっともないんだ。
あきらめたらそこで終わりだ。
まだ十五分もあるじゃないか。
いくぞ!
と、気持ち奮い立たせ野木春江に体ごとぶつかっていくわたしであるが、しかし、獲物の突進を紙一重でかわす闘牛士よろしく彼女はひらりとよける。柳に風だ。
わたしはよろけるが、なんとか持ち直し、再度向かう。
だけど、彼女はひらり、ひらり、と掴もうとすればするほど掴めない木の葉のよう。足に縛り付けているんじゃないだろうか、と思えるくらい、ボールはピタリと彼女にくっ付いている。
でも、
絶対に諦めないぞ!
心の中で叫んだ。
三年生になってから、だらだらと気だるそうに陸上をやっていたくせに。
わたし、いまなんでこんなに真剣になっているんだろう。
どうしてここまで、負けたくないんだろう。
野木春江の動きを読み、よける方向へとわたしもステップを踏んだ。
捉えた!
読みが当たったというよりは、単なる下手な鉄砲だが、そんなことはどうでもいい。野木春江の足を蹴り砕いても構わない。そんな渾身の気迫を足に込めて、ついにわたしはボールを踏み付けた!
……いや、すでにそこにボールはなかった。
野木春江はボールをかかとで軽く後ろに流して、同時に体を回転させ、全身でわたしからボールを守っていた。
わたしは突進の勢い止まらず、彼女の背中にあごをぶつけた。そして、バランスを崩し、倒れ、転がった。
「大丈夫? あのさ、気をつけないとパンツ見えそうだよ」
女子しかいないんだ、どうだっていいよ。
相変わらず野木春江は、まるで呼吸を乱していない。必要最小限の動きしかしていない、ということなのだろう。そして、こういったゲームをするための筋肉がみっちりと骨を包み込んでおり、その筋肉を動かすための持久力がしっかりと鍛えられている、ということなのだろう。
わたしは、床に手をつき、そして膝に手をつき、ゆっくりと、立ち上がる。
汗で腿にへばりついているスカートの乱れを直す。鬱陶しくなってきた、この服装。
肺が痛い。
どれほど懸命に呼吸しようとしても、酸素でないものばかりが体に入ってくるようだ。
「まだやる? 負け認めるってんなら、許してやるよ。もちろんさっきいった罰ゲームはしてもらうけどな。木村意外と頑張ってっから、少しだけ甘くしてあげるよ」
「ボール、全部、舐めたって、いいから……」
野木春江を睨む。
「いいから、なんだ?」
「絶対勝つ!」
足を伸ばす。
野木春江が余裕の表情で、ボールを後ろに引っ込める。
回りこむ。
野木春江も、それにあわせて回る。
さきほどまでと、なんの変化もない。同じことを延々と繰り返しているだけ。こんなことしててなにになる。でも、他になにができる? どのみち自分には技術なんてないんだ。なら時間一杯ガムシャラにやるしかない。
足を伸ばす。
野木春江がボールを引っ込める。
おんなじことの繰り返し。
たまの変化といえば、時折わたしが床に転がるくらいのもの。
負けを覚悟したボクサーに三分間は地獄の長さというけども、全然覚悟しちゃいないのに一分が永遠に思える。一分ってこんなに長かったっけ? 一秒ってこんな長かったけ? でもありがたい。それだけ野木春江と戦える時間が増えるようで。……と自分の気持ちを奮い立たせるものの……やっぱり、疲労……限界……
嫌だ。負けたくない……
……あれ。視界が……。なんか、変だ。
上下、ひっくり返っている。
なんだ、気づかないうちに、転んでいたんだ。
起き上がらないと。
よっと。うわ、やけに体が重いな。わたし、こんなに体重あったっけ。
もう、肉体の感覚が半分なくなっている。
自分がいま、立っているのか、転がっているのか、歩けているか、まったく分からない。
わたし、どこにいる。
ボールはどこにある。
野木春江、どこだ。
どこだ!
ゴツ、と鈍い音。おでこに激痛。頭から転んでしまったらしい。
視界が上下に、左右に、めまぐるしく回転している。
ボール。どこだ。
苦しい……
胸が焼けるように痛い。
手足の感覚はなくなってきているのに、この苦しさだけはどんどん増してきている。
はやくしないと。
時間が……
負けてしまう。
誰に?
あいつに?
違う。
自分にだ。
嫌だ。そんなの嫌だ。
負けたくない。
惰性で陸上続けて、だらけた走りして、自分と向き合うことから逃げていたくせに、なにをいまさら。
うるさいな!
いまは黙っていろよ!
と、もう一人の自分へと怒鳴っていた。
後でいくらでも付き合ってやるから、いまは協力しろ。
ボール……
野木……
ゴッ。
痛っ。
また転んで、おでこをぶつけたようだ。
安心した。
転ぶということは、立ち上がっているから。寝たきりではないということだから。
よし。いくぞ。
これからだ。
野木……
春江……
絶対に……
負け……
朦朧とした意識の中、ピーー、っと鋭い音を聞いた。
「二十分経過。終了でえす!」
あ……
時間が、
……終わっちゃったよ。
完全に、力が抜けていた。
後ろへと倒れた。
背中に鈍い衝撃。
さして痛みは感じない。
まだ、視界がぐるぐる回っている。
しんとした中、心臓の、どっくんどっくんいう音が聞こえる。体育館中に、迷惑なくらい鳴り響いている。
あまりの苦しさに、胸を大きく膨らませて酸素を取り込もうとするが、期待するほどに酸素入ってこない。かわりに熱く焼けた変なものばかり胸に入ってくる。
息をするのも辛いくらい疲れてるけど、しないと死んでしまうからしかたなく呼吸している。
腕を横に伸ばす。
大の字になる。
「だあかあらあ、パンツ見えるっつーの」
すぐそばに野木春江が立っているらしい。目は開けているが、わたしには全然映っていない。視界がぼやけて全然見えていない。
「知るかドアホ!」
と返したつもりだったが、おそらくほとんど声になっていないと思う。
それから、どれくらいたっただろう。
ぐるんぐるん回っていた眺めが、ようやくとまった。
まだ苦しいけど、ようやく呼吸が落ち着いてきた。吸い込めば酸素が入ってくるようになってきた。
思考がはっきりしてきた。
ここは体育館。
フットサルのコート。
その中で、わたしは大の字に横たわっている。
そばに、白いユニフォームを着た野木春江が立っている。彼女の足元にはボールが置かれている。わたしが一度も奪うことの出来なかった……
そうだ……
負けたんだ。
実感がわいてきた。
また視界がぼやけてきた。さっきまでとは違う理由で。
わたしは、泣いていた。
ぬぐってもぬぐっても、涙があふれてくる。
とまらない。
「約束」
わたしは四つ足で、野木春江の足元にあるボールに近寄った。ボールに顔を近づける。舐めて綺麗にしないと。約束だから。
わたしの眼前からボールが消えていた。野木春江が、足で後ろに回したのだ。
「おい、いいよそんなこと。てか、なに泣いてんだよ、バカかお前。初めてなんだろ。勝てなくて当然だろ。勝たれたらこっちの立場ねえよ。なにがそんな悔しいんだよ」
野木春江はしゃがんで、慰めるようにわたしの肩をさする。
「分かんないよ! なんだか悔しいんだからしょうがないじゃない!」
「いや、木村、お前凄いよ。……あたしのほうこそ見くびってた。ごめんな」
「全然凄くない。あっという間にへたばっちゃって、なにがなんだか分からなくなっちゃって、頭真っ白になっちゃって。……全然、凄くなんかない。みっともないだけで」
「陸上部だろうがなんだろうが、すぐそういう状態になるのは分かってた。陸上部だからって、百メートル走の勢いで何分も走れるもんじゃないだろ。だから絶対に二十分なんて無理だと思ってた。すぐふらふらしてきてたから、ほら見ろ大口叩きやがって、って心の中で小馬鹿にしてたんだよ。ところがお前、ふらふらしているくせに何度でも向かってくるんだもん。転んでも起き上がって向かってくるんだもん。ギラッギラした目をしながらさあ。……なんなんだよこいつ、ってちょっと怖かったよ」
「ほめられてんだかなんだか分かんない。でも約束した以上、罰ゲームはやるよ」
「いいんだって、もう。こっちこそ悪かったよ。……半分……冗談だったんだよ」
野木春江は、ぼりぼりと頭をかいた。
「え……」
わたしは四つんばいのまま、唖然となって野木春江を見上げていた。
見詰め合うわたしと野木春江。どれくらいそうしていただろう。
ぷっ。
とわたしは吹き出した。
笑った。
それを受けてなのか、野木春江も声をあげて笑い出していた。
わたしは、野木春江が差し出してきた手を握り、立ち上がった。
その後も二人、笑いがなかなか収まらなかった。
なにがこんなに可笑しいんだろう。自分でもまったくわけが分からない。
フットサル部のみんなは、苦笑している。とどのつまり、野木春江というのは、「そういう性格」らしい。
「ひとつはっきりいっておきたいことがあるんだけど」
「なんだよ、木村」
「簡単そう、ってわたしいったかも知れないけど、バカになんかしていないからね。部長さんのこと、すごい上手だなって感心して見てたんだから。ルール知らないけど入り込みやすそうだな、ってそんな感じに思ってただけなんだからね」
「そうか。ごめんな。……じゃ、あたしがボール舐めよっか」
「ボールが終わったら、床もピカピカにしてね」
「うそうそ、冗談だって。勘弁してよ」
「分かってるよ。お返ししただけ」
「ああびっくりしたぁ。部長としての最後の大仕事が床舐めって、どんな部だよ」
「でも面白いね。フットサルって」
「面白いよ。でもいまのは別にフットサルでもなんでもないぜ。なんでもないっつうか、ほんの一要素。チームでやるゲームだから、いろいろあるんだよ。パスの組み立てとかさ」
フットサル部の練習終了後、誰もいなくなった体育館で、野木春江にボールの蹴り方など教えてもらった。もう疲れてへとへとだというのに、面白くて時間の流れるのも忘れてしまっていた。
翌日、わたしは全身酷い筋肉痛で、学校にいくのが辛くて辛くてたまらなかった。
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「失礼しました」
進路相談室を出て、扉を閉めた。
ため息。
第一志望の千葉県立佐原南高校、やめといたほうがいいんじゃないかといわれた。もう少しレベルを落としたほうがいいんじゃないかといわれた。
このダメ教師が! ホームベースみたいな顔しやがって。
お前んとこも中二の娘がいて来年受験らしいけど、実の娘にもそんな突き放すようなこと平気でいうんかい!
しかしわたしのこれまでの成績を考えれば、確かにもっともなことではある。
わたしの成績がそれほどまでに悪いわけではない、受けようという高校がわたしにとって高レベルすぎるだけだ。
もちろん滑り止めも受けるつもりだ。
でも自分が確実に受かりそうなところは、どこも通学に時間がかかり過ぎるのが痛い。我が家の財政を考えると、出来れば私立にはいきたくないし。
まあそれはともかく、このように滑り止めだって受けようとしているわけだから、あとは第一志望校目指して頑張ればいいだけじゃないか。マークシートのはずだから、運で受かる可能性だって充分にあるじゃないか。なのに周囲はどうして分かってくれないのか。
なにより佐原南高校には、女子フットサル部があるらしい。つい先日知ったことだが、これはかなりの魅力だ。女子フットサル部どころか男子サッカー部すらない学校だって結構あるのだから。
周囲は色々いうけども、自分としては、もう大人の無理解と戦いながらも猛勉強していくしかないと決めている。悩むことなどなにもない。
もう陸上部だって引退したのだし、とにかくこれからは頑張って勉強するぞ。一に勉強二にも三にも四にも勉強だ!
と決心したというのに、人間そう決めた通りには動けない生き物だったりする。
勉強そっちのけ、というほどではないものの……
わたしはフットサルの面白さにとりつかれてしまったのである。
先日の、彼女との一件で、フットサル部のみんなとも仲良くなり、その後ちょくちょくと練習に混ぜてもらうようになったのだ。野木春江がいてもいなくても。
あまり頻繁にお邪魔するのも悪いので、週に二回ほど。たまに、調子に乗って週三回。
あとは一人で、児童公園や利根川の河原などでドリブルやキックの練習。時折、小学生の男の子たちと遊んだり。
成田市に素人ばかりの草フットサルのチームがあって、そこにも参加。
土曜日曜の午前は、そこでおじさんたちにフットサルを教えて貰った。レベルはそんな高くないけども、だからステップアップには丁度よかった。
そうこうしているうちに時も流れ、とうとう野木春江たち三年生も引退。でも野木春江は、わたしと同じように、しょっちゅう部に遊びにきてた。
と、フットサル三昧に思えるかも知れないが、それ以外はずっと勉強していたよ。成田へのいき帰りだって、ずっと電車の中で勉強だ。
平日は、だいたい六時頃に家に帰り、深夜二時くらいまで机に向かっていた。
志望校と現在の実力とを考えると、こんな程度の勉強では生ぬるいのかも知れない。本当はフットサルなどやっている場合ではないのだ。でも、麻薬のように、すっかり全身侵されていて、どうにもやめることが出来なかった。
まあ最悪、電車通学すればいいや。
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人間とは奇跡を起こすことの出来る動物なのだと知った十五の春。
わたしはいま、千葉県立佐原南高等学校の体育館にいる。
パイプ椅子に座って、他の数百人の男女と一緒に校長先生の話を聞いている。
みんな硬い表情だ。
制服もなんだかしっくりときていない。
当然だ。
いま行われているのは入学式。
わたしたちは、新一年生なのだから。
そう、運か実力かは分からないが、とにかくわたしは第一志望の高校に受かったのだ。
式は粛々と進み、無事に終わった。
新入生たちはぞろぞろと、校舎へと移動する。
周囲、知らない顔ばかりだ。
人が密集しているから、防虫剤のような新しい制服のにおいが強烈ににおってくる。
だんだんと実感がわいてくる。
わたしは、高校生になったんだ。担任が絶対無理といっていた佐原南に入ったのだ。
ザマミロ武田なんて気持ちは微塵もない。むしろ感謝の気持ちで一杯だ。
おかげで勉強に身が入ったのだし。
本来受かるはずもなかったような、良い高校に入れたのだし。
電車通学だってしなくて済むわけだし。
そして、はれてフットサル部に入部が出来るのだから。
公園で遊んでいるだけじゃなく、ちゃんとした公式戦に出られるのだ。レギュラーになれるかどうかまだ分からないけど。
授業についていくのは大変かもしれない。でも頑張れば自分の身になるわけだし、頑張れる自信はある。ひたすらガムシャラにやりきった受験勉強で、自分に意外なパワーがあることを実感したから。
わたしの未来は素敵なバラ色なのだ!
「お、ゴリラじゃん。なにがバラ色なんだよ」
背後から、どっかで聞いたような声。振り向くと奴がいた。
「高木ミット!」
「おっす」
同じ中学だった高木ミットの姿、と、やはり同じ中学だった
「なぜ、なんであんたがここに!」
「この高校入ったからに決まってるだろ」
「でも、ここレベル高いんだよ」
わたしにとっては。いやいや、普通に考えてもそこそこのレベルではあるはずだ。
「勉強面倒だったけど、でもま、そこまでの学校じゃないだろ」
はああ? なに、この嫌味発言。 ……しかしこいつ、バカだバカだと思ってたら、わたしよりずっと頭よかったのね。なんか凄いショックだよ。
「それよりお前がいることのほうがびっくりだよ」
「ま、まあ、あたしの学力からすればもっと上を狙ってもよかったんだけどね。でもここ家から近いから」
プッ、と高木ミットは吹き出した。
「失礼な。なにを笑うんじゃい」
「秋の三者面談の日、トイレでお前のお父さんに会ったんだよな。でさぁ」
「うわ、嘘ついてごめん! こんなとこでそんな話しないでよ、他の人もいるんだから」
まったく、おしゃべりな親父め。帰ったら説教してやる。
「でもほんと驚いたよ、ゴリが同じ高校なんてな」
「あの、さしたる意味もなく子供の時のあだ名でいまだに呼ばないで欲しいんですけど」
「え、さしたる意味もないから慣れ親しんだ名前を変える必要がないんだろ」
ああいえばこういう。
「そもそもお前の本名なんていうんだっけ」
「木村だよ!
「分かった。覚えとくよ、ゴリラ」
「ゴリラじゃねえ!」
周りがみんな、驚いた顔でわたしのこと見てた……恥ずかしい~。
「いさましくてかっこいいのに。ウホッて」
ミットはそういうと、山田と花田と三人で、中腰になって胸叩いてウホウホいいながら人込みを掻き分けて走り去っていった。
勉強が出来ようが出来まいが……男はみんな、死ぬまでアホじゃ。
8
「分かりません……」
高校生活三日目。現代国語の時間。わたしは、さっそくにしてやらかしてしまった。
「いまよ、先生がいったばかりだべ。理解でっきなくとも、ちゃんと聞こうとしてたんなら答えられるんはずだなぁ、まんまでいいんだからよう」
モキチとかいうあだ名で呼ばれているらしい斉藤先生の声。
みんないってる通り、ほんとに妙な訛りだよな。どこの出身だろ。
って、そんな悠長なこと思っている場合じゃないのだ。ええと、いまさっき先生なんていってたんだっけ。
先生、違うんだよ、ちゃんと聞いてなかったわけじゃないんだよ。必死にノートとってただけ。だって、先生すぐ消しちゃうんだもの。
なんだっけ、ええと……
でもさ、分からないっていってんのに答えさせようなんて、いじめじゃないのか。
「木村さん、これ、これだよ」
隣の女子のささやき声。彼女は自分のノートを指さしている。ノート一杯に、「体言止め」と書いてある。
「えと、からだっ……」
「からだ?」
「木村さん、違う」
隣の子は、さっとノートにふりがな振ってくれた。そうだ、先生そういってた気がする。
「あ……た、確か、たた
「正解。座ってよし」
ふう。
わたしは席につくと、恩人にゼスチャーで感謝の意を伝えた。
無事というか、なんとかかんとか辛うじてというか、とにかく現国の授業が終わった。
休憩時間である。
「さっきはどうもありがとう。ええと、
隣の子に、改めてお礼をいった。
「気にしないで。なんだかノートとることに夢中になっているみたいだったからね、しょうがないよね。木村さん、急に指されてびくってなってて、笑っちゃったよ。なんだか可愛いくって」
「だってすぐ消しちゃうんだもん、あの先生。次のを書くわけじゃないくせにさあ」
今日が始めての現代国語の授業。入学して一週間もたっていないから、まだまだ次々と個性的な先生が現れてくる。
モキチも噂に聞いていた通りだった。
あと、数学の男性教師がオカマみたいでインパクト凄いとかなんとかいわれている。
「わたしも、授業の半分は上の空だったなあ。この先生どこ出身なんだろ、って考えてた」
「仲間! そうそう、変な訛りなんだよね。それもあって、余計に授業に集中できなくなっちゃって。黒板すぐ消すか訛るか、せめてどっちかにしろっつーの。……そうだ、話変わるけどさあ、畔木さん、部活決めた? 確か期限明日までだよね」
「まだ決めてないんだ。運動部にしようとは、思っているんだけど。木村さんは?」
「フットサル部に決めてる。知ってる? フットサル。ちっこいサッカーみたいなの。授業の予習で精一杯で、心の余裕がなくて、願書も出せなかったけど、ようやく落ち着いたというか、要領が分かってきたというか。だから願書、今日出してくる」
「あ、この学校フットサル部なんてあるんだ。サッカー部がないって聞いて残念に思ってたんだけど、それじゃあ、わたしもそこにしようかなあ」
と、畔木景子のフットサル部入りは、実にあっけなく決まった。
彼女は中学では卓球部とのことで、よくフットサルなんて知っているなと思ったら、見た目が女の子っぽい女の子のくせになんと小学生の頃は男の子に混じってサッカーチームに入っていたとのこと。
運動が出来て、勉強も出来て、顔は可愛いし、完璧だ。
うらやましい……
ちなみにこの学校、畔木景子のいう通り、サッカー部がない。かつては存在していたが、随分前に廃部になったらしい。
一方、フットサル部は、何年か前にフットサル好きの女子生徒による同好会が発足、そこから女子フットサル部へと発展し、数年後に男子部も発足し、現在に至る。
ともかくこうして、わたしと畔木景子は一緒に願書を出して、フットサル部に入ることとなったのである。
クラスは違うけど、同じく新入部員である
そうそう。春江先輩のこと、久樹は知っていた。一度、試合で対戦したこともあるらしい。
「えっ、あの野木春江に勝負挑んだの? なに考えてんだよ。勝てるわけないじゃん。十年たっても無理だね。木村が十年猛特訓して、あいつが十年なにもせず怠けてたとしても、それでもどうか」
別にわたしから挑んだ勝負ではないのだけど。
それはともかく久樹、ちょっと春江先輩を褒めすぎ、もしくはわたしを馬鹿にしすぎではなかろうか。
……でも、春江先輩ってそんなに凄い人なんだ。そんな人に気に入られたなんて、なんかくすぐったい気持ちになるな。先輩が本心からいってくれたことかは分からないけど。
この頃すでにわたしは、同学年である野木春江のことを、春江先輩と呼んでいた。
敬意を持っていたし、なんとなくほかのどの呼び方もしっくりこなかったのだ。
部の練習に混ぜてもらっていた時も、下級生ばっかりで、みんなと一緒に彼女のことを先輩先輩呼んでいたというのもあるし。
当の春江先輩は中学を卒業するや否、春休みのうちに東京で一人暮らしをはじめた。そっちの高校に通うためだ。
わたしと先輩は、離れたことによりかえって仲がよくなり、こまめに電話でやりとりをするようになった。
佐原南フットサル部での話に戻そう。仲のよい友達が出来たのはいいが、困ったことというか、不満なことが一つ。
新入部員は、最初の三ヶ月はまったくゲームなどをやらせてもらえなかった。それどころか、最初の一ヶ月はボールすら蹴らせてもらえなかったのだ。触っていいのは手のみ。要するにボール拾いだ。
ボール拾いの他には、筋トレ、有酸素トレーニング、柔軟、雑用。
一年生の初期段階のメニューはこれだけ。これしかやっちゃいけない。
ついついボールを蹴ってしまおうものなら、先輩にこっぴどく怒られる。未熟な新米のくせにまだ早い、と。
わたしも何度か罰を受けたことがある。空気椅子をさせられたり、校舎の階段を一階から四階まで何往復もさせられたり。
しかし新入りはボールに触れちゃダメなんて、それは未経験者が多い中学での部活の考え方ではないのか。いや、中学でだってきょうび古臭い考えだ。
だって一年生にだって即戦力になる者やきらきら光る逸材がいるかも知れないってのに、みすみす潰してしまうようなもので、部にとってもその一年生にとってもマイナスではないか。
わたしはそう文句の声が出掛かるのをなんとか喉元でこらえ、くだらない慣習に従い続けた。
久樹は、わたしと正反対に、とてもその慣習に従順だった。
厳しい環境の中で長くフットサルをやってきていただけに、そうした先輩後輩の関係とか、伝統の重みとか、大袈裟かも知れないけどそういうものを大事にする気持ちがあるのだろう。
わたしは小学生の頃は外で遊ぶくらいしか運動をしたことがないし、中学時代の陸上部ではかなりなあなあの上下関係だった。だから先に久樹の態度を見て感心していなかったら、きっと先輩と大喧嘩になっていたと思う。
学校で全然ボールを蹴れないものだから、我々三人は帰宅後、わたしの自宅近くの公園でよく練習をした。
パス回しや、ドリブルなど。
着替えるのも面倒で学校の制服姿のままだから、あまり激しくは動けなかったけど。二人とも電車通学だから、あまりに土まみれ埃まみれで電車に乗るわけにもいかないし。
公園では久樹の技術を体で盗み、部活中はボール拾いをしながら先輩たちの技を目で盗んだ。
隠れてボール蹴っているのがばれて先輩に怒られたり罰を受けたりしたこともあったけれど、でも毎日がとても充実していて楽しかった。
わたしが日課にしていること。
夜のジョギングだ。
雨の日も風の日も台風の日も、先輩にしごかれて激しい筋肉痛に襲われている時だろうとかかさない。まあ台風の日はさすがに手を抜くけど。
陸上部に入った頃から自分に課していることなので、もう慣れっこでまったく辛くはない。
ただ逆の大変さというのがあって、風邪引いて高熱が出た時に、今日くらいはジョギング休もうと思ったもののどうにも眠れず、結局普段通り走って体を疲れさせてようやく眠れたということがあった。気持ちの問題かも知れないし本末転倒もいいとこだけど、とにかく走らないとどうにも眠れないのだから仕方がない。
わたしは若干骨太体型なのだけれど、でも陸上やっている頃は贅肉もごっつい筋肉もまったくなかったから、かなり痩せ見えるほうだった。
でもフットサル部で地味な筋トレを繰り返しているうち、少しずつではあるけれど、はっきり自覚出来るくらいガチッと筋肉がついてきていた。
なお、毎夜毎夜ジョギングをしていると、たまに、同じくジョギング中の高木ミットとばったり出くわすことがある。一部共通のコースがあるためだ。
家が近いものだから、ジョギングと関係なく会う時は会ってしまうけど。
しかしあらためて考えてみると、高木ミットというのはわたしの人生の中で、ちょいちょいと顔を出してくるキャラクターだよな。出会ってから、もう十年以上にもなるぞ。
ほんっと鬱陶しい存在だよ。会えば決まってゴリラゴリラいってくるしさ。
9
わたしは二年生になった。
可愛い後輩たちも入ってきた。
自慢するわけではないけれども、わたしはかなり成長したんじゃないかと思う。
この一年間で一番上達したのって、わたしではないだろうか。いや、断言する。間違いなくわたしだ。
足元の技術だけなら、わたしより上は何人もいる。わたしよりシュートが上手なのも、何人もいる。景子も、久樹もそうだ。
でも総合的な能力を先輩が買ってくれたということか、わたしも久樹同様に、欠かせない主力の一人になっていた。
二年生になって、学校の勉強がますます難しくなった。
フットサルの合間に、赤点とらぬよう必死で勉強し、
勉強の合間に、全力でフットサルをして、
全力蹴球の日々が過ぎていく。
勉強はみんなについていくのがやっとだけど、フットサルは頑張った分だけ成長出来る自信がある。
部の先輩たちも、浜虫久樹も、いつか抜いてみせる。
絶対に。
わたしは経験こそ少ないけれど、それでここまでやれているんだから。
努力を怠らなければ、もっともっと伸びるはずだ。
そしていつか野木春江を……
五月も終わりになると、一年生たちがボールを使ったトレーニングに参加するようになった。
それまでは、一年生なんかに絶対に抜かされてたまるか、と強気のような弱気のようなことを思っていたのだが、それは杞憂に終わりそうだ。
とんでもない俊足ではあるけれど、だからどうしたという感じ。フットサルは基本パス回しだから、狭いコートでさして役立つ能力でもないだろう。
試合というのは技術を自慢するものではなく、勝つためにするもの。このままなら、絶対に使われることはないだろう。
彼女は中学の時も、一度も公式試合に出してもらったことがないらしい。つまりは新人だから後輩だからと縮こまっているわけではないのだ。
試合は性格が出るからね、フットサルに限らず人生も一生そんな感じで終わるんじゃなかろうか。別に知ったことじゃないけど。
……またやってしまった。
向上心を持つのはいいが、他人を見下すような考え方をしてしまったり、他人の不幸を喜ぶような考え方をしてしまったり、そのたびにそんな自分が嫌になる。
「フットサルはチームスポーツだよ!」と春江先輩が見ていたら間違いなく怒られちゃうな。
でもわたしは、聖人君子なんかにはなれない。
そういう性格なんだから仕方ないだろう。
10
夏がやってきた。
三年生の引退も近いある日、わたしは金子部長に部室へと呼ばれた。
部活での態度を注意されるものと思っていたのだけど、そこでの話は、まるで予期しないものだった。
青天の霹靂とでもいおうか。
なんとわたしは、フットサル部の部長になるように頼まれたのである。
でもわたしは、自己を成長させたい気持ちで一杯で、わずらわしいことは御免だった。
ただひたすら、技術力を磨きたかった。
他人を蹴落とそうとも、レギュラーの座を手放したくなかった。
内申点なんかどうだっていい。いま、フットサルで個人技を高めることが一番大事だった。
だから、
「浜虫さんのほうが適任だと思います」
即決で断った。
久樹のほうが遥かに技術がある。この世界での経験も長いし、教えるのも上手だし。と、そのような理由で。
確かにそれは事実に違いないけども、実は部長なんか面倒で興味がないだけ。フットサル部に入ったんだから、ひたすら練習して他人を追い抜くことだけを目標にしていたって誰からも文句をいわれる筋合いはないと思う。
でも、金子先輩があまりにくどいので、あらためて後日に返答することにした。
わたしの考えは変わらないと思うけど。
学校帰りにセカンドキッチンというファーストフード店で、景子と久樹に相談してみた。
相談というより、二人の驚く顔を見てみたいというのが本音だ。
二人とも、たいして驚いてはくれなかった。
でも、しっかりと話を聞いてくれて、考えてくれた。なんだか悪いことしてしまったな。どうせ断る話だというのに。
結局、景子の結論は、「梨乃の好きにしたら」。もちろん、景子らしい優しく暖かな意味で。
「絶対に受けるべき!」
意外にもわたしの両肩を掴んで迫ってきたのは、久樹のほうだった。
「大変に名誉なことだし、自分のためになるよ。評価されるし、成長につながる。フットサルの世界広がるよ」
「とかいって、久樹に話が回ってきたら面倒だからじゃないの?」
さすがに、わたしが話を蹴ったならば今度は久樹に声がかかるだろう。わたしなんかに声がかかったことこそ変な話であり、本来なら誰がどう考えても立派な部長になれそうなのは久樹のほうなのだから。
「見破られたか。ほんと面倒だからね、部長なんて。中学の時に懲りたよ。あたしはただフットサルやっていたいだけだから。それに、親友が部長なほうが、色々と気が楽だしさあ」
そういうと久樹は、はははと声をあげて笑った。
11
その日の夜。
例のごとくわたしはジョギングをしていた。
下校時にわたしたち三人がよくボール遊びをしていた、児童公園の横を通る。
切れかかってちかちか点滅している街灯。
ブランコに、誰かが腰をかけている。
久樹だ。
学校の制服姿。
わたしは別に隠れているわけではないけれど、でも、まったく気がついてはいないようだ。
久樹のすぐそばには、ボールが転がっている。
フットサル用の、四号球だ。
白かったはずの夏制服のブラウスは、埃をかぶってすっかり茶色になっている。
ずっと、一人でボール蹴ってたんだ。
ブランコに座ったまま、久樹は下を向いている。
泣いていた。
誰もいないと思ってか、表情を隠すことなく嗚咽していた。口元を引きつらせながら、まるで小さな子供のように、泣いていた。
そう。後日になって景子にいわれるまでもなく、わたしは知っていたのだ。
久樹がどんなにフットサルに打ち込んでいたか。
小学校に入るよりずっと前から、フットサルをやってきていたんだから。
体は小さいけれども、その分俊敏だし、テクニックだって本当に凄い。
もしかしたら、野木春江とだって対等に渡り合えるかも知れない。
普段は謙遜しているけれど、久樹は、自分の実力には相当な自信が持っている。普段の態度から、はっきりそう滲み出ている。
技術、経験、戦術眼、指導力、どれをとっても一番なのならば、これ以上に部長にふさわしい人材がいようか。つまり、部長に推薦されなかったということは、そのどれかを否定されたということになるのだ。
フットサル経験二年のわたしなんかが部長に推薦されたことで、きっと久樹の自尊心はズタボロに引き裂かれたのだろう。
考えてみれば、そうなるに決まっているよな。なんで気づいてあげられなかったんだろう。
驚く顔が見たいだなどと面白半分に打ち明けたりして、本当に悪いことしてしまった。
わたしに部長になるようにあんなに強く勧めてきたのも、自分の心が崩れないようにするためだったのだろう。
もしもわたしが部長の座を辞退したら……
きっと、久樹に殺される。
そうならないまでも、久樹が自分を殺してしまう。自分を、閉ざしてしまう。フットサルを永遠にやめてしまう。
そんなの、嫌だよ。
久樹には、いつまでもフットサルを続けて欲しい。
わたし、これまで自分のことしか考えてなかった。
それでなにが悪いと思っていた。
他人の欠点ばかり探して、心の中での自分の居場所を確保して安心してた。
久樹は反対に、あんなに傷つきながらも、人のことを考えてくれているというのに。
やっぱりわたし、部長になろう。
久樹のためではなく、わたし自身のために。
わたしがわたし自身のために部長になり、頑張ることが、久樹や、他のみんなのためになるように。
どこまで出来るかは分からないけど、
やってみよう。
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