第四章 友情事故

     1

「骨ェ削るつもりでいけやボケ!」


 たかざわの野太い怒声が飛ぶ。フットサルでそんなことやろうものなら、一発退場だ。サッカーとは比較にならないくらい接触プレーに厳しいのだから。

 今日は体育館が使用できないため、グラウンドの端を使って練習をしている。

 外とはいえスペースは有限。各部活で配分も決まっている。今日は陸上部に少し分けてもらったスペースを、さらに男女で分けているから、普段体育館でやっている時よりも格段に窮屈だ。

 見上げれば、青い空は無限なのに。

 体育館の時も男子部部長の高沢の声がこだまして鬱陶しかったけど、いまはいまで近すぎてストレス具合はさほど変わらず。


「そこ、へらへらしてんじゃないの!」


 わたしも負けじと、というわけではないが怒鳴り声をあげる。


「フサエ、そんなの失敗して! 一年生に示しつかないでしょ。そんなんじゃ茂原藤ケ谷に勝てないよ!」

「部長様、今日は激しいねえ」


 はまむしひさの声。


「なんかいった?」

「いえ、別にい」


 久樹は、頭の後ろで両手を組んですっとぼけた顔。副部長のくせに、なんだその態度。あとできつくいってやる。


「ああ、だめだめ。ここは軸足で、こうだって」


 フェイントの時のボール裁きについて、王子があまりになってないので、わたしは見本を見せてやった。


「ええと、こうやって、こう、ですか」

「そうじゃなくて! というか昨日も教え…」


 後頭部に、ボガンと激しい衝撃、視界と意識がくるっと回る。

 振り返ると、わたしの足元にボールが転がっている。


「すみません先輩」


 しのが、駆け寄ってくる。

 ひょっとして、わざとか……。拝むように両手合わせて、へらへらと笑いやがって。


「大丈夫。気に、しないで」


 笑顔。もちろん作り物だ。ほっぺ、引きつっていたかも。

 横目に王子の姿が目に入る。


「ああ、王子、違う違う! ……だからそうじゃないってさっきから」


 と歩みよろうとした瞬間、今度は二個のボールが両膝の裏にあたって膝カックン。地面にお尻を打ち付け、続いて後頭部を打った。ゴッチと嫌な音が響いた。

 わたしは驚きと激痛に、呻いた。


「すみませーん」


 それぞれ離れたとこから同時に声があがる。しまあやきぬがさはる。……二個同時って、なにこの奇跡的な偶然。ひょっとして、示し合わせて……

 わたしは苦痛に顔をしかめながら、上体を起こし、お尻をさすりながら起き上がった。


「すみませんでした! 本当に申し訳ありません!」


 走りよってきた衣笠春奈が、深く頭を下げる。真剣なその顔に、わたしはついイライラしていたことを反省した。春奈の肩をポンと叩いた。

 ぎゃっ! という叫び声。ゆうの悲鳴だ。春奈は、その声に驚いて間抜けな表情になっていた。おそらくわたしもそんな顔だろう。

 なんだよ、今度は。

 声の主、佐治ケ江のほうを見る。

 佐治ケ江は、突っ立ったままなんだか硬直してるようだった。

 彼女の向いている先に、わたしも視線をやった。

 端っこ、フェンス際、こちらに背を向けて並んだ五人の男子部員。

 足の間から……

 湯気が……

 女子全員から、悲鳴があがった。

 まさか。

 ちょ、ちょっと、なにあいつらっ!

 わたしは走り出した。


「男子! やめてよ、こんなとこで! こっちには大勢女の子がいるんだからね!」

「だってトイレ遠いじゃぁん」

「石沢ァ! 最中に振り向くな!」


 たまたますぐ目の前に並んでいたボールの一つを全力で蹴る。

 石沢の顔面にヒット!


「お前らも!」


 わたしは次々ボールを蹴り、吉田も野々宮も加地原も寺井も血祭りにあげた。


「トイレ二分もかかんねえだろ! 頭おかしいのかてめえら! ボケが!」


 わたしは完全な男言葉で絶叫してた。中学の時、周囲の影響でちょっと汚い言葉遣いをしてしまっていて、その時の癖が出てしまったのだ。


「こっわ~」


 部長の高沢が手を自分の口に突っ込んで、こっちを見ていた。

 一瞬で沸点に達した血液だが、反対に急速に温度が下がっていく。

 こほん、と咳払い。


「……自分の部員くらい、ちゃんとしつけといてよね」


 と締めくくったわたしであるが、しかし五人の男子どもはまるで全然反省したふうもなく、手も洗わず練習に戻っていた。

 もう、どいつもこいつも。いい加減にしてよね……

 だいたい、同じフットサル部だからとはいえ、男女一緒に行動する機会が多すぎやしないか。

 顧問が一緒なだけでそれぞれ独立している部なのに。

 今度オジイに相談してみよう。

 ……いや、余計にイライラさせられるだけか。あいつ、日本語通じないから。

 今度さっきみたいなことしてたら警察呼ぶからね、と高沢に脅しをかけて、さて、


「じゃ、練習再開! さっき見た衝撃映像は忘れるように!」

「それじゃあ、しまっていきましょー」


 春奈がのんびりした感じに叫ぶ。しまってこうって、野球部じゃないんだから。

 しかし、春奈がここまでまったく泣き言をいわずに続けるとは思ってもいなかった。

 もう半年もやっているような者でも、相変わらず弱音をあげたり、体調不良で休んでしまったりもしているというのに。篠亜由美なんか、弱音を聞かない日なんかないぞ。

 まだ一ヶ月しかたっていないから当然だけど、体力はまったくついていない。

 でも体はそこそこほぐれてきていているし、ボール扱いにも慣れてきている。

 久樹がいっていた通り、筋はそんな悪くないのかも。ただ……

 運動の辛さに関しては、乗り越えるガッツがあることを認めよう。

 でもなんか昔のアイドルみたいな顔してるし、言動から結構おしゃれに気を使ってるみたいだし、こんな顔だしどうせ自分のこと可愛いと思ってるだろうし、だからきっとボールが顔面直撃でもした日には、美貌台無しって逃げ出すに違いない。

 おそらくは、そんな程度の覚悟しかないのだろう。

 もちろん、そんなこと願うわけにもいかないが。

 しかし、わたしが願わずとも、ことというのは起きてしまったりするものなのである。

 バチン!

 漫画の擬音のようだが、もうそうとしか表現できない、激しい、そして痛そうな音が響いた。空気パンパンに入れたサッカーボールやフットサルのボールは、本当に、至近距離でぶつけられるとこんな音がするのだ。バチンというかビチッというか。


「だだ、大丈夫ですか」


 佐治ケ江がすっかり狼狽してしまっている。どうやら彼女が蹴ったボールのようだ。

 春奈は、鼻をおさえている。


「大丈夫大丈夫」


 まるで気にしたふうもない笑顔。


「じゃけえ凄い鼻血が……あ、あの、春奈さん、保健室、いったほうが」

「大丈夫だって」


 春奈は、笑顔のまま片手を上げる。

 もう一方の手で鼻を抑えているが、その手の間から、鼻血がどろどろと流れ出ており、もう手は血みどろだ。

 春奈は近くに置いてある自分のバッグがらポケットティッシュを取り出すと、血の出ているほうの鼻の穴に詰めた。


「これでもう平気。よおし、続きやりましょう」

「平気じゃないでしょ!」


 わたしは駆け寄った。


「すぐ止まると思いますから」

「もの凄い音でボールが当たったし、鼻血だってそんな出てるじゃない。サジのいう通り、保健室いかなきゃ。……痛かったでしょ」

「はい。でも運動部だからしょうがないですよ。辛いのも痛いのも」


 そんな呑気な表情で、なにを凄まじいことを。血まみれ顔のくせに。


「このままで、大丈夫ですよ」

「保健室いっといて大丈夫だったんなら、それでいいんだよ。もしもなんかあったらどうするの? さ、いくよ。久樹、あとお願いね!」


 副部長に部を任せ、わたしは春奈の腕を掴み、歩き出す。

 おとなしくついてくる春奈。


「あのう、お願いがあるんですけどー」

「なに?」

「今回だけでなく、今後のお願いでもあるんですが、もし怪我したとしても、親には絶対にばれないようにして欲しいんですが」

「怪我してたら、内緒にしとくわけにいかないでしょ! わたしや顧問の先生、学校には責任ってもんがあるんだよ。……で、なんでそんなこというの?」

「わたし小さな頃、体がとにかく弱くて、病気ばっかりしてて……外で遊ぶのは禁止、運動なんてもってのほかだったんですよ。でももう、それなりに強くなった、と自分では思っているんです。鍛えて、もっと強くなりたいんです。わたし、過保護に育てられてきたんで、そんな自分から脱皮したいんです。もう、また病弱に戻ってお父さんお母さんに迷惑かけたくないし。でも、うちの親、とくにお父さん、もういやになっちゃうくらい心配性で……」

「それで、怪我したなんていいたくないわけか」

「はい。絶対、学校に乗り込んできますよ」


 家庭はそれぞれとはいえ、確かに過保護すぎるよな。悪循環でますます不健康になっちゃうよ。


「あのさ、フットサル部に入ったってことは……」

「はい、それは内緒にはしていません。絶対危ないことはしないし、無茶はしない、ということで許しを貰ってます」

「無理だよ、絶対に危険がないなんて。いまだってたかが練習で、こんな目にあってんだよ」

「わたしは覚悟してますけど、そうでもいわないと、お父さんが承知してくれないですからね」

「そうなんだ……」


 心の中で、ため息をつく。

 ほんとにもう、嫌になる。

 人には人の、色々な事情があるわけで。なんにも知らないくせに文句ばっかりで。何様のつもりだったんだろう。

 わたしって奴は。


     2

 わたしとけいひさの三人は、だいたいいつも一緒に下校する、そういう仲だ。

 誰かに学校に残る用事や急いで帰る用事がある時まで付き合うことはしないが、特になにもない日にはまず一緒に帰る。

 もう一年以上もそうしてきた。


 最近なんだか、わたしと景子の関係がどうも気まずい感じになってしまっている。

 だから会話が少ない。

 なんとなくそんな雰囲気になっている、というだけなので、避けて帰る理由もない。むしろ、喧嘩を売っていると思われるのが嫌で、別々に帰ろうとするなんて出来ない。おそらく、景子も同じ気持ちではないだろうか。

 今日は久樹が用事があるとかで、走って先に帰ってしまったため、こんな時だというのに、わたしと景子の二人きり。

 最悪だ。

 そもそもこの空気、景子にはまったく落ち度はなく、原因は百%わたしにある。わたしが一人で、どうしようもなく嫌で最低な奴になってしまっているだけなのだ。

 おっとりしている景子は、なにもいってこないだろう。

 どうせ、性格のねじけた、好戦的なわたしのほうから、キレて景子に突っかかっていくことになるのだ。悪いのはわたしだというのに、まったく冗談にもならない話だけど。

 と思っていたら、意外にも口火を切ってきたのは景子のほうだった。


「梨乃はさ、最近、余裕がなさすぎるんだよ」


 ぼそりと、でもはっきり聞こえるように声を出した。


「……なんの話?」


 などと聞いてみるまでもないことなのに。わたしはそのことで、うじうじと悩んでいたのだから。

 でも、景子の反応を見たくて、あえてとぼけてみせる。

 この後、様子見のためのジャブの打ち合いになるのかなと思っていたら、驚くほど真っ直ぐに、景子はわたしへの思いをぶつけてきた。


「二年生はみな、半分友達みたいな、気の置けない関係になっているし、一年生にしても、基本は先輩たちがしっかり教えてくれたから、その流れに乗ればいいだけで、さして困ることもないのだから。部長になったことのプレッシャーやストレスを、そう思ってごまかそうとしていたけど、性格的相性の悪い春奈が入ってきたことで、とうとう耐えられなくなった。来年、新一年生がどどっと入ってきたら、どうすればいいのか不安で仕方ない。それだけじゃない。後輩の不甲斐なさを怒っているくせに、後輩の成長が怖い。部長なのに抜かれたらどうしよう、って不安になる」


 血の気が引く、というのだろうか。

 多分わたし、そんな感じだ。

 多分わたしの顔、青ざめて、冷たくなってる。

 多分いま、唇がぴくぴくと引きつっている。笑っているのだか怒っているのだか、なんだか分からない顔になっている。

 きっとそうだ。

 絶対にそうだ。


「春奈の見た目のこととか、ちょっと弱そうに見えるところだの、自分の気に入らないとこを責めたくなる。……でも梨乃は、根はやさしい、というか真面目だから、そんな自分に我慢が出来ない。春奈、随分頑張ってるから、多分それも、梨乃が自分を責めることに繋がっているんじゃないかと思う」

「あのさ、知ったふうなこといわないでよ」


 でも、全部正解。最後の、やさしいとか真面目とか、そこはどうだか知らないけど。


「自分が嫌な思いをしているから、周囲に、特に春奈に八つ当たりしている酷い奴、ってことだよね。景子、あたしのこと、そういってんだよね」

「違う! そんなこと、いってないでしょ!」

「いってなくても分かるよ!」


 分かっているよ。景子って優しいから。他人のことを心底心配してあげられる、そんな子だから。でも、わたしの口は止まらなかった。

 景子を攻撃し続けた。

 やがてわたしは、怒号なのか悲鳴なのか自分でもよく分からない、声になっていない声をあげると、走り出し、その場から逃げ出してしまった。

 景子は追ってこなかった。


 追ってきて、くれなかった。


 あの日からわたしは、一人きりで登下校するようになった。

 教室でも、笑顔を見せることがまったくなくなった。だって景子がいる同じ教室で、笑い顔なんか作れない。

 部活はきちっとやっている。いや、きちっとかどうかは分からないけども、毎日出ている。部長になってなかったら、きっと休んでいる。


 いま、わたしは自宅の自分の部屋で学習机に向かっている。

 今日の学校でのことを思い出していた。



 部活終了後、部室で一人作業していて、遅くなり、すっかり夜になってしまった。

 第一校舎、ほとんどの電気が消えている薄暗い廊下を歩いていると、笑い声が聞こえてきた。視聴覚室から、灯りが洩れている。声はそこから聞こえてきているようだ。ドアは二十センチほど開いており、そこから見えたのは、

 たけふじこと……

 先日フットサル部を退部した、竹藤。何人かの男女と、英会話をしている。たどたどしさはあるものの、とても上手だ。

 結局、英会話部に入ったのか。


「違いますよ先輩、そこでイエスっていったら、逆の意味になっちゃいますよぉ」

「あーそっか、よく気づいたね、琴美」

「エリ先輩のご指導のおかげです」

「ちょっとそれ嫌味?」


 竹藤、笑っている。

 とても、イキイキとしている。

 楽しそう……

 凄いな、英会話が出来るなんて。

 そうか。

 竹藤は、あれでよかったんだな。

 なんであの時、あんなに嫌な気持ちになってしまったんだろう。なんで、心から、頑張れっていってやれなかったんだろう。

 多分わたし、竹藤のことを見下していたんだと思う。

 努力はしているけど能力のないダメな奴、そう思っていたのだ。

 勉強劣等生のわたしがそんなこと考えるなんて、おこがましいにも程があるというものだ。人はどんな才能があるか、分からないのだから。

 とにかくあの日、竹藤がフットサル部の退部届を出した日、そんな能力のないダメな竹藤が急に毅然とした大人びた態度でわたしと対等に接してきているような気がして、それがどうにも不愉快だったのだと思う。

 そういうことが分かるようになっただけ、わたしも成長したのだろうか。いや、そんなわけない。成長しているなら、なんだって景子にあんな最低な態度をとれるものか。



 いま、わたしは自宅で学習机に向かっている。

 すでに十月。関東高校生フットサル大会、千葉県予選の日が近づいていた。

 正直いって勝ち負けは運だと思う。ただ、頑張れば頑張っただけ、チームワークの熟練度を見せることが出来ると思うし、自分たちも達成感を味わえるはずだ。

 いや、以前は間違いなくそう思っていた。

 でも、いまはどうだろう。

 わたしがいると、すべてをぶち壊してしまうんじゃないだろうか。

 頑張ろうとすればするほど、チームワークが崩壊していくのではないだろうか。

 部長ノートには、部員一人一人の特徴、技術力、体力、判断力、など思いつく限り書き込んである。いま、そのデータを見ながら茂原藤ケ谷対策を考えている。メンバーをどうするか考えている。

 ひさおりあきらは絶対に外せない。やはり問題は、アラをどうするかに尽きる。

 と、こんなことを頭を悩ませながら一生懸命に考えていて、なんになるんだろう。

 たかが、高校の部活じゃないか。

 などとすっかり冷めきった考えが、時々頭をよぎる。

 以前はフットサルが好きであること、なんの疑いも持っていなかったのに。

 いや、違う。

 いまだって大好きなんだ。それは疑いのないことなのに、

 それなのに……

 わたしは…… 


     4

 東京にいる春江先輩に、電話をかけた。

 いまのモヤモヤとした感情を、

 漠然とした、カタチのないカタチを、

 言葉に出来る限り言葉にし、受話器の向こうにいる先輩へと訴えた。

 春江先輩は、ひたすら話を聞いてくれた。

 全然厳しいこともいわず、ただ聞いてくれた。

 しばらく一方的に話し、そして電話を切った。

 もっと話したかったけど、春江先輩にまで嫌われたらもうすがるものがなくなってしまう。そんな怖さから。


     5

 日曜日、お母さんのお墓参りにいった。

 お父さんの仕事の忙しさや、わたしの気持ちの問題などから、お彼岸を逃してしまい、次のお彼岸の時でいいやという話にもなっていたのだが、母方の叔父がお墓参りをしたいと声をかけてきたため、一緒にいくことになったのである。


 そしていまは、その帰りの途中だ。

 JR成田線の電車の中。わたしとお父さんは、つり革に掴まり、電車に揺られている。

 混雑はしていないものの、座席はみな埋まっている。

 立っているほうが、お父さんとの距離を調節出来るから有り難い。

 もしもちょうど二人分の空席でもあった時には、どうすればいいのか困ってしまうところだ。



 お寺には、叔父夫婦とその息子がきていた。

 わたし、もともと親戚と接するのは苦手なのだけど、こんな気分の時に会わなければならないなんて本当に最悪だった。

 そんなこと思うなんて、それこそ最低最悪と分かってはいたけれど。

 お母さんの弟さんが、せっかく天国のお母さんと会う機会を作ってくれたのだから。

 あまりお母さんのことは悲しませたくないのだけど、ことあるごとに悲しませてしまう。

 わたしのそんな、自己嫌悪やらなにやらといった複雑な気持ちも知らず、叔父は親しげにあれこれと話しかけてくる。

 大きくなってて驚いた、子供の頃、あんなことやこんなことをしでかしていた梨乃が、

 気が強いくせに泣き虫だった梨乃が、しばらく見ない間に……

 ……叔父は会うたび、同じことをいう。まるで、おじいちゃんだ。

 この前会った時から、さして身長なんか伸びてないっていうのに。仮に背が縮んでいても大きくなったとかいうにくせに。



 電車は少しづつ混んできている。むしろそのほうが有難い。

 でもまあ、成田駅で、どどっと乗客が降りて空席だらけになってしまうのだけど。

 まあそうなったら、ちょっと離れて座ればいいだけか。

 ガタンガタン、と電車は単調なリズムを刻んでいる。

 田園、林、住宅街、見える眺めはこの繰り返しだ。

 わたしはチラリとお父さんのほうを見る。お父さんは、真っ直ぐ立って、ただ外見ているだけ。

 うわ! と、心の中で驚きの声をあげた。カーブで電車が大きく揺れ、バランスを崩したわたしは、咄嗟に窓ガラスに両手を付き、なんとか難を逃れた。


「ど、どうも、すみません」


 すぐ目の前に座っているおばさんに、驚かせたことを謝った。


「ちゃんとつり革つかまってないとダメだぞ」


 お父さんがこっち見ている。


「分かってるよ! たまたま、ちょっと手を放しちゃっただけだよ」


 まったく、子供に注意するみたいないいかたするんだから。

 でも、確かに子供だよな。それは間違いない。悲しいくらいに、子供だよ。わたしは。

 こんな自分の性格から、いつになったら卒業できるのだろう。


「成田でなんか食ってくか?」


 また、お父さんが話しかけてきた。

 成田駅から徒歩ですぐのところに、洋食屋があり、わたしがそこを気に入っているのだ。お父さんと成田を訪れた時や、お墓参りの後など、何度か連れていってもらったことがある。お父さんはその店で「なんか食う」か聞いているのだ。


「やめとく。あまりお腹すいてない」


 お腹がそれほどすいてないというのは本当だけど、でも食べようと思えばいくらでも食べられる。単に、気分の問題だ。


「そうか」


 お父さんはそう一言いったきりだった。

 成田で乗客が減り、予想通り一気に空席が増えた。

 でも結局わたしは、お父さんの隣に座った。


 ヒデさんと一緒に、自動車で豆腐配達の手伝いをした。


 大豆配合量など、一応こだわりがウリの豆腐なのだから、インターネット販売でもやって全国規模で商売すればいいのに。

 って以前そういったらお父さん、顔の見えない相手と商売したくないだって。

 だから儲からないんだよな。

 それならそれで、せっかく佐原なんだから土産物商売にでも参戦しろっての。


 業者や個人宅など、一通り配達は終わった。

 香取のほうまでいって、利根川土手沿いの狭い道路を使い佐原へと戻っていた途中、なんだか無性に自分の足で走りたくなり、車から降ろしてもらった。

 運動したい、というよりも、肉体を疲れさせないと夜に眠れないから。

 配達は車移動なので、ちょっと手伝ったくらいじゃ、お客さんに気は色々とつかうけれども体はそんなに疲れるものでもないから。


 土手の階段を駆け上がると、一気に視界が広がる。

 だだっ広い平野に、公園、野球のグラウンド、テニスコート、ずっと向こうには利根川が流れ、対岸には田畑が広がる中に森林が点在している。

 利根川もかなり広いのだが、土地が広大なので相対的に狭く見えてしまう。


 わたしは屈伸運動などで軽く体をほぐすと、土手の上の散歩道を走り始めた。

 Tシャツにジーンズなのはいいけど、靴が運動靴じゃないので走りにくい。

 疲れさせるのが目的なんだからいいだろう、とあまり気にせず走る。

 マメが出来たら困るけど。


 そういえば、中学の時は、部活でこの道を毎日走ってたっけ。

 練習でも後ろのほうになるのは嫌だ、っていつも先頭走ってたよな。

 たかが二年前のことなのに、なんか懐かしいな。

 三年生の頃には、陸上競技への熱意が減退してしまって後ろのほうを嫌々走っていたけど。


 金属バットでボールを打つ音や、子供らの甲高い叫び声。河川敷のグラウンドで、小学生の男の子たちが野球をやっている。一人だけ女の子がいるみたいだ。

 わたしもよく、男の子に混じって野球やってたな。バッティングは下手で空振りばかりだったけど、当たりさえすれば脚力を生かして強引にヒットにしていた。だから途中から、バントばっかり狙っていたっけ。


「くそう、見つからね~!」


 いきなり至近距離から、どこかで聞いた声が。

 土手の傾斜の草ぼうぼうの中、高木ミットが草むしりみたいにしゃがんでいた。


「なに探してるのよ?」

「わお、いきなり出てきて驚かすなゴリラ! アホウ!」

「ほんと、口の悪い奴だなあ」


 とお互いにいい合うようになって、もう何年だろう。

 高木ミットは、草をつまんでは確かめ、また次の草を確かめている。


「だから、なに探してんの? なんか大切なもの落としたんなら、手伝ってあげるからさ」

「……四葉、探してんだよ」

「四葉? 四葉のクローバー?」

「そ。ええと、ほら、もうじき予選開始だろ。男子は」

「女子も同じ日だってば」

「おれたちも、結構面倒なとこと当たることになってさ」

「知ってる。松戸光陰でしょ」

「だから、おまじない」

「……あきれた。練習すりゃいいのに」


 神様なんているのかいないのか分からないけど、とにかく勝ちたければ相手をよく研究し、とにかく練習するしかない。クローバーで勝てるなら苦労はない。って、なんか駄洒落みたいになってしまったな。

 などなど思いつつ、結局わたしも一緒になって探してしまうのだった。


「さっそく見つけた。しかも五つ葉だ!」


 ミットより、わたしのほうがこういうの得意なんじゃないか。


「どれ」


 そばに寄ってくるミット。おい、あんまりくっ付いてくんなよ。刺すぞ。


「なんだこりゃ、裂いて五つにしてるだけじゃんか」

「え、ほんとだ。誰だか分からんが卑劣な真似を……」


 わたしは偽五つ葉を捨て、また本物を探し始める。


「お前らこそ、練習したほうがいいんじゃねえの? こんなくだらないことしてないで」

「やってるよ。今日だって早朝からしっかり昼までやってたんだから。でも、あたしがいないほうがチームまとまって、強くなると思うよ、多分。嫌味いったり当り散らすだけの、最低部長だからね」

「へ~」


 腹立たしいくらい関心なさそう。ほんと頭くるな。


「おっ!」

「見つけた?」

「クツワムシだ! すげえ、こんなとこにいるんだ」


 ミットは、小さいけどもちょっと太っているような緑色の虫をつかんでいた。バッタみたいな昆虫が、足をばたつかせてもがいている。


「うえっ、なにそれ?」

「だからクツワムシだって。キリギリスの仲間だよ。……あっちにクズが茂ってるから、それでこんなとこにいるんだろうな」

「そんな珍しいんだ」

「珍しいっていうか、環境の変化に弱い虫だから、人間の環境破壊の犠牲になって、どんどん少なくなってきてんだよ」

「そうなんだ。……なんか考えさせられるね。でも詳しいね、昆虫のこと」

「まあな。土手にいそうな昆虫と川魚のことなら任しとけ」

「なんで川限定なのよ」


 妙な趣味というか才能を持っている奴だな。どうでもいいけど。

 ミットはクツワムシを遠く放り投げてリリース、四葉探し再開。

 それから、どれくらい時間がたっただろうか。


「四葉発見!」


 ミット立ち上がり、右手を天高く掲げた。


「ほんと? 見せてよ」


 わたしも立ち上がる。結構長いことしゃがんでたから、腰がぐきっとなりそうになった。


「お前になんか見せたら、減るわ! これにて任務完了。さらばじゃ!」


 ミットは奇声を上げながら土手を駆け上り、散歩道を全力で走り去っていった。

 はあぁ?

 ちょっと、なんだよ、あいつ!

 こんなに手伝ったんだしわたしにも見る権利くらいあるだろ!

 お祭りの時に打ち明けた悩みだって、返事に一週間待てとかいっときながら、その後ひとこともないしさ。

 ほんとに変な奴。

 でも……

 不思議と全然腹は立たなかった。ま、変な奴であることなんか、充分に承知しているし。

 帰るか。

 散歩道を、わたしも走り出す。

 もう日は暮れかけており、薄暗い。

 ゆらゆらと川に反射する真っ赤で巨大な太陽が、あまりに綺麗でびっくりした。

 二年前までは、しょっちゅう見ていた光景だというのに。

 すっかり忘れていたよ。

 この眺めを。

 悠々たる川の流れからしたら、さしたる時など流れてはいないというのに。

 この眺めだけじゃない。

 きっといろんなものを、捨ててきたんだろうな。

 じゃ、かわりに得たものってなんだろう。


 学校帰り。

 ここ最近のいつものように、今日もわたしは一人で下校する。

 いままでは付き合いで駅のほうまでいってから戻ってきていたので、通学が楽になっていい。


 山林中腹の、わたしの家がある住宅街へと折れる道。丁度そこで、お店のお得意さんである藤田さんという中年女性が車に乗ったまま話しかけてきた。

 話の内容はお店のこととは関係なく、他愛ない雑談だ。何歳になったんだだの、家族二人暮らしは大変だろうだの、うちの娘は東京の大学にいってて寂しいだの。


 十分ほども付き合わされ、やがて藤田さんは去っていった。

 代わりに、というわけではないが、けいとばったり出くわすことになった。

 ひさは一緒におらず、景子一人きりだ。

 わたしは内心飛び上がるくらいびっくりしたが、それを顔に出すのは絶対に嫌なので、瞬時にして表情を無理矢理自分の奥底へとしまいこんだ。

 景子も、少なからず驚いているようだった。

 他人のようにお辞儀してはいさようならということも出来ず、かといって楽しく会話が出来るものでもなく、二人、硬直してしまっていた。


「まだ、怒ってるんでしょ」


 今日は、沈黙を破ったのはわたしのほうだった。


「なにに?」


 景子は笑顔を見せる。苦笑いなのかなんなのか、どういう意味の笑みなのかがさっぱり分からない。


「いまの梨乃だとこっちから近づいても反発しそうだったから、様子を見ていたけど。最初から、わたしはなんにも怒ってないでしょ。梨乃のほうでしょ、怒っているのは」

「そうだね、あたしが一人で毒を振りまいてただけだもんね」


 傍から見れば嫌な奴以外の何者にも見えないだろうな、わたし。

 実際にそうなのだから、仕方ない。


「毒まくだなんて、そんなこと思ってないよ。ただ、もとに戻って欲しいだけなんだから」

「ほら……あたし一人だけ変だっていってる。景子ってさあ、優等生の立場からしかものがいえないよね」

「じゃあ、どうして欲しいの」


 さすがに景子も弱った表情になってきていた。


「別に、どうもして欲しくないよ。自分でもわけが分からなくなってんだから」

「それじゃあ、一つずつ考えてけばいいじゃない。部活のこととか。なんだって相談してくれればいいじゃない」

「もうどうだっていいや、部活のことなんか」

「だったらなんで部長を引き受けたのよ!」


 景子の怒鳴り声。

 そんな激しい声、初めて聞いた。

 いつもにこにこと笑っていたのに。

 暖かいお母さんみたいに、優しい顔しか見せたことなかったのに。

 景子は、いまにも泣き出しそうな表情になっていた。

 そんな顔も、わたし、初めて見た。


「梨乃を部長に声がかかった時、久樹、もの凄く泣いていたんだよ。自分のどこが駄目なんだろうって。久樹は、わたしたちと年季がまったく違う。経験も技術も遥かに上。だって十年以上もずっとフットサル頑張ってきていたんだもの」


 そんなこと、いわれなくたって知ってるよ、久樹がどれだけ頑張ってきていたかなんて。


「でも久樹、自分から立ち直ったよ。きっと、自分が悪いんじゃない、梨乃がいいんだ。部員をうまくまとめていったり、そういう自分にない才能がたくさんあるんだ、って。だから頑張ってサポートしてかなきゃな、って。久樹、そういってたんだよ。それなのに、フットサルなんかどうでもい、部長なんかどうでもいい、って、金子先輩や久樹をどれだけ侮辱する言葉か分かってるの? だいたい、この際だからいうけど梨乃は……」

「もう、うるさい! うるさいうるさい!」


 子供の金切り声のように喚き叫び、景子の言葉をさえぎっていた。


「悪かったね、いつも自分勝手に怒ってて、当り散らしていて。こんなバカが部長になってごめんね」

「そういうことを責めてるんじゃない。辛い目にあっているのに、一人で閉じこもっていることをやめて欲しいだけだよ」

「じゃあ、もう構うなよ! 優等生にそうやって見下されていると思うと、ますますなにもかも嫌になってくるからさ!」

「梨乃……」


 景子、ますます泣き出しそうな顔になってる。知ったことか。勝手に泣き喚きゃいいじゃん。


「じゃあね」


 わたしは早足で歩き出す。

 ほんとうにバカで最低だよな。わたしって奴は。

 救いようがない。


「梨乃!」


 再び景子がわたしの名を呼んだ。

 それは、絶叫にも似た……

 背後で靴音。

 景子が走りよってきて……

 車のブレーキの音。

 ぎぎぃと耳障りな、鋭い、鼓膜の破裂しそうな、でもそれより、

 景子の、

 空気をつんざく甲高い叫び。わたしの名を叫ぶ。

 わたし……

 激しく、そして鈍い衝撃。全身に、

 一瞬のうちに視界、くるんと回る、

 天と地が入れ替わって、

 一瞬、意識が肉体から吹っ飛びかける。

 ブレーキ音。ぎぎい、と軋んで、

 どうん、となにかぶつかる低い音。

 背後から突き飛ばされていたわたし、地面に転がった。

 突き刺されたかのような、凄まじい痛み。足を捻ったようだ。

 そして、

 静寂……

 静寂……

 ほんの一瞬なのか、数秒、数十秒のことなのか分からないが、すっかり真っ白になっていた思考が、戻ってきた。

 両手を着いて、上体を起こす。

 白い乗用車、

 その車の前には……

 わたしは目を見開いた。

 嘘であって欲しい。そう強く願った。

 でもどう思おうと、現実はなにひとつ変わることはなかった。

 景子……

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