第三章 秋の祭り

     1

 今日は土曜日なので学校は休みだ。

 だから部活は午前練習のみで、いまはその帰り道だ。

 はまむしひさとわたしの二人は、山林の通学路を麓目指してひたすらと下っている。


「え、いい子じゃん」


 久樹の返事は早かった。

 尋ねてみたのだ。

 きぬがさはるのことをどう思っているか。


「練習物凄く頑張っているしさあ。まだまだてんで駄目だけど。でも好感もてるよね」

「まあ、そうだよね。頑張っているよね」


 それは間違いのない事実。


「声出すしさあ」

「そうだね」


 やまゆうのほうが声量は遥かにあるけど、でもある意味では一番うるさいかも知れない。春奈のほうが。


「分かった。梨乃、あれ気にしてるんでしょう。我孫子東との練習試合の時のこと」


 図星である。わたしは素直に頷いた。


「あたしね、久樹みたいに教え上手じゃないしさ、なんかこう、目の前にあるのに手が届かないもどかしさっていうのかな」


 ということだけにモヤモヤしているわけじゃないのだが、まあ、いってみた。


「あたしも別に教え上手でもないけどね。ただ、教えるのも嫌じゃないというか、楽しいというか。学べるところもあるし」

「そう思えるというのが、もう教え上手なんだよ」

「あと気が長いこととかなあ」

「そうだよ、そういうところも。久樹ってば試合中はすぐ切れるくせに、それ以外でイライラしてるの見たことないもの」


 自分に自信があるからなんだろうな。わたしと違って、たぶん久樹は自分のことが好きなんだと思う。

 人間の個性って能力、性格、体格、環境、経験、様々なもののバランスから成るものだと思うけど、久樹は自分の個性が好きなんだ。でも、わたしは……


「イライラしてるんだ。……春奈に」


 ズバッと直球でいってくるな、こいつは。

 わたしはまた、ちょっとの沈黙のあと、はっきりと頷いた。


「ああいうタイプに、どう接していいのかが分からない。最初はオジイがあんなふうに連れてくるからそれに憤慨してるんだ、って思おうとしてたんだけど、実はそうではなくて……その……問題は自分の中だけにあったわけで。そんな自分がとても嫌で……」

「くっだらね。どう接するもなにもないじゃんか。部長として、怠けてたら叱りゃいいし、しっかりやったら褒めりゃいいし、技術どうこうってとこは、それじゃ、教え上手のあたしが監督してやるよ。それでいい?」

「そういう問題でも……」

「梨乃はね、多分共感してもらいたいだけだと思うんだ。……でもね、悪いけど今回のその問題に関しては、あたしは共感は出来ないな」

「そんなんじゃ……。でも、考えてみると、そうかも知れないな。あたしさ、部長になってから、まだ一ヶ月でしょ。春奈、初心者でしょ。だからさ、春奈がはじめてなんだよね」

「最初からってのが?」

「そう。王子やサジたちの面倒見たのも、金子先輩だからね。分かってはいるんだよ。この前もさあ、夜、家で『よし、やるぞ』って張り切って練習メニュー考えたんだ。そのあと、久樹たちにも考えてもらったけど。でもなかなか覚えてくれないし、基礎体力ないからすぐばてるし。しょうがないのは分かっているはずなのに、なんかイライラしてきちゃって、そんなとこへ持ってきて、あの喋り方や物腰でしょう、やる気あんのかよって思っちゃって」

「あたしと梨乃ってさ、色気より食い気、勉強より運動ってタイプだよね。すっごい死語だけどキャピキャピしてるっていうの、そういうとこがまったくなくて男っぽいというか。その点は似てるよね。でもさ、その真逆なのが運動部にいると、あたしは面白いなって思うんだけど、梨乃はそういうの嫌うほうなのかもね」

「そうかも」

「バカだな。そんなんじゃ疲れるって。女なんだから、女みたいなのが多いに決まってるじゃん。みんな王子みたいなキャラだったら、それこそ不気味だろ。……それにさ、春奈って梨乃が考えているほど『そうでもない』かもよ」

「どういうこと?」

「もうすこし様子見てみなってこと」

「なんかよく分からないけど、久樹がそう…うわっ!」


 突然の和太鼓の低い音に、鼓膜がぶうんと震えて、二人して驚いて飛び上がってしまった。

 すでに山道は終わり、古びた情緒のある町並みへと眺めは変わっている。小江戸などと呼ばれる佐原ならではの景色だ。

 人が大勢集まって、祭りの準備をしている。さっきのは、祭り太鼓の練習をしている音だったようだ。

 そうだ、今日と明日はお祭りの日なんだった。


「お、久樹ちゃん梨乃ちゃん!」


 屋台の準備をしているオジさんが声をかけてきた。

 顔の半分がもじゃもじゃの髭に覆われてて、体も大きいし、猿というより熊みたいな感じ。わたしたちがよく利用する本屋の店主で、たしかトクジさんという名前だ。

 祭りが大好きで、祭りの日には店を奥さんにまかせて、自分は弟さんのやっている屋台を手伝ったりするのだそうだ。本日はどうやら、リンゴ飴とチョコバナナの屋台をやるようだ。

 そっか、もうこの時期なんだな。

 あと一週間で九月も終わる。

 でも、まだまだ蒸し暑く、まだまだセミのうるさい季節である。


     2

 全部わたしが悪かったんだと思う。

 たぶん。いや、絶対。

 絶対全面的確実に、わたしが悪かった。


 お父さんと喧嘩した。


 先日、伯母さんがきて、お父さんに再婚の話を持ちかけたのだ。

 わたし、その日は、勝手にすればって思っていたのだけど、翌日突然に何故だか許せなくなり、爆発してしまった。

 再婚というものが、なんだかとても汚らわしいもののように思えてしまったのだ。

 まだ具体的な相手がいるわけじゃないのに、その女性が許せなくなり、そんな人と家庭を持とうというお父さんのこともまた許せないと考えてしまったのだ。


 喧嘩といっても、お互いにヒートアップしたわけではない。むしろ、お父さんは収縮させてくれようとしていたと思う。悪くもないのに謝ってくれようとしていた。

 だいたい、悪いも悪くないも、伯母さんがいきなり訪ねてきて、勝手に再婚の話をして帰っていっただけ。わたしが一方的に、なんでもないことをこじれさせてしまっただけなのだ。

 頭の中、真っ白になってしまって、最後のほう、よく覚えていない。確か、ちゃぶ台ひっくり返すわ、お父さんの足に蹴り入れてしまうわ、自分でも自分のこと最低な奴だなと思いながらも暴れていた気がする。


 反抗期ではない、と自分では思っているのだけど、でもこういうこと、たまにやってしまう。

 それにしても、今回のはひどすぎた。

 最近部活のことでイライラしていたから、というのもあるだろう。なんの弁解にもなっていないけど。

 わたしって本当に嫌な奴だなあと思う。自分、大嫌いだ。

 お母さんさえ生きていてくれていれば、少しは違っていたのかな。

 などと、考えてもしかたないことを考えてしまう。

 まあ、今回の問題が起きなかったことは確実だけどね。


 提灯。

 人の群れ。

 浴衣。

 夜店。

 喧騒。

 お囃子。

 高木ミット。……ん?


「って、なんであんたがここにいるのよ」


 わたしは正直な疑問を口に出した。

 小江戸は日も暮れ、すっかり祭りの場として盛り上がっていた。

 佐原は一応観光地であるが、今日は地元住民のための小さな祭りの日。出店の間を、楽しむ気もないくせに冷やかしでふらふら歩いていたところ、水風船ヨーヨーで遊んでいる高木ミットと出くわした、というわけである。


「なんでもなにも、いちゃおかしいかよ。どちらかというと、お前のほうが似合わないぞ、こういうとこ」


 むむ……確かに。


「似合うの似合わないのなんて、どうでもいいでしょ。今日は加地原はどうしたのよ」

「なにその詰問調。山梨で渓流釣りだってよ」

「ふうん。あんたらいつも一緒にいるわけじゃないんだ」


 わたしとミットはお互い離れる理由も見つからず、とぼとぼと夜店の間を歩き続けた。水風船のばしゅばしゅいう音が鬱陶しい。だいたいそれって、幼児用のおもちゃだろ。

 クラスメイトのこうあかねとすれ違った。手を繋いでいた。

 二人はクラス公認のカップルなのである。

 祭りの夜店、恋人とデート。

 いいなあ。羨ましい……


「お前さあ、そんなにデートしてみたいの?」


 ミットが眉をしかめてわたしの顔を覗き込むように見ている。


「ちょ、ちょっとなにいってんのよ」

「お前って、考えてることすぐ口にしちゃうのな、昔から」

「うるさいなあ」


 好きでそうしているわけじゃない。無意識に言葉が出てしまうのだ。


「そんな恋人欲しいの?」


 笑っているような、ちょっと不機嫌そうな、なんだかよく分からない顔のミット。まあいつも、なにを考えているのか分からないのだけど。


「……いいでしょ別に。恋人同士が普通どんな会話してんのかなんて知らないけどさ、でもなんか、家の悩み、進路のこと、部活のこと、友達のこと……親にも親友にもいえないような悩みを相談しあえる関係っていいなって思うよ」

「恋人恋人いってるけど、あいつら、そんな崇高なもんでもないぜ。そんなの、いつの時代の彼氏彼女だよ。ガキが見栄張って背伸びしてるだけだ」

「うん。まあ、確かにあんたのいう通りかも知れないけどさ。……つーか、いたことないんだから知らんわ。漠然と憧れてちゃ悪いかボケ!」

「相変わらず言葉の汚えやっちゃな。で、なんだって? なんか誰にもいえない悩みでもありそうな口ぶりだな。恋人に相談するつもりで話してみ」

「恋人じゃないでしょうが」

「だからつもりっていってんだろうが、バカだな。話すだけでも楽になれるかも知れないだろ。誰にもいわないからよ」


 どういう理屈だよ。と思いつつもわたしは、


「……誰にもいうなよな……」


 と念を押し、結局、喋り始めていた。

 恋人がいたら聞いてもらっていたのにな、と思っていたことを。

 どんな内容なのかは、既に語った通りだ。

 親の再婚話のこと。

 部活での、はるのこと、たけふじのこと。

 そして、けいとのこと。

 話せば話すほど自分の中の変な部分、嫌な部分がどんどん出てきて、それがとても辛かった。

 なんでこいつなんかに、こんなペラペラと正直に話してしまっているんだろう。と、悲しいような、悔しいような気分になりながらも、話し続けた。

 そして、一通り話し終えると、


「よし。聞いた!」


 それきりミットは黙ってしまった。

 双方沈黙の数十秒。


「おい」


 ミットの脇腹を肘で小突いた。


「なんかコメントしなさいよ。女の子が恥ずかしいこと洗いざらい打ち明けたんだから」

「うーむ。一週間待てや。なんか上手いことを返すつもりだったけど、おれバカだから言葉が出てこねえや」

「もう。変な奴だなあ」

「否定はしません」


 ほんっとに変な奴だ。でも、なんだか、ほんのちょっとだけど、わたしの心はすっきりした気分になっていた。


     4

 なんか今日の高木ミットは気持ち悪いな。普段からなに考えてんだか分からないとこあるけど、いつも以上だ。

 アイス買っきてやるから、と出店のほうにしょばしょば大袈裟に水風船持った腕を振って、走り去っていったばかりだ。

 普段からあんな感じならいいんだけどねえ。とりあえずは茶々入れずに悩みを聞いてくれたし、黙ってさえいりゃあ顔立ちだって悪かないってのに、いつもわたしの顔見るやブスだサルだゴリラだオリバーだって、ホントむかついてしょーがない。


 わたしは、座っていた木造のベンチから立ち上がった。

 川沿いの道で、すぐそばには観光用の船乗り場がある。柵にもたれて夜風を浴びる。

 夜風といってもまったく爽やかなものではなく、蒸し蒸しとした単なる熱気でしかない。もうすぐ十月だというのに、佐原はまだまだ容赦なく暑いのだ。

 とくに当てがあってきたわけじゃないとはいえ、ぼーっと立っているのも暇だ。ついつい、膝の屈伸運動をしたり、ストレッチなどをしてみる。スカートだけど周囲に誰もいないから、気にしない。

 ミットを待ってほんの数分しかたっていないのに、もう暇をもてあまして退屈で退屈でしかたないという気分になっていた。無趣味人間で、別になにもやることなんてないくせに。

 この直後に、退屈なほうがよほどいいと思えるような怖い体験をすることになるなんて、当たり前だけど考えてもいなかったのだ。

 そしてそれは、不意におとずれた。


「おい、姉ちゃん」


 ガラの悪そうな男たちが立っていた。

 三人。

 年齢は三十代だろうか。

 全員、赤や青のカラフルなシャツで、胸元を大きくあけている。

 服装だけ、髪型だけ、顔つきだけ、どれをとって見てもとても暴力的な匂いを発していた。


「ねえ、いま暇?」


 一人が近寄り、さらに顔を寄せてきた。お酒臭い。

 なにかいおうにも、わたしの口はまったく開かなかった。体を動かそうにも、まったく動すことが出来なかった。なのに、心臓だけは自分勝手に、ドドッ、ドドッ、と速い鼓動を刻み出していた。


「暇か――って聞いているの。ひょっとして、耳悪い?」

「あ……え、えと、暇、暇じゃ、ありません。ひ、人……人を、待ってて」


 やっと言葉が出た。

 ちょっと前まで暇だ退屈だと思っていたくせに、わたしは恐怖にすっかり狼狽してしまっていた。


「ふーん。じゃ、それまで、おれたちと遊ぼうよ」

「あ、あの……」

「こいよ」


 一人がわたしの腕をぐいと引っ張った。


「やめてください! 人を呼びますよ!」


 囁くような小さな声だが、ようやく、拒絶の意思を伝えることが出来た。しかし、


「呼ぶなら呼んでみろよ。デカイ声出したらさぁ、おれたちカッとなってなにすっか分かんないぜ」


 にやにや笑っている。

 あとずさるわたし。

 その分、詰めてくる男たち。

 わたしってこんなに情けない奴だったんだな。心の奥に、冷静なもう一人の自分がいて、そんなことを考えていた。もう少し度胸すわっているかと思っていたけど、こんな脅しになにもいえなくなってしまったのだから。


「おとなしくなりやがったぜ」

「ふるえてるよ。よく見ると、かわいい顔してるよな。体はどんなかなあ」

「それじゃおれたちと楽しいことしにいこうぜ。こんな、なんもないとこにいないでよ」


 また、わたしは腕を強く引っ張られた。


「や、やめ…」

「はあ? なんかいった?」


 わたしのまるで抵抗になっていない抵抗は、結局のところ彼らをますますいい気にさせるだけだった。なす術なくぐいぐいと引きずられていく。


「おっそくなったあ!」


 建物の陰から飛び出した高木ミットの素っ頓狂な叫び声が、我々がそれぞれ心に感じていた空気をとにもかくにもバリバリと蹴り砕いた。

 ミットの両手には、ソフトクリームが握られている。

 男たちとミットとが向かい合った。


「なんだてめえ!」

「なんだとはなんだ、おっさん! って、なんだこりゃ、どうなってんだか、わけ分かんねえぞ!」


 どこまでも、なんだか人を食ったようなミット。


「そうか、この姉ちゃんの彼氏か。でもよ、てめえみたいなひょろひょろしたガキよりも、おれたちのほうがいいってよ」


 誰もそんなこといってない。


「痛い目にあわねえうちに、いっちまいな。夜店で射的か金魚すくいでもやってろよ」


 ちょっと面食らったような表情のミットであったが、次第に顔がにやけてきた。

 破顔、というのか、こんな時になんでそんな表情が出来るのか……


「ふうん」


 男たちをじろじろ見ている。


「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ」


 凄む男たち。

 小学生の頃からミットを知っているわたしには、なんとなく分かってきた。ミットも怖いのだが、絶対にそれを顔に出したくないのだ。意地っ張りで、天邪鬼だから。いつも余裕の、済ました顔をしていたいから。


「あのね、渋いお兄様がた。ふざけているってのはね……」


 ミットがふらーっと歩を進める。そして突然、


「こういうのをいうんだよ!」


 二人の顔面にソフトクリームを押し付けた。と同時にずっとわたしの腕をつかんでいた男の鼻っ柱に、


「アルシンドッ」


 と意味不明な雄叫びとともに、頭突きを浴びせた。

 わたしの腕が解放される。

 それとほとんど同時に、ソフトクリーム攻撃で動転している二人の脛に、渾身の力を込めたローキック。デッ! とハモるような二人の悲鳴。


「うっそ、こんなにうまくいくなんて」


 自分の行動の結果に驚いているミット。


「走るぞ、梨乃」


 ミットはわたしの手を握り、そして走り出す。

 足が地についているようないないような、なにがなんだか分からない心地。でもちゃんと足は動いてくれているようで、視界が凄い速度でどんどん後ろに流れていく。

 男たちの怒声が小さくなっていく。

 灯り。

 人だ……

 だんだんと、人の姿が増えてくる。

 人込みの中に入り込み、祭りのメイン通りを反対側へと抜けた。


「あれ、梨乃ちゃんじゃないか」


 トクジさんの姿。

 ようやく、わたしたちは足をとめた。


「この人、トクジさん、ここの、顔、だから、も、もう大丈夫、だよ。……あいつら以上に、ガラの悪い、のが、ゴロゴロと、子分にいるから」


 両膝に両手を付き、つっかえつっかえなんとか言葉を出す。ミットも息を切らせてはいるが、わたしに比べるとまったく平然としたものだ。


「本屋の親父をつかまえて、人聞き悪いなあ。彼氏と二人して、そんな息切らせちゃって、いったいどうしたんだい」

「な、なんでも……ないです。……あと、彼氏じゃない」


 川沿いの道にある木造ベンチ、ちょうどカップルがどいて二人分空いたので、わたしたちはそこに座った。


「ああ、疲れたな。……試合の時に比べりゃ全然走ってないのに、なんでこんな息切れるんだろな」

「当たり前でしょ!」


 わたしは大きな声を出していた。というか怒鳴っていた。


「……当たり前でしょ。あんな目に……あったんだから。なに強がってんのよ! バカ! ほんとに……ほんとに、もの凄く怖かったんだからね!」


 涙がボロボロとこぼれてきた。

 恥ずかしい。

 わたし、ミットの前で泣いちゃってるよ。

 こんな奴の前で、弱み握られたくないのに。

 涙、止まんないよ。

 どうしよう。


「ごめんな……」


 ミットは、夜空を見上げている。


「なんだよ。ちょっとは素直なとこもあるじゃない」


 そういおうとしたのだけど、きっとミットには伝わっていない。口の筋肉が痙攣して、まったく言葉になっていなかっただろうから。

 ぬぐってもぬぐっても涙、こぼれてくる。

 ほんとに恥ずかしい。


「えと……」


 ミットが立ち上がる。


「送ってくわ」


 自分のいったことに、なんだかそわそわしている様子のミット。


「当然でしょ」とはいわなかった。どうせ言葉にならないに決まっている。


 かわりに、わたしは無言で大きく頷いた。


     5

 腕立て、腹筋、スクワット、ウエイトを付けた状態で順々に、黙々と、延々とやっている。日も暮れかけ、すっかり薄暗くなった自分の部屋で。

 すでに全身筋肉痛。あきらかにオーバーワーク、筋肉が細くなってしまうだけだ。

 分かってはいるのだけど、無性に肉体を苛めたくて仕方ない。

 ただでさえ、部活の練習でクタクタだというのに。

 疲労に音を上げたというより、単に飽きがきて、家を出た。


 今度はジョギングだ。

 家は山の中腹にあるため、周囲を適当に走っているだけでもかなりハードな運動になる。

 いつもコースは決まっているのだが、今日は普段通らないような大回りをしてみたい。

 全身の筋肉や関節が痛いが、それが逆に心地良い。心地よいというか、色々と忘れられるから気分が楽。

 山を下り、古い街並みを越え、JRの線路を渡り、利根川の遊歩道へ。

 もう完全に日が暮れ、夜空には金星だかなんだか、一つだけ輝いている。

 やがて利根川を渡る長い橋が見えてくるのだが、ここで遊歩道は終わっている。

 まだ距離はあるが、その橋の下で、誰かがボールを蹴って遊んでいるのが見える。

 橋桁相手にサッカーボールかなにかを蹴っているようだ。

 遠いけど、なんか見たことあるシルエット。

 わたしは柵を乗り越え、草むらの中に入った。

 橋桁に近づいていく。


 やっぱり、高木ミットだった。

 ほんと、どこにでもいるな、こいつは。

 家が近いし、わたしもこいつも徒歩圏内しか移動しないタイプだから仕方ないのは分かるけど。

 さらに近づいていくと、ようやくわたしの姿に気づいたようだ。無理もない。橋の上はかなり明るいのだろうが、ここはその洩れた灯りでなんとか見えるという程度の、かなりの暗がりだ。しかも上は、車の通りが激しく、騒音がかなり凄まじいから。


「なんだお前、どこにでもいるな」


 ミットが叫ぶ。叫ぶといっても、騒音にかき消されてかろうじて聞こえる程度。まあ、だから叫んでいるわけだけど。


「あんたもね。千葉県だけで二百匹くらいいるんじゃないの。で、なにしてんの?」


 もう分かっていたけど、でもとりあえず、聞いてみた。


「壁打ちだよ。一人練習」

「よくやるなあ。人には不真面目だけど、フットサルには真面目だよね。あれ、そのボール大きいね」

「サッカー用の五号球だからな。フットサルのボールは弾まないから、サッカーボールのほうがいいんだよ」

「なるほどね。ちょっとあたしにも蹴らせてよ」

「ゴリラパワーで破裂させんなよ」

「アホか」


 わたしはミットの足元のサッカーボールを奪い、ドリブルしてみた。砂利のせいもあるけど、やはり慣れない大きさのボールは蹴り辛い。

 橋桁のコンクリート目掛けて蹴った。

 それほど力を入れたつもりはないのだが、思いのほかバウンドし、わたしの頭上を越えていった。

 ミットがそのボールへと走り寄り、落ちる前に長い足を伸ばしてボールを蹴り上げた。

 ヘディング、そしてまたキック。ボールは高く上がり、わたしのほうへと落ちてきた。

 わたしもヘディングで受け、右腿、右足の甲、左肩、右足のインサイド、左腿、とリフティング。

 ボールの違いに慣れるまでもなく、落ち着いてやればなんてことはない。基礎は出来ているから、ボールがちょっと変わったくらいで失敗することはないのだ。

 とかいいつつ、慣れたボールでも五回と耐えられずに地面に落としてしまったりもするんだけど。

 わたしは、ぽーんと宙に高く蹴り上げた。

 落ちてくるボールにタイミングを合わせ、壁に向かって蹴った。

 壁にぶつかりバウンドしてくるボールを右腿を上げてトラップ、左足の甲で上げておいて、また壁に向かって蹴る。

 戻ってくるボールを今度は頭で真上に上げて、また壁に向かって蹴る。

 これが壁打ちだ。

 部活に入ってて仲間もいるし、あまり有効な練習方法ではないと思ってあまり気にしないでいたけど、いざやってみるとなかなか面白い。距離を詰めたり離したり、やり方次第では、結構いい練習かも知れないな。

 そういえば、が子供の頃に毎日やってたっていってたな、壁打ち。一人だったから、リフティングとドリブルと壁打ちばかりやってたって。

 わたしも毎日やれば、抜けるだろうか。佐治ケ江を。

 あの子がリフティングなどの個人技が誰よりも上手なことは事実。いつか部のみんなと接することや、相手と戦うことにも慣れてきて、畏縮せずにプレーが出来るようになったら、わたしなんか存在価値がなくなってしまうかも知れない。

 でも、そうなりそうになったら、その前に潰してやるだけだけど。

 一年なんかに舐められてたまるか。

 ……って、また嫌なわたしがいるよ。

 ほんと酷いよなあ。

 勝手に鍛えて育てておいて、自分を抜きそうになったら、増長しそうになったらそのプライドをぶっ潰すとか。

 ほんと自分で自分が嫌になるよ。


「おい! ……おい、ゴリ! 寝てんのか、おい!」


 高木ミットがわたしの側で、珍しく真剣な顔で叫んでいる。


「ど、どうしたの?」


 わたしは跳ね返ってきたボールを胸で受けて、壁に蹴り返した。


「やっと目が覚めたか。なんか、凄い怖い形相でボール蹴ってたぜ。もっと楽しめよ。それがボール蹴る時の礼儀だぜ。お前が部員によくいっていることだろ、柄にもなく」

「そんな変な顔してた?」


 ボールが眼前に迫っていた。

 ヘディングで壁に返す。

 戻ってきたボールを、右腿、左腿、右腿、頭、右足甲で壁へキック。

 戻ってきたボールを、今度はミットが受けた。

 二人で、しばらくラリーを続ける。

 ミットの奴、普段おちゃらけてるくせして、こういうことには陰で物凄く努力しているようで、実に器用にボールを扱う。

 わたしも上級技のような蹴り方を真似してみようとするが、上手くいかず、おかしな方向にボールを蹴ってしまう。でもミットはそれをきちんと受けてくれる。


「お前さぁ」

「なによ」


 会話しながらも、ボールを蹴る足は休めない。もちろん地面に落とすこともない。


「まだ、大泣きして涙ではれた跡、はっきり残ってるぜ」

「誰が泣かしたと思ってんのよ!」

「あのチンピラ三人組」


 そうだった。こいつはむしろ、助けてくれたわけで……


「あ……」


 ボール、足の甲で受けたつもりが、受け損ねて落としてしまった。


「はい、ゴリの負け~」

「変なこというからだよ!」

「では罰ゲームを発表しま~す。ダラララララ……」


 こいつ全然ひとのいうこと聞いてない。


「勝手なことばっかりいってんだから」

「ジャン! では、罰ゲーム発表します! ……もうちょっと、蹴るの付き合えや」


     6

 鏡に映ったわたしの顔。

 泣きはらして跡になったまぶたが、ようやく治ってきたようだ。

 クラスの女子たちが、わたしの顔見るたびに、彼氏と喧嘩したんでしょ、別れたんでしょ、と鬱陶しくてしょうがなかったが、ようやく解放される。

 まったく、彼氏なんかいないってのに、なんでみんな女が泣くと恋愛に結びつけるんだか。

 洗顔をすませ、タオルで顔をふいていると、お父さんが入ってくる。


「あ、洗面所、あいたから」

「おう」


 わたしは、すっと洗面所を出る。

 まだどうにもギクシャクして、お父さんとまともに喋れない。

 この子供すぎる性格、ほっておいてもいずれ大人になっていくのだろうか。それともそうなるべく努力しないと、なれないのだろうか。

 経験が人間を成長させる、というのならば、あのお祭りでの件でわたしは成長したのだろうか。

 とてもそうは思えない。

 仮になにか収穫があったとすれば、ミットもほんの少しくらいは良いところがあるってことを知ったくらいのものだ。

 廊下を歩きながら、腰に手を回す。

 なんだかスカートがきつい。前は、指がすっと入ったのに。

 太ったかな。

 でも、お腹の肉は相変わらず、つまめるとこなんてないくらいしまっている。

 体重も変わっていない。

 脂肪がついたわけではなさそうだ。

 じゃ、前にひさがいってたように、筋肉がガッチリついてきたのだろうか。

 どっちにしても、嫌だな。

 ……どっちにしても嫌なんて、ならなんで筋トレなんかしているんだ。

 鍛えればそりゃ筋肉つくだろ。

 フットサルやってれば、走ったり筋トレしたりすることは当然だろ。

 でも、そもそも、なんでフットサルなんてやっているんだろう。

 部長なんかになって、なにかいいこと、一つでもあったろうか。

 ……ダメだ、また発作的に、負の連鎖に陥っている。

 頭痛くなってきた。


「学校、休みたいなあ……」


 呟く。

 そもそも今日は生理二日目で体が重く気だるく軽い吐き気もあって、非常に辛い状態なのだ。

 なんとなく、演技でフラフラと歩いてみる。こんなとこで一人でやってても、誰も同情なんかしちゃくれないってのに。


「てんびん座のあなた、今日は健康運、金運、恋愛運、すべてが絶好調! ラッキーアイテムはクマのキーホルダーでーす!」

「すべてが絶不調じゃ!」


 めざましスタジオ七時ですの占いに文句を付け、途端にむなしくなる。

 占いなんてくだらない。

 ああ、今日も学校……憂鬱だな。

 別に皆勤賞狙っているわけじゃないけど、休んだら休み癖がつきそうだしな。

 しかたない。

 いきますか。

 ……そういや、クマのキーホルダー、持ってたな。

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